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2026年10月23日金曜日

#旧岩崎邸へ行って記た(旧岩崎邸と無縁坂の散策)

 
最近の我がブログはゴルフの記録ばかりで精彩を欠いている。10月に入って良い天気が続いているのでここはひとつ出かけて新ネタを掲載せねばと思う。


Googlemapを開いて都内の良さそうなところを検索する。

Googlemapは本当に便利だ。上空から好きな場所を地図または写真に切り替えて拡大・縮小しながら覗き込める。要望する項目、例えば”博物館”と打ち込めば画面上に博物館の所在を印したアイコン(絵柄の記号)がポコポコと現れる。

一昔前なら神の仕業でしかなかったことが今は誰でも可能なのだ。

上野界隈を検索していると不忍池の西方に無縁坂という坂を見つけた。”無縁坂”??あの”さだまさし”の名曲、無縁坂に関係があるのかなあ?。

SNSで調べてみると歌詞の舞台はまさにこの坂であった。この坂の横にはあの成〇、旧岩崎邸宅があり記念公園になっている。

よし、そこに行ってみよう、というわけで10月のとある土曜日にカメラをバッグに放り込んでお出かけ。

北千住から千代田線に乗り換え湯島で下車。道順はGooglemapが教えてくれる。庭園へは1番出口が便利なようだ。出口を出て左に回り込こみ小道を行く。

5分も歩くと岩崎邸の入り口に着いた。ここの入場は後回しにしてその先にある無縁坂に向かう。

ほどなく庭園沿いに左に曲がる道が見える。ここが無縁坂だ。坂の右側は近代的なビル群が立ち並び風情は失せているが左側は岩崎庭園の苔むした石垣が続いて坂の風情を今に伝える。

坂はさほど急ではなく山爺でも息が上がるこ
となく登り続けることが出来た。無縁坂の歌詞に”ため息つけばそれで済む、後ろだけは見ちゃだめ”・・という件がある。

この坂に来るまでは、この歌詞の意味を若いのに息が上がる病弱な母親を表現したと思っていたが、子供の手を引いて歩けるほど健常ならこの程度の坂で息が上がるはずがない。

この母親は坂を歩きながら自分の不幸を嘆き、深いため息をしたんだなあと思い直した。続く歌詞に”白い手は(母の)とても柔らかだった”とあるので母は良家のお嬢様育ちだったと想像できる。そこまで考えて作詞した”さだまさし”は凄い。・・山爺の買い被りかな。(笑)

坂の右手に山門があり奥に小さなお寺があり、講安寺と書いてある。

そばに説明版があるので読んでみる。


なになに・・「御府内備考』によれば往古、坂上に無縁寺有之候につき・・とあるので、この寺はその昔無縁仏を葬ったことにより、この坂をいつしか無縁坂と呼ぶようになったという。なるほど。

寺は講安寺と名前が変わったが坂の名前はそのまま残った。

坂の突き当りは東京大学だ。さて、無縁坂を辞して旧岩崎庭園へ戻ろう。

先ほどのゲートまで戻り中に入ると受付(料金所)がある。成人の入園料は¥400だが65歳以上は半額の¥200で入園できる。マイナンバーカードを提示して¥200を支払い邸内へ。

車が2台すれ違えるほどの広い砂利道を歩く。馬車道と呼ばれていたそうだ。左上に岩崎邸がある。

弥太郎さんが住んでいた時はここを馬車が往来していたんだなあ。


大きな門構え、さすがお金持ちの豪邸だ。
門構えを通り過ぎると左手に岩崎邸が目に入りました。

立派な建物です。建造の用途が当時は私邸というから驚く。

明治維新後海運業を興し西南戦争でぼろもうけ、財をなした岩崎弥太郎。これを目当ての亡者どもが大勢行き来していたんだろうから半ば公邸だったんだろうなあ。

【山爺の一言メモ】

旧岩崎邸の来歴・・たぶんに山爺の私見が入っております。読み物として捉えてくださいませ。

旧岩崎邸庭園は、江戸期は徳川四天王榊原家の藩邸があったようです。明治になり徳川勢の榊原家は退散、舞鶴藩の牧野家が入居した。まもなく西郷隆盛の配下である桐野利秋が分捕る。

西南戦争後、政府軍の軍事物資輸送に貢献した三菱財閥の初代”岩崎弥太郎”が明治政府から受領?し明治11年に屋敷を構える。現在の建物は3代目の岩崎久彌が明治29年(1896年)に建造したものである。当時は建物が20棟もあったとあります。どこまで財テクしたんじゃ岩崎一族は。

岩崎弥太郎の出自

1835年に土佐藩の貧しい下級武士、地下浪人(じげろうにん)の子として出生。

土佐藩は身分制度が厳しく大きく分けると、東軍に組し勝利した山之内家の家臣である上士、西軍に組した長曾我部家臣の下士、それより低い地下浪人の3通りある。そしてそれらはさらに細分化されていた。

貧しい下級武士の子に生まれたが幼少より負けず嫌いで勉学に励み、藩の役人に反発しながらも24歳で藩役人になり半年間長崎勤務。32歳で土佐藩の開成館・長崎商会の主任になり輸出入担当となる。商才はこの時に身に付けたようだ。

明治3年(1870)土佐藩から3隻の船を借り受け三菱の創業としての九十九商会を設立、海運業に乗り出す。転機は明治10年に勃発した西南戦争。政府軍の軍事物資輸送を請け負いフル操業してぼろもうけ。当時の海運業の頂点に立つ。

創業当初の九十九商会には元武士も多数いたが前掛け丁稚姿で得意周りをさせられると悔し涙をする者も・・それを見た弥太郎は小判を貼り付けた扇子を広げ(えげつない)番頭や小僧に頭を下げると思うから悔しくなる。今後はこの扇子を開き小判に頭を下げると思ってやるがよいと説得したとか。


馬車道を曲がると前庭もなく、いきなり大邸宅がデーンと現れました。

邸宅というより議事堂みたいな作りだねえ。

維新当時、官も民も西洋に追いつけ・追い越せの号令の下、熱病に浮かされたように西洋建築に励んだ。














建物内の見分は後回しにして先に庭園を散策しよう。庭園に入って振り返ると和風の建物が目に入る。

岩崎久彌さん抜け目なく和風の家も作っている。いまは瀟洒な家だけが残っているが、建造当時は550坪の大邸宅だったようです。

550坪ったらあなた。畳1100枚分でっせ(驚きのあまり関西弁に)どんだけでかい建物だったんじゃ。

そして、どんだけ金が余っていたんじゃ、にわか成〇め!・・貧民たる山爺のぼやき。

中をのぞくと洋風な作り・・やはり内装は洋風か~い。

ここも西洋コンプレックスで作ったんか~い。畳は?囲炉裏はないんか~い。






庭園の最奥から邸宅を撮影した画像。

中央左と右端に庭石が置いてある。
庭師が庭の広さを表現する目的?で置いであろう庭石も真ん中を散策通路が通っていて分断、景観をぶち壊している。


これじゃあ、作った庭師が泣いてるねえ。

洋館のすばらしさに比べると庭園はぱっとしない作りだ。

日本庭園風?な場所(左画像)も作りが雑で奇妙なところに石灯籠がある。



別なところにある大きな石灯籠も洋館と合わず、すっきりしない。

当時の庭師が、『なんだあの毛唐の屋敷は』と蔑み和洋折衷を拒んでわざと手を抜いて作ったようにしか見えない。

水戸藩が作った小石川後楽園の素晴らしい庭園とは比べようもない。



もともとお金持ちの水戸家とにわか成〇の岩崎家、趣味の違いというか財の使い方の相違が良くわかる。

あ、これあくまで山爺の私見ですから・・はい!(笑)

けなしてばかりで、どーもすいません。(間寛平)

では岩崎邸の中へ入ってみましょう。なお室内は撮影禁止(平日なら可能)なのでHPより拝借しております。

おお、いきなり豪華な作りの室内が目に飛び込んできました。天井の造作がすごいです。

目いっぱい明かりを取り入れたサンルーム、これは1910年の増築なんだそうです。




天井がすごい、さすがは贅の限りの作りです。

どこをみても抜かりのない作りで当時の匠の技が光ってます。

2階も明かり窓が利いていて明るいです。

各部屋には暖炉があり暖房の備えは十分です。

当時冷房装置はなかったであろうがこれだけ天井が高ければなんとか凌げたのではないかと思います。


当時のトイレも開放されていました。広くて立派ですなあ。

世の中この広さだけで生活している人もいるっちゅうの!。






隆盛を極めた岩崎家も先の大戦で終焉を迎えた。

・1945 GHQにより接収 岩崎家は和室の一部で居住続ける
・1947 財産税の物納により国有化
・1948 岩崎家 冨里に転居 (追い出される?)
・1953 旧岩崎邸、日本政府に返還
・1961 国の重要文化財登録
・2001 東京都に管理移管

これだけ見学出来て¥200とは、誠に結構な記念館でありました。

【川柳】

・これでもか 贅を見せたる 岩崎邸 
・弥太郎は 古器より小判を 可愛がり
・弥太郎も 勝てぬ相手は マッカーサー

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