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2018年12月28日金曜日

18年関西ぶらり旅・・・(後編)

さて今日は明日香の里にある、持統・天武天皇の墳墓ほかの古墳群探訪と奈良にある世界遺産元興寺を訪ねよう。このお寺の周囲には古い町並みが残っている。そこもよい撮影ポイントなので楽しみです。

昨夜は天満の居酒屋を再び訪ねて小盛り上がりとなった。前の日も常連らしき初老の親父が店にやってきた。やってくるのは自由だが店主と山爺の話にすぐ加わってくる。加わるのは構わないのだがこの男、人の話にすぐ異論を唱えるのには閉口した。

山爺が『あれはこうですああです』と言うと『そうですか、いやそうとは限りません。ああです、こうです』で・・・会話が続かない。それに嫌気がさし一昨日は早々に呑むのを切り上げて退散したのだが、この男また来よった、参ったなあ。









山爺の隣のカウンター椅子に、にこにこしながら座ってきた。人の言うことなんでも反対と言ったこういう人との会話は苦手なので徐々に会話から遠ざかることにした

JR天王寺駅隣接の日本一の高層ビルのアベノハルカス内にある近鉄阿倍野橋から吉野線で飛鳥駅まで急行で約40分です。急行9時20分発に乗り10時02分に飛鳥駅に到着。

下車したのは山爺含め数人のみ、ここには欧米人も中国人もいません。閑散としています。

まあ明日香の遺跡は古代史の予備知識がないと訪れてみても土饅頭と石がごろごろしているだけだから面白くもなんともないんだろう。地元の人には気の毒だけれど山爺にとっては好ましい環境です。いつまでもこの状態が続いて欲しいものです。

ここから10時10分発のかめバスでまず天武・持統天皇陵に行き→鬼の雪隠・鬼のまな板→欽明天皇陵→高松塚古墳→飛鳥駅の順で回る予定でしたがさっぱりバスが来る気配がありません。

おかしいなあ?時刻表をよく見るとそのバスは11月まで運行の臨時便でした。あちゃ~去年に引き続き、またやっちまった。次の便は30分後です。欽明天皇の陵墓なら歩いて10分くらいなので逆コースを辿ることにしよう。

のどかな明日香の里をとことこ歩いていると前方にこんもりした林が見えてきました。あれが欽明天皇陵?おおきいなあ。
そばに寄ると、いやあでかい墓です。こんもりした森にしか見えません。上空から見たら綺麗な前方後円墳の形をとどめているんだろうなあ。

周囲はきれいに整理されており事務所まであります。宮内庁が管理しているのですが全国にこのような所が何箇所あるのかな?。

維持費が大変だろうなあ、お賽銭箱でも設ければ良いのにと、よけいな心配をしてしまう。

【山爺の一言メモ】



欽明天皇

欽明天皇
謎多き継体天皇の皇子(510~571)名は天国排開広庭(あめくにおしはらきひろには)在位中に百済から仏教が伝来したとも言われています。

隣接して吉備姫王の陵墓がありますがこの陵墓の柵内に有名な猿石が4体あります。

【山爺の一言メモ】

吉備姫王(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)生年不詳~643年
欽明天皇の孫で皇極天皇(重祚して孝徳天皇)の母、天智・天武天皇の祖母にあたる。猿石は1705年に欽明天皇陵墓近くの水田から発掘された4体の石像で、もともと欽明天皇の陵墓にあったらしいが明治初年ころ吉備姫王の陵墓に移設された。どんな理由で作られたかは謎です。神武天皇の御代に猿田彦という道案内の神様がいたのでそれに関係しているのかもしれません。猿は仏教でも孫悟空をはじめ縁が深い。タイ国のお寺にも猿の化身の彫像が沢山あり、猿の人形のお土産も売っています。


この地を辞して時代劇のロケ地にうってつけの誰もいない小道を歩く。10分も歩くと鬼のまな板・鬼の雪隠という古代遺跡に到着する。


右画像が鬼の雪隠でここに鬼がまたがって用を足したのかな?左画像は鬼の俎(まないた)でここで人間を捕まえて料理しては食べて雪隠で排泄という寸法だ。実際は7世紀後半の墳丘土を失った古墳の石室の一部のようだ。


ここに着く前に日本人の若い女性2名を両脇に挟んで歩いていた白人青年ご一行を追い抜いた。しかし鬼の雪隠でまた追いつかれた。

明日香の里に興味があるとは感心な奴と当初思ったがどうも様子を見ていると遺跡にはあまり関心がなく女性2人のほうにご執心が大のようだ。女性たちも懸命に英語で話しかけている。この御一行とこの先(天武陵・高松塚)一緒になるのは嫌だなあと思っていたら幸い亀石方面に去っていった。バイ、バ~イ!古代遺跡で3角関係を見るのはご容赦願いたい。


道しるべに沿って天武・持統天皇陵に足を進める。人家の庭の前ようなところを抜けると前方にこんもりとした森が現われた。古墳に違いない。左に古墳の裏側に回る小道があるのでそちらを歩くことにする。
右画像は天武・持統天皇陵を裏側から見たところです。宮内庁管轄にしてはずいぶん緩い管理です。入ろうと思えば簡単に柵を乗り越えられます。心無い中国人なら必ずてっぺんに登って記念撮影するに違いありません。
この陵墓は宮内庁でも数少ない時代考証がはっきりしている墳墓です。埋葬者が特定出来ているから囲いが緩いのかな?

界最大規模の仁徳天皇陵なんか山爺の若い頃は仁徳天皇陵とはっきり明記されていたが、いつのまにか大仙陵古墳とか大山古墳とかに変わってます。仁徳天皇?陵は最近ようやく宮内庁の許可が降りて発掘調査が始まるようだが、数多くの古墳群がいまだ被葬者不明となってます。


この根本原因は古代のころは政権交代が頻繁に行われていたので政敵によって記録を抹殺されてしまった事と真実が分かってしまうと困る宮内庁が発掘調査を頑なに拒否し続けているからです。

まあ、気持ちわからんでもないけれどね。天皇の墓だとばかり思って1000年以上も大切に管理していたら再調査の結果、全く赤の他人(渡来人)だった日には万世一系とされる天皇家の歴史が崩壊する。

山爺の私見によれば天皇家の直系は第22代清寧天皇のところで途切れている。原因は21代の雄略天皇が疑心暗鬼により力任せに兄弟・従兄弟を粛清しまくったからだ。

その結果25代武烈天皇の代で完全に傍系も途切れてしまった。


26代の継体天皇は系図でもわかるようにかなり遠縁の間柄だ。それゆえ取り巻き豪族らから天皇にご指名されても暗殺を恐れてか簡単に都に近づかず19年後に即位するという用心ぶりだ。本当に天皇家と継っているのかも怪しいものである。


天皇陵墓の調査を全面開放し次から次へと真相が暴かれでもしたら宮内庁の歴史観が、がたがた崩れちまう。それを最も恐れてのことだろうね。お公家さんの考えは実にみみっちい。
【山爺の一言メモ】
天武・持統天皇


天武天皇
天武天皇(生年不明~686年10月)7世紀後半の40代天皇(在位:673年~686年)欽明天皇と皇極天皇の子供で兄は中大兄皇子(天智天皇)で同父母兄弟とされる。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で天智天皇の息子、大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。



持統天皇(じとうてんのう:645~702)は飛鳥時代の第41代天皇。天智天皇の皇女(鸕野讚良うののさらら)であり、その弟の天武天皇の皇后でもあった。いわゆる血のつながった甥と姪の関係で、今の法律では結婚は出来ないが当時は血縁を守るため近親結婚は当たり前であった。天武亡き後、持統天皇として即位した。

この御陵は646年に発令された薄葬令によりこの後に訪れる高松塚古墳と同様に欽明天皇陵などとくらべるとはるかに小ぶりです。

【山爺の古代史メモ】・・読むの面倒な人は飛ばしてね。
薄葬令とは 大化の改新の中で646年(大化2年)に発令された勅令で、身分に応じて墳墓の規模などを制限したもの。(高松塚壁画館の係員の説明によれば墳墓は1週間程度の工期で作りなさいとの御布令が出たそうです)

薄葬令は 地方豪族の権力の象徴であった巨大古墳の築造を制限するものであり、大和朝廷が地方豪族を抑え、中央集権体制が整ったからと解釈されます。それに従い 欽明天皇のようなでっかい前方後円墳の構築は禁止され厚葬の古墳時代が終焉、墳陵は小型簡素化された飛鳥時代と続きます。

天武天皇と兄の天智天皇の確執はご存知と思いますが兄弟仲は良くなかったようです。この2人の間に額田王という絶世の美女がいました。この皇女は最初、天武天皇(大海人皇子)に嫁いでいましたが天智天皇が横恋慕、して『俺の娘2人をやるからお前の嫁をくれ!』と乱暴な要求をします。
兄のこれまでの乱暴狼藉(天智天皇は蘇我入鹿の粛清や数々のライバルを片っ端から片付けています)を知っていた大海人皇子は泣く泣く要求に応じました。弟の嫁を取り上げてしまうのですからひどい兄貴もあったもんです。


天智天皇から、もらった娘の一人が持統天皇です。そんないきさつがあった天武と持統天皇ですが夫婦仲はすこぶる良かったみたいです。(注:山爺の私見)横暴な天智天皇が亡くなってから天智天皇の息子(大友皇子)との覇権争い、ご存知の壬申の乱が起きる訳ですが。持統天皇は大友皇子とは実の兄妹でありながらも天武側につきます。

持統さん辛かっただろうなあ。古代史を調べるとこんな風に幾度となく血縁関係者が骨肉の争いを繰り広げています。もうひっちゃかめっちゃかです。勝った側が負けた奴らの墳墓を粗略に扱ったのでしょう。だから古墳の被葬者の記録が曖昧なのではと山爺はいつも思ってます。

このあと訪れる高松塚古墳の被葬者も誰だか不明ですが、なんとこの墓で発掘された遺体には首が見当たらないのです。発掘された刀は鞘のみで中身がありません。脛骨に刀傷がないことから斬首などではなく死後に持ち去られたものです。政争に巻き込まれ敗北、死後に墓が整理されたことが容易に想像がつきます。
誰かがこの被葬者を追い込んで害をなしておいて祟を恐れて首と刀をどこか別のところに放り投げたのに違いありません。こんな、いきさつを知っていると見学に面白みが出ます。

天武・持統天皇の陵墓から西の方角を望むとこんもりと木々に覆われた丘陵を見ることができます。高松塚古墳がある国営飛鳥歴史公園です。15分も歩くと公園に到着しました。

国道を左に折れてのどかな山道を歩き続けます。途中、貸サイクルに乗った人が2人すれ違ったほかは誰もいません。天気も良いし国営公園とは思えないほど静かです。
左手の小山を登ると中尾山古墳があります。文武天皇の墓とも言われていますが誰の墓かは不明です。登るの面倒だからそこは今回パス!
見晴らしのよいところに出ました。
西の方にこんもりした丘が見えます。案内書によるとあそこが今現在、文武天皇の陵墓とされている古墳かな?遠いので、またもやパス!(あとで調べたら違うみたい、ただの森のようでした。行かないでよかった)

坂道を降りてゆくと壁画館に到着しました。入館はあとにしてまずは古墳を見よう。高松塚古墳はここからひと登りしたところにあります。
見えました。きれいに整備された墳墓がいきなり現れました。
簡単な柵で囲ってあるだけで無防備です。傍若無人の外国観光者がもしも訪れたらきっとてっぺんに登って自撮り棒撮影でVサインするに違いありません。そんな奴らが来ないことを切に願うだけです。
正面からの撮影です。前述したとおり被葬者は不明です。故に重要視されなかったためかこの古墳の存在はかなり昔から知られていましたが予算がなかったとかで長い間、放ったらかしにされていました。
たいした期待もせずに発掘したところ美しい壁画があらわれ大騒ぎとなり一躍有名になったわけです。
高松塚古墳にはツタンカーメンもどきのミステリーがあるのをご存知か。この古墳発掘に携わった関係者が発掘から2年間で5人も急死しているというものだ。発掘が昭和47年3月21日に始まったが、急死した人の大半が21日の日に異変が起きたというおまけ付きだ。
【山爺のミステリー劇場】
昭和47年3月21日に発掘を開始、それから2ヶ月後の21日に発掘に熱心だった明日香村観光課長さんM氏が肺がんで急死する。
同年8月21日に発掘の手伝いをしたKさんが急に苦しみ出して二日後に急死する。
さらに翌年の8月21日古墳のある上平田地区の総代MSさんが交通事故で亡くなる。

4人目は自殺だ。高松塚古墳の発掘で最初の鍬入れをしたNさん。日頃から悪夢にうなされており、それを苦にしたのか農薬自殺を遂げた。
5人目は昭和49年1月4日、壁画修理のため模写をしていた画家のWさんがこれまた交通事故で亡くなってしまった。3人の貴婦人を模写していた最中であったという。
ちなみに高松塚古墳がある場所の住所は明日香村上平田4444番地だ。ゾゾゾ~!!

この塚の被葬者の首がなく刀も鞘だけという状態をみて作家の梅原猛氏は著作、黄泉の王で高松塚に埋葬されたのは弓削皇子で白骨化されてから怨霊封じのため首と体を別々に改葬し刀も鞘だけ入れたと推測している。
弓削皇子:父 天武天皇、母 大江皇女(天智天皇の娘:額田王と交換した娘とはまた別)との間に生まれた皇子。文武天皇のお妃(紀皇女)と密通したため父天武天皇の怒りを買い処断されたと梅原氏は推測している。
せっかく古代の誰かが怨霊封じをしたのに発掘で塚を暴いたから祟が起きたのでしょうか。まさか?ねえ。発掘には大勢の人が携わっている。無事な人も沢山いるのだからまあこじつけでしょう。
塚の見学を終えたので壁画館を覗いてみよう。入館料¥250は安い。安いわけで小規模の1フロアーしかありません。壁画を模写したものが沢山展示してありました。貴婦人画以外にも沢山の壁画があることが分かった。

ほかに壁画が描かれていた石室のレプリカがあります。盗掘された壁の様子まで正確に模してあります。石室自体は意外と小さい。

さて、これで明日香の里探訪は終了としよう。次は奈良市内見学だ。10分も歩いたら飛鳥駅に戻れた。高松塚古墳は結構駅から近いんだなあ。


12時26分飛鳥駅発の近鉄橿原線に乗り大和西大寺で奈良線乗り換え、13時40分に近鉄奈良駅に着いた。


駅前のアーケードのある通りを南下すると大きな通りに出た。ならまち大通りである。

歩道にある道しるべも古風な作りで古都らしい雰囲気を盛り上げている。ならまち通りを左折するとほどなく元興寺の案内板が目にとまった。
世界文化遺産の元興寺到着。拝観料¥500を払い中へ。これで今回の旅での拝観料出費は終わり。やれやれだ。古都散策は楽しいが拝観料の出費が大変でこれには閉口する。
【山爺の一言メモ】
元興寺
明日香村にある日本最古の建立とされる飛鳥寺を718年平城京に移転したもの。


奈良時代には東大寺・興福寺と並ぶ大寺院であったが中世期に衰えた。平安初期の薬師如来立像(国宝)が安置。もとは法興寺といったがのちに元興寺と改名した。

見所は飛鳥寺から移築した屋根瓦で当時のままの姿をとどめている。1998年世界遺産登録。ちなみにもとの飛鳥寺は移転後もその地に残り現在に至る。

 日曜日だというのに境内に人影はなく存分に見学が出来ました。
境内に青い目の若き女性が一人だけです。

山爺が今少し若ければブロークン英語を駆使して話しかけるのですが今となってはそんな気力も薄れてしまっています。

左画像の屋根瓦は飛鳥寺から移築された当時のままの瓦だそうです。飛鳥寺の建立が588年だから1400年の風雨に耐えて現在に至っているわけです。大したもんだなあ、古代人の技術は。

 境内の桜?が季節はずれの開花です。
本堂内に人が神妙に座っています。写経をしているのかな?
境内境界線の生垣に小さな仏様が一列に並んでいます。可愛らしい。
今日の旅は明日香の里といい元興寺といい、付和雷同的な浮っついた観光客がいないのには本当に救われました。

さて、元興寺を辞して、今回の旅、最後の予定である奈良町の散策です。
元興寺を取り囲むようにして古い町並みが保存されています。カメラぶら下げあっちにウロウロ、こっちにウロウロ。

山で鍛えた山爺です。平地ならいくら歩いても疲れません。・・・ははは!それはやせ我慢ですが今年は履きなれた山靴で出かけたので足も痛くならず快適です。(去年・一昨年は新しい靴で出かけて靴当たりで大苦戦でした)

現役で商売している薬屋さん(右画像)です。こんな店が山爺の住んでいるところにあったらいいなあ。

 
何屋さんだろう。(左画像)頭上に蚊帳と書いてある。布団屋さん?かなあ。実にいい店構えではありませんか。

右画像は現役で商売している包丁屋さんです。屋号が”菊一文字”とはすごい。菊一文字は鎌倉時代の名刀ですが新選組の天才剣士沖田総司の差料として有名です。

いつごろから商売しているのかな。なかに入って話を伺いたいけれど山爺に包丁の需要はないなあ。

さて予備調査しておいた”ならまち格子の家”はどこかな。ならまちとは正式な住所ではありませんが元興寺の周囲一体を昔からそう呼ぶうそうです。

道を曲がると、いきなりそれはありました。中に入ると”入館料無料”と告げられました。只!それはありがたいことです。


江戸末期から明治初年に建てられたものだそうですが落ち着いた佇まいです。
見学者が少ないのも落ち着きに加勢しているのでしょう。
中に入ると落ち着いた部屋や中庭が見ることができます。

長火鉢に鉄瓶のある部屋、お茶飲んで羊羹でも食いたくなるような良い部屋です。ご隠居さんがここから表を通る人を眺めて日がな過ごしたのかなあ。・・・と思わせるような雰囲気が出ていました。

さて、これで予定したスケジュールは全てこなしました。大阪に戻ろうと思い近鉄奈良駅に戻る途中で雰囲気の良い居酒屋を見つけました。気分は吉田類、暖簾をくぐってしまいました。




4日間はあっという間でした。山歩きなら、やれやれこれで無事に帰れるぞという思いの方が強いのですが旅行ではいつも『あれぇ、もう終わってしまった』という感じです。
今日は移動日です。11時10分発の”青春特急12号”で家路に着きます。

このバスは途中京都に寄らないので8時間で東京駅まで運んでくれます。

10時には大阪駅に着いたのですが、なにせ大阪駅は巨大な施設、田舎者の山爺はいつもJRのバスターミナルまでたどり着くのが容易ではありません。今回もすんなり御堂筋口に出られず右往左往、車道を隔てたターミナルの反対側の出てしまいました。

目の前にあるのに車道に危険防止の柵があって横断できません。再度地下に潜りやっと目的地に。帰りのバスは定刻発車してくれました。月曜だというのにほぼ満員状態です。去年は7~8人しか乗車しなかったのに、この人数は如何に?京都に立ち寄らず東京駅に1時間以上早く着くから利用者が多いのでしょうか?それとも偶然かなあ。

甲南SAに11時30分到着しました。去年乗ったバスは9時10分発で京都に立ち寄ったので甲南SAに11時25分着しています。なるほど2時間遅れで出発しても、ここでほぼ追いついてしまうわけだ。道理で混んでいるわけだ。納得・納得。

ここで昼食を配慮してか30分の長い休憩をとります。昼食はいつものサンドイッチ・おにぎりを準備してしまったので今回は食堂の利用はしませんがが、時間がこれだけあるのなら次回はここで昼食注文するのもありかなあ?。

ここ甲南SAは、お伊勢様が近いので赤福を販売しています。我が家の好物なので必ず購入を忘れません。
名古屋→浜名湖SA→足柄SAと定刻より早めにバスは順調に走り続けます。

まあどうせ、都心に入れば渋滞だろうとあきらめモードでいると向ヶ丘を過ぎても順調な走りです。霞ヶ関に19時前に着いてしまいました。(定刻は19時17分)あとわずかで東京駅到着なのですが東京駅は構内が広いので電車乗り継ぎにいつも余計の時間を取られてしまいます。
霞ヶ関なら地下鉄の真ん前で降ろしてもらえます。
今回はしくじらないようにしよう。霞が駅で途中下車、ここから家路に着きます。
【狂歌・川柳】
・明日香路を 碧眼人が 歩みゆく 両手に花は 羨まらしきかな。
・明日香路は 狼藉人(ろうぜきびと)なく のどか旅
・楽しくて 終わりたくなし 一人旅
・いつまでも 続けや 健脚 一人旅

18年関西ぶらり旅・・・・(後編)  完
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