山爺が敬愛してやまない新田次郎先生が織田信長を描いた小説のタイトルだ。今川義元を奇襲で破った桶狭間の戦いは1560年6月12日(新暦)に起きている。梅雨そぼ降る中、義元軍に接近し奇襲をかけた時は梅雨の中休み、晴れ間が出たという。奇襲は忍び寄るまでは物音をかき消してくれたりするので雨の方が好都合だが突撃時はやはり晴れたほうが戦いやすいだろう。
また1575年6月28日(新暦)騎馬軍団を擁した武田勝頼を破った長篠の戦いでも決戦当日は雨は降りやんでいた。もし雨が降っていたら火縄の火が消えたりして銃の効果が数段落ちてしまい騎馬軍団に馬防柵を突破されて武田騎馬軍団が勝利していただろう。
まあ雨なら懸命な信長さん、当然決戦は避けたろうけれど、武田勝頼が滅びることはなくなり信長さんも呑気に京都本能寺で茶会なんか開く暇もなったろうから、結果的に長生きしたかもしれない。とまれ、その後の歴史が大きく変わったことは間違いないだろう。
そんなわけで梅雨の晴れ間を2度も上手く利用して勝利したので新田次郎さんが ”梅雨将軍織田信長” というタイトルで執筆してます。最近再版されたみたいだから興味ある人は読んでみてください。
7月末に八ヶ岳に行こうと考えている。5月の谷川岳でノックアウト寸前に追い込まれたというのに辛いことは忘れて良い印象だけが記憶に残っている。はてさて、人間の脳というものは誠によく出来ているものだ。嫌なこと、辛いことは忘れて良いことだけを覚えているように出来ているようだ。だから生き続けようという気力が沸くんだろうな。
八ヶ岳は2泊3日のヘビーな山旅である。大丈夫だろうか。今年は前述の梅雨将軍が強力でとうとう6月は山歩きをしないで終わってしまった。体がなまっているのが実感でわかる。訓練しなければならない。
山爺の実家はT市にあるが幼少期より慣れ親しんだ山に大平山(341m)がある。今頃は紫陽花が咲いているに違いない。お袋様の容態も気になるのでお見舞いがてら、そこに登ってから実家を訪ねることにしよう。
数日前の天気予報が7月10日(水)だけ天候が曇りという予報を報じていた。これを信じて10日の朝7時過ぎに最寄駅を出発した。
2回乗り換えると8時過ぎには登山口のあるJR大平下駅に着く。
小さな駅だが平日の朝にも関わらず異国風貌の人々が沢山下車した。その数およそ数10人、駅には不似合いな光景だ。
なんでこんな小さな駅に平日の朝から沢山人が降りるのだろうか?近くに大手家電メーカーがあるから、そこに通勤?いやいやそれでは時間が遅すぎる。電車は桐生・足利方面からやってきたので多分自動車関係の工場勤務で夜勤明けの人々なんでしょう。
こんな片田舎にも外国人が沢山住んでおり日本の産業を支えている。これって将来、良いことなのか悪いことなのか今の山爺には判断が出来ませんが、すでに彼らの力がなければ製造業、なかんずく中小企業の経営が立ち行かなくなりつつあることは確かなようだ。願わくば今のドイツやフランスのように移民とのトラブルに発展しなければよいと願う山爺であります。
駅を出たら左に折れて道なりに歩くと踏切が見えます。そこを渡り山沿いにのんびり歩く。
人家の横を通過する。お父さんが植木の手入れをしており、そばに猫が座っている。
お父さんが歩くたびにその飼い猫が後を付いて回る。こんな猫なら可愛くってしょうがないだろうなあ。のどかな風景だ。
そのうち不審者発見とばかり猫がこちらにやってきた。
『おい、おっはよう!』と声をかけると怪訝そうにこちらを凝視する。本当に猫って奴は面白い生き物である。
里道から一旦林道に入る。道端に怪しげなキノコが生えていた。今年は長雨でキノコが豊作だとか。こんな道端に生えているのだから毒キノコに違いない。ヒイロベニヒダダケかな?テングダケの仲間だろう。
先日TVでベニテングダケを試食した猛者というかアホというか、食体験レポートをやっていた。
なんでもベニテングダケの毒成分はイボテン酸・ムスカリンなんだそうですがイボテン酸は旨味成分でもあり味の素で有名なグルテン酸の10倍も旨味成分があるんだそうで、地方によっては毒成分を上手く抜いて食用にしているとか。
件の命知らずの猛者はなんと、毒抜きもせず炒めてそのまま食べてみたんだそうです。食べた感想は、すごく旨かったらしい。だが、やはりと言うか当然、中毒し冷や汗だらだら、心臓バクバク、脳みそを棒でぐるぐる掻き回されたような気持ち悪さが数日続いたと言う。ちなみにベニテングダケの毒性はそれほど強くなく死亡例は希だそうです。勇気ある人は一度お試しあれ。ただし、いかなる事態になろうとも当局は一切、関知しませんのであしからず。
はい、山歩きの話に戻りました。林道を10分も歩くと再び車道に出て大きな池の前に着いた。池を見ながら10分も歩くとお寺が見えて来ます。禅寺で有名な大中寺だ。山門前の石段の左右に紫陽花が咲き誇っている。
このお寺は由緒正しいお寺であるが、大中寺の七不思議としても有名な禅寺である。
【山爺の一言メモ】
初めは真言宗の寺として1154年に建立された。雨月物語にもその様子が登場します。たが、のち衰退、1489年に曹洞宗の寺として再興した。以後、上杉謙信が関東進出の際、この寺を厚く庇護し焼失した伽藍などを再建した。徳川家の信任も厚く曹洞宗の修行の場として賑わい大正期まで続いたという。
大中寺の七不思議とは以下の7つです。
①不断のかまど
修行僧がサボって大釜の中に入って寝ていたところトボけた奴が中も確認しないで火をつけた。修行僧は焼け死んだが、死ぬ間際『かまどに火さえついていれば』と遺言、以来このかまどの火は絶やすことがないという。・・今は消えてます。
②油坂(現在通行禁止)
勉強熱心な修行僧(かまどの修行僧とはえらい違い)が夜間勉強用に本堂の灯油(今の灯油にあらず)を盗んで帰ろうとしたところ見つかり逃げる途中でこの石段から転げ落ちて死んだ。以後この階段を利用すると災いが起きるので通行禁止とし現在にいたる。
中学生時代に訪れたとき坊さんの説法で聞いた話・・お坊さんから油坂の説明を受けたあるおっさんがそんなの迷信だといい、止めるのも聞かず柵越してこの坂を往復した。ほらあ、何でもないじゃないかと自慢したと言う・・・そのおっさん、その晩、高熱が出て鼻血が止まらなくなったそうな。・・おお、怖っ!
③枕返しの間
旅の坊さんが泊まって本堂の仏様に足を向けて寝たそうな・・朝になると180°回転して居たとさ。・・多分寝相の悪い坊さんだったんじゃないのかなあ?
④馬首の井戸
この地の豪族、晃石(テルイシ)太郎という武将が戦いに敗れてこの寺に逃げ込んだ。匿って欲しいと懇願したが断られた。やけになり?自分の馬の首を切り井戸に投げ込んで自らは腹切って死んだ。以後、井戸を覗くと馬の首が見えたり嘶きが聞こえると言う。・・う~ん、太郎さん気持ちは分かるが八つ当たりだなあ。
⑤不開(あかず)の雪隠
太郎の奥方もこの寺へ逃げ込んだが旦那の死を知ると雪隠(便所)に入って自害した。以後、夜な夜な奥方の生首が・・で、この雪隠は現在まで封印中、この旦那にしてこのかみさんあり、でお寺は大迷惑。
⑥東山の一口拍子木
お寺の東側の山林から拍子木が1回だけ鳴ると寺に災いが起きるという。その音は住職以外は聞こえない。・・多分お寺の規律を高めるため住職が考えた作り話でしょう。坊主どもめ!最近弛んでいるなあ、一丁活を入れて脅かしてやるか!ってね。
⑦根無し藤
今持って山爺はそれが、どのへんにあるかわかりません。山の裏手の竹やぶ内にあるのかな?が坊さんが杖を刺したら根がついたという弘法大師的な単純な話ではなく、稚児さんを食べてしまう恐ろしい伝説があるみたいです。興味のある人は、ネットで大中寺の7不思議と打ち込んでググってみてね。
中学時代以来の7不思議史跡を再確認し終えたので、お寺の左側から山道に入りぐみの木峠を目指します。峠までは傍らの小さなせせらぎ沿いを歩きます。せせらぎの音が心地よく第一涼しい。山爺はこんな山道が大好きだ。
やがて、徐々にせせらぎの音も小さくなりそして止んだ。小一時間も登ると前の木々が明るくなってきた。まもなく峠に出るのだろう。
今日はコンロは重いので持参せず代わりにサーモス(魔法瓶)を持ってきた。持っては来たが、ああ~!サーモスにお湯を入れてくるのを忘れたぁ。
かくてお茶も飲めずお冷での侘しい昼食となりサーモスはただの邪魔な空瓶と化したのであります。
気を取り直して山頂を目指します。やがて林道へ出ました。真っ直ぐ横切ると大平山頂への道、左に折れて林道に向かうと電波塔があります。この電波塔は山麓や東北自動車道から日頃よく目にします。ちょっと寄り道して覗いてこよう。電波塔は予想と違い狭い木々の中に窮屈そうに建っていました。
幼少の頃から慣れ親しんだ大平山です。登山を始めたばかりの若い頃は『大平山?あれは丘だよ』と小馬鹿にしていましたが、今となっては、どうして、どうして、よい山ではありませんか。
こんな素晴らしい自然がある我が故郷って、やはり素晴らしい街です。分岐点があり左が山頂へ向かう道、右は巻道ですが、直接山頂へ向かう道は先の台風で倒木だらけで通行止め。巻道を回って大平神社側から山頂へ向かう道にたどり着く。霊山の証で結界を示すしめ縄をくぐって山頂へ。12時30分、山頂にたどり着きました。小学校5~6年の頃学友と登って以来実に60年ぶりの再訪です。
足利の山でも賽銭泥の事件がありましたがこの神社も荒らされたらしく、お賽銭はあげないようにとの注意書きがありました。この辺一円を荒らし回るせこいコソ泥がいるようです。なんとも嘆かわしい世の中になったもんです。そんな奴は今に天罰が下るだろう。
小さい賽銭箱があったので2円奉納しました。大平山の山頂は神社のすぐ裏の小高い場所にあります。60年ぶりで山頂を極めました。
奥多摩や丹沢の山なら12時はゴールデンタイムで山頂付近は人でウヨウヨですが、ここ大平山は誰もいません。聞こえるのは小鳥のさえずりだけです。こんなにも静かな地方低山の山の良さがようやく分かった山爺でありました。
今日は実家も訪問しなければならないので早々に山頂を辞して下山開始。15分も下ると大平神社奥の院につきました。ここが大平神社の神様の頂点です。ここのご祭神は天目一大神(アメノマヒトツノオオカミ)で垂仁天皇云々の説明版があるので古代の頃よりこの山は信仰の対象で崇められたんですねえ。
大平山頂に祀られているのは浅間神社でご祭神は木花開耶姫です。この姫様は天照大神の孫の瓊瓊杵尊(読めないだろうなあ・・ニニギノミコトと読みます)の奥様です。
神様の世界も格差社会です。浅間神社の方が格上だから山頂を占拠、大平神社は文字通りひとつへりくだった場所に祀られています。こんなところでも古代の権力争いを垣間見ることが出来ます。
神様の世界も格差社会です。浅間神社の方が格上だから山頂を占拠、大平神社は文字通りひとつへりくだった場所に祀られています。こんなところでも古代の権力争いを垣間見ることが出来ます。
ここの石段の両側に大平山の観光名物となっている紫陽花が咲き誇っているのだ。
ここ大平山は麓から神社まで石段が続いている。その段数およそ千段。その両側に紫陽花を植えたのである。
訪れたのは7月10日だった。例年だとちょっと時期が遅いのだが今年は気候が悪いためか開花が遅れ丁度見頃であった。赤・青・ピンク・白、各色の競演で実に美しい。どこぞの寺と違いこれが無料で見られるとは、大平神社の神様、太っ腹ぁ。
訪れたのは7月10日だった。例年だとちょっと時期が遅いのだが今年は気候が悪いためか開花が遅れ丁度見頃であった。赤・青・ピンク・白、各色の競演で実に美しい。どこぞの寺と違いこれが無料で見られるとは、大平神社の神様、太っ腹ぁ。
1723年、徳川吉宗によって建造された随神門を過ぎて降りてゆくと木々が鬱蒼と茂る場所の一角に平らな空き地があり、なにやら説明書きの杭が建っている。水戸天狗党大平山本陣跡と書いてある。
ええっ~あの有名な水戸天狗党の立てこもった本陣跡だってえ?。随分と狭い場所に家が建っていたんだなあ。
幕末の早期に尊皇攘夷を唱え武装蜂起した水戸藩を中心とした武士集団がいた。その名を水戸天狗党と言うがその数およそ1000人。
そのうち800人が栃木宿に押しかけて宿を占拠した。栃木宿の民衆の恐怖は如何ばかりか。
大体に風雲急を告げる時代にはいろいろな集団が蜂起するが、真摯に世直しを考える御仁ばかりが集まるわけではない。必ず付和雷同で集まる食い詰め者が交じるのが歴史の常だ。
そんなゴロツキも含めた輩どもが市内の定願寺や近龍寺にも押しかけて無理やり定宿にした。豪商たちから軍資金の談判をして断られると街に火を付けたので宿場は焦土と化した。その後尊皇攘夷の主意を天子様に言上すべく京都に向け進軍するがこんな過激集団が世間から受け入れられるはずもなく各地でつまはじき、末路は哀れな結果を招く。
ええっ~あの有名な水戸天狗党の立てこもった本陣跡だってえ?。随分と狭い場所に家が建っていたんだなあ。
幕末の早期に尊皇攘夷を唱え武装蜂起した水戸藩を中心とした武士集団がいた。その名を水戸天狗党と言うがその数およそ1000人。
そのうち800人が栃木宿に押しかけて宿を占拠した。栃木宿の民衆の恐怖は如何ばかりか。
大体に風雲急を告げる時代にはいろいろな集団が蜂起するが、真摯に世直しを考える御仁ばかりが集まるわけではない。必ず付和雷同で集まる食い詰め者が交じるのが歴史の常だ。
そんなゴロツキも含めた輩どもが市内の定願寺や近龍寺にも押しかけて無理やり定宿にした。豪商たちから軍資金の談判をして断られると街に火を付けたので宿場は焦土と化した。その後尊皇攘夷の主意を天子様に言上すべく京都に向け進軍するがこんな過激集団が世間から受け入れられるはずもなく各地でつまはじき、末路は哀れな結果を招く。
【山爺の一言メモ】
水戸天狗党
元治元年(1864)年3月27日、筑波山にて田丸稲之衛門を大将に天狗党が『攘夷』を掲げて挙兵した。
天狗党は4月8日に筑波山を降りて、徳川の本山、日光を占拠し、全国の尊王攘夷の志士、大名、藩に参加の呼びかけをするため日光を目指した。
しかし、宇都宮藩と折衝している間に日光奉行は3千名の諸藩の藩兵で防御した。そのため急遽、栃木町にある太平山に800名にて陣を敷き、宇都宮藩、壬生藩など協調を呼びかけると共に軍用金の調達を図った。
この時栃木宿の豪商にも金銭談判したが断られたので腹いせに町に火をつけたので宿場は焦土と化す。これに懲りた栃木宿の豪商たちは蔵を建てて火災からの防御を図ったがこれが現在の蔵の街の元になっている。
天狗党を詳しく知りたい人はHPを見てください。
また、吉村昭の天狗争乱を読むと面白いです。この作家は入念に史実を調査した結果を淡々と描き作者の想像がほとんど入らない。まるで報告書を読んでいるような作風が好きでしたがすでに他界(2006年没)してます。
山爺は下りながらの見学だから楽であったが大方の参拝者は皆、麓から息を切らせながら登ってくる。ある夫婦の会話
『お父さんまだ行くのぉ!』
『もう少しだから、もいちょっと行ってみよう』
いや、いやまだまだ先は長いですよと教えてあげたかった。
『鎌倉に紫陽花寺があるでしょう』
『いやいや、こちらのほうが断然見事です。』
ほほう、有名な鎌倉よりこちらが良いですか。思わに評価をいただきました。
麓まで降りてきました。麓には通称6角堂と呼ばれる由緒正しいお寺があります。屋根が6角形をした珍しいお寺です
麓まで降りてきました。麓には通称6角堂と呼ばれる由緒正しいお寺があります。屋根が6角形をした珍しいお寺です
【山爺の一言メモ】
6角堂のある連祥院は栃木県栃木市平井町643の天台宗寺院。
天長4年(827)慈覚大師円仁により開かれたことに始まるという。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により連祥院は廃され、山頂付近にある堂宇は破却(中腹の仁王門は太平山神社の随神門として現存)されましたが、それを惜しんだ信者や市内有志者が浄財を募り明治38年(1905)に現在の本堂、六角堂が建立された。
天長4年(827)慈覚大師円仁により開かれたことに始まるという。
当初は太平山神社と神仏混合し別当寺院として祭祀を司っていた。第53代淳和天皇の勅願寺になり、最盛期には摂末社及び支院、末寺を合わせると80余を数えたとされる。
天正年間(1573~1593)の兵火により多くの堂宇、連祥院六角堂社殿が焼失し一時衰退したが、江戸時代に入り再興され、特に3代将軍徳川家光の側室で、4代将軍徳川家綱の生母となったお楽の方(高島御前・宝樹院)が当地の出身で篤く帰依していた事から社領50石が安堵され、延享3年(1747)には大寺格に列しています。
さて、ここから実家までは約4km、山歩きを考えれば山爺にとっては何んてことのない距離だが、5時間も行動しているのでいささかくたびれた。5分も下るとかの有名な國學院短大・付属高校があり駅まで通学バスが出ている。
バスの時刻表を見ると10分後の13時30分のバスがあるようだ。遠慮なく利用させていただくことにする。バスに揺られること6~7分、実家近くにある小学校前でバスを降りた。土産に買った名物の大平団子を携えて実家に急いだ。
バスの時刻表を見ると10分後の13時30分のバスがあるようだ。遠慮なく利用させていただくことにする。バスに揺られること6~7分、実家近くにある小学校前でバスを降りた。土産に買った名物の大平団子を携えて実家に急いだ。
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①ここに掲載されたルポや川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
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