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2016年12月18日日曜日

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・前編

もっかのところ失職中で時間に自由が効くので・・所謂、暇なので12月8日~11日にかけて首題の旅に行って参りました。


慢性の金欠病を患っている山爺のこととて、お大尽が利用する新幹線や飛行機なぞは利用すべくもありません。東京駅から出ているJRの高速バスを利用しての旅です。往は3列独立シートながら¥4000と格安チケットをゲット!3列独立なので隣の御仁と干渉しなくて済み気楽です。


もちろんトイレはついているので安心。帰りは日曜となるので格安の3列バスは早めに売れ切れでゲット出来ず(もちろん高ければあるけれどそれは無視)4列シートです。しかし10時発のちょうど良い時間ながら¥4300と、これまた格安で手に入れました。・・新幹線だと早割で上手くチケット購入しても往復¥24000ほどなので¥15700も節約出来る勘定です。

古人曰く『時は金なり』とはよく言ったものです。まさに暇と引き換えに金を節約できることを実感する。・・あん!何だって、そういう意味と違うって。(^0^)

真珠湾攻撃ではありませんが『大本営陸海軍部午前6時発表!本8日未明、我が山爺は関西方面に出撃せんとす!』である。出で立ちは背中にバッグパック(というより小型登山リュック)にミニ肩掛けバッグ、これが山爺の放浪旅スタイルです。

12月8日(木)

東京駅八重洲口発8:40発の高速バスに乗るべく早朝に家を出ました。無事に8時ちょい過ぎに東京駅に到着・・まだ40分もあるなんて安心してはいられません。

なんせ東京駅は広い。お昼用の軽食や飲み物を購入したりして構内をうろうろしているとあっという間に30分ほど経過してしまいます。

運行掲示板を見ると山爺の乗るバスが表示してあります。そうこうしているうち山爺の乗るバスの受付開始アナウンスがあったので当該発車ホームへ。何人か既に並んでいましたが乗車客は少なそうです。バスは二階建てで山爺の座席は当然2階!、2階はさすがに高くて見晴らしもよろしい。座席は階段すぐ横の真ん中でした。

定刻通りバスが走り出しました。日比谷を抜け皇居の桜田門を右に見ながらまずは新宿の新しくできたバスターミナルへ向かいます。新宿でまた3~4人乗車してきました。

東名高速に乗りバスは好天の中、快適に走行します。やはり山も旅行も好天に限ります。2時間ほどで足柄SAに到着。15分のトイレ休憩です。富士山が雪を被りくっきりと見えました。


バス乗務員のアナウンスがあり、予定時刻になると積み残しはいちいち確認せず発車するので自己責任で乗り降りしてくれとのこと。

降車時に停車位置をよく確認しておかないと似たようなバスが沢山あるのでどれがどれだか分からなくなり大変なことになります。置いていかれてはえらいことになるのであらかじめ位置関係をよく確認してから離れなければなりません。

そうはいっても相手はお客様、出発の時間になると乗務員の方で一応車内をある程度見回してから出発するようです。

このバスは定期路線バスのようで御殿場・富士・静岡ICの各バスターミナルに寄りますが今回は
誰も乗車してきませんでした。

13:20 浜名湖SAに5分遅れで到着、バスの位置を十分確認しながらトイレに向かう。浜名湖はどこかとキョロキョロしたが視界に入りません。諦めてトイレに入ると、おお!トイレの向こうに浜名湖が見えるではありませんか!。・・・記念にパチリ、こんなことをやっているのは山爺だけで少し恥ずかしい。

大阪まで9時間の長旅ですが2時間おきに休憩が入るので退屈しません。座席にゆとりがあるのでビールでも持ち込めばよかったと後悔しました。・・・SAの売店内を一生懸命(こら!そんなことで一生懸命になるな!)探しましたが当然ながらお酒類は見当たりませんでした。

山歩きなら必ずザックのなかに酒は放り込むのに旅行ならどこでも買えると思い準備しませんでした。・・・後悔しきり。(´・ω・`)ショボーン

バスは快調に進み名古屋を通過、お伊勢様近くの甲南SAに15:40到着ここで20分休憩です。小腹がすいたので今川焼きを買いながら売り子の親爺に『赤福はどこで売ってるの』と聞くとレストラン入口で販売しているとの返事。『じゃあ、帰りもここ寄るからその時買うよ』と言ったら、くだんの親爺が『向こう側にはあるかどうか分からない』と苦笑した。あっそうか、ここは高速道路だ!馬鹿なことを言ってしまったと思ったが後の祭り。(笑)(^0^)Y

大阪に近づくと渋滞が始まりバスのスピードがこれまでと全然違い遅くなり出しました。

結局大阪駅のJRBTに定刻25分遅れの17:55到着、さほど遅れることなく着いたのでこのあとの道頓堀・難波界隈の散策には支障がありません。

御堂筋口より地下に降り御堂筋線で心斎橋まで移動すべく自販機で切符を買う。大阪の自販機はなんか関東のそれと違い操作手順が複雑、画面を見ながら色々選択しなければならない。モタモタしていたら後ろに列が出来てしまった。・・・大阪人は気短だからどやされたらどうしようと焦りながら操作しやっと切符を出すことが出来ました。(´ε`;)ふう~!

梅田から心斎橋はすぐだった。地上に出るとイルミネーションがすごい。たしかこの通り(御堂筋)を南方向に500mも行けば道頓堀だと思いポケットから磁石を取り出し確認する。・・・このへんは山爺も山男の端くれ準備に抜かりはありません。

御堂筋を左に向け歩き出す。♪ 小ぬか、雨降る 御堂筋~ あなた~ って連れは誰もいない中をミナミへ歩く。道頓堀へはあっという間に到着した。左を見るとあるある見慣れたグリコのネオン看板が、左折し大阪の阿呆兄ちゃんが飛び込むので有名なえびす橋に到着。記念撮影を撮る。ってまあここも中国人らしき団体さまでやかましい。


堀をよく見ると柵のあちこちに救命浮き輪がぶら下がっている。誠に用意のいいことでと感心しきりでした。

えびす橋を渡り、カニ道楽の看板がある交差点に移動する。平日なのに、ここも人々で誠に賑やかである。賑やかな通りをしばし散策し、次の目標、法善寺へと向かう。



法善寺横丁は直ぐに発見したが肝心のお寺が見つからない。飲み屋街を歩きながらそろそろ夕食兼一杯の居酒屋も物色しなが歩いていると細い路地の向こうにお寺らしきものが見えました。法善寺です。飲食店に囲まれた小さなお寺でした。♪ 包丁 一本 サラシに巻いてぇ~ か!藤島武雄の月の法善寺横丁・・って山爺も古いねぇ。

十分ご縁があるようにと10円と50円合計60円を奮発し家内安全・就職成就・宝くじ当選を祈願する。・・・ここの仏様は水かけ不動様なので水をかけて願掛けせなあかん、とこの後入った居酒屋のお兄ちゃんが教えてくれた。・・・しまった。水かけるの忘れたがよそ者の田舎もんが願掛けしたのだから多めに見てくれるだろう。・・・お不動さんよろしく頼むよ!。
そろそろ居酒屋へと法善寺の回りをぐるぐる探索するがなかなか手頃な店が見つからない。
混んでいる店は山爺を相手してくれそうもないし、混んでいる店が多い中、ガラガラの店はなんか訳ありだろうしで、なななかちょうどいい店が見つからない。

洋風の店でセットメニュー¥980の看板が目についたので見ていると若いお兄ちゃんが出てきて『いかがですか今すいてますよ』に釣られて入店する。入ると客は誰もいない。すいてますよもないもんだ。誰もいねえじゃねえかと思いながらカウンターに座る。座ってみると、何かおかしい正面に木の壁が出来てしまって若いマスターの顔が随分と上で見上げなければ見えない。

セットメニュー¥980を最初に注文する。グラスビールに串揚げ5本キャベツ付きだ。う~んグラスビールかあ、もっと大きなジョッキーを想像していたのでやや不満。串揚げはうまい!・・まあ串揚げは誰が料理しても不味いことにはならない。余程のことがなければねぇ。

客は山爺一人だから会話は当然弾む。『このカウンターやけに高いね、意識して作ったの、壁に向かって飲むようだ』と揶揄すると。なんでもスタンドバー風にしたかったので座席を高めに設定するつもりだったと言いながらカウンターの椅子を操作してくれた。スルスルと確かに伸びる。カウンター内側の床面も客側フロアよりかさ上げして高くしてあるそうな。

ところが請け負った大工さん、上のカウンターは上の床面に合わせ客側のカウンターは客の床面に合わせた作ったので間延びした変なカウンターが完成したという訳だそうな。

当然打ち合わせた内容と違うのでクレームを付けやり直しをお願いしたらしいが、『いやぁそれは堪忍してや』『おもろいカウンター出来たやないか』とも言ったとか言わないとか。ということで今に至っているそうです。いかにも関西人らしい面白い話が聞けました。関東ではこうはいかんでしょうなぁ、何がなんでも工事やり直し大工との関係はギスギスして終わりだろうね。

この日は更にお銚子2本とつまみにおでんを追加して多いに会話を楽しんだ。この間日本人の女の子とアメリカ人のカップルが入店しただけ。大阪の居酒屋にしては少し割高だったがおしゃべり代と割り切れる夜だった。

今日の宿泊先は心斎橋に予約してあるカプセルホテル〇&×である。ここはシャワー設備しかないが格安(¥2000前半)なので良しとした。ほろ酔い機嫌で難波~御堂筋と、もと来た道を戻ってホテル到着、爆睡となった。

12月9日(金)

心斎橋から天王寺まで地下鉄で移動し、ここからJR関西本線に乗り換え快速列車で一路奈良に向かう。9:28 JR奈良駅に到着、駅前のコンビニでお握りとサンドイッチ、お茶を購入し東大寺まで歩きながら遅い朝食を取る。一人旅だからこそ可能な山爺特有の時間と金銭節約術である。連れがいたらこうは行かない。

15分も歩くと興福寺の猿沢池に着いたがそこはスルーし公園の中を東大寺へと向かう。あちらこちらに鹿がうろうろしている。神の使いらしいから仕方がないけどそれにしても多すぎる。鹿刺しにして名物とし茶店で出したらよかろうに。\(^0^)/

おお!東大寺の南大門が見えてきました。門をくぐると中門がありその先に大仏殿が見えました。


お久しぶりなんてもんじゃない。高3の修学旅行以来だから実に
半世紀ぶりである。


中門をくぐると大仏殿がでーんと建っております。拝観料を収め大仏様とご対面。やはりなかなかの迫力でおわします。それにしても中学、高校生の多くて賑やかなこと、これに中国人やらアジア人が加わり大騒音がお堂内に響く。

名物の柱くぐりでも中国人らしき団体が大はしゃぎ。仏様も毎日こうだと耳栓でも欲しところだろうねえ。そこへ行くと欧米人と日本人のなんとお淑やかなこと。

間違って東大寺ミューシアムへも入れる共通券を購入してしまったので仕方なくミューシアム向かう。あまり期待はしていなかったがやはり展示品は期待はずれで創建当時の屋根瓦と仏様を見て御終い!大仏見たあとでは仏様も迫力に欠ける。

次の見学目標、興福寺へと徒歩で向かう。大きな通り出たので向こうに渡りたいが歩行者用信号も横断歩道もない。歩行者は地下道をくぐって向こう側に渡るようである。渡り切って案内板を見ていると中国人らしき親子が山爺に話しかけてきた。

中国語なのでなにを言っているのかさっぱり分からない。Where would you like to go と聞いてみるが・・・山爺でもこの程度の会話は出来ますゾ。・・・反応なしで一方的に中国語でまくし立ててくる。バカめ、外国に来るなら英語くらい覚えろ!・・・なんか東大寺の方を指差している。Great buddha?と聞いても反応なし・・いやぁ困ったぞ、私は早く興福寺に行きたいし。・・・ん!先ほど私が道路を横断するのに最初戸惑ったのと同じで渡り方がわからないのかな。地下道を指差し身振りを加えながらdwon and through a tonnel と言ったら。 おお!と言って地下道の方へ歩いて行った。どうやら向こう側に行きたかったようだ。・・やれやれである。

えーい、つまらん時間を食ってしまった。急いで興福寺へ、五重塔が見えてきました。ここは見るべき目玉はただ一つ国宝のアシュラ像を拝観することである。急ぎ興福寺国宝館へ回り入館する。いました、いましたアシュラ像が、やはり近寄りがたい神々しさがあります。迫力抜群です。1000年以上も前にこれを作り上げた作者に脱帽です。他はあまり期待していなかったけれど国宝館の名にふさわしく美術の教科書に載っていたような彫刻が数点展示してあった

外に出て改めて五重塔と三重塔を見学して猿沢池に降りる。ここでしばし休息してから奈良駅に戻る。

駅の近くまで戻ると途中に開化天皇の御陵があったので写真撮影。

家に帰ってから開化天皇について調べたら第9代の神代時代の天皇で生まれ年は西暦換算で紀元前208年で111歳で崩御と相成る。どうも実在性に欠け怪しいが宮内庁管轄で御陵が実在することがなんとも不思議だ。

12:33 再びJR線でお昼も食わず法隆寺駅へ向かう。法隆寺駅12:43着 12:58 のバスまで時間があるのでコンビニに立ち寄り¥100アンパン購入し腹ごしらえ。バスが来たので乗車 法隆寺まで¥190、なんと半端な料金設定だ。おまけにつり銭の無いようにご用意くださいときました。

今日日スイカ(果物ではないよ熟年読者諸君!念のため)が普及し¥10両替機もないバスが増えた。このバスにも付いていないようだ。下車時結局¥200を放り込むハメに。往復¥20余分に取られた。乗客が多いから随分儲かるんだろうなあ・・・いやいや今時カード持たない奴なんかいないようだ。(´・_・`)ショボン

13:15頃法隆寺門前に到着、いよいよ前々から訪れて見たかった法隆寺のミステリー探索が叶った。

ここで法隆寺の歴史についておさらいしてみよう。歴史の成績が赤点で興味ない読者諸君は読み飛ばしてください。

①法隆寺の建立は7世紀初頭(607年)。聖徳太子が父・用明天皇のために創建した。斑鳩寺という別名もある。

②『日本書紀』では670年(天智9年)に落雷がもとで起きた火災で焼失した。

③再建時期についてははっきりした記録はないが建築様式などから、金堂が最も古く、ついで五重塔、仁王像のある中門、回廊が造られたとされている。

④夢殿を中心とする東院伽藍は、738年(天平10年)ごろに法隆寺の高僧行信がかつて斑鳩宮があった土地に聖徳太子を偲んで建てたもの。

次に聖徳太子を取り巻く歴史に触れてみると

①574年ころ生まれた。
②593年推古天皇の摂政となった。
③蘇我馬子と協力して、天皇中心の政治を目 指した。
④603年、冠位十二階を定め、604年には十七条の憲法を制定した。
⑤仏教をあつく信仰しており、607年に法隆寺建立
⑥同年(607年)小野妹子らを遣隋使として中国の隋に送り、対等の外交を行おうと努力した。

⑦623年に聖徳太子が亡くなる。次の日に妃も亡くなる。更に母上も2ヶ月後に死んじゃう。

*葬儀を執り行った記録が全くないそうです。!おかしくない?

⑧蘇我蝦夷の血縁、古人大兄皇子と聖徳太子の子である山背大兄王で皇位継承権争い勃発

⑨643年に蘇我一族に斑鳩の里を襲撃され山背大兄王子が一族もろとも自殺。

*戦うと多くの犠牲が出るからと一切抵抗せず一族総自決・・何かおかしい。そんなお人好し入鹿(いるか)・・親爺ダジャレ

⑩これにより蘇我蝦夷・入鹿親子の専横ぶりが激しくなってきた。

*つまり蘇我氏が聖人である次期天皇候補の聖徳太子やその一族を抹殺し天皇家の権力を奪おうとした大悪人だとされているが聖徳太子と蘇我氏とはかなりの血縁関係にありなんで抹殺されるのか理由付けに乏しい。


⑪645年蘇我氏の専横を憂い中大兄皇子と中臣鎌足が図り蘇我入鹿を殿中(て言わないか?)で暗殺。
⑫続いて蝦夷にも軍勢を差し向けたので蝦夷は戦わず自殺し蘇我氏中枢勢力滅亡・・いわゆる乙巳(おっし・いっし)の変。

*どうもこのあたりの事件が山背大兄王子一族自決とダブって見えるのは山爺の考え過ぎか。

⑬乙巳の変により中大兄皇子は後に天皇に即位(天智天皇)鎌足は功績により藤原の姓をもらいこののち藤原一族が専横を極め現在に至る・・中臣では中くらいの家来という意味だもんね。(嘘だよ~ん 笑   中臣とは神と人の間と言う意味合いで・・つまり神官職のことみたいです)

*この藤原嫡流から鎌倉時代以降に5摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)という超名門の家柄が輩出され現代に至っている。

*これらのことは鎌足の息子藤原不比等さんが『日本書紀』を編纂した内容がもとになっている。勝者の立場で都合良く書かれていると多くの歴史家は言っている。

*山爺が中学時代に習った頃は、この一連の事件を大化の改新と教わったが今では天下のNHKさんも乙巳の変と言い換えている。上記名門家のいずれかが入鹿さんの祟を今でも恐れ各方面に働きかけ訂正させたのかな?・・だってそうだろう単なる政権争いだったとしたら、いつのまにか大悪人に仕立て上げられて誅殺されたあげく、世直し大化の改新だと嘘を言いふらされてはどんなお人好しでも怒る(祟る)でえ。

山爺も古代歴史は好きで色々読んでいるが真面目な歴史学者さえも『日本書紀』は歴史を捏造し捻じ曲げたた節が多々あり信用できないという説が多い。

急先鋒の著書に梅原猛(隠された十字架)関裕二(聖徳太子は蘇我入鹿だった)井沢元彦(逆説日本史・学校では教えてくれない日本史の授業)などがあるので暇な人は読むと面白いよ。

これらの著書によれば737年に『日本書紀』を自分に都合よく編纂した藤原不比等の息子4人が相次いで急死した。・・・いずれも天然痘らしいが彼ら四兄弟は生前に政敵長屋王に濡れ衣を着せて自殺に追い込むという悪どいことをやっている。

不比等はこれは長屋王の祟と恐れ彼を手厚く祀ったがなお異変は続くので、もっと悪どいことをやったご先祖様は誰だと追求し、ああこれはおれの親爺(鎌足)が入鹿をだまし討ちしたんで祟っているんだなあと思い蘇我入鹿の怨霊を鎮めるため架空の聖人、聖徳太子をでっち上げ褒め称えることにより怨霊を慰めようとしたと述べている。つまり聖徳太子=蘇我入鹿説である。

確かにこれまでのことを入鹿=聖徳太子とするとこれまでの事件のつじつまが合いスッキリする。

*聖徳太子と称号は太子の死後送られた忌名で生前は厩戸王子と呼ばれていたことは皆さんご存知と思うが徳の付いた皇族はろくな最後を迎えていない。つまりこれらの忌名は死に追いやった当時の権力者が祟を恐れて送った称号だ。孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳、いずれもその最後は不遇な扱いを受けている。

*蘇我氏は渡来系の人で律令制度の導入や地元斑鳩で善政を収めていたらしく今でも地元の人々は蘇我神社として手厚く祀っているそうです。・・・明治になってから入鹿は天皇家に盾突いた大悪人だから神社の名前を変えろと言われれも応じなかったとか。悪人だったら一番に地元民から見放されるもんね。

*歴史家達は乙巳の変は世直しでも何でもなく時の権力者と落ちぶれた皇族の単なる政権争いだと言う。
*悪者を追い詰め死に追いやっても殺された方にも非があるので納得?するので祟られないといいます。なにも悪いことをしていないのに欺かれ殺された場合に祟るとされています。・・加害者側に後ろめたさがあり良心が咎めるからだろうね。

法隆寺建立は蘇我氏ゆかりの斑鳩寺を廃寺とし付近に移築したものとか、この斑鳩寺こそあの聖徳太子の子、山背大兄王子一族が自殺した場所である。・・聖徳太子と山背大兄王子は架空の人物で蘇我氏一族が滅亡した場所と思えば合点が行く。加害者(中大兄皇子・鎌足)としてはそんな気味の悪い場所はさっさと解体したいものねえ。

移築、建立に際しては色々な怨霊封じが施されているというのだ。誰が誰に対し行ったのか。藤原氏が蘇我氏対して怨霊封じの仕掛けを施したと考えると真にスッキリとするのである。

聖徳太子がでてくると話がややこしくなり訳がわからなくなる。それもこれも藤原不比等めが自分達に都合の良いように(蘇我氏悪い人・藤原いい人)デタラメを書くから後の学者さんを悩ませることになるのである。・・・学者って頑固で頭が硬いから自説曲げないし・・なんでも東大と京大の歴史学者って今でも仲が悪いとか?・・


法隆寺に仕掛けられた怨霊封じとは

①中門の真ん中に柱が来るように建立・・・怨霊が出て行かないように通せんぼ。こんな建て方はあまりない。  ⇒

今回の拝観でよく見てこようと思ったが改修中でシートがかぶせてあり見えん!!いやぁ参ったねぇ。


*東大寺の南大門は2本の柱で出入りしやすくしてある。これが普通の建て方。   

*山門は俗世界との縁を断ち切る結界の役割を果たすため建立される。3間4柱(両側は仕切り板で塞ぐ)とか5間6柱とかが普通の建て方で法隆寺のような4間5柱構造は異例。

HP検索するとほかの建立例は出雲大社(大国主命)山田寺(蘇我石川麻呂)元興寺(蘇我氏)があるとされているがいずれも不遇な最後を迎えた方々ばかりである。・・・実物画像は確認できなかった。

石川麻呂は蘇我一族でありながら乙巳の変に中大兄皇子側に加担し、後に中大兄皇子・鎌足に惨殺された哀れな人物。




②五重塔の宝輪に鎌が刺さっている。二つも!・・・刃が下向きになっており五重塔から怨霊が出てゆくのを防いでいる。・・・落雷よけとされているらしいが落雷よけなら雷神様は上からやってくるので刃を上に向けなくては・・祟りじゃぁ!









③夢殿に安置してある救世観音が異常。

・仏様の光背の固定方法が異常・・大きな釘で仏様の後頭部にグサリ・・罰当たりも甚だしい。

たぶん呪い封じで夢殿建立した行信という坊主が誰かに命じられてやったんだろう。       ⇒

蘇我入鹿よ!迷わず成仏せい!グサッてなもんで・・おお怖わ!

この行信、没年不明というのも怪しい。利用されるだけ利用され消されたのでは?一説には下野の国(栃木県)薬師寺に流されたとも。

*行信:生没年不詳、奈良時代の僧、法隆寺、元興寺で活躍した、天平10年(738年)閏7月律師となり僧綱の一員として仏教行政に関わった。同11年に法隆寺東院伽藍(夢殿)を創建。

明治初年までこの状態でミイラのように包帯でぐるぐる巻きにし箱に収納、さらに鎖でぐるぐる巻きにして厳重に施錠、一切の開放を禁じて1000年以上も安置していた。・・余程祟が怖かったんだねぇ・・今日も黒い箱に入り公開していなかった。

とまあ長々とくだらないことを書きましたが少しは興味持ちましたか。あ!あんだって。くだらん。そう!法隆寺には百済ん観音もいるよ。・・親爺ダジャレ(^0^)

拝観料¥1500!(おお!高!お銚子4本だがね)を支払い寺院の中に、ここも半世紀ぶりである。中に入ると静けさが漂う。静けさというより不気味さと行ったほうがいいかな。あれだけ晴天だったのがここに来てにわかに黒雲が湧いてきたのも拍車を掛けたようだ。・・・実際大阪に戻る途中の車中で夕立のような大雨に見舞われた。・・・蘇我氏が怒っている。祟りじゃぁ!

なぜかほかの寺と雰囲気が違うなあ、と拝観しながら一生懸命思案して、はたと思いついた。そうだ、ほかの寺院より狭いのだ。しかも回廊でぐるりと取り囲んでいるから余計にそう感じる。
これも(回廊)怨霊封じの策に違いない。

前述した五重塔の宝輪の部分を凝視するとあるある鎌が2丁しっかりと刺さっている。風雨にさらされるので定期的に取り替えているに違いない。鎌の向きも偶然ではなく意識的に向きを決めているに違いない。

そばを偉そうな坊さん(白装で袈裟かけていた)が横を通り抜けたので余程『あの鎌は何のまじないですか?』と聞こうかと思ったが、聞けずに終わってしまった。

間違いなく怨霊封じだと一人ごちていると突然賑やかな人声集団が近づいてきて白昼夢が破られ気分がぶち壊しになる。中学生と思しき団体が旗持ったガイド嬢を先頭にどやどや進んでくる。

いやあ喧しいことこの上ない。仕方がないからゆっくり見学してご一行様をやりすごす。やれやれと思ったら次の中坊団体がまたやって来た。



阿鼻叫喚の中、法隆寺を拝観するはめになってしまった。これも蘇我氏の祟りか!。



寺院見学を終えたので夢殿に向かう。中坊共は時間がないのか夢殿には立ち寄らないようである。静寂の戻った参道を夢殿に向け歩く。

夢殿は前述したとおり聖徳太子を偲んだ行信が天平11年(734年)東院伽藍とともに創建したと伝えられているようだが100年も前に死んだ太子に大金をかけて誰が偲んで寺など立てるものか、時の為政者(藤原氏)に頼まれて怨霊封じのために建てたに相違あるまい。

ここに安置してある救世観音はほかの仏像と違い何故かお顔が人間っぽい作りとなっている。・・普段は非公開で山爺も今回の旅では見られませんでした。念のため。

聖徳太子(蘇我入鹿)に似せて作ったとされているが、なるほど最初は聖人・仏様と祭り上げて霊魂を鎮めようとしたのだろう。だがそれでも祟が止まないので業を煮やし、『え~い入鹿め!いい加減にせい』と頭に釘を打ち付け、包帯でぐるぐる巻きにし鎖でがんじがらめにして箱に封印、1000年以上もほったらかしにしたのに相違ない。・・恐ろしや恐ろしや。

*明治17年米国学者フェノロサと岡倉天心が夢殿を調査し布で幾重にも覆われれた状態でがんじがらめに施錠されていた救世観音を調査した。
当時この秘仏を白日に晒すと聖徳太子の怒りに触れ大地震が起こると言い伝えられていたので、いざ蓋を開けて布を剥ぐ段階になると僧たちは皆恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げていったとか

ミステリー拝観を終えたので大阪に戻る事にする。法隆寺あたりから今回の旅のため新調した靴が合わず猛烈に足が痛くてたまらない。これも入鹿さんの祟りか?イ~さん頼むから八つ当たりは止めてネ。

4時頃大阪に戻れたので当初の予定では大阪城の周りを散歩する予定でいたが足が痛くてそれは叶いそうもないので、去年立ち寄った天満商店街の鉄板焼き居酒屋に直行することにした。


JR天満駅で下車、ここは降りると直ぐにゴチャゴチャしたお店が
並ぶ。東京の私鉄駅前のような雰囲気が味わえる。居酒屋さんのプライスを見てもリーズナブルな店が多い。生ビール中ジョッキ¥180とかチューハイ3杯飲めば1杯只とか。

覚えていたつもりでも同じような店が続いているので今ひとつ目的の場所が思い出せない。痛い足を引きずりながら20~30分も歩いただろうか。おお!ありました。いきなりその店の前に出ました。よかった。まだやっていたんだ。

ん!のれんが扉の向こう側にかかっている。まだ準備中かな。でも営業中の札は出ている、どうなってんだと、のれん越しに中の様子を伺う。お!居ました。マスターが1人で所在無い様子でテレビを見ています。

『こんちわ』と言いながら中に入る。『毎度、いらっしゃい』と親爺。


毎度はないだろう、1年ぶりである。忘れているようだ。ビールを注文しながらカウンターに座る。

ほどなく女将が買い物からか帰ってきた。『あら、あんさんは、たしか半年前に』私の干支より一回り上の女将は覚えていてくれたようだ。『いやぁちょうど1年ぶりですよ』『1年でっか、年取ると1年過ぎるのが早いでんなぁ』『お互い様で』と会話が弾む。いやぁ、立ち寄った甲斐があったというもんです。

こうなるとお酒も進む。日本酒に切り替えたので酔いも回り山爺も饒舌になる。・・・あんだって、もともと饒舌だと!・・そのうち常連さんが一人隣に座り会話に加わる。吉田類の酒場放浪記もかくやとばかり、おしゃべりが弾む。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。深酒すると今夜の宿にたどり着けなくなるのでお開きにしお愛想とする。別れ際に女将が『お互い長生きして、また来年お越しやす』と言う。『はい来年また伺います』と約束し店をでた。

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・前編 完