カメラ撮影行のために新規に背負式のカメラザックを購入した。2段構造になっており、下段がレンズ収納部で取り外しできるクッションで自在にセパレート出来る構造だ。クッションで守られるのでカメラ・レンズを裸のまま入れられる。
上段はちょいとした備品(シャツ・雨具・ポット)が収納できる 。
80m・105m・300mズームレンズとニコンデジタル・小型カメラを放り込み、上段にサーモポット・カップ・ウインドブレーカーを入れて準備完了。なかなか使い勝手が良さそうなザックだ。3月30日の朝、8時15分に家を出て一路カタクリの咲いているであろう里山へ。9時30分頃JR岩船駅到着。
天気は上々、気分良く田んぼ道を黙々と歩く。
途中で散歩中の地元らしき数人の爺様とすれ違う。(爺様って、私だってもう同類)
15分も歩いたろうか?前方右手に不自然にこんもりしたヤブが見える。
なになに、甲塚古墳というのか。直径65m高さ7m、かなりの規模だ。回り込んでみたがヤブだらけで登り口が見当たらない。
6世紀後半~7世紀(飛鳥・奈良時代)に作られた円墳らしい。発掘調査は行われていないって?
こんなに原型を保っているのに未発掘とは学者さんは何をやっているのだ。たぶん私有地だろうから簡単にはいかないんだろうなあ。
あの有名な慈覚太師が岩船出身だとは今回始めて知った。
地図でカタクリの里を検索していたら、たまたま、慈覚太師生誕地とうマークを見つけたので立ち寄ることにしたのだ。
【山爺の一言メモ】
円仁(慈覚大師)・・慈覚大師は諡号(しごう・おくりごう)帝や貴人に対し死後贈る名前
平安時代初期の僧で、最後の第十七次・遣唐僧として唐に渡り、日本の天台宗を大成させた人物。また、最初に朝廷から「慈覚大師」の「大師号」を授けられた高僧。
ただ、こうした輝かしい事績の一方で、円仁には後の摂関家の権力者、藤原良房に結びつき、奉仕した僧-との指摘もある。円仁の生没年は794(延暦13)864年(貞観6年)
登山口はどこだ?。ローカルの山は標識整備状態が悪いのが常だ。
円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も | 歴史の実像に迫る 歴史くらぶ (rekishi-club.com)
円仁生誕の時使ったとされる産湯の井戸が保存されているが、なんか怪しそう。
それにしても岩船地区はいまでこそ寂れて(地域住民さん失礼!)いるものの先ほどの古墳といい円仁の遺跡といい、更には小野小町終焉(この付近の諏訪岳から老齢を苦に投身自殺)の地との伝承があったりする。有名な僧侶、行基が住職を務めた大慈寺という当時栄えた寺院も現存する。岩船地区は古代には相当栄えていたようですなあ。
ここから国道を歩けば目的のカタクリ里は近いのだが、それでは体力鍛錬にはならない。慈覚大師の史跡からさらに西に進んで山道に入ることにする。咲き遅れた水仙の花が『どうよ』とばかり咲いているのを見つけた。
登山口はどこだ?。ローカルの山は標識整備状態が悪いのが常だ。
枝道がいくつもあり何度か間違えて入り込み他人宅の前に出てしまった。
やっと、本道への標識を発見。竹やぶの中にひっそりとそれはありました。これじゃあ見逃すわなあ。
標高は160m、昔の山爺なら見向きもしない丘だ。
ここから三毳山山頂へはあと700m、反対側の下山ルートを降ればカタクリの里だ。
想像していたより花が小さい。個々に見れば地味な花だ。
いつものコブ握り・サンド・ミルクセーキで腹を満たす。
これで入園料を取らないのだから不思議だ。
さて、十分に良い絵も撮れたので下山しよう。
囲いがあるわけでもなく、ごく普通の茂みのなかで雑草のごとく平然と咲いている。
それにしても柵作って保護するなり説明板くらい付けても良さそうなもんだが。
観光客は気が付いているのだろうか、ほとんどの人が素通りだ。あ~もったいない。
さて、満腹・眼福・サプライズ、そろそろ帰ろうか。もう一度、あぜ道をぶらりぶらりと・・・
【川柳】
・尾瀬ならば 人気の芭蕉も 佐野じゃ無視
・カタクリの 陰でひっそり 水芭蕉
家について万歩計を確認・・・2万1千歩・・山爺まだまだやるのお。
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