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2024年9月29日日曜日

東京復興記念館訪問記


暑いですねえ。それにしても連日のこの暑さはどうであろう。山爺の様な老体が健康のため散歩でもと迂闊に外に出ると汗びっしょりになり、体力を奪われぐったりして帰る羽目になる。散歩も命懸けだ。

山爺は夏の暑さが苦手というより生理的に合わないのだ。汗腺が人より少ないと見えて汗をかけない体質なので気温が33℃を超えると途端にぐにゃりとなる。

こんな状況下ではアウトドアーは御法度で防空壕(我が家)に閉じこもるしかない。かくて体力低下に拍車がかかる。

今は昔、40年も前の頃は7月末やお盆の長期休暇を利用して3000mクラスの夏山によく出かけたものだが、あの頃は若かったので体力があったから出来たのかな?。それだけではあるまい。あの頃の夏の暑さと今とでは明らか様子が違うような気がする。気象庁がまとめたグラフでも夏の暑さは年々右肩上がりとなっている。今日日、重いリュック背負って長袖シャツ、山靴履いた暑苦しい格好で出掛けたら登山口に着くまでに熱中症で倒れるに違いない。
さりとて毎日家に閉じこもっているとカミさんだってウザったいに違いない。たまには暑くても留守にせねば・・しかしながら長時間、外での行動は剣呑だ。美術館か博物館のハシゴに限るなあ。そういえば9月のTVの防災特集で東京都復興記念館を紹介していたことを思い出した。

皆さん耳慣れないと思いますが東京都復興記念館とは両国にある記念館で、あの関東大震災のとき本所被服廠跡地での惨劇があった場所のすぐそばに建てられた記念館で、当時の惨状や太平洋戦争で受けた被害の資料などを展示しています。開設されたのは昭和6年だから震災の8年後だ。当時の名前は震災復興館

そばに葛飾北斎美術館なるものもあるようなので、博物館見学のはしごには好都合、ここにでもいってみるか。と、9月の暑い土曜日にいそいそと出かけた。

両国駅で下車、改装中の江戸東京博物館の横をすり抜けて10数分も歩くと公園の入口が見えてきた。



やはり昭和6年に建てられた震災慰霊堂(建造当時は震災記念堂)を左に認めつつ、復興記念館に到着した。当初この公園がてっきり本所被服廠跡地とばかり思っていたが資料館で確認したら被服廠跡地は公園の手前の建物が多く立ち並んでいた場所だったようだ。
 地震・雷・火事・親父ということわざがある。世の中の怖い事象を順に並べたものだが、いつごろから言われ始めたのだろう。

書物の記録に初めて出てくるのが1831年ごろの尾張の国で『尾張童遊集』という書物の中に地震雷火事おやぢという記述があるそうだからこのことわざの発祥は明治以前だ、相当古い。

この親父というのは家父長制度が強かった中世~明治期のその家の家長ことだが、その地区の名主や庄屋様を指していたとも言われてます。このことわざは元々地震・雷・火事・大山嵐(おおやまじ・・台風のこと)だったものが変形したものとも言われてもいます。

地震・雷・火事の恐ろしさは今も変わらないが親爺の権威はとうの昔に崩壊して今や恐ろしさの順位は地震・雷・火事・女房(あるいは子供)にとって代わっているのではないかと思う。 (^^♪ 

震災後被服廠跡地の惨状を調査した物理・防災学者の寺田寅彦が『天災は忘れた頃にやってくる』と唱えたが、最近この警鐘も当てはまらなくなりつつある。大きな地震が各地で頻発し1時間あたりの降水量が毎年観測史上初を更新する線上降水帯なる事象により日本全土どこの地域でもいきなり水害が襲ってくるようになってきた。

能登半島一帯は今年の正月に震災被害に遭ったばかりだが復旧も叶わぬうちの9月に水害に見舞われ犠牲者まで出てしまった。不運というほかない。

”平和な国、日本”と外国の方々から絶賛される我が国だが、こと自然災害に関しては日本は世界でも上位に入る恐ろしい国なのではあるまいか。

復興記念館に入る前に建物周囲にある露天展示物を見て回る。

左画像は本所吾妻橋にあった大日本麦酒(アサヒ・サッポロビールの前身)の建物の鉄柱が猛火でぐにゃり、頑丈な鉄骨も熱には弱いんですねえ。9・11の貿易センタービルがあっけなく倒壊したのも頷ける。

同じく大日本麦酒の建物内で樽に入っていた釘が熱で溶解して鉄塊に・・恐ろしいですね。

同じく大日本麦酒の工場内にあり焼損した電動機、電動機本体は溶けてひと塊となってしまったが伝達部位のリングが原型をとどめている。伝達ベルトが被さっていたから?かなあ。


千代田区にあった印刷工場で火災に遭い焼損した印刷機。

こちらは原型をとどめています。千代田区は火災規模が本所より低かったのかな。

千代田区、丸の内の電柱も地震によりポッキリと折れて鉄心がくにゃり・・




淀橋浄水場に山積みされていた配水管もご覧のとおり破損した。


さて、館内に入ります。ちなみに見学料は無料です。

神田で被災した都電の中にあった時計です。地震発生時刻の
11時58分で止まっています。



焼け残った貨幣








焼け出された自転車の残骸
火災旋風で吹き飛ばされ木の枝に引っかかったトタン板の成れの果て。





下の画像は被服廠跡地に避難した群衆の画像です。周囲に火災が起きている気配はなく人々が恐怖している様子は見られません。彼らはこのあと火災旋風に遭遇し38000名もの人が命を落とします。

背負った手荷物や大八車に山と積んだ家財道具を持ち込んで避難していますが薪の上に座っているようなものだ。これが仇とり火災旋風によりそれらに次々と着火、文字通り大炎上しました。専門家によれば着の身着のままで避難していれば被害はここまで多くはなかつたとも言われてます。

















早る群集たちを懸命に誘導し殉職した警官(巡査部長:河本愛三氏)の警察手帳です。あの大群衆を前に臆することなく懸命に職務を全うしようとした姿勢に敬意です。山爺なら見たとたんに逃げ出しているわ。
震災後、被服廠跡地での慰霊祭の様子。人々の前にうずたかく積んであるのは砂利ではありません遺骨です。・・・うわぁ、としか言い表せない。




誰のものかは不明ですが男物のベルトです。ベルトを失う状況では生存はありえないでしょうね。

こうした災害例を目の当たりにするとやはり地震が一番恐ろしいことに異論はありませんなあ。願わくば震災には絶対に遭いたくないものです。

関東大震災で忘れてならないものに震災後の流言により日本各所で朝鮮人を含む異国人や異国人と誤認された日本人が殺害された事件があるが

政治的な配慮なのかこの記念館にはそれらの資料は皆無でした。

あるいは見落としたのかなあ、そんなはずはない。

この事件は今持って正確な犠牲者すら分かっていないので都として公に認める訳にはいかないのだろうなあ。僅かに子供の自警団遊びという展示資料があるのみだった。

【山爺の一言メモ】

関東大震災の朝鮮人流言(デマ)事件

震災後数時間(3時間とも)経過したころより
普段、在日朝鮮人を蔑視していた日本人の一部の人々が朝鮮人に仕返しをされるのではないかと疑心暗鬼に陥り、『朝鮮人が強盗・放火・強姦・飲水に毒を入れた』と言った根も葉もない噂話を流し出す。

恐怖心にかられた日本人達は各所で竹槍や日本刀で武装した自警団を組織し通行人を次々と尋問、朝鮮人と思われる(思い込み)人々に暴行を加える。

朝鮮人の見分け方として『1銭5厘』と言わせてその発音の差異から判断したとか。(朝鮮人はいっしぇんごりんと発音する?)

『奴等は軍人や警官に変装しているぞ』と流言はさらに拡大、警備に当たっていた日本人の警官や軍人まで襲い出す始末。こうなるとその勢いは止まりません。見かねて暴行を止めようものなら、その人に矛先が向いてしまうから見ているしかない。もう、ひっちゃかめっちゃかですわ。

日本刀や竹槍持った集団にいきなり囲まれて1銭5厘と言ってみろと言われたら恐怖でおどおどするから平常心を保てず変な発音をする人もいたろうに・・それを根拠に『こいつ朝鮮人』と決めつけられて暴行・殺害されたのでは堪らない。こうして朝鮮人・中国人に限らず日本人さえ沢山の人々が犠牲になった。ことほど頭に血が上った群衆は恐ろしい。

福田村事件・・9月6日発生

震災から5日も経ったというのに香川県から訪れた薬売り行商人一行15人が福田村(現野田市)の神社で休憩していたところ自警団に朝鮮人と疑われ15人中子供や妊婦を含む9人が殺害されるという痛ましい事件が起きている。山爺は香川訛りがどんなものか知らないが方言が災いしたことは容易に想像できる。『・・・』『なに?、何言ってるか分かんねえよ』『てめえ日本人じゃあないな!・朝鮮人だ!やっちまえ』といった具合だったろう。

2階は太平洋戦争に関する展示というより3月10日東京大空襲の写真資料展示が主でここに掲載するほどの内容はないので割愛するが、この爆撃を指揮したカーチスルメイ将軍の悪辣非道な行いを糾弾せずには得られない。

【山爺の一言メモ】

カーチス・E・ルメイ

アメリカの軍人、1906-1990(83歳で没)最終階級は空軍大将、3月20日の東京大空襲を指揮したことで有名。

まず、彼の面構えを見て欲しい。頑固で人の意見を聞かない我がまま丸出しの表情に溢れている。実際あだ名が鉄のロバ(頑固者)と呼ばれていた。

彼が日本本土空襲を指揮するまでは日本の大都市郊外にある兵器工場に対し高射砲による撃墜や戦闘機の迎撃を恐れて日中に高高度(8000m~9800m)から爆弾を投下していた。しかし高高度からの投下では天候に左右されたりして命中精度が低く、思った成果が得られない。

それを見たルメイは新たな爆撃計画を具申した。ルメイこの時38歳。

①日本の高射砲は精度が低い(嘘)うえ配備が手薄、戦闘機の迎撃も少ない(嘘)から低高度爆撃(1500m~3000m)に変え命中精度を上げるべきだ。

②低高度で飛行すればジェット気流の影響を受けないので燃料が節約できるからその分焼夷弾を多く積める。

③低高度で侵入すれば天候に左右されることがない(雲の下に入る)から毎日でも爆撃可能。

④日本の工業は家内工業で女・子供も内職で兵器作りに従事している。ゆえに日本人すべてが兵士だから都心への無差別爆撃も問題はない。・・・何と都合の良い解釈だろうか。悪魔の思考回路としか思えない。

といった理由付けにより夜間、低高度からの無差別爆撃に切り替えた。日本の迎撃態勢が薄いなら堂々と昼間から低高度爆撃をやれば良いだろう。ルメイの考えはこの辺が矛盾している。本音では日本軍の迎撃を恐れたからこそ夜間爆撃に切り替えたのだろう。

日本軍の高射砲は98式高射砲をはじめ射程1万mを超えるものも数多く存在していたし、飛燕や4式戦、月光などの戦闘機(右画像は月光でB29撃墜用に開発された特殊戦闘機・・斜め上に向けた機銃がある)により数多くのB29を撃墜している。
日本のパイロットの中にはB29に体当たり(B29にソフトランディングする・・これでも飛行機はバランスを崩し墜落する)して2回もパラシュートで生還した猛者もいる。

日本軍の欠点はレーダーの未熟さだった。日中は目視で空襲を予見できるが夜間の空襲には対応が遅れてしまい迎撃態勢が間に合わなくなった。

低高度の夜間爆撃のミッションに際し彼はさらに驚くべき指示を出す。B29に装備されている尾部以外の機銃の一切を取り外させた。こうすることにより機体が軽くなり従来の2倍の焼夷弾が積めるようになった。

夜間爆撃では編隊飛行は行えない、間隔を開けた個々の機による爆撃になる。B29は編隊飛行で相互の機銃がカバーするから撃墜されにくくなるのだが単独飛行では当然防御が薄くなってしまうがルメイは『どうせ俺は乗らないもん』(山爺の想像)と、そんなことはお構いなし。

搭乗員たちの中にはこのようなミッションは自殺行為で部隊の75%が撃墜されると不満を述べ者もいたがルメイは『それは補充員を呼び寄せれば済むことだ』と言い放ったという。
こんな、いい加減な指揮官に命令され死地に向かう部下たちは哀れである。

古今どこの組織にもこのような、わからず屋の乱暴者がいますなあ。自分の思い通りにことを進めて反論の全てに屁理屈つけて沈黙させる上司が・・ほら、そこに。・・・(^ω^) 

3月10日の参加機数は325機、これらが10日未明より2000mの低高度で暫時侵入し個々に焼夷弾を投下するが、ルメイはまず下町の外周を先に爆撃させ目印とするよう指示した。なんとずる賢い鬼畜のなせる発案だろうか。これにより後続機は労せずして目標を確認でき、次々と焼夷弾を投下。やがて下町一体は火の海に、暗い機内でも腕時計の針が読めるほどだったという。

戦後爆撃に参加した搭乗員の証言に、『この火の海の下に人間がいるとは信じられなかった。きっと既に避難を済ませているだろう』と思うことにより良心の呵責から逃れようとしたという。

実情はルメイにより八方を塞がれ避難路の全てを絶たれた住民たちは逃げ場を失い大惨事となった。犠牲者の数は今持って定かではないが10万人とも12万人とも言われている。

この空襲での米軍側の損失は325機中、14機が撃墜されている。損失は4%だ。これが多いのか少ないのか山爺は判断できないが1機あたり11人搭乗していた計154人の搭乗員の生死はどうなったのだろうか。

ルメイの発案は大戦果として評価され爾後、日本爆撃は低高度爆撃が主となった。
終戦までに撃墜されたB29は485機、搭乗員の戦死者は3041名にものぼり神風攻撃による戦死者4000名に迫る数値だ。今まで通り高高度爆撃を続けていたら米軍の損失はここまで多くなかっただろう。

日本人には悪魔の手先として忌み嫌われたルメイだが米国では日本を敗戦に追い込んだ立役者として高く評価され戦後も軍人で居続け幅を利かす。

キューバ危機の時はケネディ大統領に終始、先制攻撃こそが勝利の道とキューバのミサイル基地への攻撃を具申し続けた。ケネディの英断により核戦争勃発は避けられたがケネディが気が小さかったり優柔不断だったりしたらルメイに押し切られて大変なことになっていたかもしれない。

ルメイの暴走はまだまだ続く、ベトナム戦争のときも先制攻撃あるのみと北爆を提案、ジョンソン大統領により裁可、実施された。ルメイは『北爆でベトナムを石器時代にしてやる』と豪語したとか。ルメイこの時59歳。

誠に血の気の多い輩だった。彼のせいでどれだけの人々が犠牲になったのかと思うと憤懣やるかたない。これだけ乱暴、狼藉を働き、我が儘放題放題の人生を突き進んだルメイだが霊魂からの祟にもあわず83歳の天寿を全うした。やはり、神も仏もないのだろうか。

先日、『博士の異常な愛情』という戦争映画を見た。あらすじは冷戦時代に米国の空軍基地司令官が発狂し核を搭載し巡航している複数のB52にソ連の核基地爆撃を命令してしまう。それを阻止するドタバタ劇だが、大統領含めた米国中枢が集まる指令所に将軍(左画像)と呼ばれる空軍大将が居た。彼は何か起きるたびに『大統領、戦争は先手必勝、今すぐ核攻撃を』と面白おかしく進言しまくる、名演技だった。この役者がカーチス・ルメイに重なって面白可笑しく鑑賞した。


【川柳】
・地震 雷いま 女房
・地震より 出水が勝る ようになり 
・憎まれ子 はばかる姿 ルメイ見せ

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