皆様、新年明けましておめでとうございます。今年も我が拙いブログの応援よろしくお願いいたします。先月中旬に関西ぶらり旅に行ってまいりました。その様子を思いつくまま書いてみます。
12月に入ると山爺の山歩きは終了、3月過ぎまで活動を休止する。例年この時期を利用して関西に旅行をしていたのだがコロナにより中断していた。今年はコロナも収まった?のでどこかに行きたくてうずうずしている。夏に利用した青春18切符が12月10日~1月10日まで販売中でこれを利用すれば費用を抑えて2回は旅行ができるのだがなあ、・・・
去年の12月に大腸がんチェック(検便)で潜血反応が出て要精密検査(内視鏡)となり、その場でポリープを切除した。一度では取りきれないから(体の負担になるので一度では取りきれないとか)来年またおいでと宣言されていたのだが、これがあっという間に1年過ぎてしまった。根がぐずなのでそれがまだクリアー出来ていない。この施術が終わらないとなんの予定も立てられない。12月初めに施術を受けて後半で旅行にでも行こうと、重い腰をあげ渋々病院へ・・・受診をしてみて驚いた。なんと内視鏡受検患者の多いこと、なんやかんやで施術予約日が暮れも押し詰まった12月最終週になってしまった。急に予定が開けた。だが、今から18切符では5回も乗車しきれない。さりとて山爺は大貧民ゆえ富豪様が利用する新幹線なぞ恐れ多くて乗ること能わず。ここは高速バスの利用に限る。急ぎPC稼働して天気予報とにらめっこ。おりから大陸の寒気団が南下中で天候が思わしくないが比較的天気が良さそうな16日(土)~18日(月)で切符を探しまくった。
日にちが迫っており大阪方面は格安チケット(¥5000以下)は完売、名古屋はどうだ。往きは¥3800、帰りは¥2700の格安チケットを予約することができました。普通の人は行先を決めてから移動手段を決めるのだろうが山爺はさにあらず、初めに格安切符ありき、切符に合わせて場所を決めるのだ。・・ (^^♪
東京駅から名古屋まで6時間16分の長旅だが新幹線の往復料金より¥16000もお得になります。映画男はつらいよの寅さんの名セリフではありませんが『皆さんになくて私に有り余っているもの、それは暇』だからして・・・バスの長旅もまた楽しです。
さて、名古屋拠点からの観光、前々から行きたかった候補が沢山ある。郡上八幡から岐阜へ、雪の飛騨高山~白川郷、関ヶ原と大垣城もいいなあ。候補が沢山あり困った。
今からでは郡上八幡や白川郷はバス予約が叶わない。ここは前々から行きたかった関ヶ原でも歩いてみよう。・・決して大河ドラマ”どうする家康”に感化された訳ではありませんから、念のため。16日のバス便は東京駅八重洲南口発11:00なので比較的のんびりした出立となった。
いつものように八重洲口駅構内にある駅弁屋”祭り”に立ち寄り昼食用の駅弁を漁る。うまそうな弁当が沢山あり選択に迷ってしまうがどれでも車内に持ち込んで良いとは限らない。車内で食べるから焼肉など香りの強いものは避けなければならないのだ。結局いつものように柿の葉寿司を購入してJRバス発着場へ。バスの運行掲示板を見てみる。11:00発名古屋駅行き・満席・・ありました。これでまずは一安心です。
時間が来たので乗車。今日日乗車チケット紙片は発行されません。予約したバス便のQRコードを自分でプリントするかスマホに取り込み乗車時に係員(運転手みずから)に提示して読み取りを受けてから乗り込みます。
いつの時代でも組織の仕組みが変わる時に負担が重くなるのは末端の現場で(係員・乗客)それ以外の者が手間が省け楽になり利益をむさぼる、楽して儲けているのは誰だ~。
定刻通りバスが発車、名古屋までは足柄SA・浜松SAの2箇所に立ち寄り、各々15分~20分の休憩があります。休憩時SA内のお店を見て回るのがちょいと楽しい。足柄SAからは間近に富士山が望めるのも楽しみの一つです。
順調に走っていましたが運転手から突然アナウンス『この先海老名付近が14kmの渋滞で遅れる見込みです』あらあ、今日は土曜日だからさもありなん・・・足柄SAに30分近く遅れて到着。時間挽回のためか休憩時間は10分に短縮、これではのんびりSA内のお店を見る暇がない、トイレ往復で終わってしまう。おまけに楽しみにしていた雪化粧の富士山も天候が思わしくなく、こんな有様です。(左画像)さて、お楽しみの昼食タイム。今日は土曜日なので座席は満席ですが皆さんお行儀よくて大人しい。車内で喫食しているのは数人だけ。それも目立たなくて食べ易いパン食だ。駅弁広げたのは山爺ただ1人。構うもんか旅の恥はかき捨てじゃあ・・・。【関ヶ原散策】
翌朝は良い天気、9時2分発の東海道線に乗り一路、関ヶ原へ。9時49分関ヶ原駅着。意外と名古屋から近いんだなあ。
小さな駅舎を出て、目の前にある観光交流館に立ち寄り資料をかき集めいざ出陣。いやあそれにしても風が強くて寒いなあ。時々山の方から雪まで吹き飛んでくる。今日は冬将軍と
の戦いになりそうだ。
東海道線を高架道路で跨ぎ越して、いよいよ関ヶ原の古戦場へ進軍じゃあ・・5~6分も歩くと2020年に新設された”関ヶ原古戦場記念館”が見えてきた。5階建てで最上階は展望室、まずはここに立ち寄り関ヶ原の地形全体を俯瞰しよう。
入館料¥500を支払い中へ、観光スポット域内の施設なので多くは期待していなかったが。思ったとおり、急ごしらと見え展示物は稚拙でNHKの大河ドラマの番宣館にさも似たり。こんな展示場に長居は無用、とっとと5階の展望室へエレベーターでGo。
うん、これだよ、これ。ここの施設の価値観は関ヶ原全体がよく俯瞰できることにある。
関ヶ原盆地は東西4km南北2km、決戦場になった地域はさらに狭い。こんな狭い盆地に東西陣営15万人もの人々が大人しく連れてこられ、お互い見ず知らずの者同士が殺し合う。なんと人間は従順で愚かしい性(さが)を持った動物なんだろうか。
さて、関ヶ原の史跡には蝋人形があるわけでもなし歴史に興味がない人にはただの原っぱにしか見えない。歴史上の史実を知ってこそ面白いというものだ。合戦までの経緯を詳しくおさらいしよう。
【山爺の一言メモ】
多分に山爺の憶測及び私見が含まれておりますが洒落とご理解ください。問答や苦情には一切応じませんのでご了承ください。
関ヶ原合戦に至る要因のすべてが豊臣秀吉の計画性のない後継者政策にあるといっても過言ではないと思います。
秀吉には正室おねとの間は勿論のこと、多くの側室と子づくりに励んだが一人も子が出来なかった。つまり秀吉は種無しかぼちゃだったと思われる。政権を握るや後継者欲しさに親戚筋を中心にやたら養子縁組をする。豊臣秀次(秀吉の実姉の子)・小早川秀秋(おねの兄の子、甥子)・結城秀康(徳川家康の子)池田輝政など総勢7名、ほかに猶子(家督相続から除外の養子)として宇喜多秀家ら4名といった念の入れようだ。ほかにも秀吉はおねの実家の木下家の従兄弟筋である福島正則・別所長治・加藤清正らを幼少のころより面倒を見る。実子の出来なかったおねは彼らを我が子同然に可愛がり育て上げ成人してのちは側近に取り立てる。・・皮肉なことにこれらの武将がいわゆる武断派となり関ヶ原の戦で家康側に加担し豊臣家滅亡へ追い込むことになる。
縁戚筋をかき集めて組織を固めた豊臣家、このまま推移すれば磐石なお家となるはずだったが織田信長の血縁である茶々(浅井長政とお市の長女、のちの淀)を側室に迎え、淀と秀吉の間に子が出来てから事態は急変する。我が子可愛さに養子縁組を次々と反故にするのだ。
秀秋は小早川家に養子に出され、関白の位まで譲った秀次には謀反の疑いありと難癖をつけて切腹に追い込み、秀次の正室や子女はおろか側室全員も妊娠しているかもという理由で京都三条河原で39人も斬首するという暴挙に出る。その中には殺されることすら分からない幼児が何人も含まれていたというから権力を持ったボケ老人はまさに気狂いに刃物だね。
だいたいに、正室や側室数十名と励んでも駄目だったのに急に妊娠するはずがない、それもすぐ第一子、鶴松が授かりその子が2歳で夭折するとすかさず秀頼を妊娠する。誰が見てもおかしいと思わざるを得ない。淀の本当の相手は側近の大蔵卿局(茶々のうば)の息子大野治長であるとの説が有力(秀頼は秀吉に似ず長身で治長も大男だった)だ。大河ドラマ”どうする家康”でも暗にそんな展開で描いていた。
それゆえ秀吉の子ではないと見抜いていた正室のおねは政変が起きた時に我が子同然に育てた小早川や福島正則らに豊臣側(西軍)に付くのではなく家康に味方するよう諭したのではと思う。
豊臣家は私と秀吉で築き上げたもの、どこの馬の骨ともわからん子を産んだ茶々ごときに天下を奪われてなるものか・・・といった考えが根底に有ったに違いない。つまり関ヶ原の合戦は本妻(おね)と妾(茶々)の争いでもあったのです。
しかしボケが少し始まった秀吉は我が子が授かった事に有頂天、自分の子であると信じて疑わない。なんとしても秀頼に後を継がせるべく五大老制度(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景・・うん?6人いるゾ とその行政機関として五奉行制度(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家)を発足させ、豊臣政権の強化を図る。
会社組織などで平社員の時はダメ男でも課長になったとたんに張り切ったり、隠れていた手腕を発揮したりするもので、その際たるものが軍隊の組織だ。
もしも、こんな制度を作らなかったら、すんなり家康に政権が移り豊臣家は大大名として生き残ったのではと考える。
秀吉の死後、家康の暴走を阻止するべく立ち上がった三成に残りの五大老達(毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・小早川隆景)が呼応する。中には三成から規則を振り回され『あんたは五大老なのだから』と叱責されし渋々西軍に与した者もいたに違いない。
西軍に与した五大老の中に前田家が抜けているが利家が病死後、家督を継いだ前田利長が当初は五大老に就任した。しかし対徳川の急先鋒となり家康と衝突、家康の加賀征伐へと発展してしまいあわや合戦か、となったが母親のまつらの説得で家康に下った。
その後は利長の息子利常と徳川秀忠の子女と婚儀を結んだりして徳川陣営に取り込まれる。おねとまつは木下藤吉郎のころから隣人同士で仲が良かった。ゆえに、おねを通して家康に仲介をとりなしたことは十分あり得ると思う。
余談ながら利常は聡明な人だったが家康に聡明さを認められるとお家が危ないと悟り、わざと鼻毛を伸ばしたり股間露出したりして愚鈍を装い懸命に家康に媚びた。その甲斐があって加賀百万石として繁栄し現在に至っている。1598年秀吉が死去、すかざず家康は秀吉から禁じられていた届出なしの他家との婚姻をしまくります。三成に咎められると『おお、忘れておったわ』と惚ける。狸親父の面木躍如、決して大河ドラマのような良い子の家康ではないのです。
司馬遼太郎が著書”街道を行く”で解説していたと記憶しているが、関ヶ原の戦いを現代の出来事に置き換えると秀吉社長の死後、跡目を徳川専務が狙う。それを見とがめた石田総務課長が社長の息子秀頼に跡目を継がせるべく徳川専務に立ちはだかったものだが、やっとこ課長と専務では最初から勝負は見えていたと・・言い得て妙です。
この総務課長は頑固一徹、正義は我に有りとして一歩も引かない。いつの時代でもいますなあ、規則を振り回して相手を追い詰める人が。正義があれば必ず勝つと張り切っちゃう。いつも正義が勝つなら世のなか平和で戦争は起きない。正義の主張と横柄は紙一重、三成も然りで周りからの人望は得られないし本人も納得している。このような性格で朝鮮征伐の実務を取り仕切ったからたまらない。秀吉にいいも悪いもすべて告げ口し放題、武断派の福島、加藤らから恨まれることになるのは周知の通り。
三成と家康のにらみ合い、前田常務(前田利家)が生きているうちはなんとか抑えられていたが常務が死ぬともう行けません、結局、秀吉社長が死んで2年後の1600年9月、関ヶ原の合戦にと発展する。
石田三成率いる西軍8万人、総大将は5大老の一人の毛利輝元、家康の東軍は7万5千人、東軍にはこのほか徳川秀忠率いる直営軍3万8千人がいたが信州上田の真田昌幸・信繁親子にちょっかいを出して大苦戦、関ヶ原の合戦に間に合わなかった。なぜ家康は劣勢の中、秀忠の到着を待たず戦に挑んだのか。
もともと毛利家は初代元就の頃より”決して天下を狙うな、西国だけで十分”という家訓がある。今回の戦も五大老だから担ぎ出されただけで、総大将任命は大迷惑と思っている。しかしながら家康が上杉景勝の討伐のため大阪城を出たと知るや長州から小型の早舟に乗り脱兎のごとく馳せ参じ、たった2日で大阪城に乗り込んでくる。この人はいったい何を考えていたのだか。
輝元自身もこの争いは家康と三成の私闘であって豊臣家は関係ないと思っている節がある。それが証拠に総大将でありながら最後まで大阪城に留まり関ヶ原には出陣していない。家康から内々に戦に加わらなければ本領は安堵するという起請文も受け取っていた。
家康さんは筆まめで全国の武将に100通以上の書状をしたため、味方すれば1国をとか、倍以上の所領を与えると約束しまくった。だか戦後は西軍の大将、毛利輝元をはじめ随分とこの約束を反故にしてしまう。そうです、家康は狡猾な狸と言うより狐親爺でもあるのです。
ところがふたを開けると思いのほか西軍に与する大名が多くなった。家康は考えた。毛利輝元は所詮は愚鈍で凡将、多勢を背景に欲が芽生え、いつ気が変わり豊臣秀頼を担ぎ出し出陣するかわからない。秀頼が出てきては福島・加藤・小早川とて西軍に付かざるを得なくなる。そうなると東軍の旗色が極めて悪くなる。息子秀忠の到着なぞ待っていられない。輝元の気が変わらんうちに一刻も早く三成と決着をつけなければ・・と。
西軍の三成は関ヶ原の近傍、大垣城に6000名の兵を率いて入り東軍を迎え撃つ準備をする。関ヶ原の南方にある南宮山には毛利の軍勢約3万人(毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家ら)が、西方の松尾山には小早川秀秋1万5千がすでに布陣している。家康が大垣城を通過して関ヶ原に入ったらまず毛利勢3万の勢力で挟撃して打ち取る作戦だ。三成の読み通り家康勢は大垣城を攻めるでもなく夜間に城を通過する。絶好の挟撃作戦の機会かと思われたが実際はそうならなかった。
①毛利勢は家康にすでに調略されており動こうとしない
②家康勢が佐和山城(三成の居城)を攻略するとの情報を得た(家康の流言で攻める気はさらさらなし)
これに慌てた三成は夜半に移動を開始し飲まず食わずで雨の降る中、午前1時ころ関ヶ原の笹尾山に布陣する。多くの武将がこれに従い、やはり飲まず食わずで関ヶ原に先回りし笹尾山周辺に散開布陣する。
西軍の兵の多くは飲まず食わずのまま戦闘に突入した。一方の東軍は途中で休憩し不十分ながら食事も採ったと思われる。家康は兵たちに雨中なので火が使えないが乾飯(α米)を十分水に浸してから食するよう(硬いまま食べると腹壊す・・山爺注)指示したとの記録が残っている。
栄養学者によればこの差は大きいという。開戦は午前8時、激戦の12時ころ西軍の兵の多くが低血糖値に陥り動きが緩慢になったのではと分析している。
さて、両軍の布陣だが西軍の多くが戦闘に有利な高所に布陣している。一方の東軍は盆地の真ん中を脳天気に進んでそのままのような陣形だ。明治18年3月、ドイツから陸軍大学校の教育顧問として来日したメッケル少佐にこの布陣図を見せたところ即座に西軍の勝ちと分析している。
素人の山爺でも分かる。高所に布陣した西軍に囲まれて東軍は逃げ場がない。あっという間に押しつぶされるだろう。が、実際はそうならなかった。家康さん事前の根回しによほどの自信があったのだろうなあ。毛利勢3万人もが布陣している南宮山のすぐ下にある麓の桃配山に本陣をおく豪胆ぶりだ。
西軍8万5千人のうちまともに戦ったのは石田三成6千・大谷吉継4千・小西行長4千・宇喜多秀家1万7千、計3万1千くらいで、小早川・毛利・吉川・安国寺・長束らはすでに東軍に調略されおり戦いを傍観、動かないでいる。秀秋は松尾山という関ヶ原全体をよく俯瞰できる戦略上最も優位な山に早々と陣取っている。通説では日和見していてまごまごしてたところ家康から脅しの鉄砲を打ちかけられた、所謂問鉄砲を掛けられたので慌てて東軍に寝返った天下の裏切り者と言われてきたが、山爺はそうとは思わない。
合戦当初から、東軍に付くつもりでいたが戦闘開始直後から西軍が押している。おや、これは?と弱冠19歳の秀秋は悩みだしたに違いない。正午近くまでは西軍が優勢、このまま西軍が勝ってしまうのではと、決心しかねていると家康から派遣されていた戦目付奥平貞治に『家康殿に逆らうと後々面倒ですゾ』とか脅かされ仕方なしに西軍に攻め込んだのだと思う。秀秋自身は今まさに自分が戦いのイニシアチブを握っているとは思っていない。
イライラした家康が秀秋陣に鉄砲を打ちかけて催促した所謂”問鉄砲”は後世の作り話です。当時の鉄砲の射程距離は100m、松尾山の山頂まで届きっこないし銃声は各所から起きているので判別不能だ。
こうして無傷の1万五千もの大群が松尾山から駆け下りまず大谷吉継勢に襲いかかる。付近に布陣していた西軍の脇坂保治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直安らもこれを見てあとに続く。互角で戦っていた西軍に横槍が入ったからたまらない。西軍は総崩れ、午後2時ころには三成本陣すぐ下まで東軍が押し寄せ勝負あり。(関ヶ原決戦地とした記念碑がある、左図)
秀秋は予定通り家康の味方をしたのです。それが証拠には戦後秀秋は家康から岡山藩55万石を与えられ大大名となります。ところが2年後に謎の死を遂げる。秀秋には子がなかったので家禄没収・お家断絶の憂き目に遭う。7歳の頃より飲酒しており12歳の頃には重度のアルコール依存性だったので酒による内臓疾患説が有力だ。
そのほか良心の呵責により精神を病んだためという噂もあるが健常だった21歳の若者がそうも簡単に病死するもんだろうか?。真相はどうだろう、山爺はこう考える。
戦後家康は考えた。このままではわしが陰謀を巡らし汚い手を使って勝ったと思われ民衆から因業親爺の烙印を押されてしまう。ここは苦しい戦いだったが小早川秀秋の小倅が突如裏切ったことで勝利が転がり込んできた、ということにしよう。と忍びを使って噂を世間にばら撒いた。そして”死人に口なし。悪いが秀秋には死んでもらう”と刺客を振り向け抹殺、さらに秀秋は大谷吉継の祟で呪われ狂死したと言う噂を流させたのでは。
京都の神官、神龍院梵舜が書いた舜旧記によれば”秀秋が死してまもなく秀秋の兄弟3人も相次いで急死した。諸人不可思議なりと噂した”とあることからもその死には謎が残る。
戦闘は午後2時ころ大勢が決まったがこの間、家康に内通していない武将でありながら、1兵たりとも動かずじっとしていた西軍がいた。島津義弘隊1500名だ。関ヶ原の前哨戦で三成に軽んじられたためへそを曲げ再三の参戦要請にも『この戦は各隊めいめいの判断によりするものだ』と言って動かなかった。
西軍敗戦濃厚の午後2時、義弘は突然動く、退却するなら西側の京都方面に逃走するはずだが、なんと東軍主力がいる真ん中へ分け入った。『我々は退却にあらず進軍だ』薩摩武士は頑固です。あまりの勢いに東軍の多くが道を開ける。家康の下知も『構うな、捨て置け』だったが、井伊直政・本多忠勝らが追撃、激しい戦闘になった。
島津勢は義弘の甥の豊久はじめ多くが戦死、関ヶ原を抜けた時には300名に減り、さらに各地でも追撃を受けて無事薩摩にたどり着いたのは80余名だった。一方の直政・忠勝軍も被害は大きかった。直政自身も足を鉄砲で負傷、この傷が元(死因は鉛玉の中毒説)で数年後に死去する。
敗戦確定を見定めた三成は戦線離脱し再起を図ろうとするが捉えられ小西行長・安国寺恵瓊とともに京都三条川原で斬首される。
以上が関ヶ原合戦のあらましだ。
まず、展望フロアからよく見えた石田三成の本陣跡に行ってみよう。
雪混じりの風が吹く中歩き出す。『寒いなあ』要所に案内板があるので道迷いはない。途中で車道をそれて田んぼ道を15分も歩くと決戦地と呼ばれる記念碑に着いた。
さて、次は開戦の地という場所に移動しよう。道案内に添って西に移動する。小西行長・島津義弘・宇喜多秀家ら西軍の陣屋跡と書いてある案内板に添って歩く。実際歩いてみると陣屋までの道が上り坂なのがよくわかる。やはり西軍の諸将たちは戦局に有利な丘に布陣していたんだなあ。
夜間大垣城横を通り抜け何万もの大群が松明つけて南宮山の方へゾロゾロ、光の帯となって続く、大迫力ですねえ。こんな光景見たら見たら誰だって恐怖を感じて尋常ではいられない。ましてや居城の佐和山城危うしとなれば三成さん、焦るわなあ。戦略にかけて家康は三成より2枚も3枚も上手であることが、このことからも分かります。
さて、お勘定。席を立って会計場へ、『おいくら万円』『¥1900です』『ん、¥1600じゃないの?』『席料が¥300です』げえ、あれでも席かい。セットメニューのどこにも席料いただきますと書いてないぞ、石田三成ではないが、だまし討にあってしまった。尾張人恐るべし。
石垣の積み上げ技術は相当なもので下手をすると現代の技術を凌ぐ技量だとか。