巷で言うゴールデンウイークが近づいている。勤め人時代は胸ときめく週間だった。残雪期登山に放浪旅にと夢中で計画を立てて出歩いたものだ。今となっては年中暇な山爺には無縁となってしまった。むしろ期間中はどこに行っても人、人なので家にこもる方が多い。
山歩き人の習性で天気予報は日に何度となく目を通す。
4月28日、早朝に家を出て秩父線で一路秩父へ。御花畑駅で西武秩父線に乗り換え横瀬駅で下車、ここから羊山公園に登って公園を縦断して御花畑駅にもどるつもりである。
時間があったら西武秩父駅前にある祭りの湯か横瀬地区にある武甲温泉にでも立ち寄ろう。
9時14分に御花畑駅下車、駅舎を左に出て路地を100mほど歩いて2本目の大きな通りを左に曲がり踏切を渡る。渡るとすぐに右に入る路地があるのでそこを抜ければほどなく西武秩父駅だ。(徒歩2~3分)
ここに来るたび、否応なく小資本の秩父鉄道と大資本の西武鉄道を見比べさせられることになるのであるが、その差のあまりにも違う作りには感心するやら呆れるやらである。資本主義の見本ここにあり。
なぜ、同一の構内に乗り継げるよう工作できなかったのかなあ。大資本のエゴと小資本のあきらめ?により最初から交渉の余地がなかったのかなあ。
かくて利用者はこの先、何十年も風雨にさらされる露天を歩いて乗り継ぐという不便を被らなければならないのである。横瀬駅に9時36分到着。ここは去年の9月にも寺田棚田の彼岸花群落の撮影に訪れている。駅前にテントが張ってありお嬢様方々?が、おいでおいでしている。立ち寄るってみると芝桜見学(有料¥300)すると地域振興クーポン¥500をいただけるそうな。ありがたくクーポン引換券を頂いてから現地に向かう。
民家の石垣に綺麗な芝桜が咲いてます。もう目的の花を愛でてしまいました。
咲き具合はここにきて寒さが続いたせいか7分咲きといったところでしょうか。GWが丁度見頃になりそうです。
武甲山は相変わらず山頂は雲で見えません。しかしながら月並みな評価ではありますが、芝桜の咲き様は見事の一言に尽きます。
しばし、芝桜の響宴をご覧あれ。
さて、芝桜を堪能したので移動です。武甲山資料館というところがあるのでそれを訪ねてみよう。
途中の山道に芝桜に負けず、あたいらだってとばかりに八重桜や山吹が咲き誇っていました。こちはら無料で見られます。(^ω^)
腹も膨れたので武甲山資料館へ、入館料¥200を支払い中へ入る。展示品は熊、猪、鹿の剥製、岩石標本といったところで見所は特にありませんが、唯一昭和30年代の武甲山の姿と現在の比較写真が目を引きました。
山爺は昭和40年代後半にこの山を登頂しましたが、その頃はまだこの姿を留めていましたよ。
嶽(嶽山) タケ(タケヤマ)
古い時代、まだ言葉のみ用いて文字を持つにいたらなかった頃には「たけ」・「たけやま」と呼んでいました。人々にとってこの山は秩父の象徴であり、神奈備山(カナビヤマ-神様のこもる山)として崇められてきました。この山名は現在「武山」(タケヤマ)に残っています。
知々夫ヶ嶽-秩父ヶ嶽(チチブガタケ)
第10代崇人天皇の時代に、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、秩父神社を拠り所にして神体を奉祀しました。知知夫国時代へ入った時点で「知々夫ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。江戸時代の文献に「秩父山」と見えるのは古代の名残でしょう。
祖父ヶ嶽(オオジガタケ)
大宝律令が制定(701年)されて、武蔵国初代の国司として赴任した人物が引田朝臣祖父です。この名前が冠せられて「祖父ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。
武光山(タケミツヤマ)
平安時代、山麓地域に武光庄という荘園が成立しました。武光とは荘園の開発者名であったのでしょう。これによって「武光山」と呼ばれるようになりました。
妙見山(ミョウケンヤマ)
1235年秩父神社は落雷により炎上しました。これ以降同社に妙見大菩薩が合祀されその後秩父妙見宮として隆盛しました。これにより神体山の名称も「武光山」から「妙見山」へと変化しました。
武甲山(ブコウザン)
日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説が元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着しました。
仕方なく祭りの湯に入ることに決定。
祭りの湯の入口にシャクナゲが咲いてました。里ではもう咲くんですね。5月末はシャクナゲ撮影の山旅かなあ。
2時間近く、のんびり出たり入ったりしてから帰路につきました。
・山の湯も 地区クーポンで 温まり
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