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2023年3月16日木曜日

春風に誘われて(足利西渓園散策)

 ずいぶん暖かくなった。ついこの間まで寒くて縮こまっていたが、明日3月11日は気温が20℃を超える勢いとか・・寒さにかまけて運動不足が続いている。これは出かけねばなるまいて。

近年、暑さ寒さの変わり方がゆるやかでなくなったと思うのは山爺だけだろうか。昨日まで寒かったのにいきなり夏日とか、極端な変わり方が多くなったよう気がしてならない。

急な変わり方の主因は地球温暖化の影響による上空のジェット気流の蛇行にあるらしいとは理解してはいるのだが。それにしても急激な寒暖差は年寄りの山爺には堪えるわ。

足利の織姫神社のそばに西渓園という梅の名所があることは以前より知っていた。ここは私有地であるが持ち主の善意で無料で園内を開放しているらしい。山間部なので梅、まだ咲いているだろう。



いつものように思い立ったが吉日、急ぎザックにカメラやら帽子やらタオルを放り込み、いそいそと出かけてみる。土曜日の朝の下りだから電車は空いていた。土曜日なら混んでるだろうって、ちっちっち!。足利方面の平日の早朝は、やんちゃな高校生だらけで囂しいのである。

足利市駅に9時前に到着。駅を出て自慢のセミ一眼カメラ、ニコンCOOLPIX-P500を取り出して撮影準備をするも、『あれえ、動かない』・・・あちゃーまたやった。バッテリー切れだ。予備のバッテリーは、あ?持ってきてません。山爺またもやっちまったなあ。今日も予備カメラのカシオコンデジEXZ-370だけが頼りです。トホホ。

さらに不祥事は続く、ザック内に入れたはずの帽子がない。確かに入れたはずなのに、さてはコンビニで買い物した時に無意識に取り出して戻し忘れ?駅で電車待ちの間に飲み物取り出した。あのときに落としたのかなあ?。お気に入りの帽子だったのになあ・・・凹むことしきりです。あ~嫌だ、やだ、ボケたのかなあ、情けない。

駅を出てまず森高千里ちゃんの歌”渡良瀬橋”で有名な渡良瀬橋を渡って織姫神社前に到着、織姫神社は高台にあるので参拝は省略。左折し100mも歩くと西宮入口と書いた小さな案内を見つけた。ここを右折。

ちょいと歩くと長林寺の案内板が目に止まる。ここは足利地方の名門、足利長尾氏の菩提寺らしい。ちょいと覗いてみよう。

門前に可愛らしいお地蔵様が左右に3体ずつお出迎え。
左には”葷酒山門に入るを許さず”とあるので禅宗のお寺のようです。

【山爺の一言メモ】

長尾氏は、桓武平氏の一族で、相模国鎌倉郡に拠って鎌倉党といわれた武士団に属し、同郡長尾郷を本貫の地とした。いわゆる坂東八平氏の一つである。
鎌倉時代の記録である『吾妻鏡』には、為宗(為景)・定景、定景の子景茂・胤景・光景、景茂の子景忠・為村・為景・定村等、長尾氏の人々が記されている。長尾氏の家系については諸説があり、伝わる系図も異同が多い。それら諸系図によれ
ば、『吾妻鏡』にあらわれる長尾氏は鎌倉権五郎景政の系統となっている。
 

為景・定景兄弟は、頼朝の挙兵のとき大庭景親らとともに平家方について頼朝と石橋山で戦った。その後、頼朝に降服した定景は三浦義村に預けられのちに許されたが、鎌倉時代を通し長尾氏は総じて振わなかった。定景と一族は三浦氏恩顧の下に立ち、承久元年(1219)、定景は将軍実朝を殺害した公暁を三浦義村の命によって討伐に向い、首尾を達して公暁の首を義村


に献じている。この定景の行動は、三浦氏の被官としてのものであり、御家人としての主動性は認められない。とはいえ、長尾氏は将軍の供奉人、随兵、将軍臨時外出供奉人としても行動しており、三浦氏の一族として長尾郷を本拠とする御家人の立場でもあったようだ。

去年の大河ドラマ鎌倉殿の13人に関連のあった人物なのですねえ。世間は狭い。


本堂へは急な石段を登らなければならない。山寺は見た目には風情があるが訪れるのはしんどいですわ。(;´ρ`)

本堂に到着。誰もおらず静まり返っています。
この寺には七福神の布袋様が祀ってあり足利七福神として市の広報パンフに紹介されています。




本堂の左手に墓所があります。長尾氏の墓所もここにあるようですが
探索は控えます。






石仏が朝日により陰影がくっきり出て美しい。

さて、先は長いので長林寺はこのへんで。




坂道を歩くこと6~7分で西の宮神社の大鳥居に着きました。


高校生?7~8人が石段を駆け足で登り降りしています。
部活の訓練なのかな、楽しそうに『もう一丁』など声を掛け合って元気よく走ってます

『おはようございま~す』とすれ違うたび生徒さん達から挨拶された。・・おお、礼儀正しいなあ。すぐ横の高校の生徒さん達かな?(足利工業高校)挨拶されたら返礼せねばなるまいて。

『皆んな元気だなあ』『いつのまにかこんな爺さんになっちゃったよ』『俺も君たちの年齢に戻れたらなあ。あとは何もいらんよ』・・・・生徒達(笑)・・ウケた。

宮の説明板があります。1603年の創建というから徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した3年後、江戸幕府を開いた年だから古いと言えば古いが神社の多くは平安~鎌倉初期だから新らしい部類ともいえるかな。ここは商売繁盛の恵比寿様が祀ってあり足利七福神の一員として広報パンフレットに紹介されています。

本宮は長い石段の上にある。どれ、若人に負けずに登りますか。高校生らの視線を背中に感じながら石段を登り始める。途中で息が上がったが、やせ我慢して平然を装い休まず登り切る。生徒達から『やるなあ、爺さん』との声が聞こえそうだ。(^v^)

本宮が見えてきたがここも長林寺と同じで誰もいない。静寂そのもの。
遠く下の方から例の高校生らの掛け声が時々聞こえるだけである。

さて、恵比寿さまはどこに祀られているんだろう。
おお、本宮裏手に案内の矢印が・・・
本宮裏手に奥の院と祠群が鎮座ましましてます。左の祠は稲荷さま。右の祠、奥の院寄りは須佐之男命で右はじは地方の神様のようです。

奥の院がどうやら恵比寿を祀ってあるようなのですがシャッター下りていて中が見えません。

はて、恵比寿様とはいったい何者。

【山爺の一言メモ】

恵比寿様の両親は天地創造の神様イザナギ・イザナミです。古事記に記されているように
『まぐわいせ・まぐわいせ』と興奮し叫びながら子作りに励んだ結果、生まれた第一子が恵比寿様、その名を蛭子命(ひるこのみこと)と呼びました。

名のとおり蛭のような奇形児で生まれたので葦船に乗せて海に流してしまいました。・・って、おいおいそれって育児放棄?いや子殺しだろう。ひどい夫婦だなあ。

奇形の原因は、はしたなくも女から、いたしましょうと声を掛けたからだ。・・次は男から声を掛けて、いたしてみようと相談した。・・ってずいぶんと脳天気な夫婦だなあ。・・そんな風にして、いたしたところ健康児を授かった。ちなみに第二子は天照大御神、第三子は須佐之男命です。

流された蛭子命はしぶとく生き抜いて兵庫県の西宮付近に流れ着きます。
この土地には流れ着いた珍しいものを”恵比寿”として大切にする風習があったそうな。
そんな理由でこの哀れな蛭子命も大事に育てます。

蛭子命⇒夷三郎(えびすさぶろう)⇒夷三郎大明神⇒戒大神(えびすのおおかみ)⇒恵比寿神と大出世を遂げました。めでたし・めでたし

だから西宮神社は恵比寿様が御祭神なんだ、恵比寿様が海に関係あるのもそういう訳か・・納得です。

さて、だいぶ寄り道してしまいました。西渓園に急ぎましょう。なだらかな坂道をずんずん歩いてゆくと左手に学校が見え右手に坂道があります。ここを登りきった行き止まりが西渓園です。駐車場もなにもありません。行く手には山道のみ。やあ、梅が満開だ。間に合ったぞ。


ここは私有地、所有者が善意で開放しているだけなので俗人が喜ぶような屋台や土産店のたぐいは一切なし。休憩のベンチすらありません。

広い園内は土曜日だというのに山爺のみ。

あるのは園内いっぱいの梅だけです。




食用梅採取が目的だから花も小ぶりで地味ですねえ。

ところどころ僅かに赤い梅が咲いてはいるものの、誠に地味な風景が広がっています。



もうこの辺は足利の両崖山の中腹以上の位置にあります。あとわずか登れば両崖山の稜線に取り付きます。

登って見ようと思ったが今年初日から負荷かけ過ぎるのも何だから自重。

今日は無理せずのんびり梅を見ながら昼食をとることにしよう。

園内見渡しても紅梅は2~3本しか見当たりません。

あとは白梅ばかりです。ここが食用梅の収穫目的であることがよく理解できました。


かつて訪れた越生の梅林などは狭い敷地内に色とりどりの梅が咲いてましたよ。花弁も大きかったような気がしました。あれって品種が違うのかねえ。綺麗でしたが梅林内は屋台やらイベントやらBGM、ミニSLまで走り回って風情はゼロどころかマイナス。

山爺にはこちらのほうが断然好みですなあ。


小腹がすいてきたので園内の草むらに腰掛けてちょいと一休みです。結局1時間近く園内に留まっていましたが、その間独り占めです。良い目の保養になりました。




家に帰りついてiPhoneの万歩計をチェック。何と2万2千歩の数字が・・・『やるなあ、爺さん』・・生徒達の声援が聞こえてきました。

玄関を開けて傍らを見ると失くしたと思っていた帽子がちょこんとあるじゃあないですか。朝、カメラを放り込む時に無意識に取り出して脇によけたものと思われます。

あ~嫌だ、嫌だ、もう歳取りたくな~い。・・・でも、お気に入りの帽子です、有って良かったわ。(^O^)

【川柳】
・中高に 戻れるのなら ほか要らぬ
・部活する 若者の声 心地よし 
【短歌】 
・部活する 元気な子等との挨拶に 昔思ひて 勇気授かる

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②作者以外の方による無断転載は禁止で、行った場合、著作権法の違反となります。

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中川の源流探訪

 関東を流れる川のひとつに中川という河川がある。一級河川で幸手・春日部・越谷・を経て東京湾に注いでいる。

右画像が幸手付近を流れる中川、まだ小川です。


越谷付近の中川、堂々たる大河に変貌。
最後は東京湾に注いでいる。

さて、その源流はどこにあるのだろう。






源流といえば普通、上流で急流となり沢となってイワナや鱒を育む。やがて細い流れとなり、いつしか山中に消える。そんな風景を連想するがこの河川はそれには当てはまらない。

なんと、街のど真ん中が源流とされているのだ。


春日部にある企業に勤務していた頃、山爺は水質関係の公害防止管理者を拝命、その業務に携わっていた。当該施設の排水規制値が中川水系という地域の値が適用になっていたので春日部付近を流れる中川については関心を持っていた。

しかし、中川の上流までは気にもとめず多くの河川と同じく秩父か水上あたりの山の中だろうと勝手に思っていた。

源流起点付近は桜の名所。山爺は花見時に訪れて偶然その標識を見つけた。ずいぶん昔のことだ。『え、あの中川?まさか同名の別な支流だろう?』・・でも説明書きを読んでみて魂消たのなんのって、東京湾に注いでいる紛れもないあの中川の源流だったのである。

今日はその源流を改めて探ってみよう。中川源流の最寄駅は埼玉県羽生市である。










東武伊勢崎線羽生駅で下車し東口に出て駅前の大通りを真っ直ぐ進む。
左手に居酒屋『美・美・・ミミと読む』が見える。タイ人の女将さんがやっているタイ風居酒屋です。本場の美味しいタイ料理が¥1000以下の安い料金で食べられます。よろしかったら立ち寄ってね。夕方から営業です。



ドラッグストアーを左に見てその先の信号を越えたらまもなく小さな川を渡ります。





この流れは葛西用水でこの辺は桜の名所です。

川渡ったら直ぐに右折。





葛西用水を右に見ながら200mほど進みます。


右側に小橋、左側に横断標識が見えてくるので横断歩道を左に渡り階段を降ります。降りたところが中川の起点です。



自慢げに一級河川中川起点と記した標識と説明書きが立ってます。
説明書きを見てみると幸手・春日部・越谷を経て東京湾に注いでいる図がある。


源流が平地にある川は多々あるがその多くは湧水が起点になる場合が多い。

しかしここは、ご覧のとおり澱んだ怪しい水があるばかり。綺麗な水が湧き出ている様子が見えません。
埼玉県のホームページにも中川の水源は定かではなくと臆面もなく・・・おいおい、埼玉県、それでいいのかよお。一級河川だから管理元は国土交通省かなあ?

埼玉県ホームページより抜粋

中川は、羽生市大字羽生に起点があり、延長80.8km、流域面積286.2k平方メートルの一級河川です。中川の水源は定かでなく、羽生市内の大小さまざまな農業用水路等が主な水源となっています。途中、庄内古川、古利根川など様々な河川の旧流路を経て東京湾に流れ込むまで平地のみを流れているのが特徴です。元々埼玉県内では「中川」という呼称がなかったのですが、昭和5年7月1日旧河川法の適用河川「中川」として告示されました。

水源?をよく見ると穴があいており、穴の向こうから微かに水が流れている様子が見える。
ちなみにこの穴の上を先ほどの葛西用水が流れていますが交差しているだけで中川源流には流れ込んでいません。水路が立体交差とは先人の土木技術は進んでますなあ。
反対側に回ってみると確かに水が流れ込んで向こうに抜けている。起点はここじゃないじゃん。

水路がさらに延々と続いています。
水もゆるやかですが流れがあります。






県がいい加減なら仕方がない。県民の山爺が調べようじゃあないの。
小学校の前を通り抜けて、

いやいや水路の中は空き缶がごろごろ・・・源流危うし?
大きな通りを抜けると
水路は塞がれて暗渠になってました。
もはやここまでか。








クネクネと曲がりながらも暗渠は続いてます。








おおっと、前方に線路が見えてきました。
暗渠はまだまだ続きます。








線路を越えると暗渠ではなくなり再び水面が現れました。流れは続いてます。水源はもっと先だわ。



ここで水路は90度方向を変えて北方に向きを変えました。


街の中を水路は続いています。

心無い人が廃棄品を水路に投げ捨てる。何を考えて捨てるのかなあ、何も考えないんだろうなあ・・お役人が水源として認めたくない気持ちも判るなあ。

スシローの迷惑冠者のように・・何も考えずに寿司舐めたり醤油差し舐めたりして動画をを世の中に公開・・刑事告訴や民事で大ごとに・・慌てて謝るも既に遅し。まさに、『ごめんで済むなら警察はいらん』を地でいく話だわ。日本人はいつからこんなアホな人種が増えたんだろう。

水の流れは続いてます。生活排水は流入していないようなので水そのものは比較的綺麗です。

温泉施設、スーパー健康ランド華のゆを通り過ぎました。水量から言ったらこの温泉施設から排水される水量が一番多いので?、ここに源流の標識立てたら笑えるのになあ。

(注:山爺の冗談です・・排水はこの水路にではなく多分本下水に流れ込んでますよ)



水路はさらに続きます。

♫水路は続くよどこまでも~
でも、ずいぶん幅が狭くなってきました。

いよいよ水路の終わりが近づいたかな。



と、水門が現れました。何のための水門でしょうか。

上流からの水流を調節するためでしょう。で、あればこの先が水源なのでは。



住宅地を抜けて水路は更に延々と続いており綺麗な水が上流から流れ込んできます。

疲れたので現地調査はここで終了。

あとはGoogleマップを利用して水源の出処ををつかみたいと思います。



後日、Googleマップを写真モードで上空から見てみると・・しかし便利な世の中だねえ。まるでセスナ機チャーターして調べるようだ。・・・水路は西羽生駅の左側をすり抜けて2方向に分割、西に向かって田畑の中を一直線、国道122号線を過ぎると直角に曲がって北上、埼玉用水路に継っているようです。この用水の本流は利根川です。






羽生・行田地区は米どころで明治以前より用水路の整備が進んでいた。埼玉用水や葛西用水がそれでその歴史は古く1660年の着工である。利根川より取水した用水を縦横に張り巡らして生産性を高めた。

利用を終えた水が寄せ集まり小川となり大川と成長、大河となり江戸湾に注いでいた。江戸時代の頃なら水源なんてどうでも良かったが明治以降、中川の水源はどこなのだと国土交通省や地理院の面子で水源を特定しなければならなくなった。

県のHPでも”羽生市内の大小さまざまな農業用水路等が主な水源となっています。”とあるように今でもよくわからないのが実情です。

当時の水源調査隊?が中川上流を遡り、羽生までたどり着く。あちこち田んぼ内をウロウロ、水源起点の選定に迷った挙句にこの辺なら花の名所で将来も地形が変わることないだろうと考え、え~い!『もうこのへんでよかんべぇ』と匙投げて標識を立てたのではないかなあ・・・(^O^)

中川水源の結論:中川の水源は今の起点にあらず、利根川でした。

【川柳】

・水源は いずこと地理院 羽生まで
・このへんで 中川水源 匙を投げ

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