アクセスカウンター

アクセスカウンター

2019年12月21日土曜日

19年度関西ぶらり旅(前編)

温暖化と言われてから久しい昨今ですが、さすがに11月下旬になると関東各地の高山から雪の便りが届くようになった。小屋掛け登山も今年は終焉で3月過ぎまで待たなければならない。

12月は恒例となった、JR高速バスを利用してのケチケチ関西旅行にでも行こう。

ふとしたきっかけで名古屋・大阪方面の移動手段として格安な高速バスチケットなるものがあることを知って利用してから今回で5回目を数える。とりあえず12月6日(金)と12月9日(月)の東京、大阪間往復チケットは購入済みだ。合計金額は¥7950と相変わらず格安でありがたい。新幹線を利用すると割引チケットでも往復¥25000は下るまい。

http://www.jrbuskanto.co.jp/

昨今は時間を金で買う時代だ。2037年開業予定の東京・大阪間のリニア新幹線の料金はいったい幾らになるのかな?・・開業情報を見ると東京・大阪間でも今より¥1000程度しかUPしないようです。
そうなると在来新幹線はすこしは安くなるのかなあ・・・。

まあ、東京・大阪間が利用出来るのは今から14年後、山爺が乗ることはまずなさそうだが狭い日本、そんなに急いで何処に行く。東京・名古屋間は2027年開業予定らしいのでこれならギリ間に合うかなあ。

毎度、思うのだが高速バスのチケット名称が青春昼特急というのが小っ恥ずかしくてなんとも気に入らない。高齢者だって利用するのだからして名称を変えてもらいたいものだ。どん亀昼特急とか、ありさん号とか。( ^ω^)青臭い、青春号の名称は断固廃止すべし!!。

さて、今年はどこに行こうか。京都も奈良もまだまだ行きたいところが山ほどある。往復は移動時間に取られるので実質動けるのは2日間だ。なんですって、暇なんだからもっと居たらいいじゃんか、だって。ちっちっち!こう見えて山爺は神経が柔に出来ており寝床が変わると寝付かれない性分なのです。睡眠不足に陥るので健康面を考えると3泊が限度なのです。


散々思いを巡らせた挙句、京都は午前中に幕末の歴史漂う伏見寺田屋界隈・午後に紅葉鑑賞を目的とした世界遺産の竜安寺と仁和寺訪ねよう。

次の日は奈良にある日本最古の三重塔がある法起寺から法輪寺、中宮寺、藤ノ木古墳界隈を散歩して午後は町全体が江戸時代の町並みを保存しているという橿原市にある今井町を訪ねてみよう。


12月6日(金)東京駅9時20分発のバスに乗るべく通勤時間帯の真っ只中、電車で都心に移動した。久方ぶりの通勤ラッシュを体験する。皆さんお仕事での通勤、旅行姿でも気が引ける。登山姿で都心に向かうのは無理だなあ。でかい荷物持って乗車したらひんしゅくものだ。

8時40分に東京駅到着、まずは駅構内にある駅弁屋”祭”に立ち寄り昼弁当の確保に向かう。

いやあ、あるある。なんと多くの品揃えだこと、日本は平和だ。これが全部売れてしまうのかなあ・・なぞと、たわいもないことを考えながら結局は去年買ったものと同じ柿の葉寿司を購入、¥1080也。

コンビニでお茶やらお菓子やらを購入していたら早、乗車時間になってしまった。
改札を受けてバスに乗り込んで窓際の指定席に向かうと、なんと山爺の席に既に若者が座っている。

『その席は私のはずだが?』
『あ、そうですか』とあっけらかんで屈託がない。少しは悪びれんか!。
もともと私は足が投げ出せる通路側の方が好みなのだが今回は窓際しか空いていなかったのでやむなく予約した経緯がある。
『あんたがそちらでいいなら私はこちら(通路側)でいいよ』と言って席の交換に成功した。


定刻5分すぎにバスは大阪に向けて出発。天気はどんより曇っていてあまりよくない。

最初の休憩は2時間後の足柄サービスエリア(SA)だ。定刻13分すぎの11時に足柄SAに到着。例年だと間近に富士山が見え、それが楽しみなのだが今年は分厚い雲に覆われて見えません。残念です。

次のSA停車はやはり2時間後の13時15分、浜名湖SAだ。

12時を過ぎたので車中で先ほど東京駅で買い求めた柿の葉寿司を食す。中身はたい・あじ・さけ・さばの4種×8個だ。いずれも酢の締め具合が絶妙、旨い、旨すぎる。あれ?どこかで聞いたセリフだが・・・これだから旅は辞められません。


浜名湖SA、13時16分着で定刻1分遅れ。ほぼ遅れを取り戻しました。

バスは順調に走行して甲南SAに着いたときは定刻より27分も早く到着しましたが10分の休憩でせわしなく出発、この先の京都・大阪の渋滞を慮ってのことみたいです。

京都到着は定刻16時57分着の予定に対して1分遅れの16時58分着という神業的時間で停車。大半の乗客がここで下車しました。


例年だとここからが渋滞になるのですが今年から?途中の千里ニュータウン停車がなくなったせいか10分遅れで大阪駅に無事着きました。9時間の長旅ですがこれで¥10000節約できたと思えば楽勝です。

大阪駅から環状線で1駅、天満駅で下車し去年呑んだ居酒屋に直行する。ビール¥100の看板が掲示してある怪しげな路地を通過、相変わらずこの路地は激安店が軒を連ねておりすごい活気だ。
路地を抜けて3年前に馴染みになった鉄板焼き屋さん”たか”の前を通る。お店のシャッターはやはり降りたまま、あのおばちゃんやじいさんは息災なんだろうか?残念である。

去年呑んだお店は健在だ。去年はカウンターで常連らしき親爺に話しかけられて閉口した。(18年関西ぶらり旅参照:人の話、何でも反対親父)

どうか、あの親爺がいませんようにぃ・・と祈りながら店に入る。カウンターに目をやると、あちゃー居るよ。この親爺1年中この店に入り浸りなんだろうか?。

その親爺から離れたカウンターに座る。親爺がこちらをじっと見ているが無視。

まずは税込¥1000のセットメニューを注文する。

串揚げ5本・刺身・生ビール・生キャベツ、これだけ付いて¥1000ぽっきりです。これなら件の親爺ならずとも毎日通いたい。お店のマスターは去年来た山爺のことは憶えていないようで特段話しかけてこない。

セットメニューのおかわりを頼もうとするとマスターから『あ
いすみません、1セットでご勘弁』との回答、あれ?去年はOKだったが・・まあ、しかたがない。串揚げ5本とハイボールを改めて注文した。

最近お酒がめっきり弱くなったのと例の親爺に話しかけられたらたまらんのでこれで切り上げ、今夜の宿へと向かう。宿はいつもの難波にあるサウナである。
7日朝、まず環状線で京橋へ、そこから京阪本線に乗り換え乗車すること約40分、9時07分に中書島駅に着いた。ここ中書島駅には幕末の歴史的事件があった寺田屋がある。鳥羽伏見の戦いもこの地で起きた。また付近には黄桜酒造をはじめレトロな酒蔵群を見ることが出来る。


時間が早いのでまずは酒蔵見学だ。三十石船が行き来した宇治川支流沿いに蔵が見えます。早朝なので観光者は誰もいません。いい雰囲気です。

雰囲気は良いのですが早すぎて蔵内の見学が出来ません。

ぶらぶら歩いていると船着場のようなところを見つけました。

坂本竜馬や西郷隆盛をはじめ多くの志士たちもここから上陸したのかな?。


この付近一体は鳥羽伏見の戦いで激戦となった地域だそうで付近に記念の石碑が建っていました、合掌。

9時半を回ったのでそろそろ寺田屋に移動しよう。竜馬通りなる路地を歩きながら寺田屋を目指す。

寺田屋に9時50分に着いたが閉まっている。開場は10時からだそうで仕方がないから寺田屋の庭を見てからもう一度周辺をぶらぶら、ようやく10時になり中へ入ることができました。もちろん見学者は山爺のみ。入館料は¥500。

 ここで、薩摩藩士同士の内紛による斬り合い、いわゆる寺田屋騒動や坂本龍馬捕縛の寺田屋事件が起きたのかと思うと興味がそそられる。

が、はて?寺田屋は鳥羽伏見の戦火に巻き込まれ焼失したと文献で読んでいたのだが・・・。

このことについて係員に質問すると焼失したのは大きな母屋(上右画像の大きな屋根が母屋)の方でここは焼け残ったとの説明がありました。

あとでHPで再確認すると全焼説のほうが主説のようです。係員が嘘?真相はどうなんだろう。

とまれ、当時の刀傷やら・・・日本刀はよほど切れ味が良いとみえスパッと切れ落ちておよそ刀傷らしくない。これが返って本物のように見えた。作り物ならいかにも風に仕上げるはずだ・・・お龍さんが入っていた風呂桶も展示してあったが焚口が見当たらないのでリアリティに欠ける。

そして裸のまま竜馬に捕り方が来たことを知らせに駆け上がった階段まである。関西人は冗談に寛大だからなあ。本当かなあ??。(^。^)

竜馬は寺田屋事件で捕縛包囲網を突破するときに伏見奉行所の役人を2名、所持していた拳銃で射殺している。

今では英雄ともてはやされているが当時の官憲側にとっては殺人まで犯した公務執行妨害の凶悪犯であり、血眼で探し続けていたことを忘れてはならない。

龍馬暗殺には新選組・京都見廻組・西郷隆盛・紀州藩など諸説あるが山爺は寺田屋での捕縛に失敗し犠牲者まで出し面木丸つぶれの幕府官憲関係の見廻組犯行説を支持する。
 【山爺の一言メモ】

現在の寺田屋[編集]



現在の寺田屋

現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から嘘ではないかという説が強かった。[8]。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論。 

寺田屋から土佐藩邸は徒歩2~3分のところにある。坂本竜馬は京都でも藩邸のすぐそばの近江屋を定宿にしていた。なぜ竜馬は安全な土佐藩邸に身を寄せなかったんだろう。脱藩の後ろめたさかなあ。そんなタマじゃあない。なぜ危険な旅籠に逗留したのかなあ、藩邸は偉い人が多くて窮屈で自由がきかなかったからかなあ。いつも防備のまったくない旅籠を定宿にした結果、京都の近江屋で暗殺の憂き目に遭う。

なんて考えながら館内をゆっくりと見て回る。今の寺田屋が作り物としても史実に基づき忠実に再現されており、これはこれで面白い。

寺田屋を辞して再び伏見界隈を散歩する。ここ伏見には薩摩藩邸・土佐藩邸・会津軍駐屯地(右画像)などの史跡もありこの目で確認した。(薩摩藩邸はちょいと遠方なので割愛)

会津軍駐屯地と薩摩藩邸・土佐藩邸はいずれも徒歩5分くらいの至近距離だ。こんな至近距離に敵味方が居たことを考えると本気で両軍、特に徳川幕府軍が戦おうとしたとは思えない。


こんなに近かったらいざ開戦となったらいきなり白兵戦だ。やはり鳥羽伏見の戦いは偶発的に起きた可能性が高かったのではと山爺は思う。

当時、薩摩・長州連合軍は5000人、徳川幕府側は15000人の勢力だ。

日本史の教科書では薩長軍は最新の武器を持ち、幕府側は旧式装備、この違いで負けたと書いてある場合が多く、山爺も授業でそう教わったが真相は違うようだ。

幕府側も伝習隊など最新鋭の武器と訓練を積んだ武装集団も数多くいた。数といい武装といい圧倒的に幕府側が優位だった。どう考えても幕府側が負ける戦ではないのである


当時は幕府側がいわゆる政府軍であり薩長どもは権威に押され怖気付くと思ったんだろう。後のない薩長軍は散開布陣しやる気満々。その陣中を2列縦隊で行軍体勢のまま銃に弾も込めずに通過しようとした。


相手が手向かうはずもないと完全に舐めきっていたのである。その状態で戦端が開かれたのだから勝負は見えていた。幕府側は大混乱に陥り退却を余儀なくされた。


銃に弾を込めていない理由は天子様のおわす御所に向かうのに銃に弾を込めていたのでは敵対行為で不敬に当たると幕府側高官(徳川慶喜?)が判断しての所作だ。


銃に弾込めるなとの指示が慶喜自身の判断だったとすれば途中で戦線を離脱して江戸に逃げ帰った気持ちがよくわかる。

『あ~ぁ!俺のせいでしくじった。カッコつけすぎた。まいったなあ』・・と思ったかどうかは分からない。

歴史にIFは禁物だが、最初からまともに両軍が激突していたら幕府側が勝っていた公算が大だ。幕府側が勝利したらその後の歴史はどうなっていたんだろう。勝ち誇って図に乗った薩長母体の軍部がのし上がることもなく日清・日露・太平洋戦争も起きなかったかも知れない。



さて次の目的地である竜安寺に向かおう。桃山御陵駅から京都に出て山陰線で太秦へ、ここから嵐山電鉄に乗り換える。都電風のかわいらしい電車がやってきた。これに乗り竜安寺駅に11時過ぎには着いた。

駅を出て真っ直ぐ北上して突き当たりを勘を頼りに斜め左に歩いたらひょいと竜安寺門前に出た。この間10分くらいか?

拝観料¥500を支払い境内へ。入るとすぐにつくばいがあった。紅葉と融合しいい雰囲気だ。


竜安寺は52年前、高校の修学旅行で訪れたきり、悠久の時が過ぎてしまった。石庭の記憶は白黒写真のままだったが今、目の前の景色は紅葉と石庭が相まって実に優雅です。

見学者も廊下に座り込んでなかなか動こうとしない。さもありなん。

この石庭は1500年頃、特芳禅傑らが作庭したと伝えられるが、彼らは大方、口先で庭師に指示しただけ。作ったのは当時の無名の庭師に違いない。直接作った人は天才だ。
しばし枯山水を見とれたあとは庭園の散策だ。これがまた紅葉に囲まれて誠に美しい。

境内全体が紅葉に包まれここでも庭師の技量の深さが現れている。いやあ、訪ねてみて本当に良かった。

つぎは、隣にある世界遺産・仁和寺に行こう。仁和寺は創建は886年と古く天皇家と縁の深い寺院だそうである。しかし当時の伽藍のほとんどが落雷その他で焼失し現在の建物は江戸時代に再建されたものばかりで歴史的価値は薄い。

しかし、平成大修理完遂記念で観音堂内の壁画や仏像群を特別大公開しているとのHP情報を得た。期間は12月8日までとある。ぎりぎり間に合うようだったので訪ねることにした。


竜安寺から西の方角へ15分ほど歩くと大きな山門前に到着した。

大きいなあ、さすがは天皇家ゆかりの寺院だ、門構えが違う。

拝観料支払うべく受付に行くと拝観料が掲示してあるがどうも要領を得ない。料金の一覧がずらりと並んでいる。

全部回ると¥1800ということか?高っ!!

なにをどう買えばよいのかさっぱり分からない。

山爺、固まってしまいました。

しばらく様子を見ていると多くの入場者が¥1000の観音堂のみ拝観出来るチケットを購入している。

えーい、おいらも観音堂のみにしよう。元々観音堂の特別展が目的なんだからして・・という訳で¥1000支払い入場。



寺院内は紅葉ライトアップと唱っている割には紅葉ポイントが見当たらない。竜安寺ですばらしい紅葉を見たあとのせいか感動は限りなくゼロに近い。

やたら広い境内をいささか拍子抜けしながら散策しやがて観音堂に到着した。
正面に柱が2本建っておりそこから紐がたれている。紐の先はお堂の中へと続いている。ははあ!これが噂に聞く参拝者と観音様を結ぶ紐か。参拝の皆さんが紐を掴んで懸命にお祈りしている。

山爺も真似して紐を掴んでいろいろ祈願する。ご利益があればいいなあ。なにを祈願したかって?内緒・内緒。

特別展開帳の観音堂に入った。折しも若い僧侶が説法の真っ最中でそれを4~50名の入場者がよろしく座って聞き入っている。仕方ないから山爺も隅の椅子に座ってご法話を聞く。


聞きながら正面の仏様を見てびっくり、大方の仏像というものは線香の煙ですすけているものだが、ここではよく彩色された多くの仏様がずらりと並んでいる。これはすごいなあ。(もちろん撮影は厳禁、この画像はHPから流用)

よく見ると真ん中の観音様?は表とつながって天井沿いに伸びている紐を握り締めている。なるほどこれで祈願者とつながるという寸法だ。

この観音堂は普段はご開帳しないのかな。だとしたらラッキーだったなあ。一見の価値アリの¥1000でした。

なにか特した気分になり仁和寺を後にした。まだ午後3時すぎだ。嵐山まで足を伸ばそうかなあ。だが歩き疲れて、もういけません。明日もあるので今日はこれくらいにして大阪に戻ろう。

御室仁和寺駅から雉子の辻・西の院・桂・梅田と乗り継いで大阪、新世界にたどり着きました。

毎年ここには立ち寄るようにしているがコテコテの大阪らしくて実にいい街だねえ。

大阪弁を喋りそうな猫ちゃんがこっちを向いている。
『おっちゃん、どこから来たんや』

さて、ここは串揚げの街だ。街中をうろついていたら珍しくラーメン屋を見つけた。串揚げは昨日食べたばかりだ。今日は勘弁してもらってここで一杯やろう。

【川柳】

・殺戮場 100年経てば 記念館 ・・寺田屋では幾度か凄惨な殺人事件が
・流行っても わがまま常連 店つぶし・・親しき仲にも礼儀有り
19年度関西ぶらり旅・・・(前編) 完

***************************************
①ここに掲載されたルポや川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
②作者以外の方による無断転載は禁止で、行った場合、著作権法の違反となります。

読後の感想をコメントまたはメールしていただけると幸いです