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2019年12月28日土曜日

19年度関西ぶらり旅(後編)

昨日の曇天も回復して今日は良い天気だ。今日の予定は午前中は法隆寺の近隣にある法起寺からスタートし里山を散策しながら以前から行きたかった藤ノ木古墳まで歩こう。

午後は町全体に古い町並みが保存されている橿原市の今井町界隈を散歩しよう。 

寝不足ではあるが8時過ぎには宿を出て天王寺経由で関西本線に乗り法隆寺駅の一つ手前の王寺駅を目指す。

王寺駅9時06分着、北口から9時30分発の法隆寺系統の路線バスに乗り法起寺前で下車する。降りては見たが法起寺への案内板などない何の変哲もない国道前で降ろされて勝手がわからなくなった。
目的地は北にある。とりあえず北に向かって歩き出す。山で鍛えているので磁石を振りながら方位を決めて歩くのはお手の物だが今回はその磁石を持ってくるのを忘れてしまった、加齢とともに最近は企画に対して準備品の取りこぼしが多くなった。なんとも情けない。

途中で第一町人発見。お寺への道順を教わり再び歩き出す。


中宮寺跡の史跡案内板に到着した。ここが飛鳥時代に建てられた中宮寺の本来の場所なんだそうで法隆寺の隣にある今の中宮寺は江戸時代に移築されたものなんだそうです。
そうだったのか中宮寺、ただしご本家はただの土盛りした土台があるだけで実にしょぼい。



里山を歩けども歩けども法起寺らしき姿が見えない。小春日和の暖かさだけ救いだ。

20分も歩いただろうか。漸く右手前方に塔らしきものを認めた。ははあ、あれが法起寺だな。法起寺に近づくとなにやらバス停らしきものがある。郡山から乗ればここに着くようだ。

あらあ、こんな近くにバス停があるのか、今日降りたバス停はいったい何んだったんだ。山爺の下調べ不足でいらぬ労力を消費してしまいました。まあ、中宮寺跡を見たのだから良しとするか。
拝観料¥300(安っ!)を納めて境内へ。境内は狭い。いきなり国宝の三重塔が目の前に現れた。この寺院は638年の創建とされる由緒正しい寺院である。

【山爺の一言メモ】


法起寺

舒明10年(638)創建。聖徳太子ゆかりの岡本宮をその子、山背大兄王が寺にしたとされる。七堂伽藍の大寺院で金堂と塔の位置が法隆寺と逆になった法起寺式と呼ばれる配置をとっていた。室町時代に寺は衰退し創建当時の建物としては、慶雲3年(706)完成の三重塔(国宝)(高さ約24m)のみが残った。現存する三重塔の中ではわが国最古のもの。現在の本堂、鐘桜、金堂などは江戸時代の再建。(世界遺産


以前から見たかった法起寺の三重塔、それが瀟洒な姿で今、目の前にある。今から1300年前に建てられた建造物だと思うと感慨も新ただ。どこか風格があり威厳に満ちている。


小さな池に塔が写っているのがまたいいねえ。法隆寺と同じ時代に創建されたので柱がギリシャ建築のエンタシス様式で膨らんでいるのがお分かりだろうか。(右上画像)

本堂・講堂などは触らないでとの注意書きもないので柱に触れることができる。

有名なお寺ではこんな体験は出来ない。直ぐに係員がすっ飛んでくる。史跡巡りは法起寺のように目立たない場所の方が得られるものが多いみたいだ。今後の旅の参考にしよう。


 聖天堂(左画像)は1863年、講堂(右画像)は1694年の再建だが朽ち果てた創建当時の柱など使ったのだろうか、三重塔と同じような木目で新しさを感じさせない風格を備えておりました。

収蔵庫という建物の中に鎮座まします木造11面観音様もガラス越しに撮影させていただきました。10世紀後半の作だそうです。


庭園内に建物の礎石が無造作に置いてあるのもいいですねえ。歴史上の遺物に遠慮なく近づいて触ることも出来る法起寺でした。こんな無防備な状態の史跡では不心得ものがやってきたらひとたまりもない。願わくば狼藉者の外国人が今後共押しかけないことを念じつつ法起寺を後にしました。



つぎは法輪寺です。のどかな里道を歩くこと20分ほどで右前方に三重塔が見えてきました。
 家並みの向こうに三重塔、よい眺めです。

法起寺方面から歩いてくると法輪寺の裏手の塀に着いてしまいます。塀沿いをぐるりと周り込んで山門前に到着、拝観料¥500を納めて寺院内に入る。



京都・奈良の寺院は都度、拝観料を取られるのが叶わんのう。(;_;)山爺の乏しい財布からお宝がどんどん出て行く。



このお寺も法起寺同様に飛鳥時代の建立だが、度重なる災害を被り建物全部が江戸時代以降に再建されたものばかりです。

三重塔に至っては1944年に落雷により全焼、国宝指定から外されているほどで歴史的価値は薄い。



















しかしながら お堂内には貴重な仏様がおわします。被災の都度、僧侶らが命懸けでお堂から仏様を救い出し現在に至っているのです。仏様は飛鳥時代や平安時代のものが何体もある。仏様には一切手を加えていないようで年輪や木目・風雨にさらされたシミのような模様もそのままで1400年が経過した貫禄が備わっています。その間何度の災難を乗り越えてきたんだろう。良いものを拝観させていただいた。眼福・眼福。

【山爺の一言メモ】

法輪寺
創建には2説がある。
①622年、聖徳太子の病気平癒を祈願し太子の子山背大兄王が建立した
②670年、斑鳩寺焼失後百済開法師・圓明法師・下氷新物らが造寺した。
その後寺は荒廃し江戸時代中期までの史料は乏しく奈良時代の様子はほとんど分からない。1367年、法輪寺炎上の記録が残っている。1645年の台風で金堂・講堂・中門・廻廊・食堂・諸宇らがことごとく倒壊、三重塔だけが2層目以下が残ったと記録にある。1739年、三重塔が修復され翌年金堂・講堂・南大門が再建された。
明治に入り三重塔は国宝に認定されたが1944年7月落雷により全焼、国宝指定から外される。現在のものは昭和50年に再建されたものである。
 
さて次は弥勒菩薩がある中宮寺を訪ねる予定だったが歩き間違えて法隆寺の夢殿がある山門前に出てしまった。中宮寺はここをぐるりと迂回しなければならない。国宝の弥勒菩薩もレプリカが展示してあるということなので今回は見学を取りやめよう。


法隆寺の門前を通過する。法隆寺は悲運に見舞われた聖徳太子一族の怨霊封じの目的で建立された寺であり随所にその痕跡があると以前書いたが(16年関西ぶらり旅(前編)参照)もう一度要約する。


【山爺の一言メモ】・・・長文です。興味ない人は飛ばしてください。

聖徳太子の祟り解説・・・山爺の私見です。多分に妄想を含んでおり学術的裏付け史料はありません。

聖徳太子の生い立ちや実像がさっぱり掴めません。それは架空の人物(厩戸皇子は実在)だからだと思う。お札のモデルから外されたのも実在性が危ぶまれたからかも知れませんね。

ある人物の祟りを恐れた藤原一族がその人物を聖徳太子(おおよそ崇とか徳と名のつく人物は悲運な最後を遂げている・・崇峻・崇徳・安徳)として褒めちぎって崇め、法隆寺を建立し丁重に祀った。

その人物とは蘇我入鹿。入鹿は新羅から来た渡来人の末裔で明日香の里で大陸の文化を積極的に取り入れ善政を行っていた。(今でも地元では蘇我神社を蘇我さんと呼び丁重に祀ってある。全国にある須賀神社は当時の政権から逃れるため名称を蘇我から須賀へと変えたとする説もある)


それを妬んだ冷や飯食いの皇族、中大兄皇子と家臣の中臣鎌足(百済系渡来人?)が権力を取り戻したくて謀反をでっち上げ、なんの罪もない入鹿を殺害した。この2人はのちにそれぞれ天智天皇・藤原氏の祖となるが天智天皇の評判はすこぶる悪い。

滅亡寸前の百済に味方すべく無理やり朝鮮に渡って無謀な戦を仕掛けて大敗(白村江の戦い)唐が攻めて来るのを恐れた天智天皇は民を総動員し、あちこちに砦を築いたり防人(徴兵)制度を設けて攻撃に備えた。これが為、民の生活は疲弊し天智天皇に愛想を尽かす。

彼の死後、彼の弟の大海皇子(後の天武天皇)と天智天皇の息子である大友皇子との間で権力闘争、いわゆる壬申の乱が勃発した。当初、蘇我系統の天武天皇側の勢力は数十人だったにも関わらずあっという間に多くの勢力がついた事がそのことを如実に物語っている。結果は天武天皇の大勝利となったことはご存知のとおり。

天武天皇の死後は鎌足の子供の藤原不比等が暗躍、天武天皇の孫である長屋王や早良親王一族を謀反でっち上げで自害に追い込むなど都合の悪い政敵をありとあらゆる権謀術策で排除、傀儡の聖武天皇を即位させた。(后は不比等の実娘)日本書紀に自分の都合の良い記録を載せるなどして不比等さん絶好調、我が世の春を謳歌する。不比等の八面六臂の大活躍により藤原一族の栄華は今日まで続いている。

好事魔多し、長屋王や早良親王を無実の罪で陥れ一族もろとも抹殺した不比等の子、藤原4兄弟(麻呂・宇合。房前・武智麻呂)が流行病で相次いで死んでしまう。祟じゃあ!と仰天した藤原家、長屋王や早良親王に対しありとあらゆる祈祷や鎮魂供養をするがさっぱり効果がない。はたと困った藤原一族、いったい誰が祟っているんだろうと歴史を遡ったところ藤原家の始祖である鎌足爺さんの悪行にたどり着いたというわけです。


最初は聖徳太子=蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためにその業績を褒めちぎって”よいしょ”し日本書紀に記載、法隆寺を建立し盛大に法要を行い敬った。しかしそれでも身内に不幸が起こり続け一向に祟が収まらな。業を煮やした藤原さん当時の高僧行基に命じて怨霊封じを行ったのである。


夢殿内にある聖徳太子を模したとされる救世観音が良い例だ。頭の後ろにある光背から図太い鉄釘を仏様の頭に打ち込み包帯でぐるぐる巻き、ミイラ状にして1400年間も封印し続けた。明治になって岡倉天心らが学術調査するまで公にならなかった。天心らが救世観音の包帯を剥ごうとすると僧侶たちは祟り(大地震が起きる)を恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げたとか。


被害者も悪人なら祟らないとされる。それは自分側にも悪行の非があると納得するからである。だから織田信長は祟らない。明智光秀謀反と知った時の有名なセリフ『是非に及ばず』は本人、大反省のセリフだ。

お人好しの善人が欺かれ殺された時に人は祟ると考えるのが古来からの日本人の考え方だ。入鹿さんの祟りをよほど恐れたんでしょう、ここ法隆寺には行基によりいろいろなまじないが施されているということです。

16年に法隆寺を訪れたときは南大門が改修中で怨霊封じの山門の様子をこの目で確かめることが出来なかった。

改修も終わった山門を今回改めてこの目で確かめてみると、う~ん。やはり変な作りだ。怨霊が出ていくのを通せんぼしているように見える。

大きな山門の場合は2本柱を通しているのが普通でこのような作りは珍しい。なんか不自然な構えだ。

梅原孟も自身の著書『隠された十字架・法隆寺論』で怨霊が出てくるのを防いでいるように見えると述べている。


五重塔が外からも見えるので宝輪に付けてあるまじない鎌を再確認、雷除けのまじないとされているが刃が下を向いている。雷様は上からやって来るはずだ。であるなら、なぜ刃を上に向けない。怨霊が塔内から出てくるのを防いでいるとしか思えない。

そのほか人々が大勢通る道の真ん中に結界(聖なる場所と俗世界を区分する目印)の囲いがあった。多くの人々が行き交う通路なので誠に邪魔なのであるが何の説明書きもない。なんなんだこの結界は?怪しいゾ。


やはり法隆寺は何かが隠された匂いがぷんぷんするところだ。これから訪れる藤ノ木古墳も怪しさでは同じだ。



藤ノ木古墳は法隆寺の西門を出てすぐのところにあるのだが住宅地で路が入り組んでおり、わからなくなった。躊躇なく道を訪ねて藤ノ木古墳についた。住宅地の中にそれはデーンとありました。


国宝に指定されています。6世紀後半の造築らしいのですが詳しい被葬者や年代などが特定されていません。同じ棺に男ふたりが埋葬されています。未盗掘なので副葬品が多数出土しているのですが特定に至っていません。

ガラス越しに古墳内を撮影しましたがうまく撮れませんでした。

【山爺の一言メモ】
藤ノ木古墳 金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などが多数出土し現在は国宝に指定されている。
奈良県斑鳩町にある古墳。現在は所在地の字名をとって「藤ノ木古墳」と呼ばれている。古文書類では「ミササキ」あるいは「陵山」と呼ばれており、藤ノ木古墳が天皇あるいは皇族クラスの人物を埋葬した陵墓であると見なされてるが特定には至っていない。
研究者のあいだでは石室内に置かれていた石棺のなかに眠っている2人の被葬者として、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)や宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)、崇峻天皇といった人物が推定されてる。
2人同時に埋葬とは尋常な死を迎えていないので人物が特定できないよう政敵が始末したのかもしれません。

とにかくも6世紀あたりと言えば権力闘争がすさまじく肉親同士と言えど、否、肉親同士だからこそ権力を巡って血で血を洗う凄惨な事件が多く起きています。加害者側は相手を殺しておいて祟りを恐れて丁重に埋葬する。ここ藤ノ木古墳もその類だったに違いありません。

また当時は名前が知れるということは呪詛のターゲットとなるので何かと避ける傾向にあったようです。清少納言や紫式部が良い例で、この2人はせいちゃんやむらさきちゃんといった名前ではなく官職名で本名は不詳です。念のため。

藤ノ木古墳から5分くらいのところに斑鳩文化財センターというところが有り、副葬品のレプリカを展示してあります。

そこに行ってみよう。センターに入ると(入場無料)係員から名簿に名前住所を書けと言われました。

え、厳しいなあと思いながら名簿を覗くと今日ここでセミナーがあるようで、そのメンバー票です。参加者と勘違いされてしまったようなので、『あのお、私、埼玉から来た単なる観光者なので・・・』と、ここまで言うと『失礼しました。そのまま入場してください』・・お互い苦笑い。

レプリカなので館内の撮影は自由です。

入るとまず古墳内の通路を模したトンネルをくぐります。原寸大で再現されています。大人1人がゆったりと通れる大きさです。

きらびやかな装飾が施された馬具や靴・剣・日常品などが多数展示してあり丁重に埋葬されたことが判ります。埋葬された2名が当時 かなりの権力を持っていたことがこれで判ります。

こんなに副葬品があっても被葬者が特定できない。おかしいではありませんか。埋葬した側(加害者)が被害者たちの名前が分からなければ黄泉の国に行っても混乱して祟ることはないだろうと、身元の分からないように始末したに違いありません。

現代の殺人事件でも山中に遺棄するとき身元の分かるものを隠す、この行為になんか似てます。よほど祟りを恐れたんでしょうね。

しばし古代のロマンに浸りながら展示物を見続けます。

展示室の外に出て現実に戻りました。係員にお礼を言い法隆寺前にあるバス停に戻ります。12時40分のバスで法隆寺駅へ。


さて次は古い町並みが保存されている橿原市の今井町見学だ。

法隆寺駅からJR奈良駅に出て桜井線に乗り換え畝傍(うねび)に向かう。JR畝傍駅に14時15分に到着した。小さな駅で係員が見当たらない。無人駅?である。

駅前の道を左にとってしばらく歩くと踏切を渡ります。右手に近鉄橿原線の八木西口駅が見える。帰りはこの駅から大阪に戻る予定だ。

道を大きく左に曲がりJR線の線路をくぐると今井町の中心部だ。



おお、なんか雰囲気の良い風情が漂っているところに出ました。ここの町並みはどこかの観光地と違い保存対象の町並みが線ではなく面なのでのんびり見たら1日かかってしまいます。あらかじめ用意しておいた地図を見ながら見学ルートを確認します。


地図を見てわかるように町の周囲が掘割で囲まれており小さいながら堺町と同様に城郭都市を形作っている。

本願寺系統の一向宗のお寺があったことで織田信長に抵抗し破れて降伏。町滅亡の危機に直面したが時の茶人今井宗久の取りなしで事なきを得たということです。

宗久の功績を後に伝えるため今井町とよんだと記念館の係員から聞いたが(聞き違いかな?)出来すぎたお話で、事実は1533年に本願寺一家衆の今井兵部豊寿が正念寺を開いたのがルーツのようです。

今井宗久ら堺町の有力者が信長にとりなしたことは事実です。

よく保存された町並みがたくさんあり実に楽しい。有料の記念館もありますが大半がボランティアで無料なのも嬉しい。


積算電力計や消火器など無粋な現代物品はすべて格子で隠されている。じつに丁寧な管理状況です。



消防法では消火器は目立つように配備しなければならないのだけれど、こんな配備で許可するとは今井町の消防署は粋だねえ。

どこかの観光地も銭儲けばっかり考えないで今少しこの町を見習ってもらいたいものだ


郵便局もこの通り古民家風に化けています。この町のすごいところは喫茶店や居酒屋はあるもののお土産屋といった観光地につきもの出店がほとんどないということです。

町衆の誇りのようなものが随所に感じられます。

このお寺が信長に逆らった本願寺系統の正念寺です。(右画像)

気短な信長さんよく我慢したなあ。信長も金には弱い。豪商の堺衆には一目置かざるをえなかったんだろうなあ。

大体に信長さんの短気は計算ずくのことが多い。そうでなければあそこまでのし上がれなかったはずだ。



今井町は商人の町である。建前上の身分が最下位の商人風情が高いところから人、特に武士階級を見下ろすのは不敬に当たるという考えから表向きは1階建て、中に入ると2階建てという構えの家が多い。右画像はその2階です。
今も特定地区では新築にも1階建ての規制が掛かっているそうです。へ~!そこまでやるか。今井町、偉い!!。
記念館のなかの展示物も無造作に置いてあり古い書付が引き出しの中に無造作に放り込んである。(下左画像)
案内人(当主?)は、ほかの接客でそばにいない。山爺が失敬しようとすれば出来てしまう。欲しけりゃあげるよ、と言ったお大尽気質そのままです。

貧乏人根性丸出しの山爺には無防備な展示状態が心配で仕方がありません。

分銅計りだって自由に触わることができる、そこは紳士協定、触れずに見学をしました。


左画像のような店構えの店が数軒あります。居酒屋かなあ。こんな店構えなら一杯やりたい。三丁目の夕日に出てきそうな家もありました。こりゃ廃屋かな?

中山道の馬込や妻籠、奈良井などの古い町並みを訪れたが、すべて街道沿いだけの線の保存でしかない。だからすぐに見終わっちまう。
福島、会津街道の大内宿に至っては全棟とも民宿やお土産屋ばかり。日中は商売熱心なお店が目いっぱいお土産品を店先に広げて見るべくもない。ここ今井町はどうだ。町並みが線ではなく面で存在している。見て回るのが大変だ。1日宿泊してゆっくりみたいほどの保存状態である。しかも商売っけなしだから言うことなし。

まだまだ見たかったが夕暮れも迫り写真映えも難しくなってきたので今井町を後にする。

前述の八木西口駅から近鉄線で大阪に戻る事にする。大和八木駅経由で大阪の鶴橋駅まで、そこからJR環状線でまた天満駅で降りて一昨日呑んだ串揚げ屋さんに顔をだす。

幸いあの会いたくな爺様はいなかった。
『すいません。儲からないセットメニューの注文で』と言いながら例の¥1000セットを注文する。20分も経っただろうか、件の、”人の話は何でも反対言動親爺”が入ってきた。

やはりこの親爺は毎日のようにこの店に訪れるようだ。話しかけられたら大変だからよそを向いて無視する。店にとっては大事なお客だろうけれど、この類の人は苦手だ。一人で店に来る常連にこういう手合いが沢山いるんだよなあ。つまり話がしたくて店にやって来て、人の話に割り込んで自分の話題に変えちゃう人。話し上手は聞き上手という格言知らんのかねえ。

そのうちマスターが山爺に気がついた。『ときどきお見えになりますよね、今年の夏頃?』『去年の今頃きました』『ああ、そうでしたか』・・・明日は帰るだけ、3杯目を注文し少し長居をする。件の親爺は話しかけたくて、ちらちら目線を送るが無視。
来年、また来ますと約束して店を出た。ほろ酔いで天満の呑み屋界隈をしばし徘徊する。う~んよく見ると良さそうなお店が沢山あるなあ。気分は吉田類の酒場放浪記だ。
さて、今日は移動日。いつもの青春特急12号を予約してある。出発は11時10分なのでゆっくり宿を出る。人懐っこい黒猫ちゃんが『また来てんか』とお見送り。

環状線で大阪駅に向かう。構内が巨大な大阪駅構内、いつも迷子になり高速バスターミナルへ出るのに往生するのだが、今回は素直に案内板を頼りに歩いたので、すんなりバスターミナルに出ることが出来た。コンビニで八ツ橋のお土産と朝食のサンドイッチ+おにぎりを買うのもすっかりルーチンとなった。待合室で朝食兼昼食をとるのも毎度のことである。

腹ごしらえも済んだので 乗車バスの確認、ありました。5番線から発車です。今回は乗り降りが楽な1階席を選択しました。座席数が少ないのでなかなか予約できませんでしたが今回は早めに予約したので1階席を獲得出来ました。


席はやはり窓際です。乗り込むと通路側には若い女子が既に座っています。

バスは定刻に動き出しました。帰りは京都に寄らない直行便なので約8時間の乗車になります。高速バスの前後の座席幅は比較的広く足は前方に伸ばせるのですが、やはり窓際はちょっと窮屈だし、隣が若い女性で落ち着かない。もともと山爺は若い女性は苦手なのです。いや本当ですよ。( ^ω^)


後ろの席はトイレの前なので座席としては格が落ちる。非常口にもなってるので予備席的要素が強いようで二つとも空いています。京都にも立ち寄らないのでこのあと誰も乗り込むこともないだろう。次の甲南SAに着いたら移動しよう。(席が空いていれば自由に移動しても乗務員から苦情は来ません)
忍者の里、甲南SAに12時50到着したので隣席の女性に後ろの席に移動する旨、告げて引越しをする。女性は無反応、なんだかなあ。

窓に非常口マークが張り付いているのがちょっと無粋だがこれで2席独占、隣に荷物も置けてラッキーでした。

甲南SAはお伊勢さまが近いので名物赤福を販売しています。これは我が家の大好物、外す訳には行きません。お店に入ると大サイズの赤福があと3つしかないではありませんか。急ぎ購入です。
一昨年だったかな?大サイズが売り切れで家族からひんしゅくものだった。相変わらず大人気、作ればたちまち売れる。こういう商品を作れるメーカーは天下泰平だね。 


寝不足と連日の遠足疲れのところにゆったり座席の確保、車中ではほぼ爆睡状態です。
走行中の車中での昼寝の気持ち良い事といったらありませんなあ。時々起きてはお菓子をつまむ。こんなぐうたらを決め込みながらバスは一路東京へ。
こんな状態ですから8時間の乗車もあっという間、渋滞に巻き込まれることもなく定刻の数分過ぎに霞ヶ関駅に到着し無事に家路につくことが出来ました。


【川柳】
・伝統を 碧眼に頼る 情けなさ・・最近青い目の玄人が伝統芸を継いでます。
・ここですと 碧眼に日本美 教えられ・・外人は観光スポットを見つけるのが上手い。
・被害者も 千年経てば 神となり・・・日本三大怨霊:崇徳天皇・平将門・菅原道真
・赤福の 使い回しは 過去の闇・・・そんな事件もあったが飛ぶように売れる。




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