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2019年1月22日火曜日

19年度新春富士塚参りと上野科学博物館

去年の正月に訪れた品川の富士塚が面白かったので今年もどこかの富士塚に詣でようと一念発起、都内の富士塚を調べてみると東京は千駄ヶ谷にある富士塚が1789年の造営で都内でも最古級の遺跡らしい。今年はそこを訪ねてみよう。




JR中央線で千駄ヶ谷駅下車、改札を出て左に東京都体育館を見ながら道を南下すると3~4分で体育館敷地の縁に、そこから右斜めに道を進むと程なく神社の大鳥居が見えます。富士塚のある鳩森八幡神宮に到着です。
神社創建:平安時代初頭の860(貞観2)年、慈覚大師(円仁)
ご祭神:応神天皇・神功皇后
参拝 :自由
富士塚によっては富士山の山開きの期間しか開放しないところもあるので訪れる場合は下調べが必要です。
住所 :渋谷区千駄ヶ谷1-1-24 JR中央線千駄ヶ谷駅 徒歩5分
公式サイト:www.hatonomori-shrine.or.jp/

社殿を参拝していつもの通り家内安全・実家の安泰を祈願してから富士登山を試みる。

のっけから急登だ、山の中腹以上は実際の富士山から溶岩を運んで構築したそうである。トラックのない時代によく運んだものだ。船便かな?


中腹にお宮があったのでお賽銭をあげて今年の登山の安全を祈願した。道はさらに上に延びている。
山頂に着きました。溶岩に囲まれて小さな祠があります。
山頂からの眺めです。先ほど参拝した本殿がみえます。

5mくらい?結構、高さがあります。江戸時代はさぞや賑わったんでしょうね。



 下山は裏道から降りるとしよう。裏からみるとなかなかの迫力です。

急坂なので注意して降りなければいけません。こんなところでもつまずいて転落でもしたらヘタ打つと大怪我、最悪、死んじまいます。
”初老の男性、富士塚で転落死”なんて三面記事に載るのだけは御免こうむる。

下まで無事に降りてきました。再度本殿に行き、交通安全の御札を頂いた。(¥500也)今年はこれをザックに忍ばせて登山をしよう。本邦最強の山の女神、木花開耶姫と軍神、神功皇后が守ってくれるのだ。こんな心強いことはない。

しかし山爺も気が弱くなったものだ。若い時なんか吉川英治の宮本武蔵ではないが”神仏は敬う、されど頼らず”で頭の隅にしかなかったけれど今は神様・仏様が頭の正面近くまで移動して来ている。

 この神社にはなぜか将棋堂というのが建っていました。

(左画像)碑文を読むと昭和61年に将棋の大山名人が将棋の大駒を奉納したのが始まりらしいです。

 なんで山形の大駒がこんなところに?と疑問に思っていましたが、家に帰ってから分かりました。千駄ヶ谷には将棋会館があるんですね。納得です。

絵馬が掲げてあり、可愛らしい女文字で”将棋が強くなって女流棋士になりたい”と書いてあった。日付は2日前だ。おやあ、書いたばかりだね。頑張れや!、大丈夫、信心深い君ならきっとなれるさ。

さて、富士登山も無事に終えたので、上野にある国立科学博物館に足を延そう。今日のもうひとつの楽しみである企画展の【砂丘に眠る弥生人】を見るためである。山口県にある土井ヶ浜遺跡で1953年の第一次発掘調査から1957年第5次調査の様子を中心にまとめたものを公開しているみたいです。

展示のおもだつたものは発掘された人骨ですが、展示の目玉は発掘された人骨の異様なありさまです。

縄文時代の遺跡から出土した人骨には皆無だった矢じりや槍などの受傷跡が弥生時代になると沢山、出てくるんだそうですが、この状態を展示してあるのです。(一部レプリカですが)

ちなみにこの企画展は常設館扱いなので入場料は¥620です。ですがぁ~山爺は65歳より上なので無料で入れます。(身分証明書提示が必要)科学博物館は高校生以下と65歳以上は無料の特典があります。なんたって只より安いものはありません。ありがたいことです。

一方、近くに有る東京国立博物館はこの特典がありません。山爺はどちらかというと骨董品の多くを展示してある東京国立博物館の方が好みなのですが、どうなっているんだ東京都さん!!

入場チケット購入窓口は家族連れや外国人で雑踏している。その群れを横目に免許証を入場ゲートで頑張っている警備員に見せてすんなり入場。VIP待遇のようで、なんか気分が良い。

企画展の入口にいた係員とおぼしきお嬢様に『撮影出来ますか?』と聞くと撮影禁止と書いてあるもの以外はストロボ使わなければOKとのありがたいお言葉を頂いた。

展示会場は1フロアーでUの字に1周すれば見終わるほどのスペースでしかないが、あるある!人骨の群れが沢山展示してある。(大半がレプリカであるがどれが本物でどれが偽物か見分けが付かないほど精巧な出来栄えだ。子供連れの家族も多く見学しており子供たちが『骸骨だ、骸骨だ』とはしゃいでうるさい。


 左画像は南九州系の弥生人の復元顔だそうです。いるなあ。こんな顔立ちの人が、今も。

右画像は関東で出土した顔の復元です。いるいる、どこかの親戚のおばちゃん顔だわい。やはり、日本人は色々な人種が混ざった混血なんだなあ。

 背中に矢じりが刺さった問題の人骨です。

お尻に青銅製の槍が刺さったものも展示してありました。何れも背後から襲撃された模様です。

 背後から攻撃するとはなんて卑怯な奴らだ。逃げ惑う人々を片っ端から殺戮した場面が想像できます。

額に穴の空いた頭蓋骨も展示してあり実に痛々しい。


これを見た子供たちも、これにはさすがに『うわあ!』と悲鳴をあげていました。


弥生時代後期になると各所の遺跡から致命傷を負った人骨が沢山出土するそうです。

弥生時代は大陸から稲作が伝わり安定した食生活が送れるようになる訳ですがその富を巡って同時に殺人と戦争も始まった時代でもあったわけです。

人間とはなんと強欲で悲しい性であることか、合掌!。

【山爺の独り言】

弥生時代になると大陸より稲作が伝わり日本に定着します。農耕が盛んになるとどこの地域でも戦乱が起きるんだそうです。エジプト・メソポタミア・インダス・黄河文明これら全てが農耕が盛んになると同時に血なまぐさい戦乱が起きています。

一見すると狩猟に明け暮れた縄文時代の方が争いが多いような気がしますが、さにあらず。縄文時代は家族単位の行動が主流で、蓄財も不可能だから近隣同士で貧富の差は起きなかったのでお隣を襲っても一文にもならない。って当時は一文銭ないか。(笑)9千年以上も戦乱もなく平和そのものの暮らしが続いていました。

青森の三内丸山遺跡の集落では同じ場所で2千年近くの長きに渡り平和に暮らしていたことがわかっています。しかも防衛用の柵や空堀も作らず。こんなに長い間平和な時代が続いた例はこれ以降、世界のどこにも存在していません。(山爺の私見)

それに引き換え九州の吉野ケ里遺跡はどうだろう、物見櫓や柵、周囲を空堀で囲んで明らかに襲撃を意識した物々しい作りです。隣同士で戦乱に明け暮れていた様子が伺えます。

以前、別の博物館で縄文時代のぐい呑と徳利を見たことがある。縄文当時すでにお酒もあり晩酌に使っていた形跡があります。山爺としては酒があるなら文句ない。競争も服従も争いもない、そんな平和な時代だった縄文時代なら暮らしてみたいものです。

農耕をするということは食料が蓄えられるので食生活が安定し良い面もあるのですが、
①運営に人手が沢山必要
②水の確保が必須
③灌漑その他の農耕技術が必要になるので優れたリーダーが必然的に現れる
④群れに従わないと生きて行けない・・序列と掟が出来る
⑤天候不順時に飢饉が起きる
そして
⑥飢饉や日照り時、近隣同士で食料や水の奪い合い

こうして必ず近隣の集落と争いの種が沢山、派生します。そして、特に飢饉時にリーダーの判断で他の集落を襲ったりにするのです。

魏志倭人伝に記されている倭国大乱(紀元146年~189年)。この頃は気象学者によると天候不順の年が長い間続いていたとか。こうなると生き残るためには手段を選ばない。強いもの勝ちで特に優秀な青銅製武器を保有していた渡来系の集団が次々と近隣の集落を攻め落としクニから國へと変わっていきます。

事ほど左様に富の差が広がると争いの種になります。習近平さん気ぃつけなはれや。また阿部さんも外国人の導入緩和なんか安易に考えて今まで以上に日本の若者の働き口を締め出して食い詰めさせてしまうと、終いにえらいことになりまっせ。

【川柳】


・欲深が 倭国の平和 かき乱し・・お釈迦様も富の独占を戒めています。

・為政者よ 縄文人を 手本とせ・・最近の近隣国(中国・韓国)による厚顔無恥の行為にはうんざりです。

19年度新春富士塚参りと上野科学博物館の項・・・(完)


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