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2025年5月6日火曜日

#三重の関宿を訪ねて(高速バスぶらり旅)

3月に入って今年も春季の青春18切符(3月1日~4月10日)の発売時期がやって来た。

青春18切符とはJRが季節限定で発行する切符で3日間¥10000、5日間¥12050で期間内に各駅停車限定ながらどこまでも乗れる。金はないけど暇がたんとある山爺のような貧民のためにあるような、何ともありがたいサービスだ。去年の春もこれを利用して岡崎城や八丁味噌の蔵元、名古屋有松地区の宿場町を楽しく散策した。

今年はどこに行こうか・・・Googlemapで古い町並みや天守閣と打ち込んで歴史上に関わる史跡の多い中部・関西周辺を連日のように検索しまくっていると、お城では豊田市にある吉田城(画像)名古屋にある清洲城、伊賀上野にある伊賀上野城などがヒットした。

古い町並み候補では東海道の宿場町だった三重にある関宿(画像)がヒットした。

関宿は山爺がかねてから訪れたい地域のひとつで東海道53次のなかで最も美しい町並みが保存されているとされている地域だ。

名古屋市内を拠点に豊田市にある吉田城と関宿をセットでぶらり旅したいなあ。


ちなみに東海道五十三次とはお江戸日本橋を起点に品川→川崎→神奈川宿と続き、終点は京都三条大橋までの宿場町を指す。そのルーツは古く、奈良時代にはその原型ができているが(伊勢の宿場から常陸国の宿場まで55が存在している)本格的に整備されたのは江戸時代の初期、参勤交代制度の導入が大きく影響している。関宿は江戸から数えて47番目の宿場だ。


関宿の歴史は古く軍事上の理由から670年頃に鈴鹿の関・愛発の関(越前)不破の関(美濃)として整備された地域だ。・・・日本三関と呼ぶそうで、これが関宿の名前のルーツでもある。

3月上旬はまだまだ寒くて散策には適しないので3月20日以降を狙い目に計画を練っていたが一向に暖かくならない。桜が咲く頃になると温暖と寒冷の前線が入り混じり連日雨模様の天候不順が続き、様子見していたらあれよあれよという間に4月になってしまった。

18切符は利用出来そうにないなあ。利用交通機関の見直し・・といっても貧民爺には飛行機・新幹線の利用は御法度というより端から眼中にない。ここは高速バスに頼ろう。

2週間天気予報によれば4月20日前後が天候が安定していそうなのでその前後の東京発名古屋行の高速バス便の料金を検索すると名古屋直通便で土曜日発が¥4000・月曜戻り¥3100と格安便があるではないか。

さらに安い便もあるがそれは路線便だ。路線便は静岡あたりから乗客の乗り降りのために高速出たり入ったりを繰り返すのが難点だ。往路便が少々割高(といっても¥300)だが奮発し直行便にしよう。復路便は幸い格安直行便がある。

早速予約して乗車券を確保した。バス便は列車と違い、一度乗ったら寝ていても目的地まで運んでくれるから乗り過ごす心配がない。楽ちんこの上ない移動手段だ。名古屋の途中にある豊田市の吉田城はこの時点で訪問取りやめ。往路便が14時45分名古屋着なので名古屋市から電車で10分ほどの近郊にある清洲城を訪ねてみよう。あの織田信長亡き後の跡目争いの清洲会議で有名なお城なのでこれも楽しみだ。

4月19日(土)早朝に家を出て8時30分に東京駅到着。バスの発車は9時30分なのにずいぶん余裕の到着だがこれには訳があります。

この日は山手線の外回りが工事のため上野~東京~大崎が12時まで全面ストップで湘南上野線だけが動くという異常事態日なのです。なにがあるかわからないので早めに・・”地下鉄使えば良いではないか”ですって。

どうしても東京駅構内に立ち寄らなければならない用事があるんです。・・食いたい駅弁がある。(なんとも幼稚な理由ですこと)

結果的には湘南線がいつもより増便していたので予定より早く着きました。人混みをかき分け知る人ぞ知る弁当屋の祭りへ。

目指す柿の葉ずしを・・・・あった、あった、いっぱいあるゾ。今回も無事購入です。6個入り¥1290也。旨いんだなあこれが・・ (^^♪

さてバスに乗車する前に生理現象を済ませておこう。高速バス内にトイレがあると言っても衆人注目の中で長時間のおこもりははばかられる(この親爺大だなあ?と思われるのが嫌)

東京駅の地下トイレの個室に入ってだめ押し(出し?)しておこう。入って見たら驚いた。なんとまあ豪華なトイレだこと。液晶テレビまで付いてるゾ。これで無料だから恐れ入ります。

外国人が日本に来て驚く上位に公共トイレが無料で清潔、豪華・便利さが挙げられていますがこれが知れたらまたYouTubeなどに投稿されて物議をかもしそうだ。

いくらなんでもこれはやりすぎだろう。資源の無駄遣いと非難されても仕方がない。

さて、頃合もよし、良い時間になったので地上に出て八重洲口の高速バス乗り場へ・・出発便の確認。あるある、9:30東京発名古屋行直行便。
5分前に手持ちの乗車券?のQRコードを読み取られて無事乗車。最近の乗車券は薄っぺらい紙片にモノクロの四角い模様があるだけ、権威というか貫禄がまるでない。以前の切符はコンビニで支払いを済ませるとカラー刷りの綺麗な切符がもらえたのですが・・・

なんとも頼りない紙片なので読み取り機で無事読み終わるまでは油断がならない・・と思うのは時代遅れの山爺だけか・・ (^^♪ 

今はさらに進んで携帯に自分で乗車データーを読み取り係員に提示する傾向にある。現に今日の乗車時に携帯見せてチェックを受けている人もいる。紙 に書いた情報で長いあいだ生きながらえて来た山爺は馴染めないなあ。

指定の通路席(足が伸ばせるので意識的に通路側予約)を確認し荷物を網棚へ載せて着席、まずはやれやれだ。

土曜日なので座席はほぼ満席です。山爺の隣席は当初空いていたのでラッキーと思っていたが時間間際にうら若いお嬢様が着席した。いいねえ。一期一会ここにあり。定刻通りバスが発車した。

次の休憩は足柄SA、約2時間後だ。足柄SAは晴れていれば富士山が間近に見える。それもまた楽しみ。それまで一眠り。

直行バスは途中乗降する客がいないのでセキリュティは路線便より◎。
座席はリクライニングシートで座り心地も◎、床面はフローリングと靴を脱ぐことも出来るので具合が良い。で言うことなし。


快適なバス旅だが土曜日で好天に恵まれたせいか道路上は車列が多めで時々のろのろ走行しているのが気になる。足柄SAに30分ほど遅れて到着。ここで20分の休憩。

天気は良いのだが残念ながら富士山方面は雲が掛かっており傍観出来ませんでした。


晴れていればこんなふうに木花開耶姫(富士山の主祭神)が望めたんですがねえ。





用達を済ませてSA内をしばしウロウロして茶菓子を1個だけ購入。

いい大人がこんなことを臆面もなく出来るのもバス旅の楽しみだ。


再びバスは走り出す。12時過ぎたのでお楽しみの駅弁タイム。

隣のお嬢さんも先ほどなにかぱくついていたので山爺も遠慮なく駅弁を広げる。

柿の葉に包まれた6個の寿司。中身はたい・たい・さけ・さけ・さば・さば・・酢が効いていて旨いんだなあこれが。日本酒があれば最高なんだが、公共の車中なればこれだけはご法度だな。

あっという間に6個平らげて後片付け。次は読書タイム。

相変わらずバスは時々のろのろ運転を繰り返す。
次の休憩SA(藤枝SA)に着きました・・ちいさなSAです。時間が遅れているのでいつもと違うSAに停車したようです。

結局、定刻より50分遅れの15時35分に名古屋駅バスターミナルに到着しました。高速バスは快適なんだけれども当たり前のように到着遅延するのが唯一の欠点なんですよねえ。

今から清洲城、どうしようかなあ。15時50分の電車があるが、お城の閉館時間は16時30分だからタクシー利用すればなんとかなるかな。

15時57分清洲駅到着。あれえ、小さな駅だなあ。タクシーがいない。

下調べによれば駅から清洲城まで徒歩17分くらい。16時30分前には着くから何とか頼み込めば入れるのでは・・と歩き出した。

線路沿いを図の赤線通りに歩けば無事到着出来たのだが途中が道路工事中で散水車が水撒いているのに出くわした。

やむなく迂回を強いられた。これが災いし徐々に緑線のようなあらぬ方向へ・・行けども行けども清洲城が見えない。

散歩中のご婦人に『清洲城はどの辺ですか?』『この川沿いをしばらくゆくと・・・赤い橋が』『どーもすいません』やっちまいました。やはり初めてのところは磁石で方角を確認しながら進まなければいけないなあ、と反省する山爺であります。

清洲城からどんどん離れた道を進んでいたようです。時計を見ると16時20分を回った。16時30分までには着きそうもない

赤い橋に到着した時点で16時30分を過ぎてしまい万事休す。お城のてっぺんからの眺望や展示しているお宝を見ることが出来なくなりました。♫ちゃんちゃん。

仕方ないから外回りの写真撮影で我慢・我慢。小ぶりではありますがよく整った美しいお城です。

お城の券売所はカーテンが降りており人影はなし。よく見ると入場受付は16時までと書いてある。なあんだ端から間に合わなかったんだ。

【山爺の一言メモ】

清洲城は1405年遠江・越前守護の管領斯波義重が築城。1555年に織田信長が入城し大改築、10年間住んだ。この間、ここから桶狭間の合戦に出撃し今川義元を討ち取った。

1582年信長が本能寺で没すると羽柴秀吉・柴田勝家・信長の子等による跡目相続の打ち合わせの会場、いわゆる清洲会議で有名な城である。

関ヶ原の合戦後は徳川勢力の居城となり変遷。1613年名古屋城の完成とともに廃城となった。近世の開発により城址のほとんどが消失し長い間石垣の一部(画像)だけが残存し公園と化してしまっていた。残存石垣の一部は形状から野面積みのようです。

1989年清洲町100周年行事で旧跡地の近隣の広場を利用して鉄筋コンクリートにより模擬天守として再建された。

つまり今お城がたっている場所は過去の清洲城のあつた場所ではないのです。

清洲城は絵図面等の資料が乏しかったので多分に想像中心で再建したと観光案内に書いてあった。なあんだ忠実な再建じゃあないんだ、それにしても”多分に想像中心”で建ててしまうとは随分と乱暴な話ですなあ。そういえば石垣の積み方が立派すぎる。この積み方は打ち込み接ぎ(はぎ)で江戸時代以降の施工方法だ。

清洲城は戦国時の築城だからごろごろ石を積み上げる野面積みだったんじゃあないのかな?。

去年の12月に見た遠州・掛川城の再建姿勢(木造による史実通りの再建)とずいぶん違うなあ。清洲城を再建した当時は清洲町(現清洲市)だから予算が乏しかったんだろうなあ・・と勝手に想像する山爺でありました。

でも、お城を持っている市なんてそうざらにある訳じゃあない。清洲市さんが羨ましいです。頑張ってますねえ。

さて、明日は関宿、長丁場の散策が予想される。名古屋に戻りサウナで汗を流してちょいと一杯やって、疲れをとるとするか。


翌朝、名古屋駅から関西本線で亀山市に向かう。名古屋から亀山までがJR東海の経営で亀山からひと駅の関はJR西日本の管轄です。












亀山までは画像のようないわゆる数量編成の列車で移動、亀山駅に11時7分に到着。

関へはここからひと駅ですが経営母体が違うので?列車が代わる乗継になります。



11時14分の電車を待っているとやってきたのはなんと1両編成(1両で編成と言うのか?)の車両がやってくるではありませんか。天下の関西本線がたった1両!魂消たなあ。

関西は私鉄が幅利かせて経営が苦しいのか関西人は元来渋ちんだから(失礼しました)儲からない路線には容赦なく合理化するのか、どうなんだろう。

乗り込むと路線バスと同じワンマン運転だ。乗車しようとICカードPASMOを出すと使えないとの回答。

え~っ使えないのお!!名古屋や大阪の私鉄でさえ使えたPASMOが使えないとは、またまた魂消た。

運転手さんに名古屋から関まで乗車する旨を告げて現金精算してもらいお手間をかけてしまいました。その間後ろに行列ができてしまい迷惑を。・・何だかなあ。

関駅に11時20分到着、わあ、小さな駅だなあ。これではコインロッカーは望めそうにないなあ・・半ば諦めて駅舎に入るとなんとコインロッカーが大小8個あるではないか。

8個とも利用者なしでしかも¥300と安い。早速カメラ取り出し余計な荷物はコインロッカーへ。これでずいぶん行動が楽になりました。
駅前に出てみると思ったより閑散として駅前商店といった物はは皆無で歩道橋がひとつあるだけ。観光客の姿はおろか人気がない。ここが53次で有名な関宿?およそ観光地らしくないが山爺としてはこういう風情は大歓迎。

下調べでは駅前の道を北に真っ直ぐに5分も歩くと東西に道が別れ旧東海道が現れるのだが・・歩道橋の先にある細い道がそうなのかなあ、とちょい不安になる。

あらかじめ調べておいた関宿の案内HPの通り5分も歩くと目の前に時代がかった百五銀行がいきなりあらわれた。


左右に目をやると江戸時代にタイムスリップしたような光景が飛び込んできた。うわあ、なんだこりゃ、いいねえ。日曜日なのに人通りはまばら、撮影にもってこいではないか。

まずは右に折れて木崎の町並みと呼ばれている方向へ
瀬戸物屋さんかな。現役で商売しています。

お昼時なのに人の通りがありません。時折、窮屈そうに乗用車が通っていくだけです。いいね、いいね、江戸時代の幅のまんまの通りなんだろうなあ、今にも弥次さん・喜多さんが向こうからやって来そうな雰囲気です。来てよかったと山爺大感激。

現役商売の油屋さんでしょうか。店構えが江戸時代そのもの。郵便受けまで古めかしいものが設置してある。町ぐるみ取り組んでいる姿勢の高さが伺えますねえ。箱に『書状集箱』と書いてある。粋な名前です。
常夜灯がありその奥に一里塚が保存されていました。

ここが関宿東の辻、江戸方面からの旅人が最初に目にする光景だったのかな。宿屋の客引きがわんさといたんだろうなあ。
飯盛女が(作者注:飯盛女=私娼)ちょいとお兄さん。サービスするから〇〇屋にお寄りなさいなとかなんとか・・鼻の下のばして引きずり込まれてしまうのは古今東西、今も昔も同んなじ・・わはは。

八百屋兼魚屋さん。ミニスーパーマーケットあるいはコンビニと言ったお店かな。塩が専売のころの名残『塩』の看板が粋ですねえ。

塩が専売制になったのは明治37年(1904年)日露戦争の戦費調達が目的で始まった。戦費調達が目的なんだから終戦になったらすぐに止めそうなもんだけれどその後、延々と続いて廃止になったのはなんと平成9年(1997年)。
ガソリン税とおんなじで臨時と称して始めても美味しい税収は絶対に止めようとしない。役人どものずる賢さは今も昔も変わらない。

山車会館があったので入ってみました。山車会館・まちなみ資料館・旅籠玉屋資料館の3箇所まとめて¥500は安い。

関宿には昔は14台山車があり毎年賑わったが今は4台が残り祭りを続けているとか。古めかしい神輿が飾ってありました。昔は今のうなキンキラリンの飾り金具はなかったのかな?渋い作りです。

関の山車(せきのやま)と記した手ぬぐいが陳列してありなにやら解説が・・。

よく言う『頑張ってもこれが関の山』といった言い回し『関の山』の語源がこの山車なんだそうです。知らなかったなあ。

関の山車(画像)は豪華絢爛でこれ以上のものはない、転じて一生懸命にやってもこれが手一杯と言った意味なのですが、若い頃より語源も知らずに『そのへんが関の山だよ』と曰わつていた山爺、恥じ入るばかりです。

旅をすると思わぬ所で賢くなりますわ。

再び駅から来た道まで戻りました。

更に西に向かって中町と呼ばれる町並みの方面へ進んで行くと町並みの向こうに大きな山が見えます。鈴鹿山脈です。


関宿をすぎると鈴鹿山脈の山路に入り鈴鹿峠(357m)を越えるという難所が待っているので江戸方面からやって来た旅人は大方この宿に泊まったようです。(本音は飯盛女が目当てで投宿?:生真面目な人はまだ行けるよと、6.6km先の鈴鹿峠直下にある坂下宿まで足を延ばしたんだろうなあ)
次の資料館”まちなみ資料館”に入ってみます。

無造作に置いてある自転車です。レプリカではなく本物のようですが何の説明もないので年代は不明です。




かつて栄えた関宿のお大尽の家を利用した資料館で見ごたえ十分。画像は昔の帳場の調度品です。






銭箱2点、昔の金庫と言うよりその日の売り上げを出し入れするレジスターのようなものかな、手前に木細工が施されロックが掛かるようになっているみたいです。
2階も解放されていて見ることができます。






2階は居住区域というより倉庫だったようで屋根が迫り狭いです。






資料館を出てまた町並み散策へ

眺関亭と呼ばれる場所がありました。2階へ土足のまま無料で上がれます。

ここからの眺めがいいですねえ。町並みを上から俯瞰できます。まずは左手、山並みが見える鈴鹿峠、京都方面。


次が右手の江戸方面の眺めです。






こんなモダンな建物に住んでいる人もいます。
粋だねえ。外装に補助金制度でもあるのかな。

【山爺の一言メモ】

関宿は昭和59年国により文化財保護法第144条に基づき重要伝統的建造物群保存地区に認定され国の重要文化財となっています範囲は東の追分から西の追分間の1.8km江戸時代から明治期に建てられた古い町家200軒に及ぶ。当然保全・復元には助成金が支給される。伝統的建造物の外観維持・復元にかかる費用の8/10 限度額800万円 
建造物以外で外観を建物と調和した形態に変更する事業(修景事業)費用の2/3 限度額300万円・・納得です。


元旅籠玉屋だった資料館に入ってみます。

江戸時代に『関で泊まるなら鶴屋か玉屋』と呼ばれるほど栄えた宿屋を資料館として利用、開放しています。
おっと、いきなり足洗い桶にわらじ、旅籠の雰囲気を出してますねえ。
視線を感じたので見上げると、親爺がこっち見てる。一瞬本物の親爺かと思い、びっくりしたな、もう。
受付のお姉様?の助言に従って上がるのは後回しにして土間を突き抜けて(画像右手のガラス窓は便所)まずは蔵を見よう。

当時の税制(間口の幅で決める)の影響でしょうか隆盛を極めた旅籠でさえ鰻の寝床のような縦長の作りです。
奥まったところにぽつんと蔵が建っていました。






油断すると転げ落ちそうな階段を登り2階へ。

江戸時代はおろか山爺の青年期まで公共の場所以外、家庭の階段などは間取りを多く取るために急階段が多かった。安全性は2の次で落ちるのは自己責任といった考えがまかり通った。




昔は公園や川に防護柵なんかなかったが問題視されることはなかった。”落ちて死んだら本人が間抜けで親の躾が悪い”で済んだ。管理不行き届きとして訴え出るとなんて強欲な、と影で非難されてしまう。。ある意味良い時代だったんですねえ。

2階はミニ展示室みたいになっています。


宿の生活風景を描いた安藤広重作の版画が数点展示してありました。受付嬢の説明ではレプリカではなく全て本物だそうです。

東海道四十七と書いてあるから、ここ玉屋の江戸時代の様子を描いたものなのかな。貴重な絵を拝見しました。
玉屋が隆盛を極めた頃は200人からが宿泊していたとか。

この規模で200人宿泊していたとは、雑踏の極みだったろうねえ。飯盛女は客掛け持ちで大繁盛、中には夜通し待てどやって来ない振られ組もいたんだろうなあ。 (^Д^)




本館にもどり上がらせてもらう。さっきの人形の番頭親爺を横から見る。ここから『〇〇どんお客様をお2階へ案内して』とか言って丁稚や中居に差配していたんだろうなあ。雰囲気出ている。


当時の旅のガイドブックが展示してあります。ガイドブックがあることも驚きですが当時の識字率の高さもすごい。

黒船以降に来日した欧米人が日本人に一目置いた(民度が高く油断がならない)のも、こんなものを実際目にすると頷けます。
中程に坪庭がありました。旅籠としてただ詰め込むだけではなく風情は残し旅人の目を和ませる。

ここなんだよなあ、今の儲け主義の合理化ホテルとの違いは。ア〇マン社長、やたら自画像ばかり載せまくらんと昔の旅籠の心意気を見習ってくれたまい。

各部屋は襖で8畳ほどの部屋に仕切られてますがプライバシーは零の作りです。襖開ければお隣りさんとはすぐ仲良くなっちゃう。

でも、ごまのはい(仲良く近づいて盗みを働く泥棒)も多かったろうから油断は禁物だ、当時の旅は大変だったろうなあ。

こんなふうに休んだんですね。奥に膳部の用意がしてあります。布団は所謂煎餅状態。畳んだり洗濯しやすいようにわざと薄くしたのかな。

文献で読んだことあるけれど宿によってはどてらを支給したそうな。”どてら”わかるかなあ。着物の上から羽織る綿入れ防寒着のことで布団がわりに羽織ったまま寝ることもある。

当時使っていた1階に繋がる階段です。すごく急で階段というより梯子に近い。危険なので利用しないでと注意書きがありました。
江戸時代に酔っ払ってここから落ちた奴、絶対にいたなあ。

ここの展示物は全くのノーガード状態で展示してあります。それだけに見ごたえ十分。

今のところ関宿は外国の方々にあまり知られていないようなので多くは訪れていないようですがK国やC国等の民度の低い見学者が来たら落書き・持ち出しなのど被害に合いそうで心配です。


中町にある現役の郵便局です。中町と呼ばれるくらいだからここが関宿の中心だったようです。





郵便局のそばにあった高札場です。高札場は町の中心に作るのが常だからやはりここが町の中心部だったんですね。

駅から離れていながら、江戸時代から今日まで町の中心で有り続け、駅周辺は閑散としたまま発展しない。こんな町は奇跡に近いのでは。ここはまさに現代からタイムワープした地域だ。

高札場とはお上からのお達しを掲示して皆に判らせるしくみですがこれが通用するのは民達が字が読めることが前提です。

日本という国は物質科学などの文明については遅れを取ったがこと、文化については欧米に引けを取らないどころか抜きん出ている国だったということがよくわかります。

遅れた物質文明にしても265年もの長いあいだ戦争がなかった稀有な国だったからであり、これは誇りに値する。

戦争は良くないことだがそれにより飛行機・船舶・自動車と言った物質文明が発達することも事実である。カゴなどという呑気な乗り物は平和じゃなきゃ絶対に発案されないだろう。

地蔵院というお寺(画像左)の先にまだまだ町並みが続きます。この先は新所町と呼ぶそうで1kmくらい続いて端に西の追分があるようです。

東の追分から西の追分まで1・8kmもあるようなのでじっくり見るには1日では足りません。新所町は次回の楽しみに取っておこう。

 
関西本線の本数が少ないので時間に合わせなくてはいけない。そろそろ名古屋に戻ろう。

今日は移動日、まずは名古屋駅にあるJR高速バス乗り場へ急ぐ。といっても発車までまだ2時間もある。

まずは名古屋駅で家(うち)に土産を買わなければならない。我が家ではお泊りで出かけたら土産を買って帰るのが不文律。

名古屋といえば赤福・ういろう、我が家の大好物なので土産の選択迷うことがない。

時間があるので関西名物の天むす購入(ぷりぷり海老入りの宣伝に釣られて買い求める)してバスの待合所で食しよう。

がぶりと噛み付いた。うへえ~まずい・まずい。なんだこれは、山爺の口に合いません。1食損した気分になった。


定刻通りバスが東京に向かって動き出す。月曜日なので乗客は半分程度で空いている。山爺の列は隣席が空席なので2列専有だ、ラッキー。




途中2回、SAに立ち寄ったがまずい昼食の影響で立ち寄る都度茶菓子を買い、お口直し・・いささか、おやつの食い過ぎとなりました。・・いかんなあ。
月曜日のせいなのか都心に入ってもさほど渋滞せずほぼ定刻に霞ヶ関に到着、次が終点東京駅だがここから渋滞も予想されるのでここで下車しよう。




【川柳】

・黄昏の 清州の城に 爺ひとり
・清洲には 見様でつくった 城もあり
・関宿に 奇跡の旧家 200軒
・関宿は 駅前過疎の 不思議町 
・江戸のまま 関宿にある 家200

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