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2020年10月8日木曜日

旧谷中村を散策(渡良瀬遊水地ハイク)

 9月のはじめに首が少し痛くなり始め徐々に痛みがひどくなってきた。痛みが増すと同時にめまいもする様になった。どうしたんだろう、これで手足がしびれて呂律が回らなくなったら一大事なので毎日様子を見ていた。

そのうち治るだろうと楽観していたが一向に良くならない。

コンデション最悪のうちに9月のゴルフコンペを迎えてしまい成績が散々だっとことは前回述べた。

借金で首が回らないとはどういう意味かとこれまでは漠然と考えていたが本当に首が回らなくなってみるとその状況がよくわかった。

首が痛いと周りの状況判断に支障を来すのである。道路を横断するときの左右確認なんか簡単に出来ないので剣呑この上ない。新聞なんか5分も読めやしない。お茶飲むのも一苦労だ。にっちもさっちも行かないとはまさにこのこと。借金に例えるのはまさに言い得て妙だ。

今年は台風の発生も少なく9月は絶好の登山時期だったが首痛・めまいが治らないのでは危険すぎて歩けそうもない。せっかく揃えたキャンプ道具も泣いている。

9月のゴルフコンペもようやく乗り切って家で安静にしていたらようやく首の痛みも和らぎ、めまいも収まった。体力維持のためどこかへ出かけよう。

とは言え、山歩きにはまだ不安が有る。坂道で転倒したら低山といえど大事故につながってしまう。さて、平らなところで行きたいところは・・・そうだ以前から行ってみようと思っていた渡良瀬遊水地の旧谷中村跡にでも行ってみよう。旧谷中村とは?

【山爺の一言メモ】

栃木市の広報より抜粋

旧谷中村の歴史

渡良瀬遊水地は、旧谷中村や周辺地域の人々の犠牲と協力のもとにつくられました。

常に洪水の被害に見舞われていた谷中村周辺地域では、明治20年(1887)代の足尾鉱毒問題をきっかけとして遊水地化の意見が出され、河川の氾濫被害を無くすため、渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が打ち出されました。

遊水地化の計画は谷中村を中心とした地域で、明治38年(1905)から栃木県が買収を進め、明治39年(1906)に谷中村は藤岡町(現・栃木市)に合併され廃村となりました。旧谷中村(下宮、内野)の一部には現在も旧村民の子孫の方が住んでいます。

さすがは市の広報ですなあ。当たり障りのない書き方でさらりと紹介しています。渡良瀬遊水地建設にまつわる歴史はそんなものではなく根は深いのです。別の解説記事を紹介します。長文なので興味ある人は読んでみてね。

http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_35.html

谷中村は毎年のように起こる洪水のおかげでナイル川のように上流から肥沃な土が流れて堆積する。これにより農産物のめぐみが豊かな土地柄で水害を差し引いても裕福な村だった。

明治期に国策で足尾銅山の採掘が活発になると渡良瀬川一体の農地が洪水が起きるたびに鉱毒により農作物に被害を被る。谷中村も例外ではなかった。栃木県出身の衆議院議員、田中正造を筆頭に村人は立ち上がり国に提訴したがこじれて川俣事件へと発展する。

農民の必死の請願にも関わらず国は鉱毒被害の根源は洪水にありと論点を巧みにかわして鉱毒水を沈殿させるために谷中村の湿地帯に目をつけて巨大な沈殿池の構想をぶち上げる。当然村民は反対するが国と栃木県は堤防改修の名目で土手をかさ上げ村を水責めにした。豊臣秀吉でもあるまいに、ひどい話があったもんです。

鉱毒で肥沃な土地を壊された挙句に強制立ち退きを迫られた谷中村の住人2500名の心中はいかばかりか。

そんな旧谷中村住民の怨念がこもった跡地、とりわけ雷電神社・常念寺の共同墓地跡の周りには今頃は彼岸花が開花しているに違いない。

という訳でザックに雨具・コンロ・一眼レフカメラを放り込み9月30日(水)出かけてみた。

東武日光線の板倉東洋大前駅で下車、なかなか瀟洒な駅ですが周りは何もありません。東口に出て左折し、しばらく行くと右に上がる小道があります。

そこを抜けるとT字路にぶつかる。正面の建物がわたらせ自然館です。ここに立ち寄り渡良瀬遊水地の歴史について再確認。資料やら地図やら頂いてから遊水地に向かった。(入場無料が嬉しい)

資料館を出て左に10mも行くと土手へ向かう小道があるので左折します。どんどん進むとそば畑がありそばの花が咲いていました。ほう、こんなところでそばを栽培しているのか。

公衆トイレの前を抜けると信号のある車道に出ます。そこを横切って土手を上がると渡良瀬遊水地が見えます。


土手を降りてまっすぐ進むと右手に駐車場、正面に柵があり車やバイクはここまでで遊水地内には入れません。歩行者のみ入れます。



いきなりでかい遊水地が正面に広がっていました。いやあ思ったより大きいです。ヨットが1艘気持ちよさそうに湖面をすべっています。
まてよ?これだけ大きなものをどこから運ぶんだろう。よく見るとカヤックも動いてます。どこかから車で進入できるところがあるのかな?それとも担いで入るのかなあ。

遊水地の淵沿いを左回りに歩き出す。景色を眺めながらのんびりと歩く。湖水の巡視だろうか船外機付きのボートが慌ただしく通り過ぎて行きます。20分も歩くと北の水門に着く。金網柵で通せんぼ、これ以上進めない。
左の藪混じりの小道に沿って土手の上にあがり無粋な舗装道沿いを歩く。ヘルメットに派手なシャツを着た競輪選手のような出で立ちの自転車族が走り回っており、おちおち真ん中を歩いていられない。『爺婆め そこのけそこのけ 自転車通る』とった具合でのんびりしていられない。

ようやく前方にこんもりした木々のあるところが見えてきた。目指す旧谷中村の史跡があるところのようだ。道を左に折れて旧谷中村史跡へ。旧村役場跡の看板を見つけたのでその方へ歩を進める。

説明杭に谷中村役場跡とあります。周りは整地されており東屋がぽつんと建っていました。

さすがに役場が建っていた場所、ここは小高い丘の上です。

毎年のように起きる洪水を避けるために村では貴重な小高い地形を選んで建てたのでしょう。



役場のそばに大野音次郎屋敷跡と説明杭がある広場があります。人工的に土盛りしたのか自然なのかここも高台の1等地です。土地の有力者だったに違いありません。庄屋さまかなあ。

あとで調べたら村長さんの親御さんの屋敷でした。さもありなん。

丘を降りて次の目的地、雷電神跡地に向かいます。途中の竹やぶのなかに説明杭がありました。

〇〇正作屋敷跡と読めます。藪を少し分け行って入ってみると竹やぶのなかは洪水に対処するためか高台になってます。まさに夏草や強者どもが夢の跡です。


雷電神社跡に向かう途中に紫色の花の群落を見ました。なんの花だろう?

傍らの説明書きを読むとワタラセツリフネソウと書いてあります。説明が雑駁なのでこの時はふう~ん、くらいにしか思わなかったのですが後で調べてびっくり仰天。

2005年にここ渡良瀬で新種として発見された草花で絶滅危惧種なんだそうです。

おーい、看板書いた人!もっとしっかり説明しなきゃダメじゃないか。
それと柵で囲うなりして保護しないと・・道端に生えている雑草扱いです。このままじゃ踏んづけて絶滅しちゃうぞ。魂消たもんです。


渡良瀬遊水地ではこの花しか這えていないんだそうですが・・嘘つけ、彼岸花が咲いてるぞ~。って野草限定ということかな。

彼岸花は土手の保護や野ねずみ・モグラ退治、そして飢饉の非常食として人が大切に植えた草花だからね。

雷電橋という場所に到達、下を流れるのは谷田川でしょうか。

雷電神社はもうすぐに違いありません。




雷電神社跡には説明杭があるだけで何も残っていません。
まさかあのベンチは当時のものではないだろうなあ。
かつての雷電神社の画像です。洪水の時の写真でしょうか周囲を水に覆われて悲惨な状態です。
なんかご利益薄そうな神様です。(失礼)

こんな神社でも秋祭りなどが盛んに行われて村人の大切な拠り所だったんでしょうなあ。
付近に彼岸花の群落がありました。遠くに延命寺の釣鐘も見えます。











延命寺跡です。当時を偲ぶものは釣鐘のみ。

ここに村人たちのご先祖様達が眠っています。

あたり一面彼岸花が今を盛りに咲き誇っていました。やはり彼岸花はお寺や墓地が似合います。
本来なれば子々孫々まで祀られ続けてもらえるはずだったが明治期の富国強兵の犠牲となり村は離散、墓地は放ったらかしになってしまった。眠れる村人の怨念が聞こえるようです。

もっとも遊水地を開発したおかげで下流の住民、とりわけ都市部の人々の治水に大いに貢献しているのだからそれらの人々は感謝しなければいけないですね。

旧谷中村跡の名残はこの共同墓地しかないようです。そして訪れる季節は彼岸花の咲き誇る今が一番のような気がします。

若い頃に田中正造や足尾鉱毒問題について漠然と教育を受けたが、足尾鉱毒・田中正造・谷中村、これらのつながりが今ひとつ理解できなかった。今回訪れてこの村の歴史を掘り下げて調べてみたので、この村の受けた理不尽な仕打ちがよくわかった。

明治維新以降、時の政府の富国強兵政策で足尾銅山を掘りまくり鉱毒を垂れ流し。農民に甚大な被害を与えておきながら、ろくな補償もせず『原因は洪水にあり』と論点をすり替え、谷中村の人々の傷口に塩を塗りこむような施策を打ち出した国と県、そして足尾の山々を毒ガスで丸坊主にした古河鉱業、古河グループといえば渋沢栄一の息のかかった企業だろうに、来年の大河ドラマも霞むってもんですよ。

このように甚大な人災?を引き起こしながらも加害者の特定はされずに今日に至っている。貧乏くじを引いたのは旧谷中村の人々だけ、こんな理不尽なことはないだろう。

さて、目的の彼岸花の撮影も終わったので遊水地の真ん中に移動しよう。

左手に筑波山を眺めながら中の島をめがけて歩く。天気はすこぶる良い。こんな日のそぞろ歩きは実に楽しい。
振り返ると我が故郷の栃木の山々がはっきりと見える。こんなに素晴らしい眺めが得られる場所なのだからお土産屋やレストランを作ったら大儲けだろうに、ここも河川内に該当するから人工構造物の造営はできないんだろうなあ。もったいない話です。

素晴らしい景色を眺めながらなので疲れない。30分も歩いたろうか、中の島が見えてきました。12時もすでに回ったのでここで昼食としよう。

当初、谷中村史跡横の公園で食べようと思ったのだが巡視員がうろうろしていたので敬遠した。

なにせガスコンロでお湯を沸かしコーヒブレイクもするつもりだった。コンロ使うのを見たらた何かクレーム言われそう気がして・・・そういえば葦の生い茂る史跡内の道でも巡視員と思しき爺さん達にあった。巡視のボートといい、やたら巡視員が多いなあ。葦の生い茂る場所だけに火災を恐れてのことだろうか。それにしては山火事注意などの看板が皆無なのも不思議だ。とまれ、この地域が観光地ではなく水防施設だということを改めて知らされた山爺でありました。なんでも世界遺産に登録しようと動いているとか・・世界遺産ねえ。

(o´Д`)

中の島は刈り込んであるので火災が起きる心配もないから文句あるまいと、勝手な理屈でベンチを見つけてお店を広げコンロを取り出し点火、コーヒーを入れる。

素晴らしい景色を眺めながらのコーヒーは、『うまい、うますぎる。』の一言に尽きます。コンビニのおにぎりだってうまいのなんのって・・・・

それにしても大きな池だなあ。どこかに似ている。どこだろう。ああ、毎年、関西バス旅行の途中で立ち寄る浜名湖SAからみる眺めだ。浜名湖そっくりではないか。違うところは前述した通り、ここは河川内なので建造物が作れない。したがって土産物屋や食堂といったお店が皆無であること。コンビニすらない。

だからこそ静けさが保てていいのかもしれないなあ。こんなところがこれからの日本には、もっと必要なのではと納得した山爺なのであります。

さて、昼食も済んだことだし帰るとするか。ここまで来たら中央エントランスから出て柳生駅に回ったほうが近い。30分も歩けば着くだろう。頑張んべえ!

家にたどり着いて携帯の万歩計を確認したら2万3千歩でした。やったね。

【川柳】
・渡良瀬に 幽水もある 遊水地
・鉱毒に 呑まれし村に 彼岸花
・渡良瀬で 見つけた秋の 珍花草

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