①#現存12城 :創建当時の状態で残る天守閣を擁する城郭・・日本に12箇所のみ残存
弘前・松本・犬山・姫路・彦根・高知・丸岡・松江・丸亀・備中松本・伊予松本・宇和島 の12箇所。山爺は弘前・松本・犬山・姫路・高知・彦根の6城は訪問したが後の6っは未訪問だ。
②復元城:戦災その他で喪失した天守を復元した城郭
熊本・大阪・名古屋など・・当初は観光目的で鉄筋コンクリートエレベーター付き(大阪城・名古屋城など)が多く作られたが近年木造により当時まま忠実に再現する傾向にある。
③城跡
出城・砦まで数えると数え切れない。学術的に確認された城跡だけでも2000箇所以上とされている。
①②のお城には多くの観光客が訪れるだろうが城跡となるとどうだろう。
埼玉県の寄居にある鉢形城址(左画像)のように街の近傍に存在する城址なら保存状態も良くお城だなあと感じるだろうけれど町中にある城跡の多くは都市開発で消え去り残存数は少ない。このような山中深くに残された山城は山歩きの経験がないと、迂闊に入るのは危険だ。
山城や砦は天然の要害地形を選ぶことが多いので本丸までは急勾配、後方は崖か河川が流れている場合が多い。前述した鉢形山城跡の本丸も後方は崖で大きな川が流れている。誤って滑落した人がいたと見え”この先危険立ち入り禁止”の看板がある。そのほか城跡は無名の山々にあることが多いので指導標が未整備、道迷いによる遭難の恐れも出てしまう。
幸い山爺は山歩きの経験は十分にあると自負しているので地図を頼りに城跡にたどり着くのは朝飯前・・おっと大きく出てしまいましたが登り口を間違えて里をウロウロ、地元のおばちゃん、じいちゃんに何度も城の場所を訪ねたことがあります。
さて、主題の江戸城跡の散策ですが、旅行でお城には必ず立ち寄る山爺ですが我が家から地理的に恵まれていながら江戸城跡には未だ行かずじまい。これはもったいない話だ・・というわけで気候がよくなった10月下旬に江戸城跡を散策することにした。
江戸城の年表を簡単に説明しましょう。
【山爺の一言メモ】
1457年:太田道灌により築城・・土塁の小規模城郭だった
1590年:徳川家康により大規模改築・・・駿府にいた家康であったが天下人の豊臣秀吉に疎まれて『江戸はようござるよ』と無理やり駿府を追い出され江戸に転封された。
実際の江戸地は湿地帯で飲み水にも事欠く荒地、家康さん泣く泣くお引越し・・しぶしぶ江戸地の大改造に取り組んだ。今日の東京の大繁栄は家康さんのお陰だが秀吉の意地悪がなかったら東京は単なる地方都市で終わっていたかもしれない。

どうやら、江戸城跡のある皇居東御苑に入るには手荷物検査があるようです。なるほど、江戸城跡のある東御苑は皇居内なんだと今更実感いたしました。昭和43年から一般公開となったそうです。
手荷物検査を無事にパスして大手門をくぐり東御苑内に進入です。人手をかけるのだからついでに料金も徴収したら皇宮の財政も豊かになるのになあ。
番所とは警備詰所のことで江戸城の登城者の監視を行っていた建物です。立派な石組みです。これらの多くは家康めが諸国の外様大名を脅かし作らせたんだろうなあ。
左手にうなぎの寝床みたいな建物が見えました。100人番所という警備詰所で甲賀・伊賀・根来・25騎組、4組の鉄砲衆が詰めていた番所です。
忠臣蔵で有名な殿中松の廊下跡地の目印がありました。・・・殿中でござる・殿中でござる。って殿中だろうが、表通りだろうが傷害事件起こしちゃあダメだろう、浅野君。
石室という遺跡がありました。火事の際に家具や調度品を運び込み火災から免れるよう作られたもの。大奥の横に作られていたので女どもにせがまれて作ったのかなあ。
それとも宮内庁から再建は徳川家再興につながるから御法度と待ったがかけられているのかなあ。・・・(^^♪