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2024年11月14日木曜日

江戸城跡散策記

 こう見えて山爺はお城が大好きである。旅行に際し大抵、その土地のお城や城址の散策を組み入れる。一口にお城といっても大きく分けて3通り、

①現存12城:創建当時の状態で残る天守閣を擁する城郭・・日本に12箇所のみ残存

弘前・松本・犬山・姫路・彦根・高知・丸岡・松江・丸亀・備中松本・伊予松本・宇和島 の12箇所。山爺は弘前・松本・犬山・姫路・高知・彦根の6城は訪問したが後の6っは未訪問だ。

②復元城:戦災その他で喪失した天守を復元した城郭

熊本・大阪・名古屋など・・当初は観光目的で鉄筋コンクリートエレベーター付き(大阪城・名古屋城など)が多く作られたが近年木造により当時まま忠実に再現する傾向にある。

③城跡

出城・砦まで数えると数え切れない。学術的に確認された城跡だけでも2000箇所以上とされている。

①②のお城には多くの観光客が訪れるだろうが城跡となるとどうだろう。

埼玉県の寄居にある鉢形城址(左画像)のように街の近傍に存在する城址なら保存状態も良くお城だなあと感じるだろうけれど町中にある城跡の多くは都市開発で消え去り残存数は少ない。

人里離れた山城や砦跡は今も数多く残っているが保存状態の悪いものが多く、興味のない人々にはただの山林にしか見えないだろう。
右画像は埼玉県の小川町、仙元山(299m)の山中深くに存在する青山城址であるが、土塁や堀切、2の丸など山城の体を残しており比較的保存状態は良いとされているのだが・・・

山爺はこの青山城跡を訪れたことがあるが、ちょっと目には潅木や雑草が生い茂った、ただの土手にしか見えない。

解説板をよく読んでから再度地形をよく見ると『ははあ、これが堀切か』『あ、あれが虎口跡(城門)か』となり、当時の城構えが蘇ってくる。

このような山中深くに残された山城は山歩きの経験がないと、迂闊に入るのは危険だ。

山城や砦は天然の要害地形を選ぶことが多いので本丸までは急勾配、後方は崖か河川が流れている場合が多い。前述した鉢形山城跡の本丸も後方は崖で大きな川が流れている。誤って滑落した人がいたと見え”この先危険立ち入り禁止”の看板がある。そのほか城跡は無名の山々にあることが多いので指導標が未整備、道迷いによる遭難の恐れも出てしまう。

幸い山爺は山歩きの経験は十分にあると自負しているので地図を頼りに城跡にたどり着くのは朝飯前・・おっと大きく出てしまいましたが登り口を間違えて里をウロウロ、地元のおばちゃん、じいちゃんに何度も城の場所を訪ねたことがあります。

さて、主題の江戸城跡の散策ですが、旅行でお城には必ず立ち寄る山爺ですが我が家から地理的に恵まれていながら江戸城跡には未だ行かずじまい。これはもったいない話だ・・

というわけで気候がよくなった10月下旬に江戸城跡を散策することにした。



江戸城の年表を簡単に説明しましょう。

【山爺の一言メモ】

1457年:太田道灌により築城・・土塁の小規模城郭だった

1590年:徳川家康により大規模改築・・・駿府にいた家康であったが天下人の豊臣秀吉に疎まれて『江戸はようござるよ』と無理やり駿府を追い出され江戸に転封された。

実際の江戸地は湿地帯で飲み水にも事欠く荒地、家康さん泣く泣くお引越し・・しぶしぶ江戸地の大改造に取り組んだ。今日の東京の大繁栄は家康さんのお陰だが秀吉の意地悪がなかったら東京は単なる地方都市で終わっていたかもしれない。

1603年:徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

1605年:徳川秀忠、2代将軍就任。
1606年:本丸完成。
1607年五層の大天守完成。
1616年:家康死去。
1623年3代家光就任。
1657年:振袖火事により天守・本丸御殿・2、3の丸焼失・・以後、本丸・2,3の丸御殿は再建されたが天守は再建されなかった。
1867年:江戸城無血開城 
1872年:明治政府により城内の建造物取り壊し 
1873年:皇居(旧西の丸御殿)焼失
1888年皇居(明治宮殿)再建
1923年 関東大震災で大手門・半蔵門焼失 
1945年:5月25日の空襲により皇居(明治宮殿)焼失


地下鉄大手門の13aの出口から地上に出ると目の前に江戸城の大手門が見えます。5分も歩くと大手門に到着。ん、?ずいぶん人が並んでるなあ。



どうやら、江戸城跡のある皇居東御苑に入るには手荷物検査があるようです。なるほど、江戸城跡のある東御苑は皇居内なんだと今更実感いたしました。昭和43年から一般公開となったそうです。

手荷物検査を無事にパスして大手門をくぐり東御苑内に進入です。人手をかけるのだからついでに料金も徴収したら皇宮の財政も豊かになるのになあ。


それにしても大きな門構えです。名古屋城大手門より大きそうだなあ。徳川家の隆盛を改めて実感しました。

門をくぐると左手に無料休憩所兼売店があり中に入るとガイドマップが置いてあったので一枚いただきました。



売店を見ると皇宮の御紋の入ったメダルチョコが15個入で¥500で販売中、安っ!絶好の土産ではないか・・山爺早速お買い上げ。




売店を出てちょいと進むと右手には同心番所という建物が見えてきました。
番所とは警備詰所のことで江戸城の登城者の監視を行っていた建物です。
立派な石組みです。これらの多くは家康めが諸国の外様大名を脅かし作らせたんだろうなあ。
左手にうなぎの寝床みたいな建物が見えました。100人番所という警備詰所で甲賀・伊賀・根来・25騎組、4組の鉄砲衆が詰めていた番所です。


各組120人の構成だったようでが合計すると480人?入りきれない?・・交代で詰めていたのかな。


石垣に囲まれたところ(中雀門跡)を通り抜けます。石組みが見事。








石組みを抜けると立派な櫓が見えました。
富士見櫓です。

江戸城跡に現存する櫓は富士見櫓と伏見櫓、巽櫓の3箇所ですが本丸(東御苑)に唯一現存するのが三層構造の富士見櫓です。1657年の振袖火事により一度焼失しますがすぐに再建されたそうです。














忠臣蔵で有名な殿中松の廊下跡地の目印がありました。・・・殿中でござる・殿中でござる。って殿中だろうが、表通りだろうが傷害事件起こしちゃあダメだろう、浅野君。
富士見多聞という長細い櫓?とは言わないのかな。屋根付き塀のことで防御施設の一種、姫路城に沢山あります。







櫓や城の連絡通路みたいなものですね。ここから弓矢や鉄砲を撃つことが出来ます。








石室という遺跡がありました。火事の際に家具や調度品を運び込み火災から免れるよう作られたもの。大奥の横に作られていたので女どもにせがまれて作ったのかなあ。

『火事になったら私たちの調度品どうしてくれる』・・いつの世も女は図々しい。

その大奥跡地はこの石室の反対側で今は大芝生と化しています。この辺にかつて500人規模で女どもが姦しく生活をしていた。

子作り大好きで手当たり次第に励んで53人(55人とも)+流産7人も産ませた家斉さんの

時は千人を超えていたというから、いやはやなんともですなあ。

家斉の子供たちの行く末はどうなったか?、なんでも子供たちの半数近くが成人することなく亡くなってしまいました。


粗製濫造だから体が弱かったのかな?・・成人した子供は後継の家慶以外は他の
大名家へ養子・嫁入りさせられました。

それは当然だがそのほとんどがもともと病弱だったり子孫を残す力がなかったりで現在に続く血脈は2系統のみだそうです。うまくいかないものですなあ。
縁組させられた大名の中には既に実子がいたにも関わらず無理やり押し付けられたとか・・・病弱ばかりでなく故意に抹殺された者もあったのでは・・・

そして養子や輿入れに際しては多大な費用を費やしたので江戸幕府の屋台骨を傾けたとも言われています。古人いわく”過ぎたるななお及ばざるがごとし”

暇して興味ある人は下のウィキペディアを読んでね。

やあ、本丸跡の石垣が見えてきました。・・大きいなあ。

こんなにしっかりした土台が残っているのだから誰かお金持ちが江戸城再建してくれないかなあ。


それとも宮内庁から再建は徳川家再興につながるから御法度と待ったがかけられているのかなあ。・・・(^^♪

大阪城・名古屋城・江戸城、三役そろい踏み、見たいものだ。


てっぺんに登ると外国人が大勢たむろしています。やかましくしゃべいっているのは中国人の団体様かな?
早々に本丸の頂上を辞して北桔梗門(はねばしもん)へ移動。この門は名前のとおり昔は跳ね橋構造だったとか。

ここでも手荷物検査やってますが行列はありません。

入場するならこちらからの方が良いかもです。
梅の木が沢山並んでいる梅林坂という坂を下ってゆきます。

開花期は見事なんだろうなあ、そのころにまた来ようかな。
鹿児島県の花?かいこうずと表記された名札がありました。
二の丸雑木林を歩く。広葉樹林が多いので紅葉時期は見事な景色になるのだろうなあ。来るのが少し早かったかな。








諏訪の茶屋、茶室にしては豪華な作り。わびさびの世界からは外れた茶室です。千利休が見たら目を剥いて怒ること間違いなし。

あの子づくり名人の11代将軍家斉が創建したそうです。お茶を名目に正室に内緒で茶室に側室を取っ替え、引っ替え呼び寄せて・・ なにせ側室20人超えのご仁だから・・・m(_ _)m

明治45年に吹上御所に再建、やんごとないおかたの茶室となりましたが昭和43年にここに移築。・・なるほど豪華さに納得。

二の丸庭園を散策。それにしても江戸城本丸跡(東御苑)の広いこと、いささか疲れてきました。

このまま南下すると大手門で東御苑を一周したことになりますが、同じ門から出るのも何だから北に向かい平川門から退場しよう。


平川門が見えてきました。平川門は3の丸の正門にあたります。徳川幕府に脅かされて1620年に仙台藩ほか六つの大名により創建されました。

大奥に近い門だったので別名お局門、また城内で出た死者や罪人を出す門だったので不浄門と言われている。浅野内匠頭もこの門から退場させられ、のち城外で切腹したとか。


大きい門が第2門で渡櫓門(わたりやぐら)










その先にある小さい門が高麗門、この二つで構成された枡形門です。

ここを出て左に歩けばすぐそばに地下鉄竹橋駅があります。

道路側から見た平川門、この橋は往時のとおり木で作られております。江戸城跡で木橋はこの橋だけです。


【川柳】
・大御所は 競わせ濡れ手で 城を得る 
・いにしえも 今も検問 大手門
・家斉は 暇に任せて 人づくり
・小隊を 我が子で集めた 家斉隊 
・罪人と女子(おなご)が出て行く 平川門

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①ここに掲載されたルポや川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
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