春季の青春18切符の発売時期である。(発売2/10~3/31・使用期限3/1~4/10)貧民たる山爺、この期間を利用しない手はない。どこに行こうかなあ。東北方面はまだ真冬だろうから老いの身には堪える。行くとすれば西の方角だろう。12月に関ヶ原と大垣城を散策したのでその続きのお城巡りでもしようか。PCで最寄りのJR駅からの列車を検索すると7時の熱海行に乗車すると熱海に10時に着く。そこから浜松行に乗り換えると浜松には12時半に到着だ。浜松城散策に十分時間が取れる。
今回のぶらり旅は徳川家康ゆかりの浜松城と信長ゆかりの岐阜城を訪ねてみよう。
平日に出発すると通勤時間帯に都内を通過することになるので避けよう。土曜~月曜で旅程を組んでいそいそと出かけた。最寄りのJR駅で緑の券売機を操作して18切符を購入していざ乗車、気分は六角精児の呑み鉄本線日本旅だが現実はそうは問屋が卸さない。乗り込んだ駅から座れたものの、なんと電車の混んでいること、ほぼ満員状態。こんなことなら平日に出発してもも良かったかなあと思いつつ都心を通過、窓の景色を見る余裕が出来たのは横浜を過ぎてからだ。予定通り9:54熱海着、静岡方面への乗り継ぎ列車は10:00発だからトイレ休憩の余裕もない。東北方面と違い東海道線は頻繁に列車の便があるのでさほど待たずに先に進める。
バスを降りると、浜松城の瀟洒な姿がすぐに見えました。我が家から無駄な待ち時間がほとんどなく目的地に着きました。乗車時間は長いけれど乗車中は読書して有効に使ってます。
【山爺の一言メモ】
浜松城の歴史
1560年6月に起こった桶狭間の戦いで信長が今川義元に勝利したことにより家康は今川の人質生活から開放されます。家康この時19歳。
故郷、岡崎に帰った家康は織田信長と同盟を結び三河一帯を平定、1568年に浜松城(当時は引間城・曳馬とも)を攻めてこれを奪取、遠江に進出します。1570年に引間城を改築し現在の浜松城としました。ただでさえ騎馬戦の得意な信玄軍が待ち伏せ攻撃をするのだから家康軍はひとたまりもない。2000名近い犠牲を出して、木っ端微塵に打ちくだかれ家康は命からがら浜松城に逃げ帰る。逃げ帰る途上で恐怖のあまり馬上で脱糞したというが本人の名誉のために弁護する
家康はこの時の失敗を戒めるため左画像の様な”しかめ像”を書かせたことはご存知のとおり。普通の人なら失敗ごとは隠したがるものだが記録させるあたり家康は並みの神経の持ち主ではない。
浜松城に逃げ帰った家康は大手門(正門)を故意に開けさせて信玄軍を待ち受ける。孫子の兵法36計のうちの空城(くうじょう)の計だ。
空城の計とは中国の故事で蜀の諸葛孔明が魏との野戦で負けて籠城した時に図った計略だ。どのような計略かと言うと故意に城門を開けておく。城内を掃き清めかがり火をがんがん焚いて孔明は高台に登りゆうゆうとうちわで己が顔を仰いで攻城軍を迎えた。攻城軍の司令官はなにか計略があると恐れ攻め込むことなく引き返した。この時、魏軍は15万、蜀側は2千5百だから計略を無視されて城内になだれ込まれたら即終了だったろう。よくこんなでたらめ戦法を思いつくものだ。諸葛孔明にはこのようなイチかバチかの戦法がよく伝わる。孔明は古今優れた戦略家として評価されているが山爺はそうは思わないなあ。本当は戦ベタだから何度も危機に落ち入ったんじゃないのかなあ。運が良かっただけの御仁なのでは。有名な赤壁の戦いからして季節の変わり目で風向きが変わることを当てにして戦に臨んでいる。天気なんて際物で1日2日のズレはよくあることだ。風吹かなかったらどうしたんだろう。自軍全滅覚悟?孔明さん、そりゃあないだろう。 (^^♪
家康はこの故事に習い、計略に長けた信玄なら深読みして攻撃はしてこないと考えて大手門を開けてかがり火を焚いて待ち受けた。敵の指揮官が凡将なら門が開いていたら『おっ、門閉め忘れてやがる。馬鹿め』・・てなもんで、しゃにむに突撃するだろうからこの戦略は絶対に無理。
果たして信玄は城内に突入することなく去っていった。家康の計略大成功だが山爺の私見では信玄は家康の戦法に引っかかったのではなくこれ以上関わる時間がなかったのかもしれない。
当時信玄は胃がんを患っていて余命いくばくもないことを悟っていた。これ以上家康をからかっている暇がなかったのだろう。現に浜松城のちょいと先の野田城包囲戦の途中で容態が悪くなったとみえ急遽甲斐国に引き返しその途中で亡くなっている。
城内近くから見た浜松城です。小さな天守閣です。これでは信玄軍が本気で攻めたら空城の計なぞ木っ端微塵だったのでは。石垣は大阪城や名古屋城のように整然と積まれたものではなく野面積(のずら)と呼ばれる素朴な工法で積み上げられています。
一見不安定なようですがその後の度重なる震災にも耐えているところを見ると強度は十分あるようです。
しかしいたずらには弱いようで石を引き抜かないで下さいの注意書きがあるのには笑えた。城内に入ってみよう。入場料は大人¥200ですが、なんと70歳以上は無料とある。浜松市偉い!!マイナンバーカードを見せて無料入場を果たした。
この甲冑も説明がない。およそ、お城の展示物なんて時代考証がいい加減、どこぞの骨董をかき集めたのでしょう。こんなものが多いです。見る方だって物見遊山の観光客がほとんどで真剣に見ている人なんぞほとんどいないからねえ。
あっという間に最上階につきました。外に出てみましょう。
名鉄岐阜駅から路線バスに乗り岐阜公園で下車。どのバスに乗っても岐阜公園を通るみたいで待ち時間ゼロで乗れました。帰りも同様でどのバスも岐阜駅を経由します。これは楽ちんだわ。岐阜公園から金華山(標高329m)の山頂付近に築城された岐阜城がよく見えます。岐阜城はもともと一介の油行商人から城持ち武将にのし上がった斎藤道三が稲葉山城として築きました。その後、道三の娘婿である織田信長が道三の遺児から奪取、改築して名を岐阜城に改めた。
やっとこ岐阜城天守閣に到着。入場料は大人¥200ですがここでも70歳以上は無料です。うへぇ~。信長様、ありがとうございます。
町家の裏側に廻ると家が石垣で支えられているのがわかります。おそらく長良川の洪水に備えての構築なのでしょう。
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