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2024年1月13日土曜日

関ヶ原を歩いてみた(第六回関西ぶらり旅)

 皆様、新年明けましておめでとうございます。今年も我が拙いブログの応援よろしくお願いいたします。先月中旬に関西ぶらり旅に行ってまいりました。その様子を思いつくまま書いてみます。

12月に入ると山爺の山歩きは終了、3月過ぎまで活動を休止する。例年この時期を利用して関西に旅行をしていたのだがコロナにより中断していた。今年はコロナも収まった?のでどこかに行きたくてうずうずしている。夏に利用した青春18切符が12月10日~1月10日まで販売中でこれを利用すれば費用を抑えて2回は旅行ができるのだがなあ、・・・

去年の12月に大腸がんチェック(検便)で潜血反応が出て要精密検査(内視鏡)となり、その場でポリープを切除した。一度では取りきれないから(体の負担になるので一度では取りきれないとか)来年またおいでと宣言されていたのだが、これがあっという間に1年過ぎてしまった。根がぐずなのでそれがまだクリアー出来ていない。

この施術が終わらないとなんの予定も立てられない。12月初めに施術を受けて後半で旅行にでも行こうと、重い腰をあげ渋々病院へ・・・受診をしてみて驚いた。なんと内視鏡受検患者の多いこと、なんやかんやで施術予約日が暮れも押し詰まった12月最終週になってしまった。

急に予定が開けた。だが、今から18切符では5回も乗車しきれない。さりとて山爺は大貧民ゆえ富豪様が利用する新幹線なぞ恐れ多くて乗ること能わず。ここは高速バスの利用に限る。

急ぎPC稼働して天気予報とにらめっこ。おりから大陸の寒気団が南下中で天候が思わしくないが比較的天気が良さそうな16日(土)~18日(月)で切符を探しまくった。

日にちが迫っており大阪方面は格安チケット(¥5000以下)は完売、名古屋はどうだ。往きは¥3800、帰りは¥2700の格安チケットを予約することができました。普通の人は行先を決めてから移動手段を決めるのだろうが山爺はさにあらず、初めに格安切符ありき、切符に合わせて場所を決めるのだ。・・ (^^♪

東京駅から名古屋まで6時間16分の長旅だが新幹線の往復料金より¥16000もお得になります。映画男はつらいよの寅さんの名セリフではありませんが『皆さんになくて私に有り余っているもの、それは暇』だからして・・・バスの長旅もまた楽しです。

さて、名古屋拠点からの観光、前々から行きたかった候補が沢山ある。郡上八幡から岐阜へ、雪の飛騨高山~白川郷、関ヶ原と大垣城もいいなあ。候補が沢山あり困った。

今からでは郡上八幡や白川郷はバス予約が叶わない。ここは前々から行きたかった関ヶ原でも歩いてみよう。・・決して大河ドラマ”どうする家康”に感化された訳ではありませんから、念のため。

史実をこれでもかとひん曲げる松潤演じる良い子の家康はもう沢山、家康のイメージぶち壊しです。まあ松潤が悪いのではなく脚本家が悪い?のですが。

家康本人はもっと狡猾でずる賢いですから・・信長といい秀吉といい台頭してきた武将は皆んなずる賢かった。手紙一本で敵をかく乱させる毛利元就なぞはずる賢さの権化です。乱世はずる賢かなければ生き抜いて行けません。

16日のバス便は東京駅八重洲南口発11:00なので比較的のんびりした出立となった。

いつものように八重洲口駅構内にある駅弁屋”祭り”に立ち寄り昼食用の駅弁を漁る。うまそうな弁当が沢山あり選択に迷ってしまうがどれでも車内に持ち込んで良いとは限らない。車内で食べるから焼肉など香りの強いものは避けなければならないのだ。結局いつものように柿の葉寿司を購入してJRバス発着場へ。

バスの運行掲示板を見てみる。11:00発名古屋駅行き・満席・・ありました。これでまずは一安心です。


時間が来たので乗車。今日日乗車チケット紙片は発行されません。予約したバス便のQRコードを自分でプリントするかスマホに取り込み乗車時に係員(運転手みずから)に提示して読み取りを受けてから乗り込みます。
山爺はQRコード読み取りでの乗車は初めての体験なのでこんなコピープリントでチェック受けて駄目だったらどうしようと不安だったのですが無事クリアー。(左画像はQRコードの見本で今回とは無縁)

いつの時代でも組織の仕組みが変わる時に負担が重くなるのは末端の現場で(係員・乗客)それ以外の者が手間が省け楽になり利益をむさぼる、楽して儲けているのは誰だ~。

定刻通りバスが発車、名古屋までは足柄SA・浜松SAの2箇所に立ち寄り、各々15分~20分の休憩があります。休憩時SA内のお店を見て回るのがちょいと楽しい。足柄SAからは間近に富士山が望めるのも楽しみの一つです。

順調に走っていましたが運転手から突然アナウンス『この先海老名付近が14kmの渋滞で遅れる見込みです』あらあ、今日は土曜日だからさもありなん・・・足柄SAに30分近く遅れて到着。時間挽回のためか休憩時間は10分に短縮、これではのんびりSA内のお店を見る暇がない、トイレ往復で終わってしまう。おまけに楽しみにしていた雪化粧の富士山も天候が思わしくなく、こんな有様です。(左画像)

さて、お楽しみの昼食タイム。今日は土曜日なので座席は満席ですが皆さんお行儀よくて大人しい。車内で喫食しているのは数人だけ。それも目立たなくて食べ易いパン食だ。駅弁広げたのは山爺ただ1人。構うもんか旅の恥はかき捨てじゃあ・・・。

うん、旨い、相変わらずいい味出してるねえ。食事のあとは睡眠、昨夜はなかなか寝付かれなかったので爆睡です。山爺の座席周りの人は、ガサガサ飯食ったり、食いカスたたんだり・昼寝と、忙しない爺さんだなあと思ったろうなあ。 (^^♪

浜松SAも10分程度の休憩で慌ただしく出発、随分と遅れを取り戻し名古屋市内に入ったときは5~6分遅れまでとなった。・・のも束の間で市内に入るとまたまた渋滞、結局名古屋駅に着いたのは定刻より40分ほど遅れの17時55分でありました。賢い人は名古屋市内の途中停留所で降りて地下鉄で移動してました。山爺もそうすればよかったと反省。

今日と明日の宿は市内の真ん中にある大きなサウナホテル。今日はのんびり風呂入って館内の居酒屋コーナーでビールでも食らって早寝しよう。

【関ヶ原散策】

翌朝は良い天気、9時2分発の東海道線に乗り一路、関ヶ原へ。9時49分関ヶ原駅着。意外と名古屋から近いんだなあ。

小さな駅舎を出て、目の前にある観光交流館に立ち寄り資料をかき集めいざ出陣。いやあそれにしても風が強くて寒いなあ。時々山の方から雪まで吹き飛んでくる。今日は冬将軍と
の戦いになりそうだ。

東海道線を高架道路で跨ぎ越して、いよいよ関ヶ原の古戦場へ進軍じゃあ・・5~6分も歩くと2020年に新設された”関ヶ原古戦場記念館”が見えてきた。5階建てで最上階は展望室、まずはここに立ち寄り関ヶ原の地形全体を俯瞰しよう。

入館料¥500を支払い中へ、観光スポット域内の施設なので多くは期待していなかったが。思ったとおり、急ごしらと見え展示物は稚拙でNHKの大河ドラマの番宣館にさも似たり。こんな展示場に長居は無用、とっとと5階の展望室へエレベーターでGo。


うん、これだよ、これ。ここの施設の価値観は関ヶ原全体がよく俯瞰できることにある。

小早川秀秋が陣取った松尾山がよく見える、石田三成の本陣、笹尾山は近いなあ。(パノラマの右上手の山裾)手に取るようだ。

関ヶ原盆地は東西4km南北2km、決戦場になった地域はさらに狭い。こんな狭い盆地に東西陣営15万人もの人々が大人しく連れてこられ、お互い見ず知らずの者同士が殺し合う。なんと人間は従順で愚かしい性(さが)を持った動物なんだろうか。

さて、関ヶ原の史跡には蝋人形があるわけでもなし歴史に興味がない人にはただの原っぱにしか見えない。歴史上の史実を知ってこそ面白いというものだ。合戦までの経緯を詳しくおさらいしよう。

【山爺の一言メモ】

多分に山爺の憶測及び私見が含まれておりますが洒落とご理解ください。問答や苦情には一切応じませんのでご了承ください。

関ヶ原合戦に至る要因のすべてが豊臣秀吉の計画性のない後継者政策にあるといっても過言ではないと思います。

秀吉には正室おねとの間は勿論のこと、多くの側室と子づくりに励んだが一人も子が出来なかった。つまり秀吉は種無しかぼちゃだったと思われる。政権を握るや後継者欲しさに親戚筋を中心にやたら養子縁組をする。豊臣秀次(秀吉の実姉の子)・小早川秀秋(おねの兄の子、甥子)・結城秀康(徳川家康の子)池田輝政など総勢7名、ほかに猶子(家督相続から除外の養子)として宇喜多秀家ら4名といった念の入れようだ。

ほかにも秀吉はおねの実家の木下家の従兄弟筋である福島正則・別所長治・加藤清正らを幼少のころより面倒を見る。実子の出来なかったおねは彼らを我が子同然に可愛がり育て上げ成人してのちは側近に取り立てる。・・皮肉なことにこれらの武将がいわゆる武断派となり関ヶ原の戦で家康側に加担し豊臣家滅亡へ追い込むことになる。

縁戚筋をかき集めて組織を固めた豊臣家、このまま推移すれば磐石なお家となるはずだったが織田信長の血縁である茶々(浅井長政とお市の長女、のちの淀)を側室に迎え、淀と秀吉の間に子が出来てから事態は急変する。我が子可愛さに養子縁組を次々と反故にするのだ。

秀秋は小早川家に養子に出され、関白の位まで譲った秀次には謀反の疑いありと難癖をつけて切腹に追い込み、秀次の正室や子女はおろか側室全員も妊娠しているかもという理由で京都三条河原で39人も斬首するという暴挙に出る。その中には殺されることすら分からない幼児が何人も含まれていたというから権力を持ったボケ老人はまさに気狂いに刃物だね。

だいたいに、正室や側室数十名と励んでも駄目だったのに急に妊娠するはずがない、それもすぐ第一子、鶴松が授かりその子が2歳で夭折するとすかさず秀頼を妊娠する。誰が見てもおかしいと思わざるを得ない。淀の本当の相手は側近の大蔵卿局(茶々のうば)の息子大野治長であるとの説が有力(秀頼は秀吉に似ず長身で治長も大男だった)だ。大河ドラマ”どうする家康”でも暗にそんな展開で描いていた。

それゆえ秀吉の子ではないと見抜いていた正室のおねは政変が起きた時に我が子同然に育てた小早川や福島正則らに豊臣側(西軍)に付くのではなく家康に味方するよう諭したのではと思う。

豊臣家は私と秀吉で築き上げたもの、どこの馬の骨ともわからん子を産んだ茶々ごときに天下を奪われてなるものか・・・といった考えが根底に有ったに違いない。つまり関ヶ原の合戦は本妻(おね)と妾(茶々)の争いでもあったのです。

しかしボケが少し始まった秀吉は我が子が授かった事に有頂天、自分の子であると信じて疑わない。なんとしても秀頼に後を継がせるべく五大老制度(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景・・うん?6人いるゾ とその行政機関として五奉行制度(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家)を発足させ、豊臣政権の強化を図る。

会社組織などで平社員の時はダメ男でも課長になったとたんに張り切ったり、隠れていた手腕を発揮したりするもので、その際たるものが軍隊の組織だ。

もしも、こんな制度を作らなかったら、すんなり家康に政権が移り豊臣家は大大名として生き残ったのではと考える。

秀吉の死後、家康の暴走を阻止するべく立ち上がった三成に残りの五大老達(毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・小早川隆景)が呼応する。中には三成から規則を振り回され『あんたは五大老なのだから』と叱責されし渋々西軍に与した者もいたに違いない。

西軍に与した五大老の中に前田家が抜けているが利家が病死後、家督を継いだ前田利長が当初は五大老に就任した。しかし対徳川の急先鋒となり家康と衝突、家康の加賀征伐へと発展してしまいあわや合戦か、となったが母親のまつらの説得で家康に下った。

その後は利長の息子利常と徳川秀忠の子女と婚儀を結んだりして徳川陣営に取り込まれる。おねとまつは木下藤吉郎のころから隣人同士で仲が良かった。ゆえに、おねを通して家康に仲介をとりなしたことは十分あり得ると思う。

余談ながら利常は聡明な人だったが家康に聡明さを認められるとお家が危ないと悟り、わざと鼻毛を伸ばしたり股間露出したりして愚鈍を装い懸命に家康に媚びた。その甲斐があって加賀百万石として繁栄し現在に至っている。

1598年秀吉が死去、すかざず家康は秀吉から禁じられていた届出なしの他家との婚姻をしまくります。三成に咎められると『おお、忘れておったわ』と惚ける。狸親父の面木躍如、決して大河ドラマのような良い子の家康ではないのです。

司馬遼太郎が著書”街道を行く”で解説していたと記憶しているが、関ヶ原の戦いを現代の出来事に置き換えると秀吉社長の死後、跡目を徳川専務が狙う。それを見とがめた石田総務課長が社長の息子秀頼に跡目を継がせるべく徳川専務に立ちはだかったものだが、やっとこ課長と専務では最初から勝負は見えていたと・・言い得て妙です。

この総務課長は頑固一徹、正義は我に有りとして一歩も引かない。いつの時代でもいますなあ、規則を振り回して相手を追い詰める人が。正義があれば必ず勝つと張り切っちゃう。いつも正義が勝つなら世のなか平和で戦争は起きない。正義の主張と横柄は紙一重、三成も然りで周りからの人望は得られないし本人も納得している。このような性格で朝鮮征伐の実務を取り仕切ったからたまらない。秀吉にいいも悪いもすべて告げ口し放題、武断派の福島、加藤らから恨まれることになるのは周知の通り。

三成と家康のにらみ合い、前田常務(前田利家)が生きているうちはなんとか抑えられていたが常務が死ぬともう行けません、結局、秀吉社長が死んで2年後の1600年9月、関ヶ原の合戦にと発展する。

石田三成率いる西軍8万人、総大将は5大老の一人の毛利輝元、家康の東軍は7万5千人、東軍にはこのほか徳川秀忠率いる直営軍3万8千人がいたが信州上田の真田昌幸・信繁親子にちょっかいを出して大苦戦、関ヶ原の合戦に間に合わなかった。なぜ家康は劣勢の中、秀忠の到着を待たず戦に挑んだのか。

もともと毛利家は初代元就の頃より”決して天下を狙うな、西国だけで十分”という家訓がある。今回の戦も五大老だから担ぎ出されただけで、総大将任命は大迷惑と思っている。しかしながら家康が上杉景勝の討伐のため大阪城を出たと知るや長州から小型の早舟に乗り脱兎のごとく馳せ参じ、たった2日で大阪城に乗り込んでくる。この人はいったい何を考えていたのだか。

輝元自身もこの争いは家康と三成の私闘であって豊臣家は関係ないと思っている節がある。それが証拠に総大将でありながら最後まで大阪城に留まり関ヶ原には出陣していない。家康から内々に戦に加わらなければ本領は安堵するという起請文も受け取っていた。

家康さんは筆まめで全国の武将に100通以上の書状をしたため、味方すれば1国をとか、倍以上の所領を与えると約束しまくった。だか戦後は西軍の大将、毛利輝元をはじめ随分とこの約束を反故にしてしまう。そうです、家康は狡猾な狸と言うより狐親爺でもあるのです。

ところがふたを開けると思いのほか西軍に与する大名が多くなった。家康は考えた。毛利輝元は所詮は愚鈍で凡将、多勢を背景に欲が芽生え、いつ気が変わり豊臣秀頼を担ぎ出し出陣するかわからない。秀頼が出てきては福島・加藤・小早川とて西軍に付かざるを得なくなる。そうなると東軍の旗色が極めて悪くなる。息子秀忠の到着なぞ待っていられない。輝元の気が変わらんうちに一刻も早く三成と決着をつけなければ・・と。

西軍の三成は関ヶ原の近傍、大垣城に6000名の兵を率いて入り東軍を迎え撃つ準備をする。関ヶ原の南方にある南宮山には毛利の軍勢約3万人(毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家ら)が、西方の松尾山には小早川秀秋1万5千がすでに布陣している。家康が大垣城を通過して関ヶ原に入ったらまず毛利勢3万の勢力で挟撃して打ち取る作戦だ。

三成の読み通り家康勢は大垣城を攻めるでもなく夜間に城を通過する。絶好の挟撃作戦の機会かと思われたが実際はそうならなかった。

①毛利勢は家康にすでに調略されており動こうとしない

②家康勢が佐和山城(三成の居城)を攻略するとの情報を得た(家康の流言で攻める気はさらさらなし)

これに慌てた三成は夜半に移動を開始し飲まず食わずで雨の降る中、午前1時ころ関ヶ原の笹尾山に布陣する。多くの武将がこれに従い、やはり飲まず食わずで関ヶ原に先回りし笹尾山周辺に散開布陣する。

西軍の兵の多くは飲まず食わずのまま戦闘に突入した。一方の東軍は途中で休憩し不十分ながら食事も採ったと思われる。家康は兵たちに雨中なので火が使えないが乾飯(α米)を十分水に浸してから食するよう(硬いまま食べると腹壊す・・山爺注)指示したとの記録が残っている。

栄養学者によればこの差は大きいという。開戦は午前8時、激戦の12時ころ西軍の兵の多くが低血糖値に陥り動きが緩慢になったのではと分析している。

さて、両軍の布陣だが西軍の多くが戦闘に有利な高所に布陣している。一方の東軍は盆地の真ん中を脳天気に進んでそのままのような陣形だ。

明治18年3月、ドイツから陸軍大学校の教育顧問として来日したメッケル少佐にこの布陣図を見せたところ即座に西軍の勝ちと分析している。

素人の山爺でも分かる。高所に布陣した西軍に囲まれて東軍は逃げ場がない。あっという間に押しつぶされるだろう。が、実際はそうならなかった。家康さん事前の根回しによほどの自信があったのだろうなあ。毛利勢3万人もが布陣している南宮山のすぐ下にある麓の桃配山に本陣をおく豪胆ぶりだ。

西軍8万5千人のうちまともに戦ったのは石田三成6千・大谷吉継4千・小西行長4千・宇喜多秀家1万7千、計3万1千くらいで、小早川・毛利・吉川・安国寺・長束らはすでに東軍に調略されおり戦いを傍観、動かないでいる。

これまで小早川秀秋(左画像)の裏切りで東軍が勝利したと伝えられてきたが小早川は周囲の立場上、西軍に入っていただけで当初から東軍側だった。それを裏付ける手紙が近年次々と見つかっている。

秀秋は松尾山という関ヶ原全体をよく俯瞰できる戦略上最も優位な山に早々と陣取っている。通説では日和見していてまごまごしてたところ家康から脅しの鉄砲を打ちかけられた、所謂問鉄砲を掛けられたので慌てて東軍に寝返った天下の裏切り者と言われてきたが、山爺はそうとは思わない。

合戦当初から、東軍に付くつもりでいたが戦闘開始直後から西軍が押している。おや、これは?と弱冠19歳の秀秋は悩みだしたに違いない。正午近くまでは西軍が優勢、このまま西軍が勝ってしまうのではと、決心しかねていると家康から派遣されていた戦目付奥平貞治に『家康殿に逆らうと後々面倒ですゾ』とか脅かされ仕方なしに西軍に攻め込んだのだと思う。秀秋自身は今まさに自分が戦いのイニシアチブを握っているとは思っていない。

イライラした家康が秀秋陣に鉄砲を打ちかけて催促した所謂”問鉄砲”は後世の作り話です。当時の鉄砲の射程距離は100m、松尾山の山頂まで届きっこないし銃声は各所から起きているので判別不能だ。

こうして無傷の1万五千もの大群が松尾山から駆け下りまず大谷吉継勢に襲いかかる。付近に布陣していた西軍の脇坂保治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直安らもこれを見てあとに続く。
彼らも当初から家康側に寝返っていたが小早川の動きを見守っていたに違いない。

互角で戦っていた西軍に横槍が入ったからたまらない。西軍は総崩れ、午後2時ころには三成本陣すぐ下まで東軍が押し寄せ勝負あり。(関ヶ原決戦地とした記念碑がある、左図)

秀秋は予定通り家康の味方をしたのです。それが証拠には戦後秀秋は家康から岡山藩55万石を与えられ大大名となります。ところが2年後に謎の死を遂げる。秀秋には子がなかったので家禄没収・お家断絶の憂き目に遭う。7歳の頃より飲酒しており12歳の頃には重度のアルコール依存性だったので酒による内臓疾患説が有力だ。

そのほか良心の呵責により精神を病んだためという噂もあるが健常だった21歳の若者がそうも簡単に病死するもんだろうか?。真相はどうだろう、山爺はこう考える。

戦後家康は考えた。このままではわしが陰謀を巡らし汚い手を使って勝ったと思われ民衆から因業親爺の烙印を押されてしまう。ここは苦しい戦いだったが小早川秀秋の小倅が突如裏切ったことで勝利が転がり込んできた、ということにしよう。と忍びを使って噂を世間にばら撒いた。そして”死人に口なし。悪いが秀秋には死んでもらう”と刺客を振り向け抹殺、さらに秀秋は大谷吉継の祟で呪われ狂死したと言う噂を流させたのでは。

京都の神官、神龍院梵舜が書いた舜旧記によれば”秀秋が死してまもなく秀秋の兄弟3人も相次いで急死した。諸人不可思議なりと噂した”とあることからもその死には謎が残る。

戦闘は午後2時ころ大勢が決まったがこの間、家康に内通していない武将でありながら、1兵たりとも動かずじっとしていた西軍がいた。島津義弘隊1500名だ。関ヶ原の前哨戦で三成に軽んじられたためへそを曲げ再三の参戦要請にも『この戦は各隊めいめいの判断によりするものだ』と言って動かなかった。

西軍敗戦濃厚の午後2時、義弘は突然動く、退却するなら西側の京都方面に逃走するはずだが、なんと東軍主力がいる真ん中へ分け入った。『我々は退却にあらず進軍だ』薩摩武士は頑固です。あまりの勢いに東軍の多くが道を開ける。家康の下知も『構うな、捨て置け』だったが、井伊直政・本多忠勝らが追撃、激しい戦闘になった。

島津勢は義弘の甥の豊久はじめ多くが戦死、関ヶ原を抜けた時には300名に減り、さらに各地でも追撃を受けて無事薩摩にたどり着いたのは80余名だった。一方の直政・忠勝軍も被害は大きかった。直政自身も足を鉄砲で負傷、この傷が元(死因は鉛玉の中毒説)で数年後に死去する。

敗戦確定を見定めた三成は戦線離脱し再起を図ろうとするが捉えられ小西行長・安国寺恵瓊とともに京都三条川原で斬首される。

以上が関ヶ原合戦のあらましだ。

まず、展望フロアからよく見えた石田三成の本陣跡に行ってみよう。



雪混じりの風が吹く中歩き出す。『寒いなあ』要所に案内板があるので道迷いはない。途中で車道をそれて田んぼ道を15分も歩くと決戦地と呼ばれる記念碑に着いた。


このすぐ先の丘が三成の本陣だ。ここは東軍が攻め込んで勝利を確信した地の意味らしい。

ここから100mくらい先が三成の本陣跡で防護柵が復元してある。
階段を登り三成本陣へ進入。三成が詰めた場所はここから77mほど上の小高い丘(標高198m)にあるので少々山登りを強いられる。
ひいふう言いながら三成陣屋の最奥部に到達、ここから三成や島左近が戦闘の模様を観測しながら一喜一憂したかと思うと600年の隔たりも吹き飛び合戦の模様が蘇る。
三成は事前に下調べしておいてこの笹尾山が関ヶ原全体を俯瞰するのに絶好の場所だったことを知っていたに違いない。実に良く関ヶ原全体が見渡せる。

東軍は平坦地に布陣、西軍は各隊ともに小高い丘に布陣、どう見ても西軍が有利だ。三成本人がこれらの布陣を見たとたん勝ったと思ったのも頷ける。

南宮山や松尾山という絶好の位置に布陣した毛利勢・小早川勢あわせて4万五千が山を一気に駆け降れば徳川勢の総崩れ間違いなし。決着はすぐにつく。

まさか両軍とも家康に調略を受けているとは・・・哀れなり三成。




三成本陣から決戦地までが意外と近いのに驚いた。人の顔の区別まで出来、大声をあげれば声が届きそうな距離だ。





さて、次は開戦の地という場所に移動しよう。道案内に添って西に移動する。小西行長・島津義弘・宇喜多秀家ら西軍の陣屋跡と書いてある案内板に添って歩く。実際歩いてみると陣屋までの道が上り坂なのがよくわかる。やはり西軍の諸将たちは戦局に有利な丘に布陣していたんだなあ。

島津軍の陣屋跡です。ここから目と鼻の先が宇喜多秀家・小西行長率いる西軍と福島正則・井伊直政らの先鋒同士が口火を切った開戦場所です。

午前8時から午後2時までの6時間も目の前でドンパチやっているのにじっとして動かない義弘。生半可な根性ではありませんなあ。

島津隊の陣屋を別角度で見てみる。やはり小高い丘になってます。当然、当時木々はなかったか、あっても事前に伐採されたでしょう。

ここから5分も歩いたところが小西行長の陣屋と開戦地跡だ。この地で東軍の先鋒、福島正則が霧が消えたら先陣を切ろうと手ぐすね引いて張り切っていた。
そうはさせるものかと、正則の鼻先を井伊直政・松平忠吉が霧に紛れて通り抜け、文字通りの抜け駆けで西軍に鉄砲を打掛け開戦(豊臣恩顧の正則が先陣ではまずいと抜けがけ命じたのは家康とか)。面子潰された正則は大激怒、こうして戦が始まった。

小西行長隊6千が陣を敷いた跡地です。



この開戦跡地から15分も西に歩く。途中から緩い登りとなり北天満山に着いた。
ここが西軍の主力として奮戦した宇喜多秀家1万7千の陣屋跡だ。実際に現地を歩いてみると西軍はいずれも小高い丘に陣を敷いて家康を待ち受けていたんだなあということが良くわかった。

歩きながらふと、ここ関ヶ原には土産物屋もコンビニもない。自販機だって道端にないゾと気がついた。

よその観光地なら三成饅頭屋とか島津だんご屋が軒を並べているはずなのに、ここは当時の原っぱのまま、よく保存されている。あ、そうか。ここは国の指定地だから設置認可が下りにくいんだ。と気がついた。なるほど日本にもこういうところがあるんだなあ、と再認識した次第です。

3時間ほどかけて古戦場を歩き回り充実した気分になった。もう歳だし山歩きも良いがこういうハイキングもありだなあ。さて関ヶ原合戦と関連のある大垣城へと移動しよう。

【大垣城】

関ヶ原駅から大垣駅までは2駅、13分くらいで到着する。南口から20分くらい歩いて。ふと右を向くと横丁の向こうにいきなりお城が見えた。小ぶりながら美しい面構えの城である。
関ヶ原合戦前夜ここに石田三成軍6千が入城し家康と対峙すべく立てこもった。が、夜間に着いた家康は休むことなく大垣城をスルーする。家康は城攻めが苦手で野戦が得意。何としても野戦に持ち込みたい家康はここで一計を案じる。三成の居城佐和山城を攻略するとの噂を流すのだ。                             当初の作戦は毛利勢と石田勢で家康を挟み撃ちにして打ち取る計画だったが我が家が(佐和山城)危ないと知った三成は大慌てで西軍諸将を引き連れ夜半雨のなか飲まず食わずで関ヶ原に先回りして布陣することになる。

夜間大垣城横を通り抜け何万もの大群が松明つけて南宮山の方へゾロゾロ、光の帯となって続く、大迫力ですねえ。
こんな光景見たら見たら誰だって恐怖を感じて尋常ではいられない。ましてや居城の佐和山城危うしとなれば三成さん、焦るわなあ。戦略にかけて家康は三成より2枚も3枚も上手であることが、このことからも分かります。
城からは関ヶ原の南宮山がよく見えます。当時は大きな建物がゼロだからさらによく見えたでしょうねえ。近いがゆえにいつでも行動を起こせる。三成はまんまと家康の計略にはまり関ヶ原へと急いだ。
三成が笹尾山に着いたのは午前一時、近いと言っても大垣城から関ヶ原までは13kmくらいある。馬ならばともかく徒歩で進む兵士は負担が大だったろう。一方の家康が桃配山に陣を敷いたのが午前6時、ずいぶんゆっくりな進軍だ。家康のことだ、兵士に負担がかからぬように食事をとらせながらゆっくりと歩かせたに違いない。かくて関ヶ原の合戦は戦う前から用意周到で西軍を振り回した家康に軍配が上がった。

【大須界隈】

名古屋に戻ってきました。今日の夕食は?名古屋名物の味噌カツで一杯やるか。ちなみにホームページに名古屋味噌カツと打ち込むと矢場とんという店がヒットする。大須観音(左画像)の門前町?の大須商店街の中にあるようだ。
大須商店街は時々TVの旅番組に取り上げられる大阪の難波・新世界みたいなごった煮然とした街だ。まずは町並みを歩いてみよう。
商店街の中に演芸場がありました。と思うまもなく商店街のど真ん中に古墳です。さすがは名古屋、カオスだなあ。

。
さて、目指す矢場とんです。お、雰囲気出てますねえ。
何にしようかな。
とん呑みセット¥1600なりと言う看板が目に入った。お手ごろじゃん。これに決めた。
2組入店待ちの客が居る。待ち札10番を貰って山爺も並ぶ。

うなぎの寝床のようなごちゃごちゃした店内を案内されて奥へ、コロナ対策でアクリル板で仕切ってある2人かけの狭い席に着席。

お酒はビール、酎ハイ、ハイボール、なんでも良いらしい、ハイボールをチョイス、最近めっぽう酒が弱くなったので舐めるようにチミチミやっていると、セットメニューがばらばらに到着。

焼き鳥、大根、甘味噌がしみて旨い!。味噌カツも味噌だれがよく合うわ。もう一杯お代わりしようと思ったが我慢。

さて、お勘定。席を立って会計場へ、『おいくら万円』『¥1900です』『ん、¥1600じゃないの?』『席料が¥300です』げえ、あれでも席かい。セットメニューのどこにも席料いただきますと書いてないぞ、石田三成ではないが、だまし討にあってしまった。尾張人恐るべし。

【名古屋城】


今日は帰宅日、予約したバスは13時30分だから午前中に名古屋城を見に行こう。今日のバス料金は東京駅まで¥2700、安くて思わず笑みが出るわ。

名古屋は縦横に地下鉄が走っており移動にすこぶる便利だ。名城公園で下車、正門から入場すべく外堀を歩き始めたが、天下の名城、いやあ大きいわ。やっとこ正門について中に入ろうとふと脇を見て驚いた。
2018年から天守閣の中には入れませんだとう。聞いてないよぅ~。そう言えば名古屋城は近々木造に作り変えるとか、そのときに毎度お騒がせな何とか市長がエレベーター付けるの付けないの騒いでいたことを思い出した。お城の建て替えは耐震性のためだったのかと得心した。
入場料¥500を払って入城する。朝食がまだだ。       
腹が減っては戦ができぬ。中にある休憩所に入り団子とへら焼きで腹ごしらえ。これが観光地にしては旨い。

間近で見る名古屋城はさすが迫力があります。こんな立派な建物が耐震性がないとは、にわかに信じられません。
有名な金のシャチをアップで捉えてみます。さすが立派なシャチですがこれって純金?メッキ?・・・正解は木造のシャチに金板を貼り付けたものです。江戸時代の建造時は一対で使われた金は200kgあったそうですが残念ながら戦災で焼け落ちました。張り付けと言えどその量は相当なもので明治以降でも3回盗難にあっているそうですが、いずれも換金時に逮捕されているそうな。戦後再建されたシャチは一対あたりの使用量は88k、それなりの価値は今でもあるようです。

石垣の積み上げ技術は相当なもので下手をすると現代の技術を凌ぐ技量だとか。





清正石という石があります。名古屋城の石垣中最大の大きさです。優に人の背丈以上あります。この石垣は黒田長政の受け持ち区域だったのですがあまりの大きさゆえ普請名人の加藤清正に任された。・・・・と、説明版に書いてある。





400年ぶりに復元された本丸御殿に入ってみる。2009年に着工、2018年に完成しました。総工費150億円です。

襖絵、欄間の彫刻など豪華な感じはするのだがなんか全体的に雅さがないんだよなあ。
畳は薄っぺらそうだし、柱は細いし・・なんだかなあ。
予算が足りなかったのかなあ。





家康が『俺が作った本丸御殿はこんなもんじゃあないゾ』
の声が聞こえそう。

京都の二条城みたいな重みがないんだよなあ・・・と思うのは山爺だけだろうか。



山爺はもともと豪華絢爛は趣味ではない。金閣寺より銀閣寺といった、わびさびが好みだ。そのせいかも知れないな。
正月を挟んだこともあり旅行からずいぶん時間が経過してしまいました。やはり歴史背景のある文章を纏めるのは時代考証を入念にしなければならないから筆の進みが遅い。歴史小説家って大変なんだなあと実感しました。

【川柳】
・古戦場 われ戦うは 冬将軍
・味噌カツに 席料という名の 隠し味 
・セット品 席料も付く 大須店
・不落城 規則に勝てず 開城し
・名城も 法に攻められ 落城し
   
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2023年10月13日金曜日

山爺のつぶやき(那須朝日岳遭難考)

 10月6日は久方ぶり(3ヶ月)のゴルフ、平日だったので、かつて女子プロのオープンコンペも開催された栃木市にある老舗のTゴルフ場を予約、プレーすることができた。前日5日は低気圧が通過して雨模様、6日は晴天ながら午前中からやや強い風が吹き午後からはさらに強い北風が吹き込んでゴルフに少し影響が出た。

翌日7日正午のニュースを筋肉痛をさすりながら見るともなく見ていたら驚きのニュースが飛び込んできた。”那須の朝日岳(1896m)で男女4人が遭難、4人とも心肺停止”・・

え?あの朝日岳で今頃4人も?

山爺は二十歳の時に、知人に誘われて初めて本格的な登山したのが那須連山(茶臼岳・朝日岳・三本槍ヶ岳)で三斗小屋温泉大黒屋に宿泊しての1泊2日の山歩きでした。

ランプの灯る宿や今持って白煙をあげる火山噴気孔、樹木が全くなく鎖場もある岩山の登山、それまで歩いたハイキングとは全く別世界の山歩きに魅了され爾来この山が気に入り冬山も含めて今日まで何十回となく登り続けています。ゆえにこの山で起きる事象は気になるのです。

ニュースを聞いた刹那、ははあ、昨日の強風が災いしたなと思った。すぐにPCを稼働させて記事を検索し拾い読みする。内容が錯綜して要領を得ないが、およそ次のようだ。

遭難したのは2パーテイ、ひとつは栃木県央の男1(69)女2(72)(79)のグループで全員死亡、もうひとつは大阪から入山した男2人のパーテイのうち一人(65)が亡くなった。いずれも高齢の方々ですべて低体温症による凍死である。

どこの報道内容も遭難死、遭難死と書きまくっているだけでいつ入山してどんなルートを辿ってどこで倒れたのかが示されていない。装備も軽装ではなく山の上着を着用していたとあるが一体山の上着とは何なんだ。報道には締切時間があるとは言え、山の上着と書いてしまうとは、笑える。

那須・朝日岳で男女4人遭難死、隣の茶臼岳に登った男性「吹き飛ばされそうな強風だった」 (msn.com)

散々調べたところ大阪のパーティは前日、山中にある温泉宿(三斗小屋温泉)に宿泊し大峠⇒三本槍ヶ岳⇒清水平⇒朝日岳(あるいは登頂前に)⇒分岐付近で一人が低体温症で動けなくなり、もうひとりが電波の届くところ(剣ヶ峰そばの峠、峰の茶屋)まで移動して午後0時25分ころ救助要請したようだ。

県央グループの方は6日の朝ロープウエイ駅の上にある駐車場登山口から入山、遭難時間から逆算すると8時頃から登り始めたのではと思う。

午前中は小雨は降っていたものの風は弱かったと報道にある。恐らく10時から11時には朝日岳山頂には立ったのだろう。健常者であれば2~3時間もあれば山頂に立てるはずだ。朝日岳登頂を果たして下山途中に天候が急変し避難小屋まであと20分くらいの地点で低体温症に陥り動けなくなったようだ。彼らが動けなくなっていたところを大阪グループの救助要請者がその横を通過している。(当人による目撃証言)

別の画像(左画像)から遭難地点を見てみよう。下部に見えるのが登山者用の無料駐車場でトイレも完備。車で来る人はここに駐車して登山を開始する。

今回の遭難は深い山中で起こったのではない。道迷いなぞ起きようもない人里近くで起きてしまったのである。

朝日岳へのルートは途中に鎖場もある。ニュースでは鎖場のある険しい山岳と解説していたが誤った情報だ。

鎖場といっても本格的に岩場を登攀する為のものではなく登山道の補助としてついているだけで多少スリルが味わえる程度だ。好天に恵まれれば5歳児でも山頂に立てるだろう。

那須連山は火山なので山頂付近は樹林が育たない。ゆえに2000m級の山ながら、あたかも3000mの稜線を歩いているような雰囲気が味わえ、朝日岳には別名にせ穂高と呼ばれるくらい格好がよく人気の山なのである。

加えて茶臼岳・朝日岳はアプローチも短かく登山道もよく整備されているので初心者向けの山と紹介されているが、とんでもないことである。

それは好天に限ってのことといっても過言ではない。

今回のようにひとたび天候が変わればこの山は樹林のない坊主山なので登山者に牙を剥き、毎年のように遭難騒ぎが起きる山なのだ。今年の5月にも若い男女が遭難し救助されている。

ゆえに里山ハイキング程度しか経験のない者だけでの登山は避けたほうがよく、那須連山について経験豊富な者の同伴が望まれる。

5日~7日の天気図にアクセスしてみると10月初めとは思えない立派な西高東低、冬型の気圧配置である。那須連山は日本海と太平洋の境界線上にある山々なのでこんな天気だと北西の強風が吹き抜ける。

特に朝日岳の途中にある剣ヶ峰の左右は鞍部(山の低いところ)なのでとりわけ強風が吹き抜ける。

昔、三斗小屋温泉、大黒屋のおやじが酒の上の冗談で、強風の中、無理して峰の茶屋峠を越えると人間が旗竿の旗のようになびいてしまうとか。 (^^♪

その時はまさかと思ったが、ある冬の日、当時は越冬していた大黒屋のおやじを訪ねるべく峰の茶屋峠を越えようとしたが猛烈な風に阻まれて大苦戦、ピッケルを刺し、刺し、ほふく前進でようやく峠を越えた。このとき、ああ、あの時の冗談は半ば本当なんだなあと得心した。強風中を進むときにウインドヤッケのフードをだらしなく開けていると風が吹き込み背中が膨らみ防寒の用をなさなくなることもこの時学んだ。風雨の状態だったら冷たい水も一緒に体内に侵入し悲惨な目に遭うことは間違いない。

6日の天候は11時ころより天候が崩れ始め風雨が強くなりだした。ロープウエイ山頂駅での気温が4.5℃・風速20mを越えており正午から下り線のみの運行に切り替えたほどだ。

体感温度は風速1mごとに1℃下がると言われているから当時の体感温度は-15.5℃だ。体が濡れて風雨にさらされ続けたらひとたまりもないだろう。

そんな環境下に濡れた体で晒されたら15~20分で低体温症の症状(歯がガチガチなど)が出て30分で意識はあってもいきなり体が動かなくなるそうだから恐ろしい。亡くなった大阪の登山者の職業は医師なので低体温症の知識は十分に持ち合わせているだろうに。

複数の記事が瞬間風速は80mを越えていたとあるがにわかには信じられない強風だ。

あまりの強風に救助隊が避難小屋のある峰の茶屋峠に到着したのが2時過ぎ、風雨が強くてそこから先は進めなく午後5時、この日の救助活動を断念、翌朝に持ち越されたことも不運であった。

遭難者たちはツェルト(非常用簡易テント)を持参していなかろうから風雨の中で一晩持ちこたえることは100%不可能だ。あるいは救助隊は遭難した4人はすでに死亡していると見切ったゆえの救助延期だったのかもしれない。

なぜ、彼らは遭難したのか。表向きには6日午後からの天候の急変で低体温症に陥り動けなくなり凍死したとあり、遭難者に対し辛辣な批判は避けている。

低体温症を避けるうんちくについて知識人?や評論家?たちが述べている。

①防寒具や雨具を着用する。

②アルミシートやツェルト(簡易テント)を持参

③体温を上げるには甘いものやカロリーの高い炭水化物を摂取する。羊羹・チョコなど。

いちいち、もっともなご意見だが、悪天候の最中では、のんびり羊羹食ったりその場でアルミシートかぶって停滞する気には絶対になれない。

山爺が若い頃の体験で8月の3000m峰(南ア塩見岳)に入山後(山小屋泊)、台風に遭遇したがやんちゃだったので毎回稜線に出てみては風雨に撃退(小石が飛んでくるのでメガネも外すほど)されて濡れそぼりになり(首と袖から水が入る)寒さに震えながら山小屋に戻った。

今思うと低体温症の一歩手前だったかも知れない。あの当時、低体温症という名称はなかったなあ。疲労凍死という言い方だったと思う。この名称だと冬場しか起きないと勘違いするので名称を変えたのではと思うなあ。

寒さに震えながら思ったことは、羊羹食おうでも、シート被って緊急避難でもなく一刻も早くこの場を離れて、ひたすら山小屋目指して帰ることだけだった。

ここからは山爺の私見なので読み流しとしてください。

【防寒具や雨具】

遭難者たちがどんな服装をしていたのか”山の上着”では判別出来ないが、朝のうちは穏やかだったようだからダウンジャケットを羽織っていたのではないかと思う。これだと風には強いが雨に濡れると逆効果となる。裸で濡れタオル羽織って扇風機の前に立つようなものだ。

また雨具と一口に言うがその性能は千差万別で右表のように大雨時には10,000mm以上の耐水性が要求される。これ以下だと雨が徐々に浸透して衣服を濡らす。

ちなみに傘の耐水性は200mm~500mmです。

ただし耐水性が高くなれば比例して雨具の重さも重くなり購入代金も高額になるので用途に応じた使い分けが肝要だ。

山爺はゴルフでは2000mm程度の安物(軽いから)を使っているが、これだと無風の雨中でさえ2~3時間もラウンドすると薄っすらと体が湿ってくるので山では使えない。

山で使うには15000~20000mmは必要なのではないかと思う。しかしながらスポーツ専門店でその性能の雨具を求めようなら店員に『命を預けるものだから良いものを選びましょう』とかなんとか、おだてられ2万円以上のものを押し付けられるからご用心。山爺は同等の性能の雨具をワークマンで¥6000くらいで手に入れてザックに入れている。

また良い雨具といえど長いこと使っているとコーティング薬品が劣化するのでまめにシリコンスプレーで手入れすることが必要だ。山爺は登山前に必ずシリコンスプレーを掛けておく。

遭難した方々がダウンジャケットではなく雨具を着用していたのだとしたら、どんな雨具を装備していたのか?あの悪天候でも無事に生還した人々が数多くいたのだから生死を分けたのは雨具にあったのではと思えてならない。

【天候の急変というが】

入山前に天気図を下調べしておけば急変ではなく当然の気象変化だと分かるはずです。その日に登山口に着いて上空を見て、ちょっと曇っているけれど大丈夫だろう程度の判断で山に入る人のなんと多いことか。正常性バイアスの考えはこと山に関しては危険思想です。

【山爺の一言メモ】

正常性バイアス

危険や脅威が迫っていることを示す情報に対して、過小評価してしまう傾向のこと。確かに危険が迫っているのに臆して縮み込んでいては助かる命も危ういので勇気を持つことは必要だが時と場合によりますねえ。

大阪のグループも前日入山して宿泊していたのだから出かけるのは仕方がないとして、なぜ、予報を無視して大峠⇒三本槍ヶ岳⇒清水平⇒朝日岳⇒峰の茶屋⇒駐車場と計画通りのロングコースを選ぶのかなあ。温泉宿の人から早く下山するようにアドバイスを受けていたようなのに。

三本槍ヶ岳あたりで天候が悪化しだしたはずだ。それなのに、なぜ引き返さずさらに進んで風雨の強い地帯を通って帰ろうとするのか?。遠回りになるが一旦温泉宿に戻り沼原経由の樹林帯を選んで帰るとか。他に安全な選択肢はいくらでもあったはずだが、・・・

乗用車を利用して麓の登山者用駐車場に車を止めていたとなると事情は大きく変わる。無理しても元の所(駐車場)に戻ろうとするだろう。

彼らの根底には正常性バイアスと”せっかく来たんだから”の思想が働いたに違いない。

①せっかく来たんだから

②行けるとこまで行こう

山爺はこの2つの言葉が大嫌いである。この2つの考えはこと山に限って言えば遭難のもととなる。

山爺の谷川連峰での実体験に、こんなことがあった。

山爺が雨中、単独で入山、濡れネズミになりながら(もちろん外套だけ)午後1時ころようやく山小屋にたどり着いて一息入れていると5~6人のパーティのリーダーらしき人が

『せっかく来たんだから空身で〇〇岳にアタックしよう』・・・でた~!、せっかく来たんだからのお題目が。

え~ぇ!?この雨の中、滑りやすい岩場のあるところ通過して、しかも何も持たず?アタック(攻撃)?だってぇ、戦(いくさ)にでも行くんかい。・・あ~やだやだ。こんなリーダーとはとっとと別れたほうがいいよ。と頭の中で呟いた。

行けるとこまで行って進退極まって救助要請する人々のなんと多いことか、今は携帯で救助要請が簡単に出来るのでいとも簡単に救助をお願いしちゃう。救助隊もたまったものではないねえ。

猫の木登りじゃあないんだから、行けるとこまで、ではなく、行って戻れそうなところまでとなぜ思わないのかなあ。


【山爺の悪天候時の山歩き信条】

①また来よう・・・神様(天気)には勝てない。三十六計逃げるに如かず、温泉で一杯じゃあ。

②戻れるうちに引き返す・・名将は常に退路を確保しながら戦う

【川柳】

・行けるとこ そこまで行って 救助され

・せっかくと 無理を重ねて 災厄に

長々ととりとめのない文章を書いてしまいました。目を通していただき深謝・深謝。

追伸:温泉宿煙草屋には前日(5日)30人の宿泊者がいた。夕食時、宿の主人が明日は天候が崩れるので早めに下山するように、遠回りだが樹林帯の中を下山し沼原からタクシーで帰るのが安全と呼びかけていたようです。素直に受け止めて3組の方々は翌朝に(10人くらい?)タクシーを呼んでそうしたようです。・・その方々は命拾いしたのかもね。

4人死亡の山岳遭難 「やめた方がいいのでは」旅館主は声をかけた (msn.com)

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2023年9月20日水曜日

小田原城へ行ってみた。帰ってきたらコロナに感染

 
8月初めに購入した青春18切符の残りがあと3回ある。有効期限は9月10日まで。9月1~3日で名古屋を拠点に岡崎城・岐阜城・大垣城と歴史事件上関係の深いお城巡りでもしようと考えていたが、その矢先に長女がコロナに感染してしまったので山爺も待機を余儀なくされた。

幸い山爺には症状は出ていない。日帰りなら出かけてもよかろうと前々から行きたかった小田原城まで足を運んだ。青春切符の購入代金は¥12050、仙台まで往復は正規運賃だと¥11000、小田原往復運賃が¥4600だから合計¥15600となり下衆な言い方によるがこれで元が取れた。これにより残り2回分での名古屋旅行は運賃がただで行ける勘定になる。いいねえ。

山爺が利用する最寄駅からはなんと熱海まで直通列車が運行しているので複雑な乗り換えなしで小田原まで行くことができます。

早朝にJR最寄駅から各駅停車熱海行に乗り込む。途中大船駅で隣のホームに入線する快速小田原行に乗り換えるだけで10時14分、難なく小田原駅に着いた。

小田原駅に降り立つのも久しぶりである。久しぶりなんてものではない。40年以上も前になろうか。山爺が企業に勤務していた頃、ある委員会の委員を拝命していたことがある。

各地にある事業所から委員が集まり事業所持ち回りでテーマに沿って会合を開き、報告書にまとめ上げる。報告書のまとめ時期になると当該事業所が保有している健保の保養所に缶詰になってまとめ上げるのが慣習となっていた。

あるテーマのまとめ時期に運悪く(開催当番に当たると会場準備や費用の捻出など大変です)小田原の事業所が当番になりその直営保養所(有名観光地・温泉付き)で報告書をまとめたことがあった。

その頃全国にあった直営の健保保養所はバブル崩壊とともに消え去り今は契約保養所が残っているだけになった。

たしかその帰りに委員の有志と共に?(あるいは駅で皆と別れて山爺1人のだったかも)三々五々小田原城を見学してから解散した記憶がある。

今となっては良い思い出となっているが委員の皆さん元気にお過ごしだろうか。当時、山爺が最年少だったと記憶しているので、もう鬼籍に入られた方もいるんだろうなあ。

小田原駅東口を出てすぐ右折し5分も歩くと小田原城の天守がビルの上からちょんと飛び出して見えて来ました。駅から一番近い北入口から場内に進入、いざ突撃じゃあ。

小田原城の概要は以下の通り。

【山爺の一言メモ】

小田原城は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭が前身とされる。城の規模や築城年は明らかになってないが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられている。

1500年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していく。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達した。
しかし、天正18年(1590)、石垣山(一夜城)の築城という前代未聞の秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えた。小田原城(本城)は7月5日に開城(落城ではない)したが支城は忍城(行田市)のみが7月16日になっても落城せず戦い続けたことは映画のぼうの城に詳しい。

北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参陣した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修された。その後、大久保氏の改易にあたり、城の一部は破却されたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新された。

貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至る。

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年(1872)までに城内の多くの建物は解体された。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年(1901)には、二の丸に御用邸が建てられた。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまった。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興された。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門、平成9年(1997)10月に銅門、平成21年(2009)3月には馬出門が完成した。

土塁の上を天守閣に向かって歩く。吹き上げる風が心地よい。
北の入口は搦手になるのかなあ。

途中に土塁をカットしてわかりやすくしたモニュメントがありました。

お城というものは全体をカッチカチに防御すると攻め手は攻めあぐねて持久戦となる。持久戦になると困るのは食料調達が弱点の城側だ。

そこで城の一部を故意に弱く作り(見せかける)寄せ手をおびき寄せる。これが搦手だ。剣道の巧者同士もにらみ合いが続くとわざと隙をつくり相手を誘い込む、それと同じです。

城の守りといえば石垣を連想しがちだ。確かに関西の城は城郭全体を石垣で守っていることが多いが関東の城は天守閣や曲輪以外は土塁で守りを固めていることが多い。

関東は技術が稚拙と思うなかれ。関東の城の多くが土塁で守っていたのには大きな理由がある。関東の土はちょいと掘ると火山灰、いわゆる関東ローム層にぶち当たる。

こいつで土塁を築くと粘土質で保水力に優れた土なので登ろうとすると滑りまくって登りにくいらしい。
小田原城の総構えではこの地質を有効利用した障子堀その他の恐ろしい堀が小田原の随所に見られるようだ。図のような障子の背を真っ直ぐ歩かされたら格好の標的となるし、障子の底に落ちたら這い上がるのは至難の業だ。堀の底でばたばたしているうちに狙い撃ちとなり命はないだろう。

今は障子堀もないので簡単に搦手から天守閣の脇腹へ進出することができました。

この天守閣とは40年幾年ぶりの再会です。美しい城だなあ。
正面からみた小田原城天守閣。見事な構えです。
暑いので早速、城内に入ろう。
入場料は一般¥510、長老割引はありません。 (;_;)

城内は近代文明の利器、クーラーが効いていて涼しい。
撮影は2階を除いて自由ですが見るべきものはありません。

早く最上階の外に出て本日のお目当て、石垣山城(秀吉の一夜城)が設置された山の確認がしたい。


最上階から外に出ました。相模湾が一望です。薄らと伊豆大島も遠望できました。


さて右に目をやると、ありました。すぐ近くに石垣山(城から5km)が。

秀吉は1590年の小田原攻めのときこの山の山頂に出城を作った。出城と言っても砦のような粗末なものではない。
曲輪を従えた本格的な城郭で俗に言う一夜城だ。実際の工期は延4万人を動員し4月に着手し6月末に完成した。

3ヶ月の突貫工事だがもともと北条方への脅し目的の城なので随分と手を抜いた工事だったようで白壁などは紙で代用したとか。

秀吉が伊達政宗にこの城を自慢げに見せたところ政宗は白壁のインチキを見破っている。

工事中は周囲の樹木は伐採せず完成後に一気に樹木を伐採したので城兵たちはいきなり城郭が現れたので恐れおののいたとか、・・でも、ほんの目の前5km先の工事が秘密裏に済むわけがない。これは後世の作り話だろう。

それにしても一兵卒まで情報が伝わることもなかったろうから樹木が取り去られていきなり立派な城郭が現れたら、兵たちは度肝を抜かれ戦意喪失したことは想像に難くない。

秀吉らしい嫌味なパフォーマンスだが。秀吉は小田原城の防御力の恐ろしさを見抜いたのだろう。
無理に力攻めをせずに眼前に城郭まで作って、おのが威力を見せつけ戦わずして北条を屈服させた。
実にずる賢い男である。やむなく秀吉に合力して小田原攻めに加わった諸将達もこの男にはかなわんと思ったろうなあ。

かくて、豊臣秀吉の天下統一は小田原城の開城により達成した。

さて、西の方に目をやると見覚えのある山々が望見できる。丹沢山塊だ。

2015年の11月にヤビツ峠(大山と三ノ塔の間の峠)から入って三ノ塔、塔ノ岳、鍋割山と縦走し大倉登山口に抜けたことがある。途中木の又小屋に一泊しての山旅だった。
あれから8年も過ぎた。あのルートはもう歩けないだろうなあ。残るは思い出だけ?情けないなあ。

なんの、老け込むのはまだ早い。年齢に応じた山歩きの方法が必ずあるはずだ。と気力だけはなんとか持ち続けている今日このごろです。









【山爺コロナに感染す】

小田原から帰って2日目の夕方から何か体が火照り気味に、表面体温計で体温をチェックすると36.8℃でやや高いが、まあ平熱か、夜になってもなんか体がだるい。表面体温計は相変わらず36.8℃で平熱を示している??、


念のため通常の体温計で腋の下を測ってみると、なんと37.7℃ある。だめだこりゃ。翌日、かかりつけの内科医で抗原検査を受けると見事に陽性反応が出てしまいました。
症状は発熱が38℃、続いて喉の痛み、一時は物を飲み込むのにも難渋したが、うがい薬で喉のうがいを入念に行うことで症状が和らいだ。副反応としては嗅覚の異常?、カビのような、カビキラーを撒いた時のような薬品臭?・・異様な臭いがやたら鼻につく。これが3~4日続いた。

家庭内隔離をすること5日間で症状は落ち着いて1週間でほぼ正常に戻った。幸い軽症で済み今のところ後遺症といったような悪い症状は出ていない。どうかこのままで終わりますように・・

【川柳】
・幾万人 どこに隠して 一夜城 
・知恵よりも 関白銭で 戦をし

・陽性で 18切符 つゆと消え
・陽性で 神も仏も 急信心
・5類とて 滅せず猛威の コロナかな

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