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2017年1月25日水曜日

江戸東京たてもの園散策

1月21日(土)東京の小金井にある『江戸東京たてもの園』に行ってきました。前の日に低気圧が通過し全国的に天候が大荒れ模様でしたが正月明けから初詣以外どこにも外出していません。
このままでは脚力そのほかの体力が減衰するのは明らかです。東国原さんのセリフを借りると『どげんかせにゃいかん!』です。

先週末に出かけようと準備はしておいたのですが前の晩に迂闊に腰をひねって持病の腰痛が発生してしまい2~3日遠出を控えなければならない状態となってしまいました。早くも初詣でのご神託の兆候が現れてしまいました。

今回は幸い症状は軽く週半ばには収まったので今回の外出と相成った次第であります。(拍手)

江戸東京たてもの園は去年向ヶ丘遊園にある川崎市立日本民家園を調べていた時に見つけ、いずれ行こうと思ってプランを温めていたものです。日本民家園は去年4月訪れていますが合掌作りの民家や古民家が広い山中に点在しておりなかなかの見ごたえでした。

写真を撮るのも目的なのでこういう施設には開園と同時に入った方が入場者が少なく撮影の邪魔が入らないので早朝から出かけます。

埼玉の最寄駅を6:30過ぎ頃乗車し新越谷で武蔵野線に乗り換え西国分寺へ、このコースは奥多摩や山梨方面への山歩きで利用するお馴染みの路線です。

武蔵小金井駅に9:30頃に到着、北口駅前から出ている西武バス②~③乗り場に急ぎます。それぞれ35分発と37分発のバスが出ています。やはり都内は便利ですね、バスが頻繁に出ています。山梨の山へのアプローチ路線バスなぞ午前1本午後1本、吉幾三の♫ バスは一日一度きり!そのまんまだもんねえ。

乗車時間約5分で小金井公園西口到着です。広い公園内に入るとジョギングや散歩、太極拳集団など色々な人々が集い心身鍛錬に余念がありません。都会の公園はこういうところがいいですね。これなら誰に気兼ねすることなくラジオ体操だって出来ると言うものです。

我が家のすぐ前(道路挟んだ向こう側)にも公園があり立地条件はすこぶるいいのだが、なにせ田舎、朝早くなどはおろか日中でも誰もいません。ラジオ体操などしたら目立ってしまいます。ましてや太極拳などやったら地方紙に載って・・んな訳ないか。(笑) Y(^0^)/

余談ながら我が家は建売ですが広い玄関とそばに公園があったのが決め手となり契約した経緯があります。

平成元年、折しもバブル末期で売り手市場だったころに販売フェアのチラシを見て現地を訪れました。・・・駅から徒歩8分とチラシには書いてありましたが時々走らないとこれは無理で実際は10~15分かかりますが立地条件が良いこともあって、お客さんがいっぱい訪れていました。

14棟あった販売物件を家内と2人で見学していると、時折カランカランの鐘の音とともに大きな声で〇〇様何号棟ご契約!と販売員が大声を張り上げ嫌が上にも購入意欲(あせり)を掻き立てます。もたもたしているとすぐに売れ切れてしまう勢いです。あの頃は良きにつけ悪しきにつけ世の中の活気があり面白い時代だったなあと思います。


そんな風にして手に入れた我が家です。入居してすぐに早速ゴルフクラブを手に公園へ、早朝で誰もいないので危険はまったくありません。私だってそれくらいのことはわきまえています。セッセと素振りをしていると遠くの家の2階がガラっと開いて何やら視線を感じる。そのまま素振りを続けました。その日は何事も起こらず終わったのですが異変は後日突然訪れます。

数日後公園に行くとゴルフ素振り禁止とでかでかと書かれた看板がお目見えです。驚いたなあ、わざわざ私だけのためにこんな立派な看板を作ったとは誠に恐縮です。

あれから29年、すでに当時の看板は朽ち果ててしまいありません。目撃当事者も同じく朽ち果てたかな?そろそろまた素振りしてみようかな。・・今度は監視カメラと、更に大きな看板が立ったりして。(大笑) (*´∀`*)

以上、我が家購入にまつわるエピソードの一席。・・・余談終わり。

計画通り10時前にたてもの園入場口に到着です。入園料は大人¥400ですがここも65歳以上は特別割引きです。免許証を見せるとご丁寧に65歳と記入された¥200の入場券とパンフレットをいただきました。

建物内には武蔵野で発掘された縄文時代の遺物が展示してあるのでまずそれを見学する。縄文中期というから4000~5000年前の土器が目に入りました。なんかぐい呑と徳利そっくりで笑える。

4~5千年前に、これで仕事(狩り)から帰った親爺が暗い灯火の下で上機嫌で一杯やっていたのかなあ。

4~5千年前も今も親爺はちっとも変わっていないんだろうねえ。こんなもんで、ちびりちびりやってたんだなあ、と思うと親近感が湧くね。

丸木舟が展示してあった。こんな不安定な舟で魚取りをしていたんだなあ。漁労に夢中になって引っくり返ったりもしたんだろうなあ。今も昔も食うためには大変なんだよまったく。男はつらいよと一人ごちた。



表に出ると明治4年から昭和4年まで東京市中に時を知らせた午砲が置いてあります。通称ドンと呼ばれ東京市民に親しまれた大砲です。

ちなみに学校やお役所が午後から休みになることを半ドンと言ったのは、この正午の午砲のドンの音が語源だという説もある。何!半ドン知らねえだと。世の中も変わったねえ。・・と思う山爺であった。

園内の建物は大きく西ゾーン・センターゾーン・東ゾーンの三のエリアに分かれて移築されています。東ゾーンには建物を利用したうどん屋さんが営業しているので見学後そこで食事をとることにしよう。まずは西ゾーン→センター・東ゾーンの順に見学です。

園内修復中でネットがかけられ見学できない建物が大分あるようだ。まあシーズンオフだし、お役所の予算上の都合(年度末の予算余剰金で修復?)で今頃が一番修復に都合がいいんだろうなあと勝手に思いながら歩く。

昭和12年頃まで常盤台にあったという写真館に入ってみる。園内の大半の建物が内部に上がれて見学できるのもなかなか気の利いた対応です。

 小ぶりながらよく保存された写真館です。ここで何百人もの人がチーズといいながらすまし顔で写真に収まったんだろうなあと館内を1人ウロウロする。

2階は日差しが差込み暖かく明るい。館内に誰もいないのもいいものだ。やはり早い時間に訪れた甲斐があるというものです。

三井邸は修復中で見学不可、三井財閥にゆかりの建物かなあ?残念です。




八王子千人同心組頭の家を見学、江戸時代後期に建てられたものだそうです。

ご存知八王子同心は江戸時代の初期に八王子に配備された徳川の家臣団です。

続いて吉野家を見学、吉野家と言っても、牛丼屋ではありませんがな、江戸時代後期の農家です。三鷹付近にあったものを移築したそうな。

中でボランティアの係員が囲炉裏に火をくべていた。毎日こうしないと藁に虫が沸いて駄目になるんだそうです。青い煙が懐かしいが煙たい。山爺の幼少期もこんな煙が台所を充満していた頃を思い出した。


綱島家もやはり農家ですがこちらは江戸時代中期の建物で玉川ベリに所在していたそうな。

早咲の梅が咲いていました。
ご同輩諸兄、頑張れ!春は近いぞ!

やや強い風が吹く中、山の手通りと名前の付いたエリアに移動する。デ・ランデ邸なる建物を見学。ドイツ人技師により明治43年頃の建てられた洋館で平成11年まで信濃町に建っていたそうです。なかなかおしゃれな建物でコーヒーの一杯も飲みたくなる雰囲気です。実際喫茶サービスがあるそうなのですがまだ朝早いので開店前でした。

この頃より入場者も増えてきました。特に気がついたのは高級カメラをぶら下げてパチリパチリやっているうら若き?単独女性がちらほら居ることです。撮り鉄ならぬ撮り建さんです。なかなか良い趣味をお持ちのようで、そういえば去年12月の関西旅行にも結構、歴女の撮り建さんがいたっけ。

田園調布の家と銘打った建物があります。どこかの漫才師のセリフ『田園調布に家が立つ』の例え通り別荘風の瀟洒なセレブの家、大川邸の中に入って見ます。大正14年の建造だそうです。

入場口付近に戻ってきました。旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)なるお宮がありました。なかなか荘厳な化粧ぶりです。尾張藩主正室千代姫なるご仁が母親お振りの方(3代将軍徳川家光の側室)の供養のために1652年に建立したものだそうです。お振りの方ってどこかで聞いたことあるなあ。誰だったかなあ!。


後日ネットで調べたら女嫌いの男好き(つまりホモさん)だった家光に手を焼いた春日局が切り札として充てがった側室で家光さんようやく女に目覚め、お振りの方にかぶりつく。ほんでもって息女を授かる。この息女がのちに尾張藩に嫁ぐ千代姫だそうな。

お振りさんとやらは、よほど色っぽかったんでしょうなあ。女嫌いの若者を手懐けて筆おろし・・・・いやいや失礼、下衆な下ネタ話になってしもうたわ。 (´▽`*)アハハ お主も好きよのう。いやいやお代官様ほどでは、てか!。

このお振りの方の素性は関ヶ原で滅ぼされた石田三成の曾孫だそうです。春日局は明智光秀の重臣斎藤利三の娘。一方の家光の生母お与江の方(2代将軍秀忠正室)は織田信長の血筋(お市の方の3女)であり、明智光秀の血筋の春日局とは真っ向、敵同士だから絶対相容れない。

権力固めのためにお江与の方の勢力とは真反対の女性を見つけて家光に引き合わせる。やるもんですなあ春日局ちゃんも(十朱幸代の顔が浮かんだ)大奥の権力争いの渦中の人だったんですなあ。お振りの方は。

江戸時代から一気に昭和の建物に移ります。明治から昭和の初めに辣腕を振るったダルマ宰相のあだ名で有名な高橋是清の邸宅を見学します。この是清さんは総理大臣にもなりますが主に大蔵大臣として日本経済の立て直しに尽力した爺様です。

昭和の初め頃から勢力をどんどん伸ばし軍事費使い放題の軍部に予算削減を正面切って物申した人物です。なんせ軍部の中枢にいた人でさえ『予算がない!だったら日銀でどんどん印刷すればいいではないか』と言うくらいの経済学しか持ち合わせていない連中ですからして。・・ジョークではなく国会?で軍部幹部が発言した実話です。

当然軍部の恨みを買い昭和11年に起きた所謂2.26事件で赤坂の
自宅、つまりこの建物に押しかけた青年将校らにより暗殺されてしまいました。享年81歳。

←2階のこの部屋で銃弾6発。

・・おお痛そう!

さすがの だるまさんも転んだ!!

そばにいたボランティア係員の親爺としばし歴史談義をしました。・・(あなた良くご存知でと、お褒めの言葉をいただいた)・・そして合掌!

宇和島伊達家の門なんてものも移築してあります。今にも時代劇でお馴染みの番兵が出てきて、おいこら何者だなんて言われそうな雰囲気です。右側に番兵の詰所も見えます。建立は大正時代で比較的新しい。



ここから東ゾーンに移動です。懐かしい都電がまずお出迎え。



町並みが見えてきました。千と千尋の神隠しに出てきたような銭湯が正面に見え両側にレトロな建物が立っています。


丸二商店、荒物屋さんで昭和初めに建てられたそうで神保町にありました。・・右奥建物

手前は大和屋本店乾物屋さんで港区白金台に
ありました。店の中には商品も陳列してあり当時を再現しています。
元祖シロガネーゼの場所だけに高級そうな結納セットも展示してありました。場所が場所だけに当時大儲けしたんだろうなあ、とゲスの勘ぐりをしてしまいます。昭和3年頃の建物です。

お風呂屋さんの左斜め向かいが小寺醤油店でお酒も売っていたそうです。
当時の店内商品群が再現されております。大正時代に港区白金で商売をしていた。ここもシロガネーゼ御用達のお店だったのかな?

道路隔てた反対側は万徳旅館、中に入るとごっつい自転車や湯呑道具も置いてあり今にも番頭さんが『いらっしゃい』と出てきそうなリアルな保存状態です。江戸末期の建造です。


お風呂屋さんの隣が居酒屋の鍵屋さんで江戸末期安政年間に下谷言問通りにあったそうです。
中に入るとカウンターがあり良い雰囲気です。こんな店が我が家の近くにあったら絶対馴染みになります。



いよいよ子宝の湯見学です。中に入ると女湯と男湯に分かれています。・・て当たり前か!今日は特別に女湯に入らせてもらいます。じゃーん女湯に潜入です。むふふ!、て誰もいません。




保存状態も良く綺麗に管理されています。当時はこんな具合に混雑していたんだろうなあと妄想が湧いてきます。         

えへへ (^┰^;)ゞ

一通り見学をしたので古民家風の休憩所に入ることにします。ここの2階がうどん屋さんで国産小麦粉(栃木産?)にこだわり腰の強い武蔵野うどんが名物と案内にあったのでそれを賞 味したいと思います。

 古い作りを模した店内に入り空いている席に座ろうとすると食券をお求めくださいとの声が聞こえ現実の空間に戻されてしまいました。¥630の冷たいうどんを注文する。

ほどなく出来上がり我がテーブルに運ばれてきた。これまで沢山歩き汗をかいたせいか冷たい喉越しのうどんが誠にうまい。


ごちそうさまと声を掛けて店を出て入場口へ戻ることにしました。

途中に、こじゃれた交番が立っておりました。

神田万世橋のたもとにあった交番で推定明治後期建造だそうです。





←付近にさらに上野消防署の望楼部分(大正14年)なんかもありました。

¥200で藁屋根屋敷や洋館、昭和のレトロな3丁目の夕日みたいな町並みなど、いろいろ古民家が見学出来て誠に楽しいひと時を過ごすことができました。

皆さんもお孫さんでも連れて訪れてみてはいかがですか。館内自由に入ることが出来る(一部制限)のでお孫さん喜ぶのは必定ですよ。

江戸東京建物園 HP http://www.tatemonoen.jp/index.html



4千年前の土器、ぐい呑?をみて1句

【狂歌】  ♫ (^0^)

・幾千年 土に埋もれしぐい呑みに 縄文親爺も かくて呑むらん。

・幾千年 過ぎし徳利を眺めなば、縄文親爺の思ひ伝わる。


【川柳】


・ぐい呑で やはり呑むかや 古代人 

・縄文も 猪口で呑んだか にごり酒




江戸東京たてもの園の項・・・完

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①ここに掲載された狂歌・川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
③作者以外の方による無断転載は禁止で行った場合、著作権法の違反となります。

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2017年1月12日木曜日

初詣・おみくじ

新年あけましておめでとうございます。遅ればせながらご挨拶申し上げます。
今年も稚拙な我がブログご愛読賜りますようよろしくお願いいたします。

1月2日にT市にある我が実家に新年の挨拶のため娘2人とともに出かけました。膝が痛く正座が叶わぬ家内は今年も留守番と相成った。

今年で95歳を迎えるお袋さまも去年寝込むこともなく達者でいる。孫娘2人に会えて殊のほか嬉しそうであった。気のせいか去年のお盆の時よりも元気な様子であり私としても慶賀の至りである。まあ真夏は誰でも体力消耗するので元気を維持するのが難しいけどねぇ。

年始挨拶をする前に実家の近傍にある神社、日限浅間神社に初詣に出かけた。この神社への参拝は私がS県に所帯を持って依頼、毎年欠かさず初詣に出かけており我が家の恒例行事となっています。

もちろんT市に住んでいた独身時代も事あるごとに訪れていました。・・参拝の大方の動機がなんとも不純でありまして、『どうか麻雀で大勝ちしますように』とか!   (^0^)

この神社の特徴は名前の通り、日にちを限ってお願いをしなければならないと言うことです。漠然とお願いしたのでは成就はなりません。

たとえば、どうか就職が・・では駄目で、〇月×日までにどうか就職できますように・・と言った具合にしなければいけないのであります。

この社は霊験あらたかなのか近県はおろか東北・甲信越からも参拝者が訪れるという隠れた風水パワースポットなのであります。ここでは祈願成就した人は鳥居を奉納する習わしとなっていますが、これだけ多く鳥居が存在するということはそれだけ成就した人が居ると言うことです。私もかつて祈願成就したので小さな鳥居を奉納したことがあります。

神社は拝殿のほか小さな社が二つあり、拝殿→附属社→附属社→本殿後方(本殿が見えるので奉拝する)→拝殿戻りの順序で参拝を行う。従って一箇所¥10奉納しても¥40が必要です。・・・『これ!せこいこと書くでない!』・・・声の主は木花咲耶姫命(このはなさくやのひめ)・・ここの神様です

各奉拝箇所までは祈願成就した人々が寄進した沢山の鳥居群をくぐり抜けながら参拝するのでおごそかな雰囲気が漂います。

拝殿に戻り、家族でおみくじを引き今年一年の運勢を占うのも楽しみの一つである。

今年は娘2人はともに大吉を引当て大喜び、私は吉で小喜びとなりました。

問題なのは私が引いたおみくじの内容である。

全体文:時が来れば思うままになります(ここまでは良い)鏡のかげにしたがう様に心正しく行いをすなおにしないと家の内に不和が起こって災が生まれます。特に男女の間をつつしめ。

( )作者注

続いて個別神託のうち

願望:ととのう しかし色情につき妨げ起こる

ってなんじゃこりゃあ!

ふえぇぇ~さすがは神様!我が心の内を見透かれたか。・・・って、全然心当たりないんですけど。それとも今年これからそんな場面に遭遇するのかな、気をつけなくっちゃ・・です。ハイ Y(^ω^)/

この後は社務所に立ち寄り、家内安全・交通安全の御札と破魔矢をいただいて帰るのも我が家の恒例行事となっています。

いつものようにそれらをお願いすると破魔矢は売り切れてしまったそうである。あらら!吉の運勢通り早くも我が運勢に翳りが出たようです。替りに今年は熊手を購入し幸運(具体的にはお金でんがな)をかき集めることにしました。

初詣で浮かんだ句など。・・・ご笑覧あれ

【狂歌】
・色即を 是空とすれば 幸せが 訪れるぞと 神はのたまふ。
・初 詣 色即是空を 守らねば 災い起こると 神託下る。

【川柳】 
・色恋を 我慢が吉の みくじ引き。
・下 心 捨てれば吉の ご神託 。
・初 詣 浮気は 凶の みくじ引き。 

この歳で女難の相ありとは、わしゃ寅さんか!・・・びっくりしたなもう!・・ムフフ ( ̄▽ ̄)

初詣・おみくじの編・・・完

日限冨士浅間神社は栃木県栃木市の神社。
御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやのひめ)。悪事以外の事は日を限って祈ると願い事が叶うことから、地元では「日限(ひぎり)の浅間(せんげん)さん」と呼ばれている。願い事が叶うとお礼参りに鳥居を寄進する風習があり、沢山の鳥居が立ち並んでいる。
現在の場所(柳橋町)には明治38年に移設され、さらに昭和9年8月に現在の社殿が建立された。

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①ここに掲載された狂歌・川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
③作者以外の方による無断転載は禁止で行った場合、著作権法の違反となります。

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2016年12月21日水曜日

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・後編

12月10日(土)

昨夜は心斎橋のサウナホテルに宿泊した。サウナは宿泊代がリーズナブルで大きな風呂が利用出来てサウナもある。(サウナだもんそりゃ当たり前)しかも中に居酒屋風なスペースもあり一杯やることもできる。予約不要で門限なし、山爺のような、いい加減な人間にとっては重宝な宿泊施設なのである。


早朝、心斎橋より大阪駅に向かいJR東海道本線に乗り換え一路京都へ、10:17京都着、ここで山陰線に乗り換え1駅先の丹波口で下車、新選組ゆかりの壬生寺と八木邸見学へと京都の細い道を北上する。


京都は道が縦横に走っており分かりやすい。しばらく行くと壬生寺の道しるべが目に付いた。右折するとほどなく壬生寺の北門に到着する。江戸時代そのままの風情ある門構えである。

中に入ると結構広い境内である。沖田総司が子供達と戯れたであろう境内を散策してからお寺に参拝、新選組の痕跡たるお墓へ向かう。新選組関係の墓は周りを囲われており見学には¥100必要となる。新選組の面々もまさか150年後に多くの見ず知らずの人に参拝されるとは思ってもみなかったろうね。


 ←画像、左の墓は近藤一派に寝込みを襲われ惨殺された芹沢鴨と平山五郎の墓、右隣の墓は土方歳三が決めためちゃくちゃな御法度、局中法度に触れて命を落とした方々の墓である。平社員(隊士)は死んでも1把ひとからげで侘しい。


局中法度・・原案作成(土方歳三)照査・承認(近藤勇)

・士道に背くまじきこと・・・会社の恥になることをするな。
・局を脱するを許さず・・・会社の無断欠勤厳禁。
・勝手に金策致すこと許さず・・会社の金、横領厳禁。
・勝手に訴訟取り扱う事許さず・・上司に相談のない取引厳禁。
・私闘を許さず・・・仲間内とか、よそで喧嘩するな。


違反したら切腹だよ~ん!ってどうにでも罪を擦り付けられるじゃん。こんな曖昧な規則では

うわ~山爺なんか直ぐにアウトだねこりゃ。

右の画像、縦長の墓は河合耆三郎という人の墓です。名前のとおり河合(可愛)そうで不運な人でした。⇒

播磨国高砂(明石)の豪商の息子で武士に憧れ?新選組に入隊、もともと商人の倅ですから、そろばんが得意、勘定方(経理)として腕を振るいました。ある日帳尻が50両(今の金で500万円位)合わないことが発覚し公金横領の科で斬首と相成った不運な男です。

なんでもその金は近藤勇が島原の芸者を身受けするのに用意した金だとか。隊長の遊興のための金紛失くらいで殺されてはたまりませんなあ。

豪商の息子だから金に困ったわけではない。誰かが盗んだに決まっている。河合は自分の親爺に金策(穴埋め)を頼んだが金の到着が間に合わず命を落としてしまった。

新選組ではこういった法度に触れて40人以上が命を落としている。人数が半端ないので、しょっちゅう、『切腹じゃあ、切腹じゃあ』と騒ぎまくっていたんだろうに、隊士は堪んなかったろうね。

まあゴロツキ集団みたいな組織を纏めるには厳しい規則が必要なのは分かるけどねえ。


続いて寺から歩いて5分ほどの新選組発祥時の屯所となった八木邸を訪問する。

新選組屯所と言ってもさほど広い屋敷ではなく、近藤一派による芹沢鴨一派の暗殺現場を見学すると言い換えたほうが合ってるかも。

入場料¥1000とちいと高いが見学後大福と抹茶のおもてなしがあるので仕方がないか。

土曜日なのに空いており説明員のおばさん(と言っても山爺よりうんと若い)とマンツーマンで施設を案内してもらう。芹沢鴨一派が寝起きしていたとされる部屋で座りながら説明を伺う。

一通り新選組の歴史の説明を聞いていたが山爺はこれでも新選組通である。普通の話はほぼ知っているので突っ込んだ質問すると『あら良くご存知で』と言い途中で一般的な説明を止めてエピソード的なことを話してくれた。

芹沢が寝込みを襲われ隣の部屋に逃げ込んで絶命したことやその時、隣の部屋で寝ていた八木家の子供が巻き添えを食い、その時の怪我が元で破傷風となり数ヵ月後亡くなったことなどを話してくれた。・・・八木邸の子供が巻き添えで怪我をしたことは知っていたがその後亡くなったことは初めて知った。・・合掌!

右写真の部屋で強引に奪ったよその豪商の妾、お梅とともに芹沢は大いびき、平山五郎とその芸者も同じ部屋で寝込んでいたようでそこを襲われた。・・・✖ 印付近が芹沢たちがちょうど寝ていた場所のようで、『ちょうどあんたはんが座っているあたりどすえ』『ぐえぇ~』てなもんである。

しかし殺人現場も150年も経つと観光名所に様変わりするとは、なんとも妙な気分である。・・芹沢・妾お梅・平山の3名が絶命、平山に添い寝していた芸者は襲撃時たまたま用便に出ていたので逃げて無事(襲撃を見張っていた近藤が助けたとも)別室で寝ていた平間重助は襲撃され手傷を負うも逃亡してその後行方知れず。

またその時の刀傷が鴨居に残っているのも見学した。暗闇で間合いが取れず余程焦っていたんだろうね。

*この事件は日頃より素行の悪かった元水戸藩士芹沢鴨一派に対し、京都守護職、会津中将松平容保公が近藤・土方を呼び寄せ苦言を呈したことにより、粛清を決意したとされているが真相は闇である。襲撃当日は事前に近藤一派が島原で偽祝宴を画策し芹沢達に深酒をさせ泥酔させてから襲うという周到ぶり。武士らしくないとの批判もあるが暗殺に卑怯もハチの頭もないもんだ。

近藤一派による襲撃班は土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助とされているのでこのうちの誰かが誤って鴨居に刀を打ち付けたんだろう。襲撃メンバーはいずれも剣の手練、それでもミスをするんですなあ。・・状況からして脇差で切りつけようとしたみたいですが。ガツン『う、やべえ』と冷や汗ものだったろうね。

この事件は表向きは長州藩のテロということで片付いたようだが殺害直後に異変に気づいて起きてきた八木邸の住人に対し現場にいた土方歳三は『誰か怪しい奴を見なかったか』と何食わぬ顔で聞いたとか。・・土方はん!あんたも役者やのう。

見学後和菓子屋(八木家経営?)の一角で毛氈の上に座り、柄にもなく、お抹茶と和菓子をご馳走になる。・・仕方ないではないか見学料に含まれてんだからして。

八木邸の次はお向かいにあるやはり新選組屯所が置かれていた前川邸に行く。ここは非公開だが中に入ることは出来る。建物の一角で新選組グッズを販売していた。

この繁盛ぶりを地下の新選組の面々はどう思っているのかな。土方・沖田はシャイだから苦笑いだろうな。真面目くさった顔で『俺らぁ、そんなつもりで戦ったんじゃないよ』とか言って。\(^0^)/

次の観光は京都御所である。11:30 四条通を一本外れた小道を散策しながら地下鉄四条駅を目指す。途中小さなお寺を数軒見ることが出来た。やはり京都はお寺が多い。足が痛くて叶わんが入鹿さんまだ怒ってるのかな、と思いつつ歩く。

30分ほどで地下鉄四条駅に到着した。12:30 御所近くの丸太町で下車し京都御苑側から御所へと北上するルートで見学を開始する。細かい砂利道を10分も歩くと御所正面の建礼門が見えてきました。砂利道とのコントラストがなかなか良く融合しています。


ここを左折し500mほど進むとと倒幕のきっかけとなったあの有名な蛤御門の変の舞台となった蛤御門があります。小さな門です。

 ここが1864年7月薩摩・会津連合軍と長州軍が通せ、通さないで激突し多数の死傷者を出した所です。門の柱に数多くの鉄砲傷が今も生々しく残っています。

傷跡は例外なく山爺の腰から上、頭より下に集中しています。門の上の方には全然傷跡は確認出来ません。かなりの至近距離から本気で打ち合ったことが分かります。こんな正確な弾の跡から察するにさぞかし戦死者も多かったのではと当時を偲んで合掌です。

御所に押し入る気ならこの門にこだわらなくても土手を乗り越えていくらでも侵入出来そうであるが、そこは日本人、ましてや帝のおわします御所である。建前重視で礼節を重んじたのだろう。土手を乗り越えたのでは押し込み強盗と変わらないだとか、なんとかこだわって。・・武器携帯しておいて礼節もへちまもないもんだが、不思議な戦いだったと思います。当時高級公家の住居(九条邸)があった御苑方面からも侵入したようですが。

京都御所はこれまで内部建物拝観は事前予約制だったのですが今年の夏から予約なしで随時見学ができるようになった。あのうるさい宮内庁が良く決断したものだ。多分昨今の外国旅行者増加により事務処理が難しくなりギブアップしたのだろう。

外国人もたまには役に立つと言うものです。(^0^)Y

そんな訳で受付がある清所門へ。到着すると10人ほどが検問を受けている。山爺の番がきた。『バッグも中開けてください』言われるまま中を開けると着替えの入っている袋まで開けさせられた。さすが宮内庁、民間とは違うので容赦がない。セカンドバックも開けさせられた。

セカンドバッグの中は文庫本とお菓子類である。『飴あげるよ遠慮するな』、と寅さん流にからかいたい衝動にかられたが係員の怒りを買い入場拒否をされてはかなわんから我慢した。


検問も終わり許可証(右画像)を首にぶら下げ中に入る。順路にしたがい見学を開始する。御車寄→承明門と進み御所で重要な儀式を行う紫宸殿の前に出る。

大正天皇・昭和天皇もここで即位礼を行ったそうである。たしか現在のお住まい皇居は仮の住まいでここ御所が今でも本当の住居なんだとかを本で読んだことがある。

明治新政府がより政権を強固にするため、うるさい公家共がいる京都では何かとやりづらいので大久保利通が当初大阪遷都を画策した。当然公家共は『何を戯れ言いおじゃる。御所はここぞえ~』とかなんとか猛反対でうまく行かない。大久保は一計を企み、『取り合えず勉強のため天皇に江戸を見学させるだけ』と反対勢力を騙して、天皇を東京に出張させた。・・これを専門用語で行幸という。・・というわけで明治2年に明治天皇は外出したのであって引越しをしたのではないのであります。そして、とうとう帰してもらえませんでした。


で、その後、明確な勅令が発せられることもなく現在に至っているのであります。その証拠に今のお住まいは未だ皇居と呼ばれ、京都にあるのは御所と呼ばれています。

依然として京都御所の方が格式が高いのです。従って正式には未だ京都が我が国の首都なんです。だから本来なら勅令を出し京都は西京てな具合に改名せなあかん。・・て、びっくりしたなぁ、もう!。

さすが大久保どん。人をだまくらかすのは超一流だね。まあ、ほとぼりが冷めたらそのうち法令を整備しようと思っていたんだろうけど、その矢先に暗殺されてしまったからねえ。そのまんまで御終い。ことは重大なんですがこんな嫌な仕事は誰もこれに手をだそうとせずに、その後ず~と、放ったらかしで現在に至るです。

続いて清涼殿→ご学問所→御常御殿と生活空間が漂う所を見学する。



右画像はご学問所で手前の広場は蹴鞠をした場所だとか。いやあ真に雅なことですなあ。内部の優雅な襖絵も公開しております。

ここで和歌や読書をたしなみ、臣下との対面行事を行ったとか、紫式部や清少納言もここにいたんでしょうなあ。『春はあけぼの』かなんか言っちゃって。(^0^)


左の画像は御常御殿で天皇の日常生活空間で16世紀末の建造とか。

御所巡りは1000年の歴史を感じさせるなかなか見ごたえのある場所でした。入るとき少し面倒だけど入場料がタダだから我慢しなくっちゃね。

地下鉄で京都駅に15:30ころ戻った。時間がまだあったので駅前にある東寺を見ることにした。東寺は京都駅南口から10分もあればいけるはずと駅を出て入鹿の祟で足が痛い中、右側に向け歩き出す。ところが行けども行けどもお寺に遭遇しない。

そうこうするうちに小さな川を越しました。(左画像)んん!東寺に川なんてあったかなあ?高瀬川と書いてあります。あの森鴎外の高瀬舟で有名な川かなあ?小さくて汚い川です。こんなに浅くてはさすがの高瀬舟も底が引っかかって進めまいに、やはり違うんだろうなあと思いつつ、そこを通過する。

(家に帰つて地図で確認しましたが小説の舞台となったあの高瀬川で正解でした。偶然遭遇しました) 

♪ 高瀬川~流れる岸辺~・・それは広瀬川! ♪ 野崎参りは~・・それは屋形船!Y(^ω^)/


更に進むと鴨川の7条大橋に出てしまいました。そうです。山爺ともあろう者が遭難してしまいました。

南口に出たものと思っていたのは北口で東寺とは全く反対方向に歩いてしまったのです。出たときに磁石で方向を確認しなかった山爺の失策です。

そういえば駅を出たときに京都タワーが見えたっけ、ガッカリしながら駅に戻ります。足は痛いしもう東寺に行く気もすっかり失せました。これも入鹿の祟りじゃぁ~!・・最前から入鹿を引き合いに出しているのでを入れないと本当に祟られたら怖い!。

16:30 再び東海道本線で大阪に戻りました。ここから去年訪れた天王寺の新世界を再訪し串揚げ屋で吉田類の酒場放浪記を実践したく、梅田から地下鉄で動物園前まで移動し下車しました。

地上に出て北側のガード下をくぐりじゃんじゃん横丁へ、ちなみに動物園前を南下すると有名な西成区釜ヶ崎のドヤ街があることを旅から帰ってきて気がつきました。・・だから新世界の飲み屋さんは独特の雰囲気を醸し出していたのか、西成区ちょっと見てくればよかったなあ。

じゃんじゃん横丁はアーケード付きの狭い路地にチープな飲み屋さんが所狭しと並んでおり飲兵衛の山爺としては散策が楽しくて仕方がありません。また、ここは将棋で有名な坂田三吉を輩出した地域でもあります。なので将棋会館があり皆さん熱心に将棋をさしております。

今日はどの店に入ろうかなあ、もちろん狙い目は串揚げ屋さんです。短い通りなので直ぐに通り抜けてしまいます。一旦通天閣界隈まで足を延ばします。

こちらも庶民的な店ばかりで京都のような格式張ったお店は1軒もありません。東京では絶滅した景品のもらえる射的場(左画像)やスマートボール(右画像)までここでは現役です。

またじゃんじゃん横丁に戻り、入るお店を物色していると、テレ東の人気番組アドマチック天国で放映したという看板がある店がが目に止まりました。しかも総合第1位とは・・1位は怪しいですけれど。

あの番組の場合1位は普通当たり障りのない地域を選ぶものです。たとえば通天閣とかネ。


のれんをかき分け中を覗くと店主らしき男が一人カウンターの椅子に座りこちらを睨んでいます。山爺と目が当然合ってしまいました。するどい眼力に負けて入店です。

テレビ出演したのだから色々楽しい話が聞けると思ったが、これが見込み違い。誠に無愛想で必要以外のことは全く喋りません。しかも命令調で上から目線です。

ビールと串揚げ5本を取り合えず注文し串揚げが上がってきたので食べようとすると『だめだめ、最初に揚げた方から食わねえと熱いよ』『ああ!キャベツは口直しに口の中をさっぱりさせるのが目的だからソース付けはダメ』てなもんです。

そのうち女将が奥から顔を出しましたがこちらもあまり愛想よくない。

『串揚げは大阪のどこが最初ですかねえ』と山爺、女将が一言『ここです』これで御終い。会話が途切れまた沈黙。えらい店に入ってしまった。

きっとテレビ出演したので一時期、客がわんさか押しかけ客応対を忘れてしまったのかもしれません。

ただしここのソースはほかの店よりうまい。串揚げの具も画像でご覧のとおり大振りである。野菜類は2個もついているので実質よその店の半値といって良い。お陰さまで10本も食べたら腹一杯になってしまった。具沢山で串揚げ奉行の頑固親父が居る店として評判になるのでは?(もうなってるのかな?)そういう意味では2重〇の店でした。

ほろ酔い機嫌で新世界界隈をしばらく散策してから心斎橋のサウナホテルに戻りました。

12月11日(日)

楽しかったぶらり旅も今日は移動日です。9時20分に大阪駅JRBTに到着し飲み物や昼食用の軽食を購入し待合室で10時10分発『青春昼特急10号』を待ちます。山爺は青春時代はとうの昔に過ぎているので利用するのがなんか恥ずかしい。

♪ 青春時代が夢なんて~・・全くそうだったなぁ!。♪ 青春時代の真ん中は道に迷っているばかり~・・いい歌詞です。40有余年過ぎた今も当時を思い出し悔むことしきりです。(涙)゚(゚´Д`゚)゚

定刻に発車、乗客は往きと同じで15~16人くらいですが、なぜか山爺の隣に若者が座りました。本来単独者同士は離して席を決めるはずなのに、まあいいさそのうち移動してやると思っていると乗務員から『空いている席を自由にお使いください。京都で当日購入客が若干乗るかもしてませんが』とのありがたいお言葉を賜りました。

山爺の隣の若者は風邪引きらしく時折ズズ~と猛烈な音をたてて空気を吸い込む。しかも鼻が詰まっているので苦しそうな響きが伝わり、こちらの方も息苦しくなってくる。・・これが東京駅に着くまで延々10時間も続いた。

もし混んでいたらと10時間も隣同士だったのかと思うとゾッとした。・・席が自由に移動できて多いに助かった。関西地区を離れるので入鹿様の呪縛も解けたようです。


16:50 予定より10分早く足柄SAに到着、赤富士が夕日に映えて綺麗である。本当に富士山は絵になるねぇ。

やはり登る山ではなく見る山だよこれは。(山爺は頑なにそれを信じて疑わない。そんな訳でいまだ登ったこともないし今後も登るつもりもない。)






しかしながら順調な走りもここまで、厚木ICを過ぎた頃から渋滞が始まりスピードはスローダウン。東京駅に19:13着予定が50分遅れで20:00に到着した。

家路を急ぎ最寄駅に22:00少し前に着いた。いつもはこのあと行きつけの居酒屋に立ち寄って土産話をするのだが時間も遅く日曜日でもあったので嫌な予感がする。

電話してみると、今日は早仕舞いで店は閉めたとの返事が帰ってきた。むむう~入鹿様の祟り、ここまで及んでおじゃるかあ~!。

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・後編 完