このままでは脚力そのほかの体力が減衰するのは明らかです。東国原さんのセリフを借りると『どげんかせにゃいかん!』です。
先週末に出かけようと準備はしておいたのですが前の晩に迂闊に腰をひねって持病の腰痛が発生してしまい2~3日遠出を控えなければならない状態となってしまいました。早くも初詣でのご神託の兆候が現れてしまいました。
今回は幸い症状は軽く週半ばには収まったので今回の外出と相成った次第であります。(拍手)
江戸東京たてもの園は去年向ヶ丘遊園にある川崎市立日本民家園を調べていた時に見つけ、いずれ行こうと思ってプランを温めていたものです。日本民家園は去年4月訪れていますが合掌作りの民家や古民家が広い山中に点在しておりなかなかの見ごたえでした。
写真を撮るのも目的なのでこういう施設には開園と同時に入った方が入場者が少なく撮影の邪魔が入らないので早朝から出かけます。
埼玉の最寄駅を6:30過ぎ頃乗車し新越谷で武蔵野線に乗り換え西国分寺へ、このコースは奥多摩や山梨方面への山歩きで利用するお馴染みの路線です。

乗車時間約5分で小金井公園西口到着です。広い公園内に入るとジョギングや散歩、太極拳集団など色々な人々が集い心身鍛錬に余念がありません。都会の公園はこういうところがいいですね。これなら誰に気兼ねすることなくラジオ体操だって出来ると言うものです。
我が家のすぐ前(道路挟んだ向こう側)にも公園があり立地条件はすこぶるいいのだが、なにせ田舎、朝早くなどはおろか日中でも誰もいません。ラジオ体操などしたら目立ってしまいます。ましてや太極拳などやったら地方紙に載って・・んな訳ないか。(笑) Y(^0^)/
余談ながら我が家は建売ですが広い玄関とそばに公園があったのが決め手となり契約した経緯があります。
平成元年、折しもバブル末期で売り手市場だったころに販売フェアのチラシを見て現地を訪れました。・・・駅から徒歩8分とチラシには書いてありましたが時々走らないとこれは無理で実際は10~15分かかりますが立地条件が良いこともあって、お客さんがいっぱい訪れていました。
14棟あった販売物件を家内と2人で見学していると、時折カランカランの鐘の音とともに大きな声で〇〇様何号棟ご契約!と販売員が大声を張り上げ嫌が上にも購入意欲(あせり)を掻き立てます。もたもたしているとすぐに売れ切れてしまう勢いです。あの頃は良きにつけ悪しきにつけ世の中の活気があり面白い時代だったなあと思います。

そんな風にして手に入れた我が家です。入居してすぐに早速ゴルフクラブを手に公園へ、早朝で誰もいないので危険はまったくありません。私だってそれくらいのことはわきまえています。セッセと素振りをしていると遠くの家の2階がガラっと開いて何やら視線を感じる。そのまま素振りを続けました。その日は何事も起こらず終わったのですが異変は後日突然訪れます。
数日後公園に行くとゴルフ素振り禁止とでかでかと書かれた看板がお目見えです。驚いたなあ、わざわざ私だけのためにこんな立派な看板を作ったとは誠に恐縮です。
あれから29年、すでに当時の看板は朽ち果ててしまいありません。目撃当事者も同じく朽ち果てたかな?そろそろまた素振りしてみようかな。・・今度は監視カメラと、更に大きな看板が立ったりして。(大笑) (*´∀`*)
以上、我が家購入にまつわるエピソードの一席。・・・余談終わり。
計画通り10時前にたてもの園入場口に到着です。入園料は大人¥400ですがここも65歳以上は特別割引きです。免許証を見せるとご丁寧に65歳と記入された¥200の入場券とパンフレットをいただきました。

4~5千年前に、これで仕事(狩り)から帰った親爺が暗い灯火の下で上機嫌で一杯やっていたのかなあ。
4~5千年前も今も親爺はちっとも変わっていないんだろうねえ。こんなもんで、ちびりちびりやってたんだなあ、と思うと親近感が湧くね。


表に出ると明治4年から昭和4年まで東京市中に時を知らせた午砲が置いてあります。通称ドンと呼ばれ東京市民に親しまれた大砲です。
ちなみに学校やお役所が午後から休みになることを半ドンと言ったのは、この正午の午砲のドンの音が語源だという説もある。何!半ドン知らねえだと。世の中も変わったねえ。・・と思う山爺であった。
園内の建物は大きく西ゾーン・センターゾーン・東ゾーンの三のエリアに分かれて移築されています。東ゾーンには建物を利用したうどん屋さんが営業しているので見学後そこで食事をとることにしよう。まずは西ゾーン→センター・東ゾーンの順に見学です。
園内修復中でネットがかけられ見学できない建物が大分あるようだ。まあシーズンオフだし、お役所の予算上の都合(年度末の予算余剰金で修復?)で今頃が一番修復に都合がいいんだろうなあと勝手に思いながら歩く。
昭和12年頃まで常盤台にあったという写真館に入ってみる。園内の大半の建物が内部に上がれて見学できるのもなかなか気の利いた対応です。
小ぶりながらよく保存された写真館です。ここで何百人もの人がチーズといいながらすまし顔で写真に収まったんだろうなあと館内を1人ウロウロする。
2階は日差しが差込み暖かく明るい。館内に誰もいないのもいいものだ。やはり早い時間に訪れた甲斐があるというものです。
三井邸は修復中で見学不可、三井財閥にゆかりの建物かなあ?残念です。


八王子千人同心組頭の家を見学、江戸時代後期に建てられたものだそうです。
ご存知八王子同心は江戸時代の初期に八王子に配備された徳川の家臣団です。


中でボランティアの係員が囲炉裏に火をくべていた。毎日こうしないと藁に虫が沸いて駄目になるんだそうです。青い煙が懐かしいが煙たい。山爺の幼少期もこんな煙が台所を充満していた頃を思い出した。


早咲の梅が咲いていました。
ご同輩諸兄、頑張れ!春は近いぞ!

この頃より入場者も増えてきました。特に気がついたのは高級カメラをぶら下げてパチリパチリやっているうら若き?単独女性がちらほら居ることです。撮り鉄ならぬ撮り建さんです。なかなか良い趣味をお持ちのようで、そういえば去年12月の関西旅行にも結構、歴女の撮り建さんがいたっけ。

入場口付近に戻ってきました。旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)なるお宮がありました。なかなか荘厳な化粧ぶりです。尾張藩主正室千代姫なるご仁が母親お振りの方(3代将軍徳川家光の側室)の供養のために1652年に建立したものだそうです。お振りの方ってどこかで聞いたことあるなあ。誰だったかなあ!。

後日ネットで調べたら女嫌いの男好き(つまりホモさん)だった家光に手を焼いた春日局が切り札として充てがった側室で家光さんようやく女に目覚め、お振りの方にかぶりつく。ほんでもって息女を授かる。この息女がのちに尾張藩に嫁ぐ千代姫だそうな。
お振りさんとやらは、よほど色っぽかったんでしょうなあ。女嫌いの若者を手懐けて筆おろし・・・・いやいや失礼、下衆な下ネタ話になってしもうたわ。 (´▽`*)アハハ お主も好きよのう。いやいやお代官様ほどでは、てか!。
このお振りの方の素性は関ヶ原で滅ぼされた石田三成の曾孫だそうです。春日局は明智光秀の重臣斎藤利三の娘。一方の家光の生母お与江の方(2代将軍秀忠正室)は織田信長の血筋(お市の方の3女)であり、明智光秀の血筋の春日局とは真っ向、敵同士だから絶対相容れない。
権力固めのためにお江与の方の勢力とは真反対の女性を見つけて家光に引き合わせる。やるもんですなあ春日局ちゃんも(十朱幸代の顔が浮かんだ)大奥の権力争いの渦中の人だったんですなあ。お振りの方は。

昭和の初め頃から勢力をどんどん伸ばし軍事費使い放題の軍部に予算削減を正面切って物申した人物です。なんせ軍部の中枢にいた人でさえ『予算がない!だったら日銀でどんどん印刷すればいいではないか』と言うくらいの経済学しか持ち合わせていない連中ですからして。・・ジョークではなく国会?で軍部幹部が発言した実話です。
当然軍部の恨みを買い昭和11年に起きた所謂2.26事件で赤坂の
自宅、つまりこの建物に押しかけた青年将校らにより暗殺されてしまいました。享年81歳。

・・おお痛そう!
さすがの だるまさんも転んだ!!
そばにいたボランティア係員の親爺としばし歴史談義をしました。・・(あなた良くご存知でと、お褒めの言葉をいただいた)・・そして合掌!


ここから東ゾーンに移動です。懐かしい都電がまずお出迎え。

町並みが見えてきました。千と千尋の神隠しに出てきたような銭湯が正面に見え両側にレトロな建物が立っています。
丸二商店、荒物屋さんで昭和初めに建てられたそうで神保町にありました。・・右奥建物
手前は大和屋本店乾物屋さんで港区白金台に
ありました。店の中には商品も陳列してあり当時を再現しています。
元祖シロガネーゼの場所だけに高級そうな結納セットも展示してありました。場所が場所だけに当時大儲けしたんだろうなあ、とゲスの勘ぐりをしてしまいます。昭和3年頃の建物です。


当時の店内商品群が再現されております。大正時代に港区白金で商売をしていた。ここもシロガネーゼ御用達のお店だったのかな?




中に入るとカウンターがあり良い雰囲気です。こんな店が我が家の近くにあったら絶対馴染みになります。


いよいよ子宝の湯見学です。中に入ると女湯と男湯に分かれています。・・て当たり前か!今日は特別に女湯に入らせてもらいます。じゃーん女湯に潜入です。むふふ!、て誰もいません。


えへへ (^┰^;)ゞ
一通り見学をしたので古民家風の休憩所に入ることにします。ここの2階がうどん屋さんで国産小麦粉(栃木産?)にこだわり腰の強い武蔵野うどんが名物と案内にあったのでそれを賞 味したいと思います。

ほどなく出来上がり我がテーブルに運ばれてきた。これまで沢山歩き汗をかいたせいか冷たい喉越しのうどんが誠にうまい。

ごちそうさまと声を掛けて店を出て入場口へ戻ることにしました。
途中に、こじゃれた交番が立っておりました。

神田万世橋のたもとにあった交番で推定明治後期建造だそうです。
←付近にさらに上野消防署の望楼部分(大正14年)なんかもありました。
¥200で藁屋根屋敷や洋館、昭和のレトロな3丁目の夕日みたいな町並みなど、いろいろ古民家が見学出来て誠に楽しいひと時を過ごすことができました。
皆さんもお孫さんでも連れて訪れてみてはいかがですか。館内自由に入ることが出来る(一部制限)のでお孫さん喜ぶのは必定ですよ。
江戸東京建物園 HP http://www.tatemonoen.jp/index.html
4千年前の土器、ぐい呑?をみて1句
【狂歌】 ♫ (^0^)
・幾千年 土に埋もれしぐい呑みに 縄文親爺も かくて呑むらん。
・幾千年 過ぎし徳利を眺めなば、縄文親爺の思ひ伝わる。

【川柳】
・ぐい呑で やはり呑むかや 古代人
・縄文も 猪口で呑んだか にごり酒
江戸東京たてもの園の項・・・完
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