かねがね、仙台の豪華な七夕まつりというものを見たいものだなあと思っていた。23年度は8月6日から8日にかけて開催される。今年はコロナによる制限も解けたので一段と絢爛な飾りつけになるらしい。行ってみたいなあ。さりとて年金貧民たる山爺、新幹線なぞという高額な乗り物は恐れ多くておいそれとは利用がはばかれる。金があるときゃ暇がない。暇があるときゃあ金がないとはよくぞ言ったもんである。
JRから売り出されている”青春18切符”というものがあることは以前から知っていた。発売価格は¥12050で各駅停車の列車限定ながら5回分の乗車が出来る。
1回あたり24時間の時間内なら¥2410で、どこまでも乗れるし5人でまとめて一気に使うことも出来る。ただし発売期間に制限がある。
もともとは18歳前後の金のない若者を支援する企画?だったのだろうが本音は旅行に不向きな季節に対する売上向上対策だったのだろう。ゆえに年齢制限はなく誰でも購入できる。
それにしては名称が洒落臭い。名称変えませんかJRさん、もっと庶民受けする名前、”漫遊旅切符”とかなんとかに・・・切符発売の詳細は以下の通り。
【山爺の一言メモ】
青春18切符の発売期間と利用期間は次のとおりで旅行に適さない期間限定で販売される。
春季用) 発売期間:2月20日~3月31日 利用期間:3月1日~4月10日 (夏季用) 発売期間:7月1日~8月31日 利用期間:7月20日~9月10日 (冬季用) 発売期間:12月1日~12月31日 利用期間:12月10日~1月10日 販売価格はいずれも¥12050
青春18きっぷ | JR線ご利用案内 (jr-group.jp)
仙台七夕まつりの催行期間中に夏季用切符が使える。ちなみに我が家から仙台まで各駅停車で行くとどんな具合か検索してみた。
我が家の最寄駅を6時半頃に乗車すると仙台には13時08分に着く。通常運賃はJR駅の最寄駅から¥5500だ。これが青春18切符使えば¥2410となり半額以下で乗ることが出来る。新幹線利用だと¥11200もかかる
ただし乗り換え7回、6時間半の長旅となるが、な~に、寅さんのセリフではないが ”皆さんになくて私にあるもの、それは暇” (^^♪
山爺も暇だけはたっぷりある。青春切符使えば往復で¥4820、懐の負担が限りなく軽くて済む。新幹線往復との差額はなんと¥17580 こんなに浮くなら長時間の長旅でも我慢、我慢、これで行ってみよう。
背負えるカジュアルバッグに着替えやらの日用品。カメラバックには愛用のニコン一眼と300mmのズームを放り込み8月6日の早朝に家を出た。最寄りのJR駅に乗り換える時に券売機で件の切符を購入する。
ちなみに青春18切符は普通の券売機ではなく緑の窓口用で購入します。”おとくきっぷと書かれたところをタップし案内通りに進めてゆくと簡単に目的の切符が見つかった。でも紙幣を機械に入れても、機械がなにやらモゾモゾ、なかなか切符が出てこない。あれ、間違えたかな?乗り換え時間が10分しかないのでやきもきする。やあ出てきたゾ、出るは、出るは、7枚も出てきた。おいら7枚も切符買った覚えはないのだが?。
5回使える乗車券は1枚きりで残り6枚は案内書き4枚とアンケート2枚、ずいぶん無駄やってるなあJRさん、でも使える条件が複雑だから案内書きは必要か。この切符は自動改札機は通せません。駅員さんに確認(押印)してもらい構内に入場します。やがて各駅停車宇都宮行がやってきた。今日は日曜日なので空いてます。
ここから⇒宇都宮⇒黒磯⇒新白河⇒郡山⇒福島⇒白石⇒仙台着(13:08)と乗り継ぎます。各乗り継車両とも乗車時間は1時間も満たないので、迂闊に寝てられません・・じゃなくて、時間は短くても爆睡可能です。なにせ各路線とも終点まで乗るわけですから。 (^^♪
新白河まではがらがら列車の旅、ペットボトルでお茶飲んだりお菓子食べたりラジオ聴いたり本読んだりと、気分は六角精児の呑み鉄本線日本旅だ。いいねえ、こういうのんびり旅は。
9時32分新白河駅到着、普通なら同じ会社路線の場合、乗り換えは乗客の利便性を考慮して反対側のホームから乗ることが多いがここ新白河駅の乗り換えは違った。同じホームから連絡列車は出るのだがホーム上を延々歩かねばならない。なんと、かつては東北方面へ継っていた線路がご丁寧に砂利に埋まり終点マークと隔壁(赤マーク)までこしらえている。
そこには ”絶対に各駅停車の長距離路線には戻さないぞ、乗客の不便なんぞ知ったことではない。” といったJRの並々ならぬ決意が込められている。・・ってどんな決意じゃぁ・・お客様は神様じゃあないのかい?。
どうやらJRには三波春夫様の名セリフは通用しないらしい。なになに ”お客様は新幹線乗車の皆様だけ” だってぇ。・・(´ω`)
しぶしぶ、ホームを歩いて(100mも歩いたろうか?)乗り換え場所まで移動し連絡列車を待つ。この辺からなんか様子が変わってきた。やたら人が多くなって来たのである。
郡山で乗り換えた時にはホームは人で溢れており旅情もへちまもなくなり、のんびり鈍行一人旅の思惑は霧消した。
福島に着いた頃には車内は都内の通勤時並みの超満員、一体これはどうしたことだ。
福島駅からは浴衣姿のお嬢様やお兄様方まで乗り込んできた。ここに至って山爺ようやく気がついた。ははあ、仙台の七夕見物で電車混んでるんだ。ああ、宿予約しておいて良かったわい。宿といってもカプセルなんとかですけどねえ。 (^_^;)定刻通り13:08に仙台駅に着いた。楽天イーグルの面々がお出迎え??なんで?、そうか楽天イーグルは仙台が本拠地なんだ。早く七夕を見たい気持ちもあるが七夕見物は明日1日たっぷり取ってある。今日は観光優先としよう。
仙石線に乗り換えひと駅先の榴ヶ岡(つつじがおかと読む、いやあこの字読めないで困った、困った)に向かう。
ここの駅前公園内に旧歩兵第四連隊の兵舎が保存されている。今は仙台歴史民俗資料館として転用されているが中に小規模ながら内務班の復元コーナーもあるようなのでそれを見にゆく。
地下駅を降りて地上に出ると日差しが暑い。なんなんだ今日日のこの暑さは、ぶつぶつとひとりごちながら公園内を横切る。 おっ、いかにも兵舎らしい建物が見えて来ました。
入場料¥240を支払い館内へ・・クーラーが効いている。いやあ涼しいわ、生き返るぅ。旧兵舎といえども民俗資料館として使われているので展示品の大半は仙台周辺から集めた過去のがらくた日用品がずらりと展示されています。面白くもなんともない。
田舎のこぎりなんか見たくねえ、つうの!!
2階に上がると目的のそれは(内務班の復元)ありました。
三八式歩兵銃がかけられています。本物ではなくレプリカ銃です。
明治38年に考案されたのでそのような呼称で呼ばれており以後太平洋戦争まで使い続けられた名銃です。
よく日本軍は明治時代の単発銃を終始使い続けたので負けたと言う人がいますがそれは誤解です。三八式は単発銃ではなく連発式で5発装填できます。
一発打つごとに手操作によるボルトアクションが必要なので映画等でその動作を見て誤解した人が多いのではと思います。
欧米では戦争映画などでよく見るように自動小銃が主流でそれと比較すると地味な銃ですが自動小銃は構造が複雑になり異物混入(砂・小石)で故障が起き易い。兵にとって戦場で銃の故障ほど情けないものはないだろうねえ。第一に使用者の命に関わる銃口内暴発がいちばん怖い。
その点構造がシンプルな三八式はほとんど故障がなかったといいます。しかも長尺でありながら軽いので命中精度も優れていたそうです。
欠点は世界の銃の弾丸が7.7mm口径だったのに対し6.5mmと小さいので殺傷能力が弱いことです。 しかしながら、そうしたのは欧米人より体格の劣る日本人向けに、より軽く反動の少ない銃の設計をするためにあえて小口径の弾丸を選んだようです。銃の反動が少ないから命中精度が良かったともいえるのです。
日本兵は無理矢理に古い銃を使わされたのではなく、すでに明治時代に最新式を作り出したのでほとんど改良する必要もなく太平洋戦争まで使い続けられたのだと解釈したい。事実、終戦によりアジア各地で日本軍の武装解除があったがこの時この銃が拡散、中国内戦、インドネシアやベトナムの独立戦争等で使い続けられたことがその証です。役立たずな銃なら誰も欲しがらない。
内務班の兵卒が寝起きするベッドです。幅、狭っ!山爺なんか寝相が悪いので落っこちちゃうわ。(;゚д゚)
こんな狭いベッドで人格を否定され訓練に明け暮れる日々、いやだ、いやだ・・平和な時代に生まれた我々はなんと幸せなことか。
見学も終わり再び表に出る。うわぁ、あっちっちぃ。現実に引き戻される。仙台にもどり街の中を歩く。
仙台に降り立つのはいつ以来だろう。家族では来たことがない。ということは昭和時代だ。20代の終わり頃、仙台から平泉、山寺と旅したことがある。あれ以来だから40年はゆうに過ぎている。何だかなあ。
大きい街だなあ。大通りを横切るといきなり七夕の吹流しが飛び込んできた。
人、人、人、ほとんどの人がマスクをつけていない。大丈夫なんだろうか。
この吹流しは1基、数十万円から、なかには数百万する物もあるそうな。よく見て回らなくちゃ。
それにしても小腹が空いたし歩き回ったのでずいぶんと疲れた。どこかで飯でも食って今日は早めに宿に入ろう。
青葉城は何もなさそうなので却下、初代正宗公から3代までを祀ってある瑞鳳寺を参拝しょう。
地下鉄大町西公園を下車して15分も歩くと目指す寺院が見えてきた。ここからが急坂で乗用車で訪れた連中も分け隔てなく歩かされる。見ての通りかなりの急坂だ。お年寄りには堪えるだろうなあ。・・って俺もかい。
この石段は70歳で亡くなった初代正宗公にちなんで70段あるそうです(瑞鳳殿でもらった資料より)
息が上がるほどの急坂を10分も歩いたろうか、鬱蒼とした杉木立に囲まれた瑞鳳寺(正宗山瑞鳳寺)に到着です。
寛永14年(1637)二代藩主忠宗公により建立されました。地味~なお寺です。無料で参観できます。
きらびやかな涅槃門(左図)ここも七夕飾りかい。仙台の七夕祭りは徹底しているなあ。
ここから先は有料です。拝観料¥570
70歳以上の割引はなしです。
(^_^;)
境内に伊達正宗・忠宗・綱宗の3代を祀ってある瑞鳳殿・感仙殿・善応殿の霊廟がありますが残念ながら創建当時のものは昭和20年の戦災ですべて焼失、今あるのは昭和54年(1979)に再建されたものです。だから彫刻や色彩が実に鮮やかです。
初代正宗公の霊廟、瑞鳳殿はここ涅槃門のすぐそばにあります。2代・3代藩主の霊廟は山の上にありさらに登山を強いられます。疲れると登るの嫌になっちゃうから先に坂上にある3代藩主伊達綱宗公の霊廟から見てゆこう。
途中になにやら曰くありそうな記念碑がありました。戊辰戦争弔魂碑と案内板に説明書きが・・・
2代藩主忠宗公の霊廟、感仙殿です。なんと煌びやかなことです。
忠宗公は方治元年(1658)没ですがこのとき家臣15名が殉死したそうです。ひえぇ~(もらった瑞鳳寺の資料に書いてある)
よく見ると感仙殿を囲むように左右(左赤丸)に怪しげな石塔群がたくさん並んでいる。これってもしかしたら殉死した家臣の供養塔? (゚д゚lll)
3代綱宗公のときはすでに幕府から殉死禁止令が出ていたので殉死はご法度、14名の家臣が剃髪して亡君の菩提を弔いその代わりとしたと記念碑に書いてあります。
一口に切腹といっても置かれた事情により種類が別れる。 (1)追腹:殉死のことだが喜んで死んだ奴なんて皆無だろうなあ。追腹にも2通りの思惑が
①義理腹・・お殿様と親しかったものが周囲から説得され泣く泣く殉じた?
②商い腹・・いま殉死すれば藩から評価されてご加増が見込め、お家は繁栄。
特に②が危ない、本人は嫌だといっても親戚縁者らから寄ってたかって詰め寄られ、挙句に羽交い締めにされ腹を刺されて切腹の体裁を取り繕う事例も数多くあったとか。家督を継いだものはお殿様が死んだらおちおち寝てもいられないね、いつ寝首掻かれるかわかったもんじゃない。
(2)詰め腹
職務上の失敗の責任を取ったり義理を通すもの。これが一番多かったのかな。今でもよく使う言葉です。”あいつ、詰め腹切らされた”とか。
(3)無念腹
悔しくってヤケのやんぱち、あてつけに腹切る。
いまでもこんな理由で事件起こす馬鹿が後を絶たない。”世の中が嫌になった、死刑になりたい、誰でもよかった。” 我がままこの上ない。死にたきゃあ、ヤクザの事務所にナイフかざして飛び込めば望み通りボコボコにされるつうの。もともと弱虫で意思が軟弱な奴にはそんなこと絶対に出きっこない。・・だからって弱そうな人々を巻き添えにするんじゃないよ。
(4)指し腹
武士の世界は喧嘩両成敗が基本、かなわぬ相手に対し当てつけに先に腹を切って相手にも腹を切らせる究極の負けるが勝ち戦法
3代藩主綱宗公の霊廟、善応殿です。煌びやかさでは負けていません。ここにも傍らに怪しげな石塔群が映ってます。剃髪組の供養塔かな。
初代だけあって瑞鳳殿は一段と鮮やかですしこちらは大仰に囲いに覆われています。
中に入ってお参り。彫刻などの飾りつけも一段と綺羅やかです。さすがは正宗公です。
そして殉死した家臣団の供養塔も数が一段と多いような気がします。なんだかなあ。
正宗公に殉じた家臣は19名・・(瑞鳳殿の資料より・HPで調べると20名とある)鬼気迫るものがありますなあ。
伊達家でさえ2代で24名が殉死している、当時日本全国でどれだけの武士が殉死した(させられた)のだろうか。
近年でも昭和天皇が崩御したとき4~5人が殉死したことを覚えている。律儀な日本人と言ってしまえばそれまでですが。
ちなみにHPで検索してみると戦で倒れた主人の後追い殉死は数多くありますが病没者に対する殉死者は希だそうです。
あの豊臣秀吉や徳川家康でさえ公式な殉死者はなし、まあ、あの2人は世渡り上手でずいぶんあくどい事もやってるから、人から好かれることはなかったろうなあ。
♫秀吉(家康)死んでも泣く奴ぁ~いない、鳴くはお山のカラスだけ。・・なんてね。
伊達家のお殿様達はよほど慕われていたのかなあ、それとも風土のせい?。死してなお家臣団に守られ続ける伊達3代は幸せものです。
思わぬ知識を習得させていただいた瑞鳳殿参拝でした。
さて仙台市内にもどり七夕見物じゃ。
市内に戻り七夕見物、相変わらず暑くて仕方がないが七夕飾りがある通りは道路上にアーケード(屋根)があるので日差しを遮ってくれるのがありがたい。加えて左右のお店から冷房の涼しい空気が流れてくるので吹流し見るふりして時々涼んだりも・・
七夕の飾りつけは豪華絢爛だがこうも同じものがずらりと並んでいるとだんだん感激が薄れてきた。
だって同じようなものばかりだから。例えばLEDを組み込んだ吹流しや、ねぶた風吹流しなんか作って盛り上げないのかねえ。
山爺が生まれ育ったT市でも山爺が小学生の頃までは七夕祭りが盛んで仙台の吹流しみたいなものがたくさんぶら下がっていたのを覚えている。
同じも道理で仙台で使った奴を買い取って飾っていたんだとか・・・ (^^♪
ただT市の七夕は吹流しだけでなく財力のある商店が競って仕掛け飾りを設けて祭りを盛り上げてくれた。昭和30年代前期のT市の七夕まつり風景です(右白黒画像)
かちかち山のうさぎとたぬきの手足がモーターで動くたわいのない仕掛けだったりしたが当時はTVなぞの普及前だったので皆娯楽に飢えていた時代。ゆえに山爺のような幼い者はもちろん大人たちまでがこの祭りが楽しみで製作途中の七夕飾りを見ては、今年の〇〇屋は凝った仕掛けのようだと下馬評したもんです。
と、たわいのないことを思いながらアーケードを歩いていたら地元の歌い手さんでしょうか、見知らぬ歌手?が路上パフォーマンスしてました。
皆さんあまり関心ないようで人々は後ろ向きに座ったまま・・頑張れ新人?山爺これにあり・・なんちゃって。
こう見えて山爺は若い頃、新人歌手に頑張れと声をかけたことがある。
当時の勤務先から販売応援で群馬県のM市のデパートに派遣されていたときのことだ。デパート内のレコード店で当時新人だったS・I恵が一生懸命に歌ってレコードの即販をしていた。
たまたま休憩中だった山爺、店のハッピ着たままその様子を見ていたら関係者と錯覚したのかI恵ちゃんがつかつかと駆け寄り、深々と頭下げて可愛い笑顔で『よろしくお願いしま~す』と・・山爺思わず『頑張んなさい』と返答しちゃった。大丈夫、礼儀わきまえてその上その笑顔だ、売れるよと思った。その後の彼女は言わずもがな大者へと成長、山爺の目に狂いはなかった。
夕方になって吹流しが照明に映えて奇麗に浮き上がって見えてきた。
祭りはこれからが本番のようで、人ごみが一段と増えたような気がする。
3日目、今日は再び長時間鈍行に揺られての帰宅旅だ。早めに仙台駅に向かう。
七夕まつりは今日までだが、構内は七夕の飾りつけで祭り一色のまま。
早く駅に着いたが土産物を物色していたらあっという間に時間が経過。急ぎ我が家にお土産を買って予定より1本早い各駅停車白石行に乗り込む。
白石駅について乗継便をみたら40分も間がある。次の便でよかったんだと思っても後の祭り。所在無さに改札を出て駅のベンチで仙台で買った軽食(サンドイッチ)で腹ごしらえしてから駅前をぐるりと散策する。
ここ白石は伊達政宗の重臣、片倉小十郎が収めた地域で復元ながらお城もあります。
片倉家の武家屋敷や霊廟もありミニ観光出来そうだなあ。名物白石うーめんも食してみたい。
今冬か来春に青春18切符利用してまた来てみたいなあ。
さて、乗り継ぎ列車がそろそろ来る頃だろう。再び駅構内へ。
帰りは平日でもあり各乗り継ぎ列車ともがらがら、乗り鉄本線日本旅を満喫しながら帰宅の途へ。
【川柳】
・青春は とうに過ぎたが 切符買い
・在来の 線路埋たり ああ無情
・死してなお 政宗家臣に かしずかれ
・振り仰ぐ 杜の都の 星祭
さて、まだ切符の残りが3回ある。使用期限は9月10日まで、早々に旅に出ないといけないなあ。
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