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2024年5月8日水曜日

横須賀散策記(三笠記念館を訪ねて)

 青春18切符があと1回分残っている。4月10日までに使わなくてはならない。好齢になると腰が重くなりなかなか出かける気にならない。その点、使用期限付き切符は山爺の重い腰を動かすのに大いに役立つのでいいですねえ。・・って何のこっちゃ。

さて、どこに行こうか。いつものように上野の無料の博物館?近すぎて切符がもったいない。
いっそのこと静岡まで日帰りし駿府城でも見てこようか。想像が頭の中でぐるぐる回りだした。・・ってそりゃあ、めまいだよ。

横須賀まで足を伸ばして前々から行きたかった戦艦三笠の勇姿を見てこようと決めた。

戦艦三笠を見たいなあと初めて思ったのは司馬遼太郎の坂の上の雲を読んだ時だから確か20代半ばだ。なんとも長い年月が経ってしまったもんだ。

最寄のJR駅発7:30の電車に乗ったら10時前には横須賀に着いた。横須賀に来たのは初めてだが意外と近いんだなあ。思ったより駅舎が小さい。

ここから循環バスに乗り三笠公園下車。降りた途端にいきなり戦艦三笠が見えた。




左に立っている銅像は東郷平八郎に違いない。記念館に入る前に外回りを見て歩く。
主砲の上に指令所、その上に手すりのついたデッキが見える。あれが東郷さんたち指揮官が立っていたデッキだな。
三笠の舷側にロシア巡洋艦バヤーンが被弾した防御鉄板が展示してある。砲弾が7.5mmの厚さを貫いています。この向こうにいた兵はどうなった??。戦争は嫌だねえ。

戦艦三笠を正面から捉えてみました。かっこいいです。
一体に兵器というものは美しいものが多い。機能美というのでしょうか、無駄というものが一切ないのが兵器の特徴だ。その極みは日本刀です。

三笠の概要を調べてみましょう。

【山爺の一言メモ】

戦艦三笠の概要

日清戦争後ロシアの脅威にさらされた日本が日英同盟に基づきイギリスのビッカース社に1898年に発注、1900年に進水、兵装を整えて1902年3月に日本に引き渡された。
日本海海戦は1905年の5月に起こったのでまさに駆け込み手配だ。

全長132m・全幅23m ・排水量15140t・速力18ノット(33km/h)・乗員860名・主砲:40口径(30.5cm)連装砲2基×4門・・最大射程10km
副砲:40口径(15.2cm)単装砲14門・魚雷発射管:4基

日本海海戦

旅順港・ウラジオストックのロシア艦隊を応援すべく1904年10月15日にバルチック艦隊がリバウ港を出航した。当時の燃料は石炭だから極東への回航は前代未聞で困難を極めると思われる中での出航であった。

陣容は戦艦6隻・巡洋艦7隻・軽巡洋艦5隻・水雷艇9隻・病院船1隻・工作船・輸送船・・総勢39隻、乗員1万5千名を越す大艦隊だ。

バルチック艦隊は出航直後の21日深夜イギリス漁船を日本軍の水雷艇と誤認し砲撃、民間人を殺傷した。これによりイギリス世論は一気に反ロシア、親日に傾いたことは日本にとって幸運となった。この事件以降バルチック艦隊はイギリス軍艦に追尾されることになりバルチック艦隊の乗組員はこれを日本軍の軍艦としばしば誤認、終始悩まされることになる。

スエズ運河を通過出来なかったのは日英同盟に基づきイギリスが封鎖したからと聞いたことがあったがそれは誤りのようです。石炭を満載しているので喫水が下がり水深の浅いスエズ運河は通過できなかったというのが真相のようで実際にスエズ運河を通って極東へ向かったバルチック艦隊もいたのです。

足並みの遅い艦船に合わせたので艦隊全体の進行速度は8ノット(15km/h)と遅く半年以上の大航海を経て兵士たちは疲弊の極みで対馬沖に到着した。

連日猛特訓し艦船の整備も怠らず満を持して待ち構えていた日本の連合艦隊とでは戦う前から勝敗は決していたのかも知れない。日本の陣容:戦艦5隻・装甲巡洋艦11隻・巡洋艦14隻・通報特務艦11隻・駆逐艦21隻・水雷艇44隻・・数の上でも圧倒的に日本側が有利。

戦闘結果はご存知のとおり、戦闘開始30分で日本艦隊の砲撃によりバルチック艦隊は戦闘能力を失い沈黙(下瀬火薬の高熱性能により艦上全ての施設が焼けただれ火炎地獄と化し浮かぶスクラップとなった。)さらに巡洋艦らの豆鉄砲でボコボコに叩きのめされ、多くは撃沈されたり降伏して鹵獲された。ウラジオストックに到着したのは駆逐艦3隻のみだったという。

バルチック艦隊の損害:戦艦6隻沈没 他艦船15隻沈没 投降拿捕6隻 中立国抑留6隻 戦死者4830名 捕虜6106名

対する連合艦隊の損害は水雷艇数隻沈没・駆逐艦1隻大破、戦死者117名という近代海戦史上稀有の結果となった。三笠の損害は戦死者8名 負傷は軽傷含め105名にとどまった

三笠のその後

1905年:9月に佐世保港で弾薬庫が謎の大爆発(下瀬火薬の自然発火説・信号用アルコールに火をつけてから消して飲む悪習による引火説)を起こして沈没・着底、これにより乗組員339名が亡くなった。

日本海海戦でせっかく生き残った乗組員の多くがこの事故に遭遇したことは無念の極みであったろう。この事故により三笠は予備艦になる。

山爺の私見だが事故の原因は下瀬火薬の自然発火ではなく信号用アルコールの盗み呑み説を取りたい。下瀬火薬は艦隊全体で使用しているのでこれが原因なら三笠のみで起きるとは思えない。

盗み飲みは大方夜間に忍び込むのだから灯りが必要、当時は懐中電灯なんて兵卒は持っていない。マッチで布切れに火をつけて灯りとしたがそれがアルコールに引火・・そんなところだろう。
明治6年に徴兵制が施行されてから32年と日も浅い、軍規はさほど厳しくなかったに違いない。日頃から兵の盗み呑みを黙認していたが、それが原因と公表したら軍の面木丸つぶれだ。仕方ないので火薬の自然発火と報告したに相違ない。下瀬火薬を発明した下瀬雅雅允さん忸怩たる思いだったろうなあ。

1914年:第一次大戦時は日本海で警備活動
1921年:海防艦に格下げとなる。ウラジオストックで挫傷・損傷し舞鶴港に戻る。
1922年:ワシントン条約で廃艦決定
1923年:9月関東大震災で岸壁に衝突・着底
1925年:閣議で記念艦として横須賀に保存が決定。砲塔などは木製で復元
1945年:敗戦により日本人による窃盗が頻発、金属部分が切り取られたり甲板の木々が燃料用に剥がされたりして荒廃

1945年:進駐軍に接収され上部は取り払われキャバレートーゴー(マッカーサーさん洒落がキツイなあ、ひどいよ)や水族館(丸い建物が水族館)が設置された。

・三笠の荒廃に憂いたイギリス人ルービン氏がジャパンタイムス誌に投書したり米海軍ニミッツ元帥が著書の売り上げを寄付するなどして国内外から復元保存運動が高まった。

・公益法人三笠保存会として現在に至る。


それでは記念館に入りましょう。入館料は¥600ですが65歳以上は¥500です。割引率少なっ!

三笠で使用した砲弾です。大きさからすると15.2cmの副砲用の砲弾でしょうか。
舷側にある単装砲です。防御鉄板が薄い。重機関銃でも貫通しそうですねえ。





艦上にある救護室です。戦闘用というより平時の医務室のようなものでしょうね。戦闘が始まったらこんな狭くては役に立たない。

正面からの三笠、砲塔の上にある四角窓のある部屋が指揮所でその上にデッキがあります。
このデッキ上で東郷以下の指揮官達が砲弾が飛んでくるにも関わらず戦闘指揮を執り続けました。

危険だから下の指揮所に入りましょうと奨めても東郷は『おいはここがよか』と言い放つ。
大将が表で頑張っていたのでは他の参謀は降りるわけにはいかない。仕方ないから全員右倣え、皆さん内心では肝冷やしたんだろうなあ。

全参謀が砲弾飛び交う中、危険なデッキ上で指揮を執り続けた。これはのちのち美談として語り継がれることになるのだが山爺に言わせれば指揮官失格だ。デッキに砲弾が命中したら全滅必至、その後の連合艦隊の指揮は誰が取るのだ。指揮系統を2チームに分けて予備チームは安全な指揮所内にいるべきだろう。

東郷は戦闘中デッキ上で一歩も動かなかったとか、故に波しぶきを被ってもそこだけ乾いた足跡が残ったという逸話が・・・嘘に決まっている。

下部の指揮所はこんなふうです。船の操縦室になってます。

確かに見通しは悪いなあ。上とは伝声管(画像上の管)でやり取りが出来ます。
そばに頑丈な待避所みたいな丸いルームがありました。(後部甲板上にも同じものがあります)

厚い(10cm位)鋼板で覆われています。
激戦時の時の射撃指揮所かな?舵も取れるようですねえ。
見通しは極めて悪いです。



上のデッキからの眺め。ここから東郷達が肝冷やしながら指揮とったんですねえ。たしかに見通しは良いです。

羅針盤の左右にあるのは伝声管で下の指揮所(操縦室)と会話ができます。
横に伸びているのは測距儀(距離計)です。当時としては最新式のものを惜しげもなくビッカース社(イギリス政府)は装備してくれていました。
敵との距離を正確に測ることは砲撃戦勝利の必須条件だ。最新の測距儀を手にした日本艦隊、日本海海戦での隠れた勝因です。良いものをきちんと装備したイギリスは紳士の国だったんですね。それともロシヤに勝利されては自国が困ることになると思ったからかな。

明治初年の鉄道の導入では日本の政治家(大隈重信ら)の無知に付け込んで余っていた狭軌の鉄道を押し付けた?。これにより日本の鉄道は速力面や広軌の線路(新幹線)との乗り入れで今持ってハンディを背負い続けることになったものねえ。



さて、船室に入ってみよう。
艦内の通路は思ったより広いです。


側距儀が展示してあります。これは本物かな。



三笠の模型がありました。艦上側面の長い建物は見学者用の雨除けかと思ったら当時から設営(砲弾防御のため?)されていたんですねえ。

着弾した砲弾片や破片が展示。これにより兵が負傷または戦死したのかな!!。 ..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ




砲塔室の横にハンモック、兵や下士官は常日頃より砲の横で寝起きしていたようです。
砲撃の様子を再現したものが展示してありました。指揮官以下5人で1チーム編成のようです。

神棚が祀ってあります。戦闘艦には必須ですね。どんな屈強な軍人でも戦闘に際しては神頼みしたくなるよね。あの信長さえも例外ではなかった。
東郷長官専用の風呂です。部屋も贅沢に広いです。隣は長官室。さすがはイギリス、将官と下士官・兵とは厳しく差別するんですねえ。
高級士官の談話室。オシャレな設えです。
高級士官の食堂兼会議室。贅沢に広く取ってあります。
高級将官たちには全て個室が与えられています。
階級社会を頑なに守るイギリスならではの考え方が表れています。
連合艦隊の高級参謀たち。中央下が東郷平八郎、右端下が坂の上の雲でお馴染みの秋山真之参謀です。

甲板に出られる階段ですがこの階段、当時は司令長官専用と説明札がぶら下がっています。なぜそこまで差別するのかなあ。
そんな三笠ですが日本海海戦後は艦艇として謎の爆沈ほかの不運に見舞われ太平洋戦争後は軍部への腹いせも手伝ってか、日本人により上部の金物は切り取られ甲板は薪として引き剥がされ見るも無残な有様に。

さらに進駐軍により砲塔ほかの上モノは全て撤去されダンスホールやキャバレートゴー・水族館に大変貌。・・って日本人も含めひどいことするなあ。

建造当時乗組員と親交のあったルービン某氏がこの荒廃ぶりに憤慨しジャパンタイムスに寄稿したり米国のニミッツ元帥らの協力により復元運動が起こり今日の記念艦となりました。・・・めでたし、めでたし。


横須賀駅に戻り湾口を散策。国籍は不明ですが軍艦のような艦船が停泊しています。








その横には潜水艦も停泊しています。

ここが今も変わらず軍港であることが実感できます。







軍艦に桜、良く似合います。

断っておきますが山爺は軍国主義じゃありませんから・・念のため。








【川柳】
・長が回航 果は沈没 バルチック 
・三笠には 兵らの風呂場 見つからず
・東郷の 頑固に参謀 降りられず
・東郷は キャバレー差配も 拝命し

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①ここに掲載されたルポや川柳の著作権は作者(日暮道長)にあります。
②作者以外の方による無断転載は禁止で、行った場合、著作権法の違反となります。

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2024年4月23日火曜日

青春18切符でぶらり旅Ⅱ

 春季の青春18切符があと3回分残っている。それにしても青春というタイトル、何とかならないものかねえ。かめさん切符とかゆとり切符とか・・・この切符が初めて発売されたのは1982年3月で当初は”青春18のびのび切符”と称していたが翌年3月に今の名前に落ち着いたようだ。

当時の若者は貧乏書生然とした者が多かったのでこの切符の需要があったようだが今日日の若者は相対的にお金持ちが多いのでこんな切符は見向きもしない。車で移動か新幹線利用だ。

旅行中、18切符は自動改札からの通過は出来ないので駅員を介した白い出札口から出なければならない。出ようとすると大きな駅の場合はしばしば4~5人が出札待している。

そんな訳で今でもこの切符の需要は結構あるようだが、そこに若者の姿はほとんど見かけない。

利用しているのは山爺のような仕事を引退した単独ぶらり旅の爺か熟年夫婦や家族連ればかりです。実態としては青春18ではなく熟年65切符なのである。だからJRさん名前見直してね・・何々、見直しではなく廃止にしたいですとぉ~!!それはご勘弁願います。

さて今回も西に向かってぶらり旅ⅡへGo!、大阪や京都も良いけれど、さすがにそこまで各駅停車での乗り継ぎは高速バスのように目的地まで一直線というわけにはいかないので精神及び体力負担が大になる。

今回も名古屋周辺あたりまでが限界かなあ。Google mapを名古屋に合わせて”お城”とか”古い町並み”と入力して検索すると岡崎城がヒットした。

岡崎城は徳川家康の誕生の地で前々から訪れたい場所だった。ところで岡崎城はJR岡崎駅にあるのではなく愛知環状鉄道中岡崎駅から徒歩10分位の所にある。駅からの道を検索していると中岡崎駅の近くに八丁味噌工場が2社(カクキュー味噌・まるや味噌)あることに気がついた。

八丁味噌といえば家康の大好物で三河武士の兵糧として重宝された味噌だ。2っの工場とも工場見学を受け入れているようなので岡崎城とセットで是非とも見聞しようと考えた。

さらに周辺を検索していると名古屋市の近郊に有松地区というところがある。ここは旧東海道沿いにあり宿場町として栄えた所で今も古い町並みが保存されていることが分かった。

隣の駅には桶狭間の古戦場もある。山爺好みの場所がくっついている願ってもない好条件の場所を見つけた。

Google mapというものは誠に便利この上ない。これじゃあ観光ガイド誌は売れないだろうなあ。

次のような行程でぶらり旅を計画した。

1日目:自宅→岡崎市→中岡崎駅→岡崎城→八丁味噌工場見学

2日目:熱田神宮参拝(信長塀見学)→桶狭間古戦場→有松宿

3日目:名古屋市内散策→帰途

3月末日、最寄駅から7時過ぎの熱海行に乗車すると10時に熱海着、さらに浜松→豊橋と乗り継いで中岡崎駅に2時頃到着した。途中の熱海~浜松間は海が見えたり、雪をかぶった富士山が望めたりで飽きはこない。

ここから岡崎城までは800mほどなので歩いて行こう。

岡崎城のお堀端が見えてきました。桜がちらほら咲き始め堀の芝生の上で家族連れやカップルが思い思いでくつろいでいる。

防戦のために腐心して築いた堀も今は市民の憩いの場所、実直な三河武士もまさか600年後にお堀が平和利用されるとは夢にも思わなかったろうなあ。


石垣は浜松城のような野面積みとは少し違うような気がします。


【山爺の一言メモ】

城壁(石垣)の積み方は何通りもあります。古い順に

・野面(のずら)積み・・自然石をそのまま積み上げる。隙間には小石を詰め込む(間詰め石) 水はけが良いので風水害や地震に強いが敵に登られやすい欠点がある。・・浜松城・岐阜城・安土城

・打ち込み継ぎ・・少し石を加工し隙間を少なくする積み方・・姫路城・名古屋城の一部

・切り込み継ぎ・・石をサイコロのように加工(築石と呼ぶ)し積み上げる。隙間のない石垣となるので敵が登りにくい長所があるが水害・地震に弱い・・金沢城や江戸城

切り込み継ぎの変形として

・乱積み(谷積み)・・築石を平行に積まず故意に不規則に積み上げる。登りにくくするため?・・彦根城
・布積み・・同じサイズに統一した築石でレンガのように積み上げる・・名古屋城の天守閣

など・・・このほか、これらの変形積みが数多く存在します。



岡崎城は野面積みと打ち込み継ぎの中間のような気がします。お城巡りをするときに石垣の積み方に目を向けるのも面白い。

さて天守閣に到着です。桜はまだ三分咲でした。
入城料(誤字にあらず)は¥300ですが浜松城のように70歳以上に無料扱いがないのはもちろん、市民以外のよそ者には割引が一切ありません。

三河衆はよそ者には渋いのう。戦国時代に尾張(斎藤・織田)駿河、遠州(今川)に挟まれて昔から損ばかりしている地域だからねえ。しわくなるのも頷ける。(冗談です)

中に入ると狭い石垣に囲まれたところに受付があました。入城料を払っていざ見学。

長坂家所蔵の槍と兜が展示、長坂信政が使用したと書いてあります。長坂家は当初家康の家臣でしたがその後家康の命で重臣の本多忠勝に仕えたと説明書きがありました。



火縄銃、江戸時代前期、鉄砲鍛冶で有名な近江の丹波国友衆の作と書いてあります。

ここ岡崎城の展示品は素性がわかる(説明書き)のがいいですねえ。素性がわかれば価値観も違う。見る目も変わろうというものです。

兼元と銘のある刀剣です。室町時代、美濃の作との説明。後で調べたら兼元は関の孫六で有名な名工で世襲の名前みたいです。

かなりの値打ち物の刀剣のようです。







ここも小さなお城だから最上階にすぐ到着です。
外に出てみよう。ありゃあ?外の眺めは金網越しです。無粋だけれど小さな男の子は無茶するからこうした安全対策も仕方がないのかなあ。かつて実際に誰か落ちたのかな? (^^♪





入城料はしっかり取られたけれど、値打ち物の博物を見たので眼福でした。岡崎城に敬意を表して改めて岡崎城の全景を撮影。小ぶりながら均整の取れたよい作りです。

さて、八丁味噌工場の見学最終締切は4時半だから4時前には訪問しなくちゃあねえ。急げ、急げ。

八丁味噌の名前のルーツは蔵元が岡崎城から八丁(850m)の距離にあるからなんだそうで、八丁村と呼ばれた地域で起こりました。

山爺は手八丁口八丁という言葉があるからそれに関連した意味かと勝手に思ってましたが単純な命名だったんですねえ。

この地域には、まるや味噌・カクキュー味噌と2つの蔵元があるが、まるやさんは創業1337年・・って室町時代の初めだぜ?本当かなあ、かなり古い。カクキューさんは今川家の家臣だった人が桶狭間の合戦で破れて武士を廃業、味噌作りの修行に励んで数代後の子孫が1654年に蔵を起こしたというから履歴が面白い。

どちらも歴史のある味噌蔵だ。八丁味噌は徳川軍の兵糧として有名なのだが当時はまるやさんしか味噌蔵がなかっただろうから、まるやさんの味噌が戦場で重宝されたんだろうなあ。・・あるいは当時はほかにも味噌蔵があったのかな?自家製の味噌ということも考えられるなあ。

見学はどちらにしようか迷ったがカクキューさんの蔵は等身大の人形を配し江戸時代の作りを再現するなどアミューズメント的なのでそちらに決めました。

午後3時40分ごろ受付を済ませて4時からの見学に間に合いました。(30分ごとに受け付けてグループ分けされて最終見学は4時30分~17時(終了)

土曜日ということもあり4時からのグループは結構見学者が多かったです。(最大50人までグループ分け・・山爺のグループは30人くらだったかな?。)

見学料は?、山爺の好きな無料ですわ。その代わり見学後の解散場所は土産物売り場、何か買わないと悪いような気がする仕組みです。

右の画像はカクキューさん自慢の看板で誇らしげに宮内庁御用達の文字が書いてある。

絵の小僧と武士はそれぞれ日吉丸(秀吉)と蜂須賀小六で矢作川にかかる矢作橋で初めて出会った場面を再現している。この橋はカクキューさんのすぐ近くにあるようです。

人形を使った江戸時代の味噌作りの再現が数カ所あるので巡回に飽きが来ません。カクキューさん商売上手ぅ。

仕込みが終わった6トンの桶の上から3トンの石を丁寧に並べて重しとします。岡崎は高温多湿の土地なので食品が腐りやすい。味噌作りも極力水分を少なくさせて仕込むんだそうです。

まず、味噌玉(おにぎり様?かな)を作り麹菌でまぶす。
麹菌をまぶした味噌玉を桶に並べる。味噌を均等にしたり水分を均一にするために3トンもの重しを丁寧に載せて2夏2冬寝かせる。こうして濃厚な旨味と酸味、渋みのある八丁味噌が完成します。

見学を終えると最後に味噌汁と味噌田楽の試飲・試食が待っています。白味噌と赤味噌の飲み比べ、旨いんだが猫舌の山爺、あっちっち・・熱くてなかなか飲み比べが出来ない。味噌田楽、旨っ!!もっと食いたいけれど1人1個なんだろうなあ。・・・ (^^♪

八丁味噌の粉末化した試供品2個を頂いて解散、外に出るには嫌でも土産物コーナーを通過しなければなりません。味噌汁が美味しかったので八丁味噌を買いたいけれど旅は始まったばかり、荷物になるので味噌キャラメルと味噌かりんとう・田楽味噌用練チューブを買い求めた。
家に帰り早速、皆で試食したところ、これが実に乙な味でございまして・・・頂いた粉末味噌も熱々のご飯にふりかけたところ焼きおにぎりの味がして旨いのなんの・・粉末味噌、買って帰れば良かったなあ。・・HPで販売しているのだが本体価格より送料の方が高い。!

翌日の散策は熱田神宮からです。目当ては三種の神器のうちの1つ、草薙の剣(レプリカあるのかな?)と織田信長が寄進した通称信長塀だ。地下鉄熱田神宮西下車。西門から境内に進入。
参道の真ん中は神様の通り道で正中と言います。人間は神様を敬い左右の端っこを歩くのが決まりなんですが、皆様知ってか知らずか構わずど真ん中をノッシノッシと歩いている。困ったもんだ。








途中に大きな楠木がありました。御神木かな?と近寄ってみると案内書きには樹齢1000年以上、弘法大師お手植えの木とありました。出た~・・どこでも顔出す弘法大師(774~835)ここにもいたゾ。

弘法大師が絡んでいるので御神木ではなさそうですが大師没後1189年経っている・・年代は合っているが怪しいなあ。

なかなか貫禄ある枝ぶりの楠木です。これなら弘法大師ゆかりとしたくなるのも無理ありませんなあ。
信長が今川義元との合戦で桶狭間に向かう途中、熱田神宮で戦勝祈願しています。見事義元を討ち果たしたのでお礼に寄進したのがこの土塀で通称信長塀として語り継がれています。

ちなみに信長さん、ここの他にも道すがらに4箇所、計5回も神社仏閣で戦勝祈願しています。よほど自信がなかったんだろうなあ。


山爺も本殿でお賽銭を弾んで(¥100)戦勝祈願、本殿内部に向かって写真1枚撮ったところ警備員がすっ飛んできて御神体の撮影はご遠慮ください。今すぐ消去してと厳重注意を受けました。・・ (´▽`*)アハハ

さて草薙館に入ってみましたが予想通り草薙の剣のレプリカはありませんでした。御神体で誰も見たことがないんだから非公開は仕方がないけど、無いなら草薙館なんて名前付けるなよ・・当てにするじゃあないか・・看板に偽り有りだなあ。

展示物は刀剣がほとんどで鎌倉時代から室町時代の物を展示しているだけ。熱田神宮って創建は伝、大化2年(646年)だから大化の改新のころだぜ。もっと古刀があるはずじゃン。鎌倉時代以降しか並べないのでは社(やしろ)の時代を反映していない。なんか飾っておけばいいや的で安直な展示だなあ。

だいたいにご神体の草薙の剣にしてから何度も行方不明になっている。一番有名なのは壇ノ浦の合戦で海の藻屑と消えたはずなんだがなぁ・・・ほかに朝鮮人による草薙剣盗難事件(668年)というものがある。となると今、熱田神宮にある剣はいずこから??。

伝説では盗難も含め持ち出されるたびに剣が独りでに宙を飛び舞い戻るとか・・嘘だあ~。神官による作り話に決まっている。

草薙の剣は2本現存しているそうです。熱田神宮にあるのが本物??とされており、もう一本は本物に似せて新たに鍛造したあと分祀という儀式を行い、これを形代(かたしろ)とした。これが現在、皇居内に所蔵されているそうです。

形代はレプリカとは意味あいが違います。今様電子記録のバックアップデータに近い価値観かなあ。分祀されたのだから本物と同等の位置付けになる。

なるほど上手いことを考えたものだ。これなら片方が無くなっても残った方を分祀すれば永遠に無くならないで済むわけだ。神社建て替えのしきたり、式年遷宮と似た考え方かな。

もしかすると平清盛が福原遷都の時に宮中から持ち出しその後壇ノ浦で沈んだ草薙の剣も清盛から話を持ちかけられたときに聡明なお公家さんが一計を案じ、急遽分祀した物を渡したんじゃなかったのかな。・・山爺の新学説ですわ・・ (^^♪

【山爺の一言メモ】

草薙の剣のドキュメント

須佐之男(すさのおのみこと・天照大神の弟)→狼藉三昧の出雲の大蛇(八岐大蛇)退治→尾から剣が出てきた(雨の叢雲の剣)→天照大御神に剣を献上→日本武尊に下賜→草原で火に囲まれたとき草をこの剣でなぎ払い脱出→以後草薙の剣と改名・・ここまでが神話です。

リアルな想像としては出雲地方に根付いた朝鮮からの渡来人一族が鉄器を生産、産業廃棄物を河川(斐伊川)にたれ流して汚染させ下流の農民を困らせていた。大和から軍隊が遠征、和議すると見せかけて一族を(部族長8名・・だから八岐)酒宴に誘いだまし討ちして滅ぼした。そして鉄の製造技術者を大和に連れ帰った。雨の叢雲の剣はその時の戦利品。・・・大和政権は相手を酔わせて油断させ、だまし討ちするのが得意で九州熊襲征伐も同様の手口で攻略している。

ここからがドキュメント→熱田神宮へ奉納→宮中へ持ち出し(形代を持ち出し本物は熱田神宮にあるとする説)→宮中から平清盛が福原へ持ち出し→壇ノ浦で水没(1185年)→以後神器の剣はしばらく宮中に不在のまま・天皇即位には代用の剣を使用→後白河法皇により伊勢神宮にあった別の形代の剣を新たに神器とした(1210年)→これが現在皇居で所蔵。

熱田神宮の本物からしてどうなんだか。江戸時代に盗難にあっているという説もあり真相は謎のまま。なにせ誰も現物を見たことがないんだから・・見た人は死ぬとか目がつぶれるとかの悲惨な結末を迎えるとか・・・

戦国時代に真柄十郎左衛門が使ったとされる大太刀が展示されてました。でかっ!伝説では真柄は2mを越す大男で3mの大太刀を振り回したそうです。

真柄は信長に滅ぼされた戦国大名、朝倉義景の家臣で実在の人物ですが古典落語の浮世床でその猛勇ぶりが面白おかしく描かれてます。

床屋の2階で若者達がたむろ、1人が軍記物を読んで聞かせる。真柄十郎左衛門が1尺2寸の大太刀を振り上げ・・おい、おい、ちょいと小さ過ぎねえか、それじゃあ肥後守だ・・黙って聞け、1尺2寸は刀の横幅なり・・・そんな戸板みたいな刀があるか、向こうが見えねえだろう。・・見えないと困るから3角4角の窓を開けて、暇なときは餅を乗せて焼いて食う。

山爺はこの落語が好きでずいぶん前から知っていたが幅1尺は大げさだが実物?があるとは魂消ました。本当にこんな大きな刀を振り回していたのかなあ。

宝物館は写真撮影厳禁なので草薙館のHPから転用させていただきました。

隣に体験コーナーがあり、真柄が使ったとされる大太刀のレプリカがあり持ち上げる体験が出来ます。8kg??だったかな。持ってみると重っ、こんなもの並みの人間が振り回せたものじゃあない。
普通の刀の体験コーナー、これでも結構重い。竹刀を振り回すような訳にはいかないねえ。片手で振り回すのは鍛錬者じゃあないと無理ですね。

身上お守り(¥1000)を熱田神宮訪問の記念として買い求め次の桶狭間へ・・

桶狭間古戦場へは熱田神宮の東側にある名鉄名古屋本線の神宮前駅から乗車して移動する。中央競馬場駅で下車。桶狭間古戦場に似つかわしくない駅名だなあ。
駅前をとっとこ歩くと道々に警備員が立っている。それも3人も4人いる。おかしいなあ。改めて地図を引っ張り出だし磁石で方位確認。あちゃあ、やってしまいました。南口にでなければならないところを北口に出てしまいました。競馬の開催期間なのでしょう。だから警備員が多いんだ。 (^^♪

30分も無駄な時間を消費してしまいました。南口に回り込み仕切り直し。駅前を右に進んですぐ左折すると5分くらいで桶狭間古戦場の看板が目に入りました。なあんだ駅近古戦場ではないか。
合戦記によれば桶狭間の戦いは山間の隘路に間延びして停滞していた今川義元の大軍勢に織田軍が奇襲をかけて勝利を収めた戦だが、今は広い道路を挟んで左側は開発が進んで平坦地。住宅ほかの建物が数多く建っており合戦時の山あいだった面影はまるでない。小さな公園があり古戦場の模様を伝えています。
今川義元の供養塚があります。


古戦場というより公園だなあ。

【山爺の一言メモ】

桶狭間の戦いの顛末

駿河・遠江の守護大名だった今川家は守護代だった織田家と度々小競り合いを起こしていた。尾張を平定すべく今川義元は2万5千(4万以上とも)の大軍を率いて1560年旧暦5月12日に駿河を出発。今川軍は先発隊がすでに織田の出城をいくつも落とし破竹の勢い。
義元自身も馬ではなく公家かぶれで輿に乗り悠々と行進し桶狭間付近に進出する。輿に乗ったのは公家の真似をしたのではなく義元が太り過ぎて馬に乗れなくなったからとの情けない説もある。

対する織田信長軍は2千~3千(5千とも)圧倒的に不利な条件下にあったが恭順はせずに戦うことを選択する。織田軍は19日(新暦6月12日)午前4時に尾張を出発し午前8時に熱田神宮で戦勝祈願(この時に道すがら計5回も祈願した模様)2千の兵を率いて正面からの攻撃を避けるため東方へ迂回しながら進軍した。
正午ごろ織田軍の本隊がやってくるとの知らせに鼓舞されて先に到着していた織田の前衛30数騎が早まって今川に戦を仕掛けるが敗退。これに気を良くした今川義元は謡を歌わせ戦勝祝いをしたとか。勝つと浮かれて謡を舞うところは義元さん、噂通り武士を忘れて公家かぶれしていたんですねえ。

13時頃豪雨となったので義元はこんな状況では敵も攻めてこまいと油断、兵たちに昼食を取らせて呑めや歌えの大盤振る舞い。2万五千の大軍といっても大半は先発して砦攻略に割かれており残りは1万くらい、それらも隘路な山道に差し掛かっていたので延び放題、義元周辺には300名ほどしかいなかったという。

そこへ織田軍、2千が奇襲をかけたから堪らない。あっという間に義元は織田家臣の毛利新介に首を打ち落とされて全巻の終わりとなった。
この戦は寡兵よく大軍を破るの実例として以後、戦史研究家に取り上げられるようになる。
満州事変を企てた関東軍参謀の石原莞爾が戦自論として述べていたと思ったが”艦隊同士の戦は数で決まり必ず多勢が勝つが、陸の戦は数では勝敗は決まらない”と。こんな陸軍のご都合主義がまかり通り国力もないのに日中戦争、さらに太平洋戦争へと突き進んでしまった。この思想の裏付けとして桶狭間の戦いが頭の中にあったことは十分考えられる。

野球の野村監督がよく引用していた孫子の兵法”勝ちに不思議な勝ちあり負けに不思議な負けなし”を信長はよく理解していたと思う。信長自身、寡兵で戦いに挑んだのはこの桶狭間1回きり、以後は寡は衆を敵せずを守り必ず自軍が優勢の時に戦いに挑んでいる。

道路の右側斜面は木々でこんもりとした斜面が続いて当時の面影を伝えています。この斜面に高徳院というお寺が建っており今川義元他の戦死者を弔っていますがこのお寺は明治26年に高野山から移転されたようなので合戦当時は山野であったようです。
境内に今川義元本陣跡という石碑があるので義元は街道を外して山の斜面に陣取り木々の下で雨を避けて休憩をしていたに違いありません。
街道沿いには供養の石仏がずらりと並んでいました。
今川義元没後300回忌の供養塔です。


右の画像は説明文を読むとお化け地蔵とあります。
1853年尾張藩士が建立したと書いてある。尾張藩士は今川の敵方のはずだがなぜ建立したのか。

この地に度々亡霊が現れ地元民を脅かしていたがこの地蔵を建てて供養したところ以後現れなくなったとか。戦没した無名兵の怨霊が俺も供養しろと騒いだんでしょうかね。

いったい両軍合わせて何人の方々が戦死したのでしょう。実はよく分かっていません。武将の場合は戦死記録があるけれど雑兵は臨時雇いや無理やり連れて来られたとかで参加数そのものが把握されていないのです。ある記録には両軍合わせて3千5百人を葬ったとあります。

また別の記録では今川軍:騎兵583雑兵2500 織田軍:990(桶狭間以外での戦死含む)とあるので4千人近い戦死者が出たようです。あの関ヶ原の戦いでさえ両軍合わせ17万人中、戦死者は8千~1万2千(正確な戦死者は不明)だから戦死率7%、桶狭間は倍の14%だ。奇襲を仕掛けた織田軍からして相当数の戦死者(半数近い?)を出してる。数字だけを見てもいかに激戦だったかがわかる。

いつまでものんきにこの地に留まっていると地縛霊に取り付かれないとも限らない。そろそろ退散しよう。

桶狭間の古戦場の隣の駅が古い町並みの保存地区がある有松駅だ。14時に有松駅に到着。
有松駅からの街の俯瞰、駅の高架から街並みを見下ろすと。早々趣のある屋根が見えます。
駅から最初の信号の左右の道が旧東海道です。右に曲がると、いきなり風情のある街並みが現れました。これは期待出来そうです。

まずは町のはずれにある一里塚からスタートです。江戸時代の当時もこの町の江戸方面からの目印として存在していたに違いありません。

旅人が『さて今夜はどの宿に厄介になろうかなあ』と思案した光景が目に浮かびます。

街並みが実に良く保存、整備されています。

飛脚や籠かきが今にも出てきそうな雰囲気です。
白壁の建物もあります。

3月初めに訪れた岐阜の川原町より街並みの規模は大きいです。
絞り染め工房です。昭和61年、皇太子・妃殿下行幸とあります。年号からすると今の上皇様が立ち寄ったんですね。


有松染めとあるので、現役でご商売しているお店です。有松饅頭やせんべいといった観光土産屋はどこにも見当たりません。

地方条例で規制されているのか、自粛しているのかな?。
消火器やガスメーターも格子の中に収めてます。皆さん自分の住んでいる街に誇りを持って暮らしているようですねえ。
有松山車会館というのがあったので覗いてみました。


山車の上部にからくり仕掛けの人形が複数見られます。
山爺の生まれ在所のT市にもそれなりに豪華な装いの山車がありますが単なる人形が山車に載っているだけで動きがない。

ここ有松のからくり山車のほうがエンタメ性といい数段上と見ました。

名古屋からは飛騨の高山が近い。飛騨から流れてきた匠らがこのからくり仕掛けを細工した違いない。
係員が説明してくれましたが、毎年10月の第一日曜が祭礼日、3台のからくり山車が江戸時代の面影の残る町並みを練り歩くそうです。

さぞや絵になるんだろうなあ。その日に合わせてまた来ようかなあ。
さて、今日は帰宅日だ、名古屋駅前をぶらついてお土産定番の赤福を購入してから11時46分の快速豊橋行で帰宅の途に・・・

豊橋で浜松行に乗り換えるが乗り継ぎ時間が5分しかない。急ぎ豊川稲荷のいなり寿司を購入し浜松行に無事乗り込んだ。
今日の列車はBOX席ではなく長椅子のみ。

それなりに空いてはいるが喫食するには少し抵抗が・・・

すると向かいに座っていた親爺もいなり寿司を持っており、やおらパクツキ始めた。

こりゃあいいわ、勇気付けられてご相伴、山爺もぱくりといった。

【川柳】
・神器さえ 身代わりありの 熱田宮
・信長も 人の子幾度も 神頼み
・義元は 昼飯奢り 首が落ち 
・家康は 味噌をなめなめ 天下取り

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