・打ち込み継ぎ・・少し石を加工し隙間を少なくする積み方・・姫路城・名古屋城の一部
・切り込み継ぎ・・石をサイコロのように加工(築石と呼ぶ)し積み上げる。隙間のない石垣となるので敵が登りにくい長所があるが水害・地震に弱い・・金沢城や江戸城
切り込み継ぎの変形として
・乱積み(谷積み)・・築石を平行に積まず故意に不規則に積み上げる。登りにくくするため?・・彦根城
・布積み・・同じサイズに統一した築石でレンガのように積み上げる・・名古屋城の天守閣
など・・・このほか、これらの変形積みが数多く存在します。
岡崎城は野面積みと打ち込み継ぎの中間のような気がします。お城巡りをするときに石垣の積み方に目を向けるのも面白い。
入城料(誤字にあらず)は¥300ですが浜松城のように70歳以上に無料扱いがないのはもちろん、市民以外のよそ者には割引が一切ありません。
三河衆はよそ者には渋いのう。戦国時代に尾張(斎藤・織田)駿河、遠州(今川)に挟まれて昔から損ばかりしている地域だからねえ。しわくなるのも頷ける。(冗談です)
中に入ると狭い石垣に囲まれたところに受付があました。入城料を払っていざ見学。
長坂家所蔵の槍と兜が展示、長坂信政が使用したと書いてあります。長坂家は当初家康の家臣でしたがその後家康の命で重臣の本多忠勝に仕えたと説明書きがありました。
さて、八丁味噌工場の見学最終締切は4時半だから4時前には訪問しなくちゃあねえ。急げ、急げ。
八丁味噌の名前のルーツは蔵元が岡崎城から八丁(850m)の距離にあるからなんだそうで、八丁村と呼ばれた地域で起こりました。
山爺は手八丁口八丁という言葉があるからそれに関連した意味かと勝手に思ってましたが単純な命名だったんですねえ。
この地域には、まるや味噌・カクキュー味噌と2つの蔵元があるが、まるやさんは創業1337年・・って室町時代の初めだぜ?本当かなあ、かなり古い。カクキューさんは今川家の家臣だった人が桶狭間の合戦で破れて武士を廃業、味噌作りの修行に励んで数代後の子孫が1654年に蔵を起こしたというから履歴が面白い。
どちらも歴史のある味噌蔵だ。八丁味噌は徳川軍の兵糧として有名なのだが当時はまるやさんしか味噌蔵がなかっただろうから、まるやさんの味噌が戦場で重宝されたんだろうなあ。・・あるいは当時はほかにも味噌蔵があったのかな?自家製の味噌ということも考えられるなあ。
見学はどちらにしようか迷ったがカクキューさんの蔵は等身大の人形を配し江戸時代の作りを再現するなどアミューズメント的なのでそちらに決めました。
午後3時40分ごろ受付を済ませて4時からの見学に間に合いました。(30分ごとに受け付けてグループ分けされて最終見学は4時30分~17時(終了)
土曜日ということもあり4時からのグループは結構見学者が多かったです。(最大50人までグループ分け・・山爺のグループは30人くらだったかな?。)
見学料は?、山爺の好きな無料ですわ。その代わり見学後の解散場所は土産物売り場、何か買わないと悪いような気がする仕組みです。
右の画像はカクキューさん自慢の看板で誇らしげに宮内庁御用達の文字が書いてある。
絵の小僧と武士はそれぞれ日吉丸(秀吉)と蜂須賀小六で矢作川にかかる矢作橋で初めて出会った場面を再現している。この橋はカクキューさんのすぐ近くにあるようです。
人形を使った江戸時代の味噌作りの再現が数カ所あるので巡回に飽きが来ません。カクキューさん商売上手ぅ。
仕込みが終わった6トンの桶の上から3トンの石を丁寧に並べて重しとします。岡崎は高温多湿の土地なので食品が腐りやすい。味噌作りも極力水分を少なくさせて仕込むんだそうです。
まず、味噌玉(おにぎり様?かな)を作り麹菌でまぶす。
麹菌をまぶした味噌玉を桶に並べる。味噌を均等にしたり水分を均一にするために3トンもの重しを丁寧に載せて2夏2冬寝かせる。こうして濃厚な旨味と酸味、渋みのある八丁味噌が完成します。
見学を終えると最後に味噌汁と味噌田楽の試飲・試食が待っています。白味噌と赤味噌の飲み比べ、旨いんだが猫舌の山爺、あっちっち・・熱くてなかなか飲み比べが出来ない。味噌田楽、旨っ!!もっと食いたいけれど1人1個なんだろうなあ。・・・ (^^♪
八丁味噌の粉末化した試供品2個を頂いて解散、外に出るには嫌でも土産物コーナーを通過しなければなりません。味噌汁が美味しかったので八丁味噌を買いたいけれど旅は始まったばかり、荷物になるので味噌キャラメルと味噌かりんとう・田楽味噌用練チューブを買い求めた。 家に帰り早速、皆で試食したところ、これが実に乙な味でございまして・・・頂いた粉末味噌も熱々のご飯にふりかけたところ焼きおにぎりの味がして旨いのなんの・・粉末味噌、買って帰れば良かったなあ。・・HPで販売しているのだが本体価格より送料の方が高い。!
翌日の散策は熱田神宮からです。目当ては三種の神器のうちの1つ、草薙の剣(レプリカあるのかな?)と織田信長が寄進した通称信長塀だ。地下鉄熱田神宮西下車。西門から境内に進入。 参道の真ん中は神様の通り道で正中と言います。人間は神様を敬い左右の端っこを歩くのが決まりなんですが、皆様知ってか知らずか構わずど真ん中をノッシノッシと歩いている。困ったもんだ。
途中に大きな楠木がありました。御神木かな?と近寄ってみると案内書きには樹齢1000年以上、弘法大師お手植えの木とありました。出た~・・どこでも顔出す弘法大師(774~835)ここにもいたゾ。
弘法大師が絡んでいるので御神木ではなさそうですが大師没後1189年経っている・・年代は合っているが怪しいなあ。
なかなか貫禄ある枝ぶりの楠木です。これなら弘法大師ゆかりとしたくなるのも無理ありませんなあ。
信長が今川義元との合戦で桶狭間に向かう途中、熱田神宮で戦勝祈願しています。見事義元を討ち果たしたのでお礼に寄進したのがこの土塀で通称信長塀として語り継がれています。
ちなみに信長さん、ここの他にも道すがらに4箇所、計5回も神社仏閣で戦勝祈願しています。よほど自信がなかったんだろうなあ。
山爺も本殿でお賽銭を弾んで(¥100)戦勝祈願、本殿内部に向かって写真1枚撮ったところ警備員がすっ飛んできて御神体の撮影はご遠慮ください。今すぐ消去してと厳重注意を受けました。・・ (´▽`*)アハハ
さて草薙館に入ってみましたが予想通り草薙の剣のレプリカはありませんでした。御神体で誰も見たことがないんだから非公開は仕方がないけど、無いなら草薙館なんて名前付けるなよ・・当てにするじゃあないか・・看板に偽り有りだなあ。
展示物は刀剣がほとんどで鎌倉時代から室町時代の物を展示しているだけ。熱田神宮って創建は伝、大化2年(646年)だから大化の改新のころだぜ。もっと古刀があるはずじゃン。鎌倉時代以降しか並べないのでは社(やしろ)の時代を反映していない。なんか飾っておけばいいや的で安直な展示だなあ。
だいたいにご神体の草薙の剣にしてから何度も行方不明になっている。一番有名なのは壇ノ浦の合戦で海の藻屑と消えたはずなんだがなぁ・・・ほかに朝鮮人による草薙剣盗難事件(668年)というものがある。となると今、熱田神宮にある剣はいずこから??。
伝説では盗難も含め持ち出されるたびに剣が独りでに宙を飛び舞い戻るとか・・嘘だあ~。神官による作り話に決まっている。
草薙の剣は2本現存しているそうです。熱田神宮にあるのが本物??とされており、もう一本は本物に似せて新たに鍛造したあと分祀という儀式を行い、これを形代(かたしろ)とした。これが現在、皇居内に所蔵されているそうです。
形代はレプリカとは意味あいが違います。今様電子記録のバックアップデータに近い価値観かなあ。分祀されたのだから本物と同等の位置付けになる。
なるほど上手いことを考えたものだ。これなら片方が無くなっても残った方を分祀すれば永遠に無くならないで済むわけだ。神社建て替えのしきたり、式年遷宮と似た考え方かな。
もしかすると平清盛が福原遷都の時に宮中から持ち出しその後壇ノ浦で沈んだ草薙の剣も清盛から話を持ちかけられたときに聡明なお公家さんが一計を案じ、急遽分祀した物を渡したんじゃなかったのかな。・・山爺の新学説ですわ・・ (^^♪
【山爺の一言メモ】
草薙の剣のドキュメント
須佐之男(すさのおのみこと・天照大神の弟)→狼藉三昧の出雲の大蛇(八岐大蛇)退治→尾から剣が出てきた(雨の叢雲の剣)→天照大御神に剣を献上→日本武尊に下賜→草原で火に囲まれたとき草をこの剣でなぎ払い脱出→以後草薙の剣と改名・・ここまでが神話です。
リアルな想像としては出雲地方に根付いた朝鮮からの渡来人一族が鉄器を生産、産業廃棄物を河川(斐伊川)にたれ流して汚染させ下流の農民を困らせていた。大和から軍隊が遠征、和議すると見せかけて一族を(部族長8名・・だから八岐)酒宴に誘いだまし討ちして滅ぼした。そして鉄の製造技術者を大和に連れ帰った。雨の叢雲の剣はその時の戦利品。・・・大和政権は相手を酔わせて油断させ、だまし討ちするのが得意で九州熊襲征伐も同様の手口で攻略している。
ここからがドキュメント→熱田神宮へ奉納→宮中へ持ち出し(形代を持ち出し本物は熱田神宮にあるとする説)→宮中から平清盛が福原へ持ち出し→壇ノ浦で水没(1185年)→以後神器の剣はしばらく宮中に不在のまま・天皇即位には代用の剣を使用→後白河法皇により伊勢神宮にあった別の形代の剣を新たに神器とした(1210年)→これが現在皇居で所蔵。
熱田神宮の本物からしてどうなんだか。江戸時代に盗難にあっているという説もあり真相は謎のまま。なにせ誰も現物を見たことがないんだから・・見た人は死ぬとか目がつぶれるとかの悲惨な結末を迎えるとか・・・
戦国時代に真柄十郎左衛門が使ったとされる大太刀が展示されてました。でかっ!伝説では真柄は2mを越す大男で3mの大太刀を振り回したそうです。
真柄は信長に滅ぼされた戦国大名、朝倉義景の家臣で実在の人物ですが古典落語の浮世床でその猛勇ぶりが面白おかしく描かれてます。
床屋の2階で若者達がたむろ、1人が軍記物を読んで聞かせる。真柄十郎左衛門が1尺2寸の大太刀を振り上げ・・おい、おい、ちょいと小さ過ぎねえか、それじゃあ肥後守だ・・黙って聞け、1尺2寸は刀の横幅なり・・・そんな戸板みたいな刀があるか、向こうが見えねえだろう。・・見えないと困るから3角4角の窓を開けて、暇なときは餅を乗せて焼いて食う。
山爺はこの落語が好きでずいぶん前から知っていたが幅1尺は大げさだが実物?があるとは魂消ました。本当にこんな大きな刀を振り回していたのかなあ。
宝物館は写真撮影厳禁なので草薙館のHPから転用させていただきました。
隣に体験コーナーがあり、真柄が使ったとされる大太刀のレプリカがあり持ち上げる体験が出来ます。8kg??だったかな。持ってみると重っ、こんなもの並みの人間が振り回せたものじゃあない。 普通の刀の体験コーナー、これでも結構重い。竹刀を振り回すような訳にはいかないねえ。片手で振り回すのは鍛錬者じゃあないと無理ですね。
身上お守り(¥1000)を熱田神宮訪問の記念として買い求め次の桶狭間へ・・
桶狭間古戦場へは熱田神宮の東側にある名鉄名古屋本線の神宮前駅から乗車して移動する。中央競馬場駅で下車。桶狭間古戦場に似つかわしくない駅名だなあ。駅前をとっとこ歩くと道々に警備員が立っている。それも3人も4人いる。おかしいなあ。改めて地図を引っ張り出だし磁石で方位確認。あちゃあ、やってしまいました。南口にでなければならないところを北口に出てしまいました。競馬の開催期間なのでしょう。だから警備員が多いんだ。 (^^♪
30分も無駄な時間を消費してしまいました。南口に回り込み仕切り直し。駅前を右に進んですぐ左折すると5分くらいで桶狭間古戦場の看板が目に入りました。なあんだ駅近古戦場ではないか。合戦記によれば桶狭間の戦いは山間の隘路に間延びして停滞していた今川義元の大軍勢に織田軍が奇襲をかけて勝利を収めた戦だが、今は広い道路を挟んで左側は開発が進んで平坦地。住宅ほかの建物が数多く建っており合戦時の山あいだった面影はまるでない。小さな公園があり古戦場の模様を伝えています。今川義元の供養塚があります。
【山爺の一言メモ】
桶狭間の戦いの顛末
駿河・遠江の守護大名だった今川家は守護代だった織田家と度々小競り合いを起こしていた。尾張を平定すべく今川義元は2万5千(4万以上とも)の大軍を率いて1560年旧暦5月12日に駿河を出発。今川軍は先発隊がすでに織田の出城をいくつも落とし破竹の勢い。
義元自身も馬ではなく公家かぶれで輿に乗り悠々と行進し桶狭間付近に進出する。輿に乗ったのは公家の真似をしたのではなく義元が太り過ぎて馬に乗れなくなったからとの情けない説もある。
対する織田信長軍は2千~3千(5千とも)圧倒的に不利な条件下にあったが恭順はせずに戦うことを選択する。織田軍は19日(新暦6月12日)午前4時に尾張を出発し午前8時に熱田神宮で戦勝祈願(この時に道すがら計5回も祈願した模様)2千の兵を率いて正面からの攻撃を避けるため東方へ迂回しながら進軍した。 正午ごろ織田軍の本隊がやってくるとの知らせに鼓舞されて先に到着していた織田の前衛30数騎が早まって今川に戦を仕掛けるが敗退。これに気を良くした今川義元は謡を歌わせ戦勝祝いをしたとか。勝つと浮かれて謡を舞うところは義元さん、噂通り武士を忘れて公家かぶれしていたんですねえ。
13時頃豪雨となったので義元はこんな状況では敵も攻めてこまいと油断、兵たちに昼食を取らせて呑めや歌えの大盤振る舞い。2万五千の大軍といっても大半は先発して砦攻略に割かれており残りは1万くらい、それらも隘路な山道に差し掛かっていたので延び放題、義元周辺には300名ほどしかいなかったという。
そこへ織田軍、2千が奇襲をかけたから堪らない。あっという間に義元は織田家臣の毛利新介に首を打ち落とされて全巻の終わりとなった。この戦は寡兵よく大軍を破るの実例として以後、戦史研究家に取り上げられるようになる。 満州事変を企てた関東軍参謀の石原莞爾が戦自論として述べていたと思ったが”艦隊同士の戦は数で決まり必ず多勢が勝つが、陸の戦は数では勝敗は決まらない”と。こんな陸軍のご都合主義がまかり通り国力もないのに日中戦争、さらに太平洋戦争へと突き進んでしまった。この思想の裏付けとして桶狭間の戦いが頭の中にあったことは十分考えられる。
野球の野村監督がよく引用していた孫子の兵法”勝ちに不思議な勝ちあり負けに不思議な負けなし”を信長はよく理解していたと思う。信長自身、寡兵で戦いに挑んだのはこの桶狭間1回きり、以後は寡は衆を敵せずを守り必ず自軍が優勢の時に戦いに挑んでいる。
道路の右側斜面は木々でこんもりとした斜面が続いて当時の面影を伝えています。この斜面に高徳院というお寺が建っており今川義元他の戦死者を弔っていますがこのお寺は明治26年に高野山から移転されたようなので合戦当時は山野であったようです。 境内に今川義元本陣跡という石碑があるので義元は街道を外して山の斜面に陣取り木々の下で雨を避けて休憩をしていたに違いありません。 今川義元没後300回忌の供養塔です。

右の画像は説明文を読むとお化け地蔵とあります。
1853年尾張藩士が建立したと書いてある。尾張藩士は今川の敵方のはずだがなぜ建立したのか。
この地に度々亡霊が現れ地元民を脅かしていたがこの地蔵を建てて供養したところ以後現れなくなったとか。戦没した無名兵の怨霊が俺も供養しろと騒いだんでしょうかね。
いったい両軍合わせて何人の方々が戦死したのでしょう。実はよく分かっていません。武将の場合は戦死記録があるけれど雑兵は臨時雇いや無理やり連れて来られたとかで参加数そのものが把握されていないのです。ある記録には両軍合わせて3千5百人を葬ったとあります。また別の記録では今川軍:騎兵583雑兵2500 織田軍:990(桶狭間以外での戦死含む)とあるので4千人近い戦死者が出たようです。あの関ヶ原の戦いでさえ両軍合わせ17万人中、戦死者は8千~1万2千(正確な戦死者は不明)だから戦死率7%、桶狭間は倍の14%だ。奇襲を仕掛けた織田軍からして相当数の戦死者(半数近い?)を出してる。数字だけを見てもいかに激戦だったかがわかる。
いつまでものんきにこの地に留まっていると地縛霊に取り付かれないとも限らない。そろそろ退散しよう。
桶狭間の古戦場の隣の駅が古い町並みの保存地区がある有松駅だ。14時に有松駅に到着。有松駅からの街の俯瞰、駅の高架から街並みを見下ろすと。早々趣のある屋根が見えます。駅から最初の信号の左右の道が旧東海道です。右に曲がると、いきなり風情のある街並みが現れました。これは期待出来そうです。
まずは町のはずれにある一里塚からスタートです。江戸時代の当時もこの町の江戸方面からの目印として存在していたに違いありません。
旅人が『さて今夜はどの宿に厄介になろうかなあ』と思案した光景が目に浮かびます。
街並みが実に良く保存、整備されています。