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2024年5月8日水曜日

横須賀散策記(三笠記念館を訪ねて)

 青春18切符があと1回分残っている。4月10日までに使わなくてはならない。好齢になると腰が重くなりなかなか出かける気にならない。その点、使用期限付き切符は山爺の重い腰を動かすのに大いに役立つのでいいですねえ。・・って何のこっちゃ。

さて、どこに行こうか。いつものように上野の無料の博物館?近すぎて切符がもったいない。
いっそのこと静岡まで日帰りし駿府城でも見てこようか。想像が頭の中でぐるぐる回りだした。・・ってそりゃあ、めまいだよ。

横須賀まで足を伸ばして前々から行きたかった戦艦三笠の勇姿を見てこようと決めた。

戦艦三笠を見たいなあと初めて思ったのは司馬遼太郎の坂の上の雲を読んだ時だから確か20代半ばだ。なんとも長い年月が経ってしまったもんだ。

最寄のJR駅発7:30の電車に乗ったら10時前には横須賀に着いた。横須賀に来たのは初めてだが意外と近いんだなあ。思ったより駅舎が小さい。

ここから循環バスに乗り三笠公園下車。降りた途端にいきなり戦艦三笠が見えた。




左に立っている銅像は東郷平八郎に違いない。記念館に入る前に外回りを見て歩く。
主砲の上に指令所、その上に手すりのついたデッキが見える。あれが東郷さんたち指揮官が立っていたデッキだな。
三笠の舷側にロシア巡洋艦バヤーンが被弾した防御鉄板が展示してある。砲弾が7.5mmの厚さを貫いています。この向こうにいた兵はどうなった??。戦争は嫌だねえ。

戦艦三笠を正面から捉えてみました。かっこいいです。
一体に兵器というものは美しいものが多い。機能美というのでしょうか、無駄というものが一切ないのが兵器の特徴だ。その極みは日本刀です。

三笠の概要を調べてみましょう。

【山爺の一言メモ】

戦艦三笠の概要

日清戦争後ロシアの脅威にさらされた日本が日英同盟に基づきイギリスのビッカース社に1898年に発注、1900年に進水、兵装を整えて1902年3月に日本に引き渡された。
日本海海戦は1905年の5月に起こったのでまさに駆け込み手配だ。

全長132m・全幅23m ・排水量15140t・速力18ノット(33km/h)・乗員860名・主砲:40口径(30.5cm)連装砲2基×4門・・最大射程10km
副砲:40口径(15.2cm)単装砲14門・魚雷発射管:4基

日本海海戦

旅順港・ウラジオストックのロシア艦隊を応援すべく1904年10月15日にバルチック艦隊がリバウ港を出航した。当時の燃料は石炭だから極東への回航は前代未聞で困難を極めると思われる中での出航であった。

陣容は戦艦6隻・巡洋艦7隻・軽巡洋艦5隻・水雷艇9隻・病院船1隻・工作船・輸送船・・総勢39隻、乗員1万5千名を越す大艦隊だ。

バルチック艦隊は出航直後の21日深夜イギリス漁船を日本軍の水雷艇と誤認し砲撃、民間人を殺傷した。これによりイギリス世論は一気に反ロシア、親日に傾いたことは日本にとって幸運となった。この事件以降バルチック艦隊はイギリス軍艦に追尾されることになりバルチック艦隊の乗組員はこれを日本軍の軍艦としばしば誤認、終始悩まされることになる。

スエズ運河を通過出来なかったのは日英同盟に基づきイギリスが封鎖したからと聞いたことがあったがそれは誤りのようです。石炭を満載しているので喫水が下がり水深の浅いスエズ運河は通過できなかったというのが真相のようで実際にスエズ運河を通って極東へ向かったバルチック艦隊もいたのです。

足並みの遅い艦船に合わせたので艦隊全体の進行速度は8ノット(15km/h)と遅く半年以上の大航海を経て兵士たちは疲弊の極みで対馬沖に到着した。

連日猛特訓し艦船の整備も怠らず満を持して待ち構えていた日本の連合艦隊とでは戦う前から勝敗は決していたのかも知れない。日本の陣容:戦艦5隻・装甲巡洋艦11隻・巡洋艦14隻・通報特務艦11隻・駆逐艦21隻・水雷艇44隻・・数の上でも圧倒的に日本側が有利。

戦闘結果はご存知のとおり、戦闘開始30分で日本艦隊の砲撃によりバルチック艦隊は戦闘能力を失い沈黙(下瀬火薬の高熱性能により艦上全ての施設が焼けただれ火炎地獄と化し浮かぶスクラップとなった。)さらに巡洋艦らの豆鉄砲でボコボコに叩きのめされ、多くは撃沈されたり降伏して鹵獲された。ウラジオストックに到着したのは駆逐艦3隻のみだったという。

バルチック艦隊の損害:戦艦6隻沈没 他艦船15隻沈没 投降拿捕6隻 中立国抑留6隻 戦死者4830名 捕虜6106名

対する連合艦隊の損害は水雷艇数隻沈没・駆逐艦1隻大破、戦死者117名という近代海戦史上稀有の結果となった。三笠の損害は戦死者8名 負傷は軽傷含め105名にとどまった

三笠のその後

1905年:9月に佐世保港で弾薬庫が謎の大爆発(下瀬火薬の自然発火説・信号用アルコールに火をつけてから消して飲む悪習による引火説)を起こして沈没・着底、これにより乗組員339名が亡くなった。

日本海海戦でせっかく生き残った乗組員の多くがこの事故に遭遇したことは無念の極みであったろう。この事故により三笠は予備艦になる。

山爺の私見だが事故の原因は下瀬火薬の自然発火ではなく信号用アルコールの盗み呑み説を取りたい。下瀬火薬は艦隊全体で使用しているのでこれが原因なら三笠のみで起きるとは思えない。

盗み飲みは大方夜間に忍び込むのだから灯りが必要、当時は懐中電灯なんて兵卒は持っていない。マッチで布切れに火をつけて灯りとしたがそれがアルコールに引火・・そんなところだろう。
明治6年に徴兵制が施行されてから32年と日も浅い、軍規はさほど厳しくなかったに違いない。日頃から兵の盗み呑みを黙認していたが、それが原因と公表したら軍の面木丸つぶれだ。仕方ないので火薬の自然発火と報告したに相違ない。下瀬火薬を発明した下瀬雅雅允さん忸怩たる思いだったろうなあ。

1914年:第一次大戦時は日本海で警備活動
1921年:海防艦に格下げとなる。ウラジオストックで挫傷・損傷し舞鶴港に戻る。
1922年:ワシントン条約で廃艦決定
1923年:9月関東大震災で岸壁に衝突・着底
1925年:閣議で記念艦として横須賀に保存が決定。砲塔などは木製で復元
1945年:敗戦により日本人による窃盗が頻発、金属部分が切り取られたり甲板の木々が燃料用に剥がされたりして荒廃

1945年:進駐軍に接収され上部は取り払われキャバレートーゴー(マッカーサーさん洒落がキツイなあ、ひどいよ)や水族館(丸い建物が水族館)が設置された。

・三笠の荒廃に憂いたイギリス人ルービン氏がジャパンタイムス誌に投書したり米海軍ニミッツ元帥が著書の売り上げを寄付するなどして国内外から復元保存運動が高まった。

・公益法人三笠保存会として現在に至る。


それでは記念館に入りましょう。入館料は¥600ですが65歳以上は¥500です。割引率少なっ!

三笠で使用した砲弾です。大きさからすると15.2cmの副砲用の砲弾でしょうか。
舷側にある単装砲です。防御鉄板が薄い。重機関銃でも貫通しそうですねえ。





艦上にある救護室です。戦闘用というより平時の医務室のようなものでしょうね。戦闘が始まったらこんな狭くては役に立たない。

正面からの三笠、砲塔の上にある四角窓のある部屋が指揮所でその上にデッキがあります。
このデッキ上で東郷以下の指揮官達が砲弾が飛んでくるにも関わらず戦闘指揮を執り続けました。

危険だから下の指揮所に入りましょうと奨めても東郷は『おいはここがよか』と言い放つ。
大将が表で頑張っていたのでは他の参謀は降りるわけにはいかない。仕方ないから全員右倣え、皆さん内心では肝冷やしたんだろうなあ。

全参謀が砲弾飛び交う中、危険なデッキ上で指揮を執り続けた。これはのちのち美談として語り継がれることになるのだが山爺に言わせれば指揮官失格だ。デッキに砲弾が命中したら全滅必至、その後の連合艦隊の指揮は誰が取るのだ。指揮系統を2チームに分けて予備チームは安全な指揮所内にいるべきだろう。

東郷は戦闘中デッキ上で一歩も動かなかったとか、故に波しぶきを被ってもそこだけ乾いた足跡が残ったという逸話が・・・嘘に決まっている。

下部の指揮所はこんなふうです。船の操縦室になってます。

確かに見通しは悪いなあ。上とは伝声管(画像上の管)でやり取りが出来ます。
そばに頑丈な待避所みたいな丸いルームがありました。(後部甲板上にも同じものがあります)

厚い(10cm位)鋼板で覆われています。
激戦時の時の射撃指揮所かな?舵も取れるようですねえ。
見通しは極めて悪いです。



上のデッキからの眺め。ここから東郷達が肝冷やしながら指揮とったんですねえ。たしかに見通しは良いです。

羅針盤の左右にあるのは伝声管で下の指揮所(操縦室)と会話ができます。
横に伸びているのは測距儀(距離計)です。当時としては最新式のものを惜しげもなくビッカース社(イギリス政府)は装備してくれていました。
敵との距離を正確に測ることは砲撃戦勝利の必須条件だ。最新の測距儀を手にした日本艦隊、日本海海戦での隠れた勝因です。良いものをきちんと装備したイギリスは紳士の国だったんですね。それともロシヤに勝利されては自国が困ることになると思ったからかな。

明治初年の鉄道の導入では日本の政治家(大隈重信ら)の無知に付け込んで余っていた狭軌の鉄道を押し付けた?。これにより日本の鉄道は速力面や広軌の線路(新幹線)との乗り入れで今持ってハンディを背負い続けることになったものねえ。



さて、船室に入ってみよう。
艦内の通路は思ったより広いです。


側距儀が展示してあります。これは本物かな。



三笠の模型がありました。艦上側面の長い建物は見学者用の雨除けかと思ったら当時から設営(砲弾防御のため?)されていたんですねえ。

着弾した砲弾片や破片が展示。これにより兵が負傷または戦死したのかな!!。 ..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ




砲塔室の横にハンモック、兵や下士官は常日頃より砲の横で寝起きしていたようです。
砲撃の様子を再現したものが展示してありました。指揮官以下5人で1チーム編成のようです。

神棚が祀ってあります。戦闘艦には必須ですね。どんな屈強な軍人でも戦闘に際しては神頼みしたくなるよね。あの信長さえも例外ではなかった。
東郷長官専用の風呂です。部屋も贅沢に広いです。隣は長官室。さすがはイギリス、将官と下士官・兵とは厳しく差別するんですねえ。
高級士官の談話室。オシャレな設えです。
高級士官の食堂兼会議室。贅沢に広く取ってあります。
高級将官たちには全て個室が与えられています。
階級社会を頑なに守るイギリスならではの考え方が表れています。
連合艦隊の高級参謀たち。中央下が東郷平八郎、右端下が坂の上の雲でお馴染みの秋山真之参謀です。

甲板に出られる階段ですがこの階段、当時は司令長官専用と説明札がぶら下がっています。なぜそこまで差別するのかなあ。
そんな三笠ですが日本海海戦後は艦艇として謎の爆沈ほかの不運に見舞われ太平洋戦争後は軍部への腹いせも手伝ってか、日本人により上部の金物は切り取られ甲板は薪として引き剥がされ見るも無残な有様に。

さらに進駐軍により砲塔ほかの上モノは全て撤去されダンスホールやキャバレートゴー・水族館に大変貌。・・って日本人も含めひどいことするなあ。

建造当時乗組員と親交のあったルービン某氏がこの荒廃ぶりに憤慨しジャパンタイムスに寄稿したり米国のニミッツ元帥らの協力により復元運動が起こり今日の記念艦となりました。・・・めでたし、めでたし。


横須賀駅に戻り湾口を散策。国籍は不明ですが軍艦のような艦船が停泊しています。








その横には潜水艦も停泊しています。

ここが今も変わらず軍港であることが実感できます。







軍艦に桜、良く似合います。

断っておきますが山爺は軍国主義じゃありませんから・・念のため。








【川柳】
・長が回航 果は沈没 バルチック 
・三笠には 兵らの風呂場 見つからず
・東郷の 頑固に参謀 降りられず
・東郷は キャバレー差配も 拝命し

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