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2023年10月13日金曜日

山爺のつぶやき(那須朝日岳遭難考)

 10月6日は久方ぶり(3ヶ月)のゴルフ、平日だったので、かつて女子プロのオープンコンペも開催された栃木市にある老舗のTゴルフ場を予約、プレーすることができた。前日5日は低気圧が通過して雨模様、6日は晴天ながら午前中からやや強い風が吹き午後からはさらに強い北風が吹き込んでゴルフに少し影響が出た。

翌日7日正午のニュースを筋肉痛をさすりながら見るともなく見ていたら驚きのニュースが飛び込んできた。”那須の朝日岳(1896m)で男女4人が遭難、4人とも心肺停止”・・

え?あの朝日岳で今頃4人も?

山爺は二十歳の時に、知人に誘われて初めて本格的な登山したのが那須連山(茶臼岳・朝日岳・三本槍ヶ岳)で三斗小屋温泉大黒屋に宿泊しての1泊2日の山歩きでした。

ランプの灯る宿や今持って白煙をあげる火山噴気孔、樹木が全くなく鎖場もある岩山の登山、それまで歩いたハイキングとは全く別世界の山歩きに魅了され爾来この山が気に入り冬山も含めて今日まで何十回となく登り続けています。ゆえにこの山で起きる事象は気になるのです。

ニュースを聞いた刹那、ははあ、昨日の強風が災いしたなと思った。すぐにPCを稼働させて記事を検索し拾い読みする。内容が錯綜して要領を得ないが、およそ次のようだ。

遭難したのは2パーテイ、ひとつは栃木県央の男1(69)女2(72)(79)のグループで全員死亡、もうひとつは大阪から入山した男2人のパーテイのうち一人(65)が亡くなった。いずれも高齢の方々ですべて低体温症による凍死である。

どこの報道内容も遭難死、遭難死と書きまくっているだけでいつ入山してどんなルートを辿ってどこで倒れたのかが示されていない。装備も軽装ではなく山の上着を着用していたとあるが一体山の上着とは何なんだ。報道には締切時間があるとは言え、山の上着と書いてしまうとは、笑える。

那須・朝日岳で男女4人遭難死、隣の茶臼岳に登った男性「吹き飛ばされそうな強風だった」 (msn.com)

散々調べたところ大阪のパーティは前日、山中にある温泉宿(三斗小屋温泉)に宿泊し大峠⇒三本槍ヶ岳⇒清水平⇒朝日岳(あるいは登頂前に)⇒分岐付近で一人が低体温症で動けなくなり、もうひとりが電波の届くところ(剣ヶ峰そばの峠、峰の茶屋)まで移動して午後0時25分ころ救助要請したようだ。

県央グループの方は6日の朝ロープウエイ駅の上にある駐車場登山口から入山、遭難時間から逆算すると8時頃から登り始めたのではと思う。

午前中は小雨は降っていたものの風は弱かったと報道にある。恐らく10時から11時には朝日岳山頂には立ったのだろう。健常者であれば2~3時間もあれば山頂に立てるはずだ。朝日岳登頂を果たして下山途中に天候が急変し避難小屋まであと20分くらいの地点で低体温症に陥り動けなくなったようだ。彼らが動けなくなっていたところを大阪グループの救助要請者がその横を通過している。(当人による目撃証言)

別の画像(左画像)から遭難地点を見てみよう。下部に見えるのが登山者用の無料駐車場でトイレも完備。車で来る人はここに駐車して登山を開始する。

今回の遭難は深い山中で起こったのではない。道迷いなぞ起きようもない人里近くで起きてしまったのである。

朝日岳へのルートは途中に鎖場もある。ニュースでは鎖場のある険しい山岳と解説していたが誤った情報だ。

鎖場といっても本格的に岩場を登攀する為のものではなく登山道の補助としてついているだけで多少スリルが味わえる程度だ。好天に恵まれれば5歳児でも山頂に立てるだろう。

那須連山は火山なので山頂付近は樹林が育たない。ゆえに2000m級の山ながら、あたかも3000mの稜線を歩いているような雰囲気が味わえ、朝日岳には別名にせ穂高と呼ばれるくらい格好がよく人気の山なのである。

加えて茶臼岳・朝日岳はアプローチも短かく登山道もよく整備されているので初心者向けの山と紹介されているが、とんでもないことである。

それは好天に限ってのことといっても過言ではない。

今回のようにひとたび天候が変わればこの山は樹林のない坊主山なので登山者に牙を剥き、毎年のように遭難騒ぎが起きる山なのだ。今年の5月にも若い男女が遭難し救助されている。

ゆえに里山ハイキング程度しか経験のない者だけでの登山は避けたほうがよく、那須連山について経験豊富な者の同伴が望まれる。

5日~7日の天気図にアクセスしてみると10月初めとは思えない立派な西高東低、冬型の気圧配置である。那須連山は日本海と太平洋の境界線上にある山々なのでこんな天気だと北西の強風が吹き抜ける。

特に朝日岳の途中にある剣ヶ峰の左右は鞍部(山の低いところ)なのでとりわけ強風が吹き抜ける。

昔、三斗小屋温泉、大黒屋のおやじが酒の上の冗談で、強風の中、無理して峰の茶屋峠を越えると人間が旗竿の旗のようになびいてしまうとか。 (^^♪

その時はまさかと思ったが、ある冬の日、当時は越冬していた大黒屋のおやじを訪ねるべく峰の茶屋峠を越えようとしたが猛烈な風に阻まれて大苦戦、ピッケルを刺し、刺し、ほふく前進でようやく峠を越えた。このとき、ああ、あの時の冗談は半ば本当なんだなあと得心した。強風中を進むときにウインドヤッケのフードをだらしなく開けていると風が吹き込み背中が膨らみ防寒の用をなさなくなることもこの時学んだ。風雨の状態だったら冷たい水も一緒に体内に侵入し悲惨な目に遭うことは間違いない。

6日の天候は11時ころより天候が崩れ始め風雨が強くなりだした。ロープウエイ山頂駅での気温が4.5℃・風速20mを越えており正午から下り線のみの運行に切り替えたほどだ。

体感温度は風速1mごとに1℃下がると言われているから当時の体感温度は-15.5℃だ。体が濡れて風雨にさらされ続けたらひとたまりもないだろう。

そんな環境下に濡れた体で晒されたら15~20分で低体温症の症状(歯がガチガチなど)が出て30分で意識はあってもいきなり体が動かなくなるそうだから恐ろしい。亡くなった大阪の登山者の職業は医師なので低体温症の知識は十分に持ち合わせているだろうに。

複数の記事が瞬間風速は80mを越えていたとあるがにわかには信じられない強風だ。

あまりの強風に救助隊が避難小屋のある峰の茶屋峠に到着したのが2時過ぎ、風雨が強くてそこから先は進めなく午後5時、この日の救助活動を断念、翌朝に持ち越されたことも不運であった。

遭難者たちはツェルト(非常用簡易テント)を持参していなかろうから風雨の中で一晩持ちこたえることは100%不可能だ。あるいは救助隊は遭難した4人はすでに死亡していると見切ったゆえの救助延期だったのかもしれない。

なぜ、彼らは遭難したのか。表向きには6日午後からの天候の急変で低体温症に陥り動けなくなり凍死したとあり、遭難者に対し辛辣な批判は避けている。

低体温症を避けるうんちくについて知識人?や評論家?たちが述べている。

①防寒具や雨具を着用する。

②アルミシートやツェルト(簡易テント)を持参

③体温を上げるには甘いものやカロリーの高い炭水化物を摂取する。羊羹・チョコなど。

いちいち、もっともなご意見だが、悪天候の最中では、のんびり羊羹食ったりその場でアルミシートかぶって停滞する気には絶対になれない。

山爺が若い頃の体験で8月の3000m峰(南ア塩見岳)に入山後(山小屋泊)、台風に遭遇したがやんちゃだったので毎回稜線に出てみては風雨に撃退(小石が飛んでくるのでメガネも外すほど)されて濡れそぼりになり(首と袖から水が入る)寒さに震えながら山小屋に戻った。

今思うと低体温症の一歩手前だったかも知れない。あの当時、低体温症という名称はなかったなあ。疲労凍死という言い方だったと思う。この名称だと冬場しか起きないと勘違いするので名称を変えたのではと思うなあ。

寒さに震えながら思ったことは、羊羹食おうでも、シート被って緊急避難でもなく一刻も早くこの場を離れて、ひたすら山小屋目指して帰ることだけだった。

ここからは山爺の私見なので読み流しとしてください。

【防寒具や雨具】

遭難者たちがどんな服装をしていたのか”山の上着”では判別出来ないが、朝のうちは穏やかだったようだからダウンジャケットを羽織っていたのではないかと思う。これだと風には強いが雨に濡れると逆効果となる。裸で濡れタオル羽織って扇風機の前に立つようなものだ。

また雨具と一口に言うがその性能は千差万別で右表のように大雨時には10,000mm以上の耐水性が要求される。これ以下だと雨が徐々に浸透して衣服を濡らす。

ちなみに傘の耐水性は200mm~500mmです。

ただし耐水性が高くなれば比例して雨具の重さも重くなり購入代金も高額になるので用途に応じた使い分けが肝要だ。

山爺はゴルフでは2000mm程度の安物(軽いから)を使っているが、これだと無風の雨中でさえ2~3時間もラウンドすると薄ら体が湿ってくるので山では使えない。

山で使うには15000~20000mmは必要なのではないかと思う。しかしながらスポーツ専門店でその性能の雨具を求めようなら店員に『命を預けるものだから良いものを選びましょう』とかなんとか、おだてられ2万円以上のものを押し付けられるからご用心。山爺は同等の性能の雨具をワークマンで¥6000くらいで手に入れてザックに入れている。

また良い雨具といえど長いこと使っているとコーティング薬品が劣化するのでまめにシリコンスプレーで手入れすることが必要だ。山爺は登山前に必ずシリコンスプレーを掛けておく。

遭難した方々がダウンジャケットではなく雨具を着用していたのだとしたら、どんな雨具を装備していたのか?あの悪天候でも無事に生還した人々が数多くいたのだから生死を分けたのは雨具にあったのではと思えてならない。

【天候の急変というが】

入山前に天気図を下調べしておけば急変ではなく当然の気象変化だと分かるはずです。その日に登山口に着いて上空を見て、ちょっと曇っているけれど大丈夫だろう程度の判断で山に入る人のなんと多いことか。正常性バイアスの考えはこと山に関しては危険思想です。

【山爺の一言メモ】

正常性バイアス

危険や脅威が迫っていることを示す情報に対して、過小評価してしまう傾向のこと。確かに危険が迫っているのに臆して縮み込んでいては助かる命も危ういので勇気を持つことは必要だが時と場合によりますねえ。

大阪のグループも前日入山して宿泊していたのだから出かけるのは仕方がないとして、なぜ、予報を無視して大峠⇒三本槍ヶ岳⇒清水平⇒朝日岳⇒峰の茶屋⇒駐車場と計画通りのロングコースを選ぶのかなあ。温泉宿の人から早く下山するようにアドバイスを受けていたようなのに。

三本槍ヶ岳あたりで天候が悪化しだしたはずだ。それなのに、なぜ引き返さずさらに進んで風雨の強い地帯を通って帰ろうとするのか?。遠回りになるが一旦温泉宿に戻り沼原経由の樹林帯を選んで帰るとか。他に安全な選択肢はいくらでもあったはずだが、・・・

乗用車を利用して麓の登山者用駐車場に車を止めていたとなると事情は大きく変わる。無理しても元の所(駐車場)に戻ろうとするだろう。

彼らの根底には正常性バイアスと”せっかく来たんだから”の思想が働いたに違いない。

①せっかく来たんだから

②行けるとこまで行こう

山爺はこの2つの言葉が大嫌いである。この2つの考えはこと山に限って言えば遭難のもととなる。

山爺の実体験に、こんなことがあった。

山爺が雨中、単独で入山、午後1時ころようやく山小屋にたどり着いて一息入れていると5~6人のパーティのリーダーらしき人が

『せっかく来たんだから空身で〇〇岳にアタックしよう』・・・でた~せっかく来たんだから。

え~ぇ!?この雨の中、滑りやすい岩場のあるところ通過して、しかも何も持たず?アタック(攻撃)?だってぇ、戦(いくさ)にでも行くんかい。・・あ~やだやだ。こんなリーダーとはとっとと別れたほうがいいよ。と頭の中で呟いた。

行けるとこまで行って進退極まって救助要請する人々のなんと多いことか、今は携帯で救助要請が簡単に出来るのでいとも簡単に救助をお願いしちゃう。救助隊もたまったものではないねえ。

猫の木登りじゃあないんだから、行けるとこまで、ではなく、行って戻れそうなところまでとなぜ思わないのかなあ。


【山爺の悪天候時の山歩き信条】

①また来よう・・・神様(天気)には勝てない。三十六計逃げるに如かず、温泉で一杯じゃあ。

②戻れるうちに戻ろう・・名将は常に退路を確保しながら戦う

【川柳】

・行けるとこ そこまで行って 救助され

・せっかくと 無理を重ねて 災厄に

長々ととりとめのない文章を書いてしまいました。目を通していただき深謝・深謝。

追伸:温泉宿煙草屋には前日(5日)30人の宿泊者がいた。夕食時、宿の主人が明日は天候が崩れるので早めに下山するように、遠回りだが樹林帯の中を下山し沼原からタクシーで帰るのが安全と呼びかけていたようです。素直に受け止めて3組の方々は翌朝に(10人くらい?)タクシーを呼んでそうしたようです。・・その方々は命拾いしたのかもね。

4人死亡の山岳遭難 「やめた方がいいのでは」旅館主は声をかけた (msn.com)

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2023年9月20日水曜日

小田原城へ行ってみた。帰ってきたらコロナに感染

 
8月初めに購入した青春18切符の残りがあと3回ある。有効期限は9月10日まで。9月1~3日で名古屋を拠点に岡崎城・岐阜城・大垣城と歴史事件上関係の深いお城巡りでもしようと考えていたが、その矢先に長女がコロナに感染してしまったので山爺も待機を余儀なくされた。

幸い山爺には症状は出ていない。日帰りなら出かけてもよかろうと前々から行きたかった小田原城まで足を運んだ。青春切符の購入代金は¥12050、仙台まで往復は正規運賃だと¥11000、小田原往復運賃が¥4600だから合計¥15600となり下衆な言い方によるがこれで元が取れた。これにより残り2回分での名古屋旅行は運賃がただで行ける勘定になる。いいねえ。

山爺が利用する最寄駅からはなんと熱海まで直通列車が運行しているので複雑な乗り換えなしで小田原まで行くことができます。

早朝にJR最寄駅から各駅停車熱海行に乗り込む。途中大船駅で隣のホームに入線する快速小田原行に乗り換えるだけで10時14分、難なく小田原駅に着いた。

小田原駅に降り立つのも久しぶりである。久しぶりなんてものではない。40年以上も前になろうか。山爺が企業に勤務していた頃、ある委員会の委員を拝命していたことがある。

各地にある事業所から委員が集まり事業所持ち回りでテーマに沿って会合を開き、報告書にまとめ上げる。報告書のまとめ時期になると当該事業所が保有している健保の保養所に缶詰になってまとめ上げるのが慣習となっていた。

あるテーマのまとめ時期に運悪く(開催当番に当たると会場準備や費用の捻出など大変です)小田原の事業所が当番になりその直営保養所(有名観光地・温泉付き)で報告書をまとめたことがあった。

その頃全国にあった直営の健保保養所はバブル崩壊とともに消え去り今は契約保養所が残っているだけになった。

たしかその帰りに委員の有志と共に?(あるいは駅で皆と別れて山爺1人のだったかも)三々五々小田原城を見学してから解散した記憶がある。

今となっては良い思い出となっているが委員の皆さん元気にお過ごしだろうか。当時、山爺が最年少だったと記憶しているので、もう鬼籍に入られた方もいるんだろうなあ。

小田原駅東口を出てすぐ右折し5分も歩くと小田原城の天守がビルの上からちょんと飛び出して見えて来ました。駅から一番近い北入口から場内に進入、いざ突撃じゃあ。

小田原城の概要は以下の通り。

【山爺の一言メモ】

小田原城は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭が前身とされる。城の規模や築城年は明らかになってないが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられている。

1500年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していく。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達した。
しかし、天正18年(1590)、石垣山(一夜城)の築城という前代未聞の秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えた。小田原城(本城)は7月5日に開城(落城ではない)したが支城は忍城(行田市)のみが7月16日になっても落城せず戦い続けたことは映画のぼうの城に詳しい。

北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参陣した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修された。その後、大久保氏の改易にあたり、城の一部は破却されたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新された。

貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至る。

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年(1872)までに城内の多くの建物は解体された。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年(1901)には、二の丸に御用邸が建てられた。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまった。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興された。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門、平成9年(1997)10月に銅門、平成21年(2009)3月には馬出門が完成した。

土塁の上を天守閣に向かって歩く。吹き上げる風が心地よい。
北の入口は搦手になるのかなあ。

途中に土塁をカットしてわかりやすくしたモニュメントがありました。

お城というものは全体をカッチカチに防御すると攻め手は攻めあぐねて持久戦となる。持久戦になると困るのは食料調達が弱点の城側だ。

そこで城の一部を故意に弱く作り(見せかける)寄せ手をおびき寄せる。これが搦手だ。剣道の巧者同士もにらみ合いが続くとわざと隙をつくり相手を誘い込む、それと同じです。

城の守りといえば石垣を連想しがちだ。確かに関西の城は城郭全体を石垣で守っていることが多いが関東の城は天守閣や曲輪以外は土塁で守りを固めていることが多い。

関東は技術が稚拙と思うなかれ。関東の城の多くが土塁で守っていたのには大きな理由がある。関東の土はちょいと掘ると火山灰、いわゆる関東ローム層にぶち当たる。

こいつで土塁を築くと粘土質で保水力に優れた土なので登ろうとすると滑りまくって登りにくいらしい。
小田原城の総構えではこの地質を有効利用した障子堀その他の恐ろしい堀が小田原の随所に見られるようだ。図のような障子の背を真っ直ぐ歩かされたら格好の標的となるし、障子の底に落ちたら這い上がるのは至難の業だ。堀の底でばたばたしているうちに狙い撃ちとなり命はないだろう。

今は障子堀もないので簡単に搦手から天守閣の脇腹へ進出することができました。

この天守閣とは40年幾年ぶりの再会です。美しい城だなあ。
正面からみた小田原城天守閣。見事な構えです。
暑いので早速、城内に入ろう。
入場料は一般¥510、長老割引はありません。 (;_;)

城内は近代文明の利器、クーラーが効いていて涼しい。
撮影は2階を除いて自由ですが見るべきものはありません。

早く最上階の外に出て本日のお目当て、石垣山城(秀吉の一夜城)が設置された山の確認がしたい。


最上階から外に出ました。相模湾が一望です。薄らと伊豆大島も遠望できました。


さて右に目をやると、ありました。すぐ近くに石垣山(城から5km)が。

秀吉は1590年の小田原攻めのときこの山の山頂に出城を作った。出城と言っても砦のような粗末なものではない。
曲輪を従えた本格的な城郭で俗に言う一夜城だ。実際の工期は延4万人を動員し4月に着手し6月末に完成した。

3ヶ月の突貫工事だがもともと北条方への脅し目的の城なので随分と手を抜いた工事だったようで白壁などは紙で代用したとか。

秀吉が伊達政宗にこの城を自慢げに見せたところ政宗は白壁のインチキを見破っている。

工事中は周囲の樹木は伐採せず完成後に一気に樹木を伐採したので城兵たちはいきなり城郭が現れたので恐れおののいたとか、・・でも、ほんの目の前5km先の工事が秘密裏に済むわけがない。これは後世の作り話だろう。

それにしても一兵卒まで情報が伝わることもなかったろうから樹木が取り去られていきなり立派な城郭が現れたら、兵たちは度肝を抜かれ戦意喪失したことは想像に難くない。

秀吉らしい嫌味なパフォーマンスだが。秀吉は小田原城の防御力の恐ろしさを見抜いたのだろう。
無理に力攻めをせずに眼前に城郭まで作って、おのが威力を見せつけ戦わずして北条を屈服させた。
実にずる賢い男である。やむなく秀吉に合力して小田原攻めに加わった諸将達もこの男にはかなわんと思ったろうなあ。

かくて、豊臣秀吉の天下統一は小田原城の開城により達成した。

さて、西の方に目をやると見覚えのある山々が望見できる。丹沢山塊だ。

2015年の11月にヤビツ峠(大山と三ノ塔の間の峠)から入って三ノ塔、塔ノ岳、鍋割山と縦走し大倉登山口に抜けたことがある。途中木の又小屋に一泊しての山旅だった。
あれから8年も過ぎた。あのルートはもう歩けないだろうなあ。残るは思い出だけ?情けないなあ。

なんの、老け込むのはまだ早い。年齢に応じた山歩きの方法が必ずあるはずだ。と気力だけはなんとか持ち続けている今日このごろです。









【山爺コロナに感染す】

小田原から帰って2日目の夕方から何か体が火照り気味に、表面体温計で体温をチェックすると36.8℃でやや高いが、まあ平熱か、夜になってもなんか体がだるい。表面体温計は相変わらず36.8℃で平熱を示している??、


念のため通常の体温計で腋の下を測ってみると、なんと37.7℃ある。だめだこりゃ。翌日、かかりつけの内科医で抗原検査を受けると見事に陽性反応が出てしまいました。
症状は発熱が38℃、続いて喉の痛み、一時は物を飲み込むのにも難渋したが、うがい薬で喉のうがいを入念に行うことで症状が和らいだ。副反応としては嗅覚の異常?、カビのような、カビキラーを撒いた時のような薬品臭?・・異様な臭いがやたら鼻につく。これが3~4日続いた。

家庭内隔離をすること5日間で症状は落ち着いて1週間でほぼ正常に戻った。幸い軽症で済み今のところ後遺症といったような悪い症状は出ていない。どうかこのままで終わりますように・・

【川柳】
・幾万人 どこに隠して 一夜城 
・知恵よりも 関白銭で 戦をし

・陽性で 18切符 つゆと消え
・陽性で 神も仏も 急信心
・5類とて 滅せず猛威の コロナかな

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2023年8月26日土曜日

仙台の七夕まつりに行ってきた

 かねがね、仙台の豪華な七夕まつりというものを見たいものだなあと思っていた。23年度は8月6日から8日にかけて開催される。今年はコロナによる制限も解けたので一段と絢爛な飾りつけになるらしい。行ってみたいなあ。さりとて年金貧民たる山爺、新幹線なぞという高額な乗り物は恐れ多くておいそれとは利用がはばかれる。

金があるときゃ暇がない。暇があるときゃあ金がないとはよくぞ言ったもんである。

JRから売り出されている”青春18切符”というものがあることは以前から知っていた。発売価格は¥12050で各駅停車の列車限定ながら5回分の乗車が出来る。

1回あたり24時間の時間内なら¥2410で、どこまでも乗れるし5人でまとめて一気に使うことも出来る。ただし発売期間に制限がある。

もともとは18歳前後の金のない若者を支援する企画?だったのだろうが本音は旅行に不向きな季節に対する売上向上対策だったのだろう。ゆえに年齢制限はなく誰でも購入できる。

それにしては名称が洒落臭い。名称変えませんかJRさん、もっと庶民受けする名前、”漫遊旅切符”とかなんとかに・・・切符発売の詳細は以下の通り。

【山爺の一言メモ】

青春18切符の発売期間と利用期間は次のとおりで旅行に適さない期間限定で販売される。

春季用) 発売期間:2月20日~3月31日 利用期間:3月1日~4月10日 (夏季用) 発売期間:7月1日~8月31日 利用期間:7月20日~9月10日 (冬季用) 発売期間:12月1日~12月31日 利用期間:12月10日~1月10日  販売価格はいずれも¥12050

青春18きっぷ | JR線ご利用案内 (jr-group.jp)

仙台七夕まつりの催行期間中に夏季用切符が使える。ちなみに我が家から仙台まで各駅停車で行くとどんな具合か検索してみた。

我が家の最寄駅を6時半頃に乗車すると仙台には13時08分に着く。通常運賃はJR駅の最寄駅から¥5500だ。これが青春18切符使えば¥2410となり半額以下で乗ることが出来る。新幹線利用だと¥11200もかかる

ただし乗り換え7回、6時間半の長旅となるが、な~に、寅さんのセリフではないが ”皆さんになくて私にあるもの、それは暇” (^^♪

山爺も暇だけはたっぷりある。青春切符使えば往復で¥4820、懐の負担が限りなく軽くて済む。新幹線往復との差額はなんと¥17580 こんなに浮くなら長時間の長旅でも我慢、我慢、これで行ってみよう。

背負えるカジュアルバッグに着替えやらの日用品。カメラバックには愛用のニコン一眼と300mmのズームを放り込み8月6日の早朝に家を出た。最寄りのJR駅に乗り換える時に券売機で件の切符を購入する。

ちなみに青春18切符は普通の券売機ではなく緑の窓口用で購入します。”おとくきっぷと書かれたところをタップし案内通りに進めてゆくと簡単に目的の切符が見つかった。

でも紙幣を機械に入れても、機械がなにやらモゾモゾ、なかなか切符が出てこない。あれ、間違えたかな?乗り換え時間が10分しかないのでやきもきする。やあ出てきたゾ、出るは、出るは、7枚も出てきた。おいら7枚も切符買った覚えはないのだが?。

5回使える乗車券は1枚きりで残り6枚は案内書き4枚とアンケート2枚、ずいぶん無駄やってるなあJRさん、でも使える条件が複雑だから案内書きは必要か。

この切符は自動改札機は通せません。駅員さんに確認(押印)してもらい構内に入場します。やがて各駅停車宇都宮行がやってきた。今日は日曜日なので空いてます。

ここから⇒宇都宮⇒黒磯⇒新白河⇒郡山⇒福島⇒白石⇒仙台着(13:08)と乗り継ぎます。各乗り継車両とも乗車時間は1時間も満たないので、迂闊に寝てられません・・じゃなくて、時間は短くても爆睡可能です。なにせ各路線とも終点まで乗るわけですから。 (^^♪

新白河まではがらがら列車の旅、ペットボトルでお茶飲んだりお菓子食べたりラジオ聴いたり本読んだりと、気分は六角精児の呑み鉄本線日本旅だ。いいねえ、こういうのんびり旅は。

9時32分新白河駅到着、普通なら同じ会社路線の場合、乗り換えは乗客の利便性を考慮して反対側のホームから乗ることが多いがここ新白河駅の乗り換えは違った。同じホームから連絡列車は出るのだがホーム上を延々歩かねばならない。

なんと、かつては東北方面へ継っていた線路がご丁寧に砂利に埋まり終点マークと隔壁(赤マーク)までこしらえている。

そこには ”絶対に各駅停車の長距離路線には戻さないぞ、乗客の不便なんぞ知ったことではない。” といったJRの並々ならぬ決意が込められている。・・ってどんな決意じゃぁ・・お客様は神様じゃあないのかい?。

どうやらJRには三波春夫様の名セリフは通用しないらしい。なになに ”お客様は新幹線乗車の皆様だけ” だってぇ。・・(´ω`) 

しぶしぶ、ホームを歩いて(100mも歩いたろうか?)乗り換え場所まで移動し連絡列車を待つ。この辺からなんか様子が変わってきた。やたら人が多くなって来たのである。

郡山で乗り換えた時にはホームは人で溢れており旅情もへちまもなくなり、のんびり鈍行一人旅の思惑は霧消した。

福島に着いた頃には車内は都内の通勤時並みの超満員、一体これはどうしたことだ。

福島駅からは浴衣姿のお嬢様やお兄様方まで乗り込んできた。ここに至って山爺ようやく気がついた。ははあ、仙台の七夕見物で電車混んでるんだ。ああ、宿予約しておいて良かったわい。宿といってもカプセルなんとかですけどねえ。 (^_^;)

定刻通り13:08に仙台駅に着いた。楽天イーグルの面々がお出迎え??なんで?、そうか楽天イーグルは仙台が本拠地なんだ。

早く七夕を見たい気持ちもあるが七夕見物は明日1日たっぷり取ってある。今日は観光優先としよう。

仙石線に乗り換えひと駅先の榴ヶ岡(つつじがおかと読む、いやあこの字読めないで困った、困った)に向かう。

ここの駅前公園内に旧歩兵第四連隊の兵舎が保存されている。今は仙台歴史民俗資料館として転用されているが中に小規模ながら内務班の復元コーナーもあるようなのでそれを見にゆく。

地下駅を降りて地上に出ると日差しが暑い。なんなんだ今日日のこの暑さは、ぶつぶつとひとりごちながら公園内を横切る。
おっ、いかにも兵舎らしい建物が見えて来ました。

入場料¥240を支払い館内へ・・クーラーが効いている。いやあ涼しいわ、生き返るぅ。
旧兵舎といえども民俗資料館として使われているので展示品の大半は仙台周辺から集めた過去のがらくた日用品がずらりと展示されています。面白くもなんともない。

田舎のこぎりなんか見たくねえ、つうの!!

2階に上がると目的のそれは(内務班の復元)ありました。



三八式歩兵銃がかけられています。本物ではなくレプリカ銃です。

明治38年に考案されたのでそのような呼称で呼ばれており以後太平洋戦争まで使い続けられた名銃です。

よく日本軍は明治時代の単発銃を終始使い続けたので負けたと言う人がいますがそれは誤解です。三八式は単発銃ではなく連発式で5発装填できます。



一発打つごとに手操作によるボルトアクションが必要なので映画等でその動作を見て誤解した人が多いのではと思います。

欧米では戦争映画などでよく見るように自動小銃が主流でそれと比較すると地味な銃ですが自動小銃は構造が複雑になり異物混入(砂・小石)で故障が起き易い。兵にとって戦場で銃の故障ほど情けないものはないだろうねえ。第一に使用者の命に関わる銃口内暴発がいちばん怖い。

その点構造がシンプルな三八式はほとんど故障がなかったといいます。しかも長尺でありながら軽いので命中精度も優れていたそうです。

欠点は世界の銃の弾丸が7.7mm口径だったのに対し6.5mmと小さいので殺傷能力が弱いことです。
しかしながら、そうしたのは欧米人より体格の劣る日本人向けに、より軽く反動の少ない銃の設計をするためにあえて小口径の弾丸を選んだようです。銃の反動が少ないから命中精度が良かったともいえるのです。

日本兵は無理矢理に古い銃を使わされたのではなく、すでに明治時代に最新式を作り出したのでほとんど改良する必要もなく太平洋戦争まで使い続けられたのだと解釈したい。事実、終戦によりアジア各地で日本軍の武装解除があったがこの時この銃が拡散、中国内戦、インドネシアやベトナムの独立戦争等で使い続けられたことがその証です。役立たずな銃なら誰も欲しがらない。

内務班の兵卒が寝起きするベッドです。幅、狭っ!山爺なんか寝相が悪いので落っこちちゃうわ。(;゚д゚) 

こんな狭いベッドで人格を否定され訓練に明け暮れる日々、いやだ、いやだ・・平和な時代に生まれた我々はなんと幸せなことか。

見学も終わり再び表に出る。うわぁ、あっちっちぃ。現実に引き戻される。仙台にもどり街の中を歩く。

仙台に降り立つのはいつ以来だろう。家族では来たことがない。ということは昭和時代だ。20代の終わり頃、仙台から平泉、山寺と旅したことがある。あれ以来だから40年はゆうに過ぎている。何だかなあ。

大きい街だなあ。大通りを横切るといきなり七夕の吹流しが飛び込んできた。

人、人、人、ほとんどの人がマスクをつけていない。大丈夫なんだろうか。





この吹流しは1基、数十万円から、なかには数百万する物もあるそうな。よく見て回らなくちゃ。

それにしても小腹が空いたし歩き回ったのでずいぶんと疲れた。どこかで飯でも食って今日は早めに宿に入ろう。



2日目の今日は七夕はさておき市内観光が先だ。

青葉城は何もなさそうなので却下、初代正宗公から3代までを祀ってある瑞鳳寺を参拝しょう。
地下鉄大町西公園を下車して15分も歩くと目指す寺院が見えてきた。ここからが急坂で乗用車で訪れた連中も分け隔てなく歩かされる。見ての通りかなりの急坂だ。お年寄りには堪えるだろうなあ。・・って俺もかい。

この石段は70歳で亡くなった初代正宗公にちなんで70段あるそうです(瑞鳳殿でもらった資料より)

息が上がるほどの急坂を10分も歩いたろうか、鬱蒼とした杉木立に囲まれた瑞鳳寺(正宗山瑞鳳寺)に到着です。

寛永14年(1637)二代藩主忠宗公により建立されました。地味~なお寺です。無料で参観できます。


きらびやかな涅槃門(左図)
ここも七夕飾りかい。仙台の七夕祭りは徹底しているなあ。

ここから先は有料です。拝観料¥570
 70歳以上の割引はなしです。
 (^_^;)

境内に伊達正宗・忠宗・綱宗の3代を祀ってある瑞鳳殿・感仙殿・善応殿の霊廟がありますが残念ながら創建当時のものは昭和20年の戦災ですべて焼失、今あるのは昭和54年(1979)に再建されたものです。だから彫刻や色彩が実に鮮やかです。

初代正宗公の霊廟、瑞鳳殿はここ涅槃門のすぐそばにあります。2代・3代藩主の霊廟は山の上にありさらに登山を強いられます。疲れると登るの嫌になっちゃうから先に坂上にある3代藩主伊達綱宗公の霊廟から見てゆこう。

途中になにやら曰くありそうな記念碑がありました。戊辰戦争弔魂碑と案内板に説明書きが・・・

2代藩主忠宗公の霊廟、感仙殿です。なんと煌びやかなことです。

忠宗公は方治元年(1658)没ですがこのとき家臣15名が殉死したそうです。ひえぇ~(もらった瑞鳳寺の資料に書いてある)

よく見ると感仙殿を囲むように左右(左赤丸)に怪しげな石塔群がたくさん並んでいる。これってもしかしたら殉死した家臣の供養塔? (゚д゚lll)

3代綱宗公のときはすでに幕府から殉死禁止令が出ていたので殉死はご法度、14名の家臣が剃髪して亡君の菩提を弔いその代わりとしたと記念碑に書いてあります。

一口に切腹といっても置かれた事情により種類が別れる。
(1)追腹:殉死のことだが喜んで死んだ奴なんて皆無だろうなあ。追腹にも2通りの思惑が
①義理腹・・お殿様と親しかったものが周囲から説得され泣く泣く殉じた?
②商い腹・・いま殉死すれば藩から評価されてご加増が見込め、お家は繁栄。
特に②が危ない、本人は嫌だといっても親戚縁者らから寄ってたかって詰め寄られ、挙句に羽交い締めにされ腹を刺されて切腹の体裁を取り繕う事例も数多くあったとか。家督を継いだものはお殿様が死んだらおちおち寝てもいられないね、いつ寝首掻かれるかわかったもんじゃない。

(2)詰め腹
職務上の失敗の責任を取ったり義理を通すもの。これが一番多かったのかな。今でもよく使う言葉です。”あいつ、詰め腹切らされた”とか。
(3)無念腹
悔しくってヤケのやんぱち、あてつけに腹切る。

いまでもこんな理由で事件起こす馬鹿が後を絶たない。”世の中が嫌になった、死刑になりたい、誰でもよかった。” 我がままこの上ない。死にたきゃあ、ヤクザの事務所にナイフかざして飛び込めば望み通りボコボコにされるつうの。もともと弱虫で意思が軟弱な奴にはそんなこと絶対に出きっこない。・・だからって弱そうな人々を巻き添えにするんじゃないよ。

(4)指し腹
武士の世界は喧嘩両成敗が基本、かなわぬ相手に対し当てつけに先に腹を切って相手にも腹を切らせる究極の負けるが勝ち戦法

3代藩主綱宗公の霊廟、善応殿です。煌びやかさでは負けていません。ここにも傍らに怪しげな石塔群が映ってます。剃髪組の供養塔かな。






もとの瑞鳳殿まで戻ってきました。

初代だけあって瑞鳳殿は一段と鮮やかですしこちらは大仰に囲いに覆われています。




中に入ってお参り。彫刻などの飾りつけも一段と綺羅やかです。さすがは正宗公です。
そして殉死した家臣団の供養塔も数が一段と多いような気がします。なんだかなあ。

正宗公に殉じた家臣は19名・・(瑞鳳殿の資料より・HPで調べると20名とある)鬼気迫るものがありますなあ。

伊達家でさえ2代で24名が殉死している、当時日本全国でどれだけの武士が殉死した(させられた)のだろうか。

近年でも昭和天皇が崩御したとき4~5人が殉死したことを覚えている。律儀な日本人と言ってしまえばそれまでですが。
ちなみにHPで検索してみると戦で倒れた主人の後追い殉死は数多くありますが病没者に対する殉死者は希だそうです。

あの豊臣秀吉や徳川家康でさえ公式な殉死者はなし、まあ、あの2人は世渡り上手でずいぶんあくどい事もやってるから、人から好かれることはなかったろうなあ。

♫秀吉(家康)死んでも泣く奴ぁ~いない、鳴くはお山のカラスだけ。・・なんてね。

伊達家のお殿様達はよほど慕われていたのかなあ、それとも風土のせい?。死してなお家臣団に守られ続ける伊達3代は幸せものです。

思わぬ知識を習得させていただいた瑞鳳殿参拝でした。

さて仙台市内にもどり七夕見物じゃ。

市内に戻り七夕見物、相変わらず暑くて仕方がないが七夕飾りがある通りは道路上にアーケード(屋根)があるので日差しを遮ってくれるのがありがたい。加えて左右のお店から冷房の涼しい空気が流れてくるので吹流し見るふりして時々涼んだりも・・ 


七夕の飾りつけは豪華絢爛だがこうも同じものがずらりと並んでいるとだんだん感激が薄れてきた。

だって同じようなものばかりだから。例えばLEDを組み込んだ吹流しや、ねぶた風吹流しなんか作って盛り上げないのかねえ。


山爺が生まれ育ったT市でも山爺が小学生の頃までは七夕祭りが盛んで仙台の吹流しみたいなものがたくさんぶら下がっていたのを覚えている。

同じも道理で仙台で使った奴を買い取って飾っていたんだとか・・・ (^^♪

ただT市の七夕は吹流しだけでなく財力のある商店が競って仕掛け飾りを設けて祭りを盛り上げてくれた。昭和30年代前期のT市の七夕まつり風景です(右白黒画像)
 
かちかち山のうさぎとたぬきの手足がモーターで動くたわいのない仕掛けだったりしたが当時はTVなぞの普及前だったので皆娯楽に飢えていた時代。ゆえに山爺のような幼い者はもちろん大人たちまでがこの祭りが楽しみで製作途中の七夕飾りを見ては、今年の〇〇屋は凝った仕掛けのようだと下馬評したもんです。

と、たわいのないことを思いながらアーケードを歩いていたら地元の歌い手さんでしょうか、見知らぬ歌手?が路上パフォーマンスしてました。

皆さんあまり関心ないようで人々は後ろ向きに座ったまま・・頑張れ新人?山爺これにあり・・なんちゃって。

こう見えて山爺は若い頃、新人歌手に頑張れと声をかけたことがある。

当時の勤務先から販売応援で群馬県のM市のデパートに派遣されていたときのことだ。デパート内のレコード店で当時新人だったS・I恵が一生懸命に歌ってレコードの即販をしていた。

たまたま休憩中だった山爺、店のハッピ着たままその様子を見ていたら関係者と錯覚したのかI恵ちゃんがつかつかと駆け寄り、深々と頭下げて可愛い笑顔で『よろしくお願いしま~す』と・・山爺思わず『頑張んなさい』と返答しちゃった。大丈夫、礼儀わきまえてその上その笑顔だ、売れるよと思った。その後の彼女は言わずもがな大者へと成長、山爺の目に狂いはなかった。


夕方になって吹流しが照明に映えて奇麗に浮き上がって見えてきた。








祭りはこれからが本番のようで、人ごみが一段と増えたような気がする。

3日目、今日は再び長時間鈍行に揺られての帰宅旅だ。早めに仙台駅に向かう。

七夕まつりは今日までだが、構内は七夕の飾りつけで祭り一色のまま。

早く駅に着いたが土産物を物色していたらあっという間に時間が経過。急ぎ我が家にお土産を買って予定より1本早い各駅停車白石行に乗り込む。

白石駅について乗継便をみたら40分も間がある。次の便でよかったんだと思っても後の祭り。所在無さに改札を出て駅のベンチで仙台で買った軽食(サンドイッチ)で腹ごしらえしてから駅前をぐるりと散策する。

ここ白石は伊達政宗の重臣、片倉小十郎が収めた地域で復元ながらお城もあります。

片倉家の武家屋敷や霊廟もありミニ観光出来そうだなあ。名物白石うーめんも食してみたい。
今冬か来春に青春18切符利用してまた来てみたいなあ。
さて、乗り継ぎ列車がそろそろ来る頃だろう。再び駅構内へ。

帰りは平日でもあり各乗り継ぎ列車ともがらがら、乗り鉄本線日本旅を満喫しながら帰宅の途へ。





【川柳】
・青春は とうに過ぎたが 切符買い
・在来の 線路埋たり ああ無情 
・死してなお 政宗家臣に かしずかれ
・振り仰ぐ 杜の都の 星祭

さて、まだ切符の残りが3回ある。使用期限は9月10日まで、早々に旅に出ないといけないなあ。

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