政府の懸命な経済維持政策であるGOTOトラベルやイートキャンペーンの実施により人の動きにやや活気が回復してきたのも束の間、初冬に入り、恐れていたコロナウイルスが再び鎌首を持ち上げ始めた。
GOTOキャンペーン利用の温泉山行も当分御預けかなあ。
(ヽ´ω`)トホホ・・家でぬくぬくし続けていたらとうとう体重が3Kも増えてしまった。これはいけない、生命の危機だ。すっかり出不精になった老体に言い聞かせ陽だまりハイクに出かける算段をした。
場所は前々から行こうと思っていた嵐山にある山城の小倉城址とその物見に使われた文字通り物見山(286m)だ。
小倉城址は槻川(つきかわ)の蛇行をたくみに利用した天然の要害たる山城で保存状態も比較的良さそうである。赤字で示したところを実際歩いてみたが要所に空堀や虎口(城門など出入り口)土塁が認められた。
【山爺の一言メモ】
小倉城址
小倉城は、外秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川と山地の自然地形を巧みに取り込んだ天然の要害にある。
城の位置取りは、槻川―都幾川―古荒川水系を基幹に陸路は鎌倉街道上道と山辺の道(八王子城―鉢形城を結び上州へ抜けるルート)の中間で双方へアクセス可能な位置にあり中世の水陸交通を強く意識したものとなっている。
小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、後北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えている。また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも・・って誰だかわからんのかい!
嵐山の西口からバスに乗り田黒バス停で下車、ここから徒歩20分もすると大福寺に到着する。大福寺の右側に回ると小倉城址の案内板がある。それに沿って30分も登り出すと小倉城址の坂下に着く。
そのまま進むと行き止まり、崖だ。戦国時代ならここで進退極まってウロウロした山爺は城兵に打ち取られて一巻の終わりだなあ。
一旦引き返し郭3から郭5に降りてみる。縦に伸びる空堀がよく残っていました。郭5からは上の郭2の土塁がよく見える。急峻で今でも直接とても登れそうにない。当時は木々もないので登れば城兵から丸見えだし転げ落ちそうなので攻め登るのはまず無理だろう。
土塁沿いに郭4に向かう。上部にある郭2から丸見えなので戦の当時だったらチンタラな歩き方していたら上から狙い撃ちで1分と持たずに戦死するわ。
再び郭2に戻り、反対側に行ってみる。本郭を上に見ながら坂道を登る。右図の道を回り込むと当時は堅固な城門が構築されていた北虎口の直下に出られる。
本郭の東側が開いており嵐山方面が遠望できる。
さて、物見山へ登るとしよう。城址から物見山までは小一時間の距離だ。道はなだらかでよく整備されており歩きやすい。
1時間足らずで仙元大日山という石碑がある広い場所に到着した。ここが小倉城の物見に使われた場所だったと思われる。当時はここに番小屋があり、いつ来るともわからない敵兵を毎日監視していたに違いない。戦さえなければ実にのんびりした仕事だったろうなあ。朝起きて~、飯食って~、物見して~お茶飲んで~、昼寝して~、はは、まるで今の山爺じゃん。
地理的な物見山の山頂はここではなく10分ほど先にある。
この周辺は戦略上は重要な拠点だったと見えてここから大日山を経て1時間も歩くと西側の守りとしての青山城址がある。(19年9月に訪問・・ブログ記事掲載済み)
山爺は今までリアルな城しか眼を向けてこなかったが、こうした朽ち果てた城址も当時の強者どもの生活を思い起こし面白いものだと思えるようになってきた。
齢を重ねて高山を歩くのがしんどくなってきた昨今、幸い武藏丘陵や秩父には城址が沢山ある。良いテーマを見つけたのかも知れない。
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