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2016年12月21日水曜日

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・後編

12月10日(土)

昨夜は心斎橋のサウナホテルに宿泊した。サウナは宿泊代がリーズナブルで大きな風呂が利用出来てサウナもある。(サウナだもんそりゃ当たり前)しかも中に居酒屋風なスペースもあり一杯やることもできる。予約不要で門限なし、山爺のような、いい加減な人間にとっては重宝な宿泊施設なのである。


早朝、心斎橋より大阪駅に向かいJR東海道本線に乗り換え一路京都へ、10:17京都着、ここで山陰線に乗り換え1駅先の丹波口で下車、新選組ゆかりの壬生寺と八木邸見学へと京都の細い道を北上する。


京都は道が縦横に走っており分かりやすい。しばらく行くと壬生寺の道しるべが目に付いた。右折するとほどなく壬生寺の北門に到着する。江戸時代そのままの風情ある門構えである。

中に入ると結構広い境内である。沖田総司が子供達と戯れたであろう境内を散策してからお寺に参拝、新選組の痕跡たるお墓へ向かう。新選組関係の墓は周りを囲われており見学には¥100必要となる。新選組の面々もまさか150年後に多くの見ず知らずの人に参拝されるとは思ってもみなかったろうね。


 ←画像、左の墓は近藤一派に寝込みを襲われ惨殺された芹沢鴨と平山五郎の墓、右隣の墓は土方歳三が決めためちゃくちゃな御法度、局中法度に触れて命を落とした方々の墓である。平社員(隊士)は死んでも1把ひとからげで侘しい。


局中法度・・原案作成(土方歳三)照査・承認(近藤勇)

・士道に背くまじきこと・・・会社の恥になることをするな。
・局を脱するを許さず・・・会社の無断欠勤厳禁。
・勝手に金策致すこと許さず・・会社の金、横領厳禁。
・勝手に訴訟取り扱う事許さず・・上司に相談のない取引厳禁。
・私闘を許さず・・・仲間内とか、よそで喧嘩するな。


違反したら切腹だよ~ん!ってどうにでも罪を擦り付けられるじゃん。こんな曖昧な規則では

うわ~山爺なんか直ぐにアウトだねこりゃ。

右の画像、縦長の墓は河合耆三郎という人の墓です。名前のとおり河合(可愛)そうで不運な人でした。⇒

播磨国高砂(明石)の豪商の息子で武士に憧れ?新選組に入隊、もともと商人の倅ですから、そろばんが得意、勘定方(経理)として腕を振るいました。ある日帳尻が50両(今の金で500万円位)合わないことが発覚し公金横領の科で斬首と相成った不運な男です。

なんでもその金は近藤勇が島原の芸者を身受けするのに用意した金だとか。隊長の遊興のための金紛失くらいで殺されてはたまりませんなあ。

豪商の息子だから金に困ったわけではない。誰かが盗んだに決まっている。河合は自分の親爺に金策(穴埋め)を頼んだが金の到着が間に合わず命を落としてしまった。

新選組ではこういった法度に触れて40人以上が命を落としている。人数が半端ないので、しょっちゅう、『切腹じゃあ、切腹じゃあ』と騒ぎまくっていたんだろうに、隊士は堪んなかったろうね。

まあゴロツキ集団みたいな組織を纏めるには厳しい規則が必要なのは分かるけどねえ。


続いて寺から歩いて5分ほどの新選組発祥時の屯所となった八木邸を訪問する。

新選組屯所と言ってもさほど広い屋敷ではなく、近藤一派による芹沢鴨一派の暗殺現場を見学すると言い換えたほうが合ってるかも。

入場料¥1000とちいと高いが見学後大福と抹茶のおもてなしがあるので仕方がないか。

土曜日なのに空いており説明員のおばさん(と言っても山爺よりうんと若い)とマンツーマンで施設を案内してもらう。芹沢鴨一派が寝起きしていたとされる部屋で座りながら説明を伺う。

一通り新選組の歴史の説明を聞いていたが山爺はこれでも新選組通である。普通の話はほぼ知っているので突っ込んだ質問すると『あら良くご存知で』と言い途中で一般的な説明を止めてエピソード的なことを話してくれた。

芹沢が寝込みを襲われ隣の部屋に逃げ込んで絶命したことやその時、隣の部屋で寝ていた八木家の子供が巻き添えを食い、その時の怪我が元で破傷風となり数ヵ月後亡くなったことなどを話してくれた。・・・八木邸の子供が巻き添えで怪我をしたことは知っていたがその後亡くなったことは初めて知った。・・合掌!

右写真の部屋で強引に奪ったよその豪商の妾、お梅とともに芹沢は大いびき、平山五郎とその芸者も同じ部屋で寝込んでいたようでそこを襲われた。・・・✖ 印付近が芹沢たちがちょうど寝ていた場所のようで、『ちょうどあんたはんが座っているあたりどすえ』『ぐえぇ~』てなもんである。

しかし殺人現場も150年も経つと観光名所に様変わりするとは、なんとも妙な気分である。・・芹沢・妾お梅・平山の3名が絶命、平山に添い寝していた芸者は襲撃時たまたま用便に出ていたので逃げて無事(襲撃を見張っていた近藤が助けたとも)別室で寝ていた平間重助は襲撃され手傷を負うも逃亡してその後行方知れず。

またその時の刀傷が鴨居に残っているのも見学した。暗闇で間合いが取れず余程焦っていたんだろうね。

*この事件は日頃より素行の悪かった元水戸藩士芹沢鴨一派に対し、京都守護職、会津中将松平容保公が近藤・土方を呼び寄せ苦言を呈したことにより、粛清を決意したとされているが真相は闇である。襲撃当日は事前に近藤一派が島原で偽祝宴を画策し芹沢達に深酒をさせ泥酔させてから襲うという周到ぶり。武士らしくないとの批判もあるが暗殺に卑怯もハチの頭もないもんだ。

近藤一派による襲撃班は土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助とされているのでこのうちの誰かが誤って鴨居に刀を打ち付けたんだろう。襲撃メンバーはいずれも剣の手練、それでもミスをするんですなあ。・・状況からして脇差で切りつけようとしたみたいですが。ガツン『う、やべえ』と冷や汗ものだったろうね。

この事件は表向きは長州藩のテロということで片付いたようだが殺害直後に異変に気づいて起きてきた八木邸の住人に対し現場にいた土方歳三は『誰か怪しい奴を見なかったか』と何食わぬ顔で聞いたとか。・・土方はん!あんたも役者やのう。

見学後和菓子屋(八木家経営?)の一角で毛氈の上に座り、柄にもなく、お抹茶と和菓子をご馳走になる。・・仕方ないではないか見学料に含まれてんだからして。

八木邸の次はお向かいにあるやはり新選組屯所が置かれていた前川邸に行く。ここは非公開だが中に入ることは出来る。建物の一角で新選組グッズを販売していた。

この繁盛ぶりを地下の新選組の面々はどう思っているのかな。土方・沖田はシャイだから苦笑いだろうな。真面目くさった顔で『俺らぁ、そんなつもりで戦ったんじゃないよ』とか言って。\(^0^)/

次の観光は京都御所である。11:30 四条通を一本外れた小道を散策しながら地下鉄四条駅を目指す。途中小さなお寺を数軒見ることが出来た。やはり京都はお寺が多い。足が痛くて叶わんが入鹿さんまだ怒ってるのかな、と思いつつ歩く。

30分ほどで地下鉄四条駅に到着した。12:30 御所近くの丸太町で下車し京都御苑側から御所へと北上するルートで見学を開始する。細かい砂利道を10分も歩くと御所正面の建礼門が見えてきました。砂利道とのコントラストがなかなか良く融合しています。


ここを左折し500mほど進むとと倒幕のきっかけとなったあの有名な蛤御門の変の舞台となった蛤御門があります。小さな門です。

 ここが1864年7月薩摩・会津連合軍と長州軍が通せ、通さないで激突し多数の死傷者を出した所です。門の柱に数多くの鉄砲傷が今も生々しく残っています。

傷跡は例外なく山爺の腰から上、頭より下に集中しています。門の上の方には全然傷跡は確認出来ません。かなりの至近距離から本気で打ち合ったことが分かります。こんな正確な弾の跡から察するにさぞかし戦死者も多かったのではと当時を偲んで合掌です。

御所に押し入る気ならこの門にこだわらなくても土手を乗り越えていくらでも侵入出来そうであるが、そこは日本人、ましてや帝のおわします御所である。建前重視で礼節を重んじたのだろう。土手を乗り越えたのでは押し込み強盗と変わらないだとか、なんとかこだわって。・・武器携帯しておいて礼節もへちまもないもんだが、不思議な戦いだったと思います。当時高級公家の住居(九条邸)があった御苑方面からも侵入したようですが。

京都御所はこれまで内部建物拝観は事前予約制だったのですが今年の夏から予約なしで随時見学ができるようになった。あのうるさい宮内庁が良く決断したものだ。多分昨今の外国旅行者増加により事務処理が難しくなりギブアップしたのだろう。

外国人もたまには役に立つと言うものです。(^0^)Y

そんな訳で受付がある清所門へ。到着すると10人ほどが検問を受けている。山爺の番がきた。『バッグも中開けてください』言われるまま中を開けると着替えの入っている袋まで開けさせられた。さすが宮内庁、民間とは違うので容赦がない。セカンドバックも開けさせられた。

セカンドバッグの中は文庫本とお菓子類である。『飴あげるよ遠慮するな』、と寅さん流にからかいたい衝動にかられたが係員の怒りを買い入場拒否をされてはかなわんから我慢した。


検問も終わり許可証(右画像)を首にぶら下げ中に入る。順路にしたがい見学を開始する。御車寄→承明門と進み御所で重要な儀式を行う紫宸殿の前に出る。

大正天皇・昭和天皇もここで即位礼を行ったそうである。たしか現在のお住まい皇居は仮の住まいでここ御所が今でも本当の住居なんだとかを本で読んだことがある。

明治新政府がより政権を強固にするため、うるさい公家共がいる京都では何かとやりづらいので大久保利通が当初大阪遷都を画策した。当然公家共は『何を戯れ言いおじゃる。御所はここぞえ~』とかなんとか猛反対でうまく行かない。大久保は一計を企み、『取り合えず勉強のため天皇に江戸を見学させるだけ』と反対勢力を騙して、天皇を東京に出張させた。・・これを専門用語で行幸という。・・というわけで明治2年に明治天皇は外出したのであって引越しをしたのではないのであります。そして、とうとう帰してもらえませんでした。


で、その後、明確な勅令が発せられることもなく現在に至っているのであります。その証拠に今のお住まいは未だ皇居と呼ばれ、京都にあるのは御所と呼ばれています。

依然として京都御所の方が格式が高いのです。従って正式には未だ京都が我が国の首都なんです。だから本来なら勅令を出し京都は西京てな具合に改名せなあかん。・・て、びっくりしたなぁ、もう!。

さすが大久保どん。人をだまくらかすのは超一流だね。まあ、ほとぼりが冷めたらそのうち法令を整備しようと思っていたんだろうけど、その矢先に暗殺されてしまったからねえ。そのまんまで御終い。ことは重大なんですがこんな嫌な仕事は誰もこれに手をだそうとせずに、その後ず~と、放ったらかしで現在に至るです。

続いて清涼殿→ご学問所→御常御殿と生活空間が漂う所を見学する。



右画像はご学問所で手前の広場は蹴鞠をした場所だとか。いやあ真に雅なことですなあ。内部の優雅な襖絵も公開しております。

ここで和歌や読書をたしなみ、臣下との対面行事を行ったとか、紫式部や清少納言もここにいたんでしょうなあ。『春はあけぼの』かなんか言っちゃって。(^0^)


左の画像は御常御殿で天皇の日常生活空間で16世紀末の建造とか。

御所巡りは1000年の歴史を感じさせるなかなか見ごたえのある場所でした。入るとき少し面倒だけど入場料がタダだから我慢しなくっちゃね。

地下鉄で京都駅に15:30ころ戻った。時間がまだあったので駅前にある東寺を見ることにした。東寺は京都駅南口から10分もあればいけるはずと駅を出て入鹿の祟で足が痛い中、右側に向け歩き出す。ところが行けども行けどもお寺に遭遇しない。

そうこうするうちに小さな川を越しました。(左画像)んん!東寺に川なんてあったかなあ?高瀬川と書いてあります。あの森鴎外の高瀬舟で有名な川かなあ?小さくて汚い川です。こんなに浅くてはさすがの高瀬舟も底が引っかかって進めまいに、やはり違うんだろうなあと思いつつ、そこを通過する。

(家に帰つて地図で確認しましたが小説の舞台となったあの高瀬川で正解でした。偶然遭遇しました) 

♪ 高瀬川~流れる岸辺~・・それは広瀬川! ♪ 野崎参りは~・・それは屋形船!Y(^ω^)/


更に進むと鴨川の7条大橋に出てしまいました。そうです。山爺ともあろう者が遭難してしまいました。

南口に出たものと思っていたのは北口で東寺とは全く反対方向に歩いてしまったのです。出たときに磁石で方向を確認しなかった山爺の失策です。

そういえば駅を出たときに京都タワーが見えたっけ、ガッカリしながら駅に戻ります。足は痛いしもう東寺に行く気もすっかり失せました。これも入鹿の祟りじゃぁ~!・・最前から入鹿を引き合いに出しているのでを入れないと本当に祟られたら怖い!。

16:30 再び東海道本線で大阪に戻りました。ここから去年訪れた天王寺の新世界を再訪し串揚げ屋で吉田類の酒場放浪記を実践したく、梅田から地下鉄で動物園前まで移動し下車しました。

地上に出て北側のガード下をくぐりじゃんじゃん横丁へ、ちなみに動物園前を南下すると有名な西成区釜ヶ崎のドヤ街があることを旅から帰ってきて気がつきました。・・だから新世界の飲み屋さんは独特の雰囲気を醸し出していたのか、西成区ちょっと見てくればよかったなあ。

じゃんじゃん横丁はアーケード付きの狭い路地にチープな飲み屋さんが所狭しと並んでおり飲兵衛の山爺としては散策が楽しくて仕方がありません。また、ここは将棋で有名な坂田三吉を輩出した地域でもあります。なので将棋会館があり皆さん熱心に将棋をさしております。

今日はどの店に入ろうかなあ、もちろん狙い目は串揚げ屋さんです。短い通りなので直ぐに通り抜けてしまいます。一旦通天閣界隈まで足を延ばします。

こちらも庶民的な店ばかりで京都のような格式張ったお店は1軒もありません。東京では絶滅した景品のもらえる射的場(左画像)やスマートボール(右画像)までここでは現役です。

またじゃんじゃん横丁に戻り、入るお店を物色していると、テレ東の人気番組アドマチック天国で放映したという看板がある店がが目に止まりました。しかも総合第1位とは・・1位は怪しいですけれど。

あの番組の場合1位は普通当たり障りのない地域を選ぶものです。たとえば通天閣とかネ。


のれんをかき分け中を覗くと店主らしき男が一人カウンターの椅子に座りこちらを睨んでいます。山爺と目が当然合ってしまいました。するどい眼力に負けて入店です。

テレビ出演したのだから色々楽しい話が聞けると思ったが、これが見込み違い。誠に無愛想で必要以外のことは全く喋りません。しかも命令調で上から目線です。

ビールと串揚げ5本を取り合えず注文し串揚げが上がってきたので食べようとすると『だめだめ、最初に揚げた方から食わねえと熱いよ』『ああ!キャベツは口直しに口の中をさっぱりさせるのが目的だからソース付けはダメ』てなもんです。

そのうち女将が奥から顔を出しましたがこちらもあまり愛想よくない。

『串揚げは大阪のどこが最初ですかねえ』と山爺、女将が一言『ここです』これで御終い。会話が途切れまた沈黙。えらい店に入ってしまった。

きっとテレビ出演したので一時期、客がわんさか押しかけ客応対を忘れてしまったのかもしれません。

ただしここのソースはほかの店よりうまい。串揚げの具も画像でご覧のとおり大振りである。野菜類は2個もついているので実質よその店の半値といって良い。お陰さまで10本も食べたら腹一杯になってしまった。具沢山で串揚げ奉行の頑固親父が居る店として評判になるのでは?(もうなってるのかな?)そういう意味では2重〇の店でした。

ほろ酔い機嫌で新世界界隈をしばらく散策してから心斎橋のサウナホテルに戻りました。

12月11日(日)

楽しかったぶらり旅も今日は移動日です。9時20分に大阪駅JRBTに到着し飲み物や昼食用の軽食を購入し待合室で10時10分発『青春昼特急10号』を待ちます。山爺は青春時代はとうの昔に過ぎているので利用するのがなんか恥ずかしい。

♪ 青春時代が夢なんて~・・全くそうだったなぁ!。♪ 青春時代の真ん中は道に迷っているばかり~・・いい歌詞です。40有余年過ぎた今も当時を思い出し悔むことしきりです。(涙)゚(゚´Д`゚)゚

定刻に発車、乗客は往きと同じで15~16人くらいですが、なぜか山爺の隣に若者が座りました。本来単独者同士は離して席を決めるはずなのに、まあいいさそのうち移動してやると思っていると乗務員から『空いている席を自由にお使いください。京都で当日購入客が若干乗るかもしてませんが』とのありがたいお言葉を賜りました。

山爺の隣の若者は風邪引きらしく時折ズズ~と猛烈な音をたてて空気を吸い込む。しかも鼻が詰まっているので苦しそうな響きが伝わり、こちらの方も息苦しくなってくる。・・これが東京駅に着くまで延々10時間も続いた。

もし混んでいたらと10時間も隣同士だったのかと思うとゾッとした。・・席が自由に移動できて多いに助かった。関西地区を離れるので入鹿様の呪縛も解けたようです。


16:50 予定より10分早く足柄SAに到着、赤富士が夕日に映えて綺麗である。本当に富士山は絵になるねぇ。

やはり登る山ではなく見る山だよこれは。(山爺は頑なにそれを信じて疑わない。そんな訳でいまだ登ったこともないし今後も登るつもりもない。)






しかしながら順調な走りもここまで、厚木ICを過ぎた頃から渋滞が始まりスピードはスローダウン。東京駅に19:13着予定が50分遅れで20:00に到着した。

家路を急ぎ最寄駅に22:00少し前に着いた。いつもはこのあと行きつけの居酒屋に立ち寄って土産話をするのだが時間も遅く日曜日でもあったので嫌な予感がする。

電話してみると、今日は早仕舞いで店は閉めたとの返事が帰ってきた。むむう~入鹿様の祟り、ここまで及んでおじゃるかあ~!。

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・後編 完








































2016年12月18日日曜日

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・前編

もっかのところ失職中で時間に自由が効くので・・所謂、暇なので12月8日~11日にかけて首題の旅に行って参りました。


慢性の金欠病を患っている山爺のこととて、お大尽が利用する新幹線や飛行機なぞは利用すべくもありません。東京駅から出ているJRの高速バスを利用しての旅です。往は3列独立シートながら¥4000と格安チケットをゲット!3列独立なので隣の御仁と干渉しなくて済み気楽です。


もちろんトイレはついているので安心。帰りは日曜となるので格安の3列バスは早めに売れ切れでゲット出来ず(もちろん高ければあるけれどそれは無視)4列シートです。しかし10時発のちょうど良い時間ながら¥4300と、これまた格安で手に入れました。・・新幹線だと早割で上手くチケット購入しても往復¥24000ほどなので¥15700も節約出来る勘定です。

古人曰く『時は金なり』とはよく言ったものです。まさに暇と引き換えに金を節約できることを実感する。・・あん!何だって、そういう意味と違うって。(^0^)

真珠湾攻撃ではありませんが『大本営陸海軍部午前6時発表!本8日未明、我が山爺は関西方面に出撃せんとす!』である。出で立ちは背中にバッグパック(というより小型登山リュック)にミニ肩掛けバッグ、これが山爺の放浪旅スタイルです。

12月8日(木)

東京駅八重洲口発8:40発の高速バスに乗るべく早朝に家を出ました。無事に8時ちょい過ぎに東京駅に到着・・まだ40分もあるなんて安心してはいられません。

なんせ東京駅は広い。お昼用の軽食や飲み物を購入したりして構内をうろうろしているとあっという間に30分ほど経過してしまいます。

運行掲示板を見ると山爺の乗るバスが表示してあります。そうこうしているうち山爺の乗るバスの受付開始アナウンスがあったので当該発車ホームへ。何人か既に並んでいましたが乗車客は少なそうです。バスは二階建てで山爺の座席は当然2階!、2階はさすがに高くて見晴らしもよろしい。座席は階段すぐ横の真ん中でした。

定刻通りバスが走り出しました。日比谷を抜け皇居の桜田門を右に見ながらまずは新宿の新しくできたバスターミナルへ向かいます。新宿でまた3~4人乗車してきました。

東名高速に乗りバスは好天の中、快適に走行します。やはり山も旅行も好天に限ります。2時間ほどで足柄SAに到着。15分のトイレ休憩です。富士山が雪を被りくっきりと見えました。


バス乗務員のアナウンスがあり、予定時刻になると積み残しはいちいち確認せず発車するので自己責任で乗り降りしてくれとのこと。

降車時に停車位置をよく確認しておかないと似たようなバスが沢山あるのでどれがどれだか分からなくなり大変なことになります。置いていかれてはえらいことになるのであらかじめ位置関係をよく確認してから離れなければなりません。

そうはいっても相手はお客様、出発の時間になると乗務員の方で一応車内をある程度見回してから出発するようです。

このバスは定期路線バスのようで御殿場・富士・静岡ICの各バスターミナルに寄りますが今回は
誰も乗車してきませんでした。

13:20 浜名湖SAに5分遅れで到着、バスの位置を十分確認しながらトイレに向かう。浜名湖はどこかとキョロキョロしたが視界に入りません。諦めてトイレに入ると、おお!トイレの向こうに浜名湖が見えるではありませんか!。・・・記念にパチリ、こんなことをやっているのは山爺だけで少し恥ずかしい。

大阪まで9時間の長旅ですが2時間おきに休憩が入るので退屈しません。座席にゆとりがあるのでビールでも持ち込めばよかったと後悔しました。・・・SAの売店内を一生懸命(こら!そんなことで一生懸命になるな!)探しましたが当然ながらお酒類は見当たりませんでした。

山歩きなら必ずザックのなかに酒は放り込むのに旅行ならどこでも買えると思い準備しませんでした。・・・後悔しきり。(´・ω・`)ショボーン

バスは快調に進み名古屋を通過、お伊勢様近くの甲南SAに15:40到着ここで20分休憩です。小腹がすいたので今川焼きを買いながら売り子の親爺に『赤福はどこで売ってるの』と聞くとレストラン入口で販売しているとの返事。『じゃあ、帰りもここ寄るからその時買うよ』と言ったら、くだんの親爺が『向こう側にはあるかどうか分からない』と苦笑した。あっそうか、ここは高速道路だ!馬鹿なことを言ってしまったと思ったが後の祭り。(笑)(^0^)Y

大阪に近づくと渋滞が始まりバスのスピードがこれまでと全然違い遅くなり出しました。

結局大阪駅のJRBTに定刻25分遅れの17:55到着、さほど遅れることなく着いたのでこのあとの道頓堀・難波界隈の散策には支障がありません。

御堂筋口より地下に降り御堂筋線で心斎橋まで移動すべく自販機で切符を買う。大阪の自販機はなんか関東のそれと違い操作手順が複雑、画面を見ながら色々選択しなければならない。モタモタしていたら後ろに列が出来てしまった。・・・大阪人は気短だからどやされたらどうしようと焦りながら操作しやっと切符を出すことが出来ました。(´ε`;)ふう~!

梅田から心斎橋はすぐだった。地上に出るとイルミネーションがすごい。たしかこの通り(御堂筋)を南方向に500mも行けば道頓堀だと思いポケットから磁石を取り出し確認する。・・・このへんは山爺も山男の端くれ準備に抜かりはありません。

御堂筋を左に向け歩き出す。♪ 小ぬか、雨降る 御堂筋~ あなた~ って連れは誰もいない中をミナミへ歩く。道頓堀へはあっという間に到着した。左を見るとあるある見慣れたグリコのネオン看板が、左折し大阪の阿呆兄ちゃんが飛び込むので有名なえびす橋に到着。記念撮影を撮る。ってまあここも中国人らしき団体さまでやかましい。


堀をよく見ると柵のあちこちに救命浮き輪がぶら下がっている。誠に用意のいいことでと感心しきりでした。

えびす橋を渡り、カニ道楽の看板がある交差点に移動する。平日なのに、ここも人々で誠に賑やかである。賑やかな通りをしばし散策し、次の目標、法善寺へと向かう。



法善寺横丁は直ぐに発見したが肝心のお寺が見つからない。飲み屋街を歩きながらそろそろ夕食兼一杯の居酒屋も物色しなが歩いていると細い路地の向こうにお寺らしきものが見えました。法善寺です。飲食店に囲まれた小さなお寺でした。♪ 包丁 一本 サラシに巻いてぇ~ か!藤島武雄の月の法善寺横丁・・って山爺も古いねぇ。

十分ご縁があるようにと10円と50円合計60円を奮発し家内安全・就職成就・宝くじ当選を祈願する。・・・ここの仏様は水かけ不動様なので水をかけて願掛けせなあかん、とこの後入った居酒屋のお兄ちゃんが教えてくれた。・・・しまった。水かけるの忘れたがよそ者の田舎もんが願掛けしたのだから多めに見てくれるだろう。・・・お不動さんよろしく頼むよ!。
そろそろ居酒屋へと法善寺の回りをぐるぐる探索するがなかなか手頃な店が見つからない。
混んでいる店は山爺を相手してくれそうもないし、混んでいる店が多い中、ガラガラの店はなんか訳ありだろうしで、なななかちょうどいい店が見つからない。

洋風の店でセットメニュー¥980の看板が目についたので見ていると若いお兄ちゃんが出てきて『いかがですか今すいてますよ』に釣られて入店する。入ると客は誰もいない。すいてますよもないもんだ。誰もいねえじゃねえかと思いながらカウンターに座る。座ってみると、何かおかしい正面に木の壁が出来てしまって若いマスターの顔が随分と上で見上げなければ見えない。

セットメニュー¥980を最初に注文する。グラスビールに串揚げ5本キャベツ付きだ。う~んグラスビールかあ、もっと大きなジョッキーを想像していたのでやや不満。串揚げはうまい!・・まあ串揚げは誰が料理しても不味いことにはならない。余程のことがなければねぇ。

客は山爺一人だから会話は当然弾む。『このカウンターやけに高いね、意識して作ったの、壁に向かって飲むようだ』と揶揄すると。なんでもスタンドバー風にしたかったので座席を高めに設定するつもりだったと言いながらカウンターの椅子を操作してくれた。スルスルと確かに伸びる。カウンター内側の床面も客側フロアよりかさ上げして高くしてあるそうな。

ところが請け負った大工さん、上のカウンターは上の床面に合わせ客側のカウンターは客の床面に合わせた作ったので間延びした変なカウンターが完成したという訳だそうな。

当然打ち合わせた内容と違うのでクレームを付けやり直しをお願いしたらしいが、『いやぁそれは堪忍してや』『おもろいカウンター出来たやないか』とも言ったとか言わないとか。ということで今に至っているそうです。いかにも関西人らしい面白い話が聞けました。関東ではこうはいかんでしょうなぁ、何がなんでも工事やり直し大工との関係はギスギスして終わりだろうね。

この日は更にお銚子2本とつまみにおでんを追加して多いに会話を楽しんだ。この間日本人の女の子とアメリカ人のカップルが入店しただけ。大阪の居酒屋にしては少し割高だったがおしゃべり代と割り切れる夜だった。

今日の宿泊先は心斎橋に予約してあるカプセルホテル〇&×である。ここはシャワー設備しかないが格安(¥2000前半)なので良しとした。ほろ酔い機嫌で難波~御堂筋と、もと来た道を戻ってホテル到着、爆睡となった。

12月9日(金)

心斎橋から天王寺まで地下鉄で移動し、ここからJR関西本線に乗り換え快速列車で一路奈良に向かう。9:28 JR奈良駅に到着、駅前のコンビニでお握りとサンドイッチ、お茶を購入し東大寺まで歩きながら遅い朝食を取る。一人旅だからこそ可能な山爺特有の時間と金銭節約術である。連れがいたらこうは行かない。

15分も歩くと興福寺の猿沢池に着いたがそこはスルーし公園の中を東大寺へと向かう。あちらこちらに鹿がうろうろしている。神の使いらしいから仕方がないけどそれにしても多すぎる。鹿刺しにして名物とし茶店で出したらよかろうに。\(^0^)/

おお!東大寺の南大門が見えてきました。門をくぐると中門がありその先に大仏殿が見えました。


お久しぶりなんてもんじゃない。高3の修学旅行以来だから実に
半世紀ぶりである。


中門をくぐると大仏殿がでーんと建っております。拝観料を収め大仏様とご対面。やはりなかなかの迫力でおわします。それにしても中学、高校生の多くて賑やかなこと、これに中国人やらアジア人が加わり大騒音がお堂内に響く。

名物の柱くぐりでも中国人らしき団体が大はしゃぎ。仏様も毎日こうだと耳栓でも欲しところだろうねえ。そこへ行くと欧米人と日本人のなんとお淑やかなこと。

間違って東大寺ミューシアムへも入れる共通券を購入してしまったので仕方なくミューシアム向かう。あまり期待はしていなかったがやはり展示品は期待はずれで創建当時の屋根瓦と仏様を見て御終い!大仏見たあとでは仏様も迫力に欠ける。

次の見学目標、興福寺へと徒歩で向かう。大きな通り出たので向こうに渡りたいが歩行者用信号も横断歩道もない。歩行者は地下道をくぐって向こう側に渡るようである。渡り切って案内板を見ていると中国人らしき親子が山爺に話しかけてきた。

中国語なのでなにを言っているのかさっぱり分からない。Where would you like to go と聞いてみるが・・・山爺でもこの程度の会話は出来ますゾ。・・・反応なしで一方的に中国語でまくし立ててくる。バカめ、外国に来るなら英語くらい覚えろ!・・・なんか東大寺の方を指差している。Great buddha?と聞いても反応なし・・いやぁ困ったぞ、私は早く興福寺に行きたいし。・・・ん!先ほど私が道路を横断するのに最初戸惑ったのと同じで渡り方がわからないのかな。地下道を指差し身振りを加えながらdwon and through a tonnel と言ったら。 おお!と言って地下道の方へ歩いて行った。どうやら向こう側に行きたかったようだ。・・やれやれである。

えーい、つまらん時間を食ってしまった。急いで興福寺へ、五重塔が見えてきました。ここは見るべき目玉はただ一つ国宝のアシュラ像を拝観することである。急ぎ興福寺国宝館へ回り入館する。いました、いましたアシュラ像が、やはり近寄りがたい神々しさがあります。迫力抜群です。1000年以上も前にこれを作り上げた作者に脱帽です。他はあまり期待していなかったけれど国宝館の名にふさわしく美術の教科書に載っていたような彫刻が数点展示してあった

外に出て改めて五重塔と三重塔を見学して猿沢池に降りる。ここでしばし休息してから奈良駅に戻る。

駅の近くまで戻ると途中に開化天皇の御陵があったので写真撮影。

家に帰ってから開化天皇について調べたら第9代の神代時代の天皇で生まれ年は西暦換算で紀元前208年で111歳で崩御と相成る。どうも実在性に欠け怪しいが宮内庁管轄で御陵が実在することがなんとも不思議だ。

12:33 再びJR線でお昼も食わず法隆寺駅へ向かう。法隆寺駅12:43着 12:58 のバスまで時間があるのでコンビニに立ち寄り¥100アンパン購入し腹ごしらえ。バスが来たので乗車 法隆寺まで¥190、なんと半端な料金設定だ。おまけにつり銭の無いようにご用意くださいときました。

今日日スイカ(果物ではないよ熟年読者諸君!念のため)が普及し¥10両替機もないバスが増えた。このバスにも付いていないようだ。下車時結局¥200を放り込むハメに。往復¥20余分に取られた。乗客が多いから随分儲かるんだろうなあ・・・いやいや今時カード持たない奴なんかいないようだ。(´・_・`)ショボン

13:15頃法隆寺門前に到着、いよいよ前々から訪れて見たかった法隆寺のミステリー探索が叶った。

ここで法隆寺の歴史についておさらいしてみよう。歴史の成績が赤点で興味ない読者諸君は読み飛ばしてください。

①法隆寺の建立は7世紀初頭(607年)。聖徳太子が父・用明天皇のために創建した。斑鳩寺という別名もある。

②『日本書紀』では670年(天智9年)に落雷がもとで起きた火災で焼失した。

③再建時期についてははっきりした記録はないが建築様式などから、金堂が最も古く、ついで五重塔、仁王像のある中門、回廊が造られたとされている。

④夢殿を中心とする東院伽藍は、738年(天平10年)ごろに法隆寺の高僧行信がかつて斑鳩宮があった土地に聖徳太子を偲んで建てたもの。

次に聖徳太子を取り巻く歴史に触れてみると

①574年ころ生まれた。
②593年推古天皇の摂政となった。
③蘇我馬子と協力して、天皇中心の政治を目 指した。
④603年、冠位十二階を定め、604年には十七条の憲法を制定した。
⑤仏教をあつく信仰しており、607年に法隆寺建立
⑥同年(607年)小野妹子らを遣隋使として中国の隋に送り、対等の外交を行おうと努力した。

⑦623年に聖徳太子が亡くなる。次の日に妃も亡くなる。更に母上も2ヶ月後に死んじゃう。

*葬儀を執り行った記録が全くないそうです。!おかしくない?

⑧蘇我蝦夷の血縁、古人大兄皇子と聖徳太子の子である山背大兄王で皇位継承権争い勃発

⑨643年に蘇我一族に斑鳩の里を襲撃され山背大兄王子が一族もろとも自殺。

*戦うと多くの犠牲が出るからと一切抵抗せず一族総自決・・何かおかしい。そんなお人好し入鹿(いるか)・・親爺ダジャレ

⑩これにより蘇我蝦夷・入鹿親子の専横ぶりが激しくなってきた。

*つまり蘇我氏が聖人である次期天皇候補の聖徳太子やその一族を抹殺し天皇家の権力を奪おうとした大悪人だとされているが聖徳太子と蘇我氏とはかなりの血縁関係にありなんで抹殺されるのか理由付けに乏しい。


⑪645年蘇我氏の専横を憂い中大兄皇子と中臣鎌足が図り蘇我入鹿を殿中(て言わないか?)で暗殺。
⑫続いて蝦夷にも軍勢を差し向けたので蝦夷は戦わず自殺し蘇我氏中枢勢力滅亡・・いわゆる乙巳(おっし・いっし)の変。

*どうもこのあたりの事件が山背大兄王子一族自決とダブって見えるのは山爺の考え過ぎか。

⑬乙巳の変により中大兄皇子は後に天皇に即位(天智天皇)鎌足は功績により藤原の姓をもらいこののち藤原一族が専横を極め現在に至る・・中臣では中くらいの家来という意味だもんね。(嘘だよ~ん 笑   中臣とは神と人の間と言う意味合いで・・つまり神官職のことみたいです)

*この藤原嫡流から鎌倉時代以降に5摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)という超名門の家柄が輩出され現代に至っている。

*これらのことは鎌足の息子藤原不比等さんが『日本書紀』を編纂した内容がもとになっている。勝者の立場で都合良く書かれていると多くの歴史家は言っている。

*山爺が中学時代に習った頃は、この一連の事件を大化の改新と教わったが今では天下のNHKさんも乙巳の変と言い換えている。上記名門家のいずれかが入鹿さんの祟を今でも恐れ各方面に働きかけ訂正させたのかな?・・だってそうだろう単なる政権争いだったとしたら、いつのまにか大悪人に仕立て上げられて誅殺されたあげく、世直し大化の改新だと嘘を言いふらされてはどんなお人好しでも怒る(祟る)でえ。

山爺も古代歴史は好きで色々読んでいるが真面目な歴史学者さえも『日本書紀』は歴史を捏造し捻じ曲げたた節が多々あり信用できないという説が多い。

急先鋒の著書に梅原猛(隠された十字架)関裕二(聖徳太子は蘇我入鹿だった)井沢元彦(逆説日本史・学校では教えてくれない日本史の授業)などがあるので暇な人は読むと面白いよ。

これらの著書によれば737年に『日本書紀』を自分に都合よく編纂した藤原不比等の息子4人が相次いで急死した。・・・いずれも天然痘らしいが彼ら四兄弟は生前に政敵長屋王に濡れ衣を着せて自殺に追い込むという悪どいことをやっている。

不比等はこれは長屋王の祟と恐れ彼を手厚く祀ったがなお異変は続くので、もっと悪どいことをやったご先祖様は誰だと追求し、ああこれはおれの親爺(鎌足)が入鹿をだまし討ちしたんで祟っているんだなあと思い蘇我入鹿の怨霊を鎮めるため架空の聖人、聖徳太子をでっち上げ褒め称えることにより怨霊を慰めようとしたと述べている。つまり聖徳太子=蘇我入鹿説である。

確かにこれまでのことを入鹿=聖徳太子とするとこれまでの事件のつじつまが合いスッキリする。

*聖徳太子と称号は太子の死後送られた忌名で生前は厩戸王子と呼ばれていたことは皆さんご存知と思うが徳の付いた皇族はろくな最後を迎えていない。つまりこれらの忌名は死に追いやった当時の権力者が祟を恐れて送った称号だ。孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳、いずれもその最後は不遇な扱いを受けている。

*蘇我氏は渡来系の人で律令制度の導入や地元斑鳩で善政を収めていたらしく今でも地元の人々は蘇我神社として手厚く祀っているそうです。・・・明治になってから入鹿は天皇家に盾突いた大悪人だから神社の名前を変えろと言われれも応じなかったとか。悪人だったら一番に地元民から見放されるもんね。

*歴史家達は乙巳の変は世直しでも何でもなく時の権力者と落ちぶれた皇族の単なる政権争いだと言う。
*悪者を追い詰め死に追いやっても殺された方にも非があるので納得?するので祟られないといいます。なにも悪いことをしていないのに欺かれ殺された場合に祟るとされています。・・加害者側に後ろめたさがあり良心が咎めるからだろうね。

法隆寺建立は蘇我氏ゆかりの斑鳩寺を廃寺とし付近に移築したものとか、この斑鳩寺こそあの聖徳太子の子、山背大兄王子一族が自殺した場所である。・・聖徳太子と山背大兄王子は架空の人物で蘇我氏一族が滅亡した場所と思えば合点が行く。加害者(中大兄皇子・鎌足)としてはそんな気味の悪い場所はさっさと解体したいものねえ。

移築、建立に際しては色々な怨霊封じが施されているというのだ。誰が誰に対し行ったのか。藤原氏が蘇我氏対して怨霊封じの仕掛けを施したと考えると真にスッキリとするのである。

聖徳太子がでてくると話がややこしくなり訳がわからなくなる。それもこれも藤原不比等めが自分達に都合の良いように(蘇我氏悪い人・藤原いい人)デタラメを書くから後の学者さんを悩ませることになるのである。・・・学者って頑固で頭が硬いから自説曲げないし・・なんでも東大と京大の歴史学者って今でも仲が悪いとか?・・


法隆寺に仕掛けられた怨霊封じとは

①中門の真ん中に柱が来るように建立・・・怨霊が出て行かないように通せんぼ。こんな建て方はあまりない。  ⇒

今回の拝観でよく見てこようと思ったが改修中でシートがかぶせてあり見えん!!いやぁ参ったねぇ。


*東大寺の南大門は2本の柱で出入りしやすくしてある。これが普通の建て方。   

*山門は俗世界との縁を断ち切る結界の役割を果たすため建立される。3間4柱(両側は仕切り板で塞ぐ)とか5間6柱とかが普通の建て方で法隆寺のような4間5柱構造は異例。

HP検索するとほかの建立例は出雲大社(大国主命)山田寺(蘇我石川麻呂)元興寺(蘇我氏)があるとされているがいずれも不遇な最後を迎えた方々ばかりである。・・・実物画像は確認できなかった。

石川麻呂は蘇我一族でありながら乙巳の変に中大兄皇子側に加担し、後に中大兄皇子・鎌足に惨殺された哀れな人物。




②五重塔の宝輪に鎌が刺さっている。二つも!・・・刃が下向きになっており五重塔から怨霊が出てゆくのを防いでいる。・・・落雷よけとされているらしいが落雷よけなら雷神様は上からやってくるので刃を上に向けなくては・・祟りじゃぁ!









③夢殿に安置してある救世観音が異常。

・仏様の光背の固定方法が異常・・大きな釘で仏様の後頭部にグサリ・・罰当たりも甚だしい。

たぶん呪い封じで夢殿建立した行信という坊主が誰かに命じられてやったんだろう。       ⇒

蘇我入鹿よ!迷わず成仏せい!グサッてなもんで・・おお怖わ!

この行信、没年不明というのも怪しい。利用されるだけ利用され消されたのでは?一説には下野の国(栃木県)薬師寺に流されたとも。

*行信:生没年不詳、奈良時代の僧、法隆寺、元興寺で活躍した、天平10年(738年)閏7月律師となり僧綱の一員として仏教行政に関わった。同11年に法隆寺東院伽藍(夢殿)を創建。

明治初年までこの状態でミイラのように包帯でぐるぐる巻きにし箱に収納、さらに鎖でぐるぐる巻きにして厳重に施錠、一切の開放を禁じて1000年以上も安置していた。・・余程祟が怖かったんだねぇ・・今日も黒い箱に入り公開していなかった。

とまあ長々とくだらないことを書きましたが少しは興味持ちましたか。あ!あんだって。くだらん。そう!法隆寺には百済ん観音もいるよ。・・親爺ダジャレ(^0^)

拝観料¥1500!(おお!高!お銚子4本だがね)を支払い寺院の中に、ここも半世紀ぶりである。中に入ると静けさが漂う。静けさというより不気味さと行ったほうがいいかな。あれだけ晴天だったのがここに来てにわかに黒雲が湧いてきたのも拍車を掛けたようだ。・・・実際大阪に戻る途中の車中で夕立のような大雨に見舞われた。・・・蘇我氏が怒っている。祟りじゃぁ!

なぜかほかの寺と雰囲気が違うなあ、と拝観しながら一生懸命思案して、はたと思いついた。そうだ、ほかの寺院より狭いのだ。しかも回廊でぐるりと取り囲んでいるから余計にそう感じる。
これも(回廊)怨霊封じの策に違いない。

前述した五重塔の宝輪の部分を凝視するとあるある鎌が2丁しっかりと刺さっている。風雨にさらされるので定期的に取り替えているに違いない。鎌の向きも偶然ではなく意識的に向きを決めているに違いない。

そばを偉そうな坊さん(白装で袈裟かけていた)が横を通り抜けたので余程『あの鎌は何のまじないですか?』と聞こうかと思ったが、聞けずに終わってしまった。

間違いなく怨霊封じだと一人ごちていると突然賑やかな人声集団が近づいてきて白昼夢が破られ気分がぶち壊しになる。中学生と思しき団体が旗持ったガイド嬢を先頭にどやどや進んでくる。

いやあ喧しいことこの上ない。仕方がないからゆっくり見学してご一行様をやりすごす。やれやれと思ったら次の中坊団体がまたやって来た。



阿鼻叫喚の中、法隆寺を拝観するはめになってしまった。これも蘇我氏の祟りか!。



寺院見学を終えたので夢殿に向かう。中坊共は時間がないのか夢殿には立ち寄らないようである。静寂の戻った参道を夢殿に向け歩く。

夢殿は前述したとおり聖徳太子を偲んだ行信が天平11年(734年)東院伽藍とともに創建したと伝えられているようだが100年も前に死んだ太子に大金をかけて誰が偲んで寺など立てるものか、時の為政者(藤原氏)に頼まれて怨霊封じのために建てたに相違あるまい。

ここに安置してある救世観音はほかの仏像と違い何故かお顔が人間っぽい作りとなっている。・・普段は非公開で山爺も今回の旅では見られませんでした。念のため。

聖徳太子(蘇我入鹿)に似せて作ったとされているが、なるほど最初は聖人・仏様と祭り上げて霊魂を鎮めようとしたのだろう。だがそれでも祟が止まないので業を煮やし、『え~い入鹿め!いい加減にせい』と頭に釘を打ち付け、包帯でぐるぐる巻きにし鎖でがんじがらめにして箱に封印、1000年以上もほったらかしにしたのに相違ない。・・恐ろしや恐ろしや。

*明治17年米国学者フェノロサと岡倉天心が夢殿を調査し布で幾重にも覆われれた状態でがんじがらめに施錠されていた救世観音を調査した。
当時この秘仏を白日に晒すと聖徳太子の怒りに触れ大地震が起こると言い伝えられていたので、いざ蓋を開けて布を剥ぐ段階になると僧たちは皆恐れて蜘蛛の子を散らすように逃げていったとか

ミステリー拝観を終えたので大阪に戻る事にする。法隆寺あたりから今回の旅のため新調した靴が合わず猛烈に足が痛くてたまらない。これも入鹿さんの祟りか?イ~さん頼むから八つ当たりは止めてネ。

4時頃大阪に戻れたので当初の予定では大阪城の周りを散歩する予定でいたが足が痛くてそれは叶いそうもないので、去年立ち寄った天満商店街の鉄板焼き居酒屋に直行することにした。


JR天満駅で下車、ここは降りると直ぐにゴチャゴチャしたお店が
並ぶ。東京の私鉄駅前のような雰囲気が味わえる。居酒屋さんのプライスを見てもリーズナブルな店が多い。生ビール中ジョッキ¥180とかチューハイ3杯飲めば1杯只とか。

覚えていたつもりでも同じような店が続いているので今ひとつ目的の場所が思い出せない。痛い足を引きずりながら20~30分も歩いただろうか。おお!ありました。いきなりその店の前に出ました。よかった。まだやっていたんだ。

ん!のれんが扉の向こう側にかかっている。まだ準備中かな。でも営業中の札は出ている、どうなってんだと、のれん越しに中の様子を伺う。お!居ました。マスターが1人で所在無い様子でテレビを見ています。

『こんちわ』と言いながら中に入る。『毎度、いらっしゃい』と親爺。


毎度はないだろう、1年ぶりである。忘れているようだ。ビールを注文しながらカウンターに座る。

ほどなく女将が買い物からか帰ってきた。『あら、あんさんは、たしか半年前に』私の干支より一回り上の女将は覚えていてくれたようだ。『いやぁちょうど1年ぶりですよ』『1年でっか、年取ると1年過ぎるのが早いでんなぁ』『お互い様で』と会話が弾む。いやぁ、立ち寄った甲斐があったというもんです。

こうなるとお酒も進む。日本酒に切り替えたので酔いも回り山爺も饒舌になる。・・・あんだって、もともと饒舌だと!・・そのうち常連さんが一人隣に座り会話に加わる。吉田類の酒場放浪記もかくやとばかり、おしゃべりが弾む。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。深酒すると今夜の宿にたどり着けなくなるのでお開きにしお愛想とする。別れ際に女将が『お互い長生きして、また来年お越しやす』と言う。『はい来年また伺います』と約束し店をでた。

大阪・奈良・京都ぶらり旅・・前編 完