小早川秀秋が陣取った松尾山がよく見える、石田三成の本陣、笹尾山は近いなあ。(パノラマの右上手の山裾)手に取るようだ。関ヶ原盆地は東西4km南北2km、決戦場になった地域はさらに狭い。こんな狭い盆地に東西陣営15万人もの人々が大人しく連れてこられ、お互い見ず知らずの者同士が殺し合う。なんと人間は従順で愚かしい性(さが)を持った動物なんだろうか。
さて、関ヶ原の史跡には蝋人形があるわけでもなし歴史に興味がない人にはただの原っぱにしか見えない。歴史上の史実を知ってこそ面白いというものだ。合戦までの経緯を詳しくおさらいしよう。
【山爺の一言メモ】
多分に山爺の憶測及び私見が含まれておりますが洒落とご理解ください。問答や苦情には一切応じませんのでご了承ください。
関ヶ原合戦に至る要因のすべてが豊臣秀吉の計画性のない後継者政策にあるといっても過言ではないと思います。
秀吉には正室おねとの間は勿論のこと、多くの側室と子づくりに励んだが一人も子が出来なかった。つまり秀吉は種無しかぼちゃだったと思われる。政権を握るや後継者欲しさに親戚筋を中心にやたら養子縁組をする。豊臣秀次(秀吉の実姉の子)・小早川秀秋(おねの兄の子、甥子)・結城秀康(徳川家康の子)池田輝政など総勢7名、ほかに猶子(家督相続から除外の養子)として宇喜多秀家ら4名といった念の入れようだ。ほかにも秀吉はおねの実家の木下家の従兄弟筋である福島正則・別所長治・加藤清正らを幼少のころより面倒を見る。実子の出来なかったおねは彼らを我が子同然に可愛がり育て上げ成人してのちは側近に取り立てる。・・皮肉なことにこれらの武将がいわゆる武断派となり関ヶ原の戦で家康側に加担し豊臣家滅亡へ追い込むことになる。
縁戚筋をかき集めて組織を固めた豊臣家、このまま推移すれば磐石なお家となるはずだったが織田信長の血縁である茶々(浅井長政とお市の長女、のちの淀)を側室に迎え、淀と秀吉の間に子が出来てから事態は急変する。我が子可愛さに養子縁組を次々と反故にするのだ。
秀秋は小早川家に養子に出され、関白の位まで譲った秀次には謀反の疑いありと難癖をつけて切腹に追い込み、秀次の正室や子女はおろか側室全員も妊娠しているかもという理由で京都三条河原で39人も斬首するという暴挙に出る。その中には殺されることすら分からない幼児が何人も含まれていたというから権力を持ったボケ老人はまさに気狂いに刃物だね。
だいたいに、正室や側室数十名と励んでも駄目だったのに急に妊娠するはずがない、それもすぐ第一子、鶴松が授かりその子が2歳で夭折するとすかさず秀頼を妊娠する。誰が見てもおかしいと思わざるを得ない。淀の本当の相手は側近の大蔵卿局(茶々のうば)の息子大野治長であるとの説が有力(秀頼は秀吉に似ず長身で治長も大男だった)だ。大河ドラマ”どうする家康”でも暗にそんな展開で描いていた。
それゆえ秀吉の子ではないと見抜いていた正室のおねは政変が起きた時に我が子同然に育てた小早川や福島正則らに豊臣側(西軍)に付くのではなく家康に味方するよう諭したのではと思う。
豊臣家は私と秀吉で築き上げたもの、どこの馬の骨ともわからん子を産んだ茶々ごときに天下を奪われてなるものか・・・といった考えが根底に有ったに違いない。つまり関ヶ原の合戦は本妻(おね)と妾(茶々)の争いでもあったのです。
しかしボケが少し始まった秀吉は我が子が授かった事に有頂天、自分の子であると信じて疑わない。なんとしても秀頼に後を継がせるべく五大老制度(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景・・うん?6人いるゾ とその行政機関として五奉行制度(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家)を発足させ、豊臣政権の強化を図る。
会社組織などで平社員の時はダメ男でも課長になったとたんに張り切ったり、隠れていた手腕を発揮したりするもので、その際たるものが軍隊の組織だ。
もしも、こんな制度を作らなかったら、すんなり家康に政権が移り豊臣家は大大名として生き残ったのではと考える。
秀吉の死後、家康の暴走を阻止するべく立ち上がった三成に残りの五大老達(毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・小早川隆景)が呼応する。中には三成から規則を振り回され『あんたは五大老なのだから』と叱責されし渋々西軍に与した者もいたに違いない。
西軍に与した五大老の中に前田家が抜けているが利家が病死後、家督を継いだ前田利長が当初は五大老に就任した。しかし対徳川の急先鋒となり家康と衝突、家康の加賀征伐へと発展してしまいあわや合戦か、となったが母親のまつらの説得で家康に下った。
その後は利長の息子利常と徳川秀忠の子女と婚儀を結んだりして徳川陣営に取り込まれる。おねとまつは木下藤吉郎のころから隣人同士で仲が良かった。ゆえに、おねを通して家康に仲介をとりなしたことは十分あり得ると思う。
余談ながら利常は聡明な人だったが家康に聡明さを認められるとお家が危ないと悟り、わざと鼻毛を伸ばしたり股間露出したりして愚鈍を装い懸命に家康に媚びた。その甲斐があって加賀百万石として繁栄し現在に至っている。1598年秀吉が死去、すかざず家康は秀吉から禁じられていた届出なしの他家との婚姻をしまくります。三成に咎められると『おお、忘れておったわ』と惚ける。狸親父の面木躍如、決して大河ドラマのような良い子の家康ではないのです。
司馬遼太郎が著書”街道を行く”で解説していたと記憶しているが、関ヶ原の戦いを現代の出来事に置き換えると秀吉社長の死後、跡目を徳川専務が狙う。それを見とがめた石田総務課長が社長の息子秀頼に跡目を継がせるべく徳川専務に立ちはだかったものだが、やっとこ課長と専務では最初から勝負は見えていたと・・言い得て妙です。
この総務課長は頑固一徹、正義は我に有りとして一歩も引かない。いつの時代でもいますなあ、規則を振り回して相手を追い詰める人が。正義があれば必ず勝つと張り切っちゃう。いつも正義が勝つなら世のなか平和で戦争は起きない。正義の主張と横柄は紙一重、三成も然りで周りからの人望は得られないし本人も納得している。このような性格で朝鮮征伐の実務を取り仕切ったからたまらない。秀吉にいいも悪いもすべて告げ口し放題、武断派の福島、加藤らから恨まれることになるのは周知の通り。
三成と家康のにらみ合い、前田常務(前田利家)が生きているうちはなんとか抑えられていたが常務が死ぬともう行けません、結局、秀吉社長が死んで2年後の1600年9月、関ヶ原の合戦にと発展する。
石田三成率いる西軍8万人、総大将は5大老の一人の毛利輝元、家康の東軍は7万5千人、東軍にはこのほか徳川秀忠率いる直営軍3万8千人がいたが信州上田の真田昌幸・信繁親子にちょっかいを出して大苦戦、関ヶ原の合戦に間に合わなかった。なぜ家康は劣勢の中、秀忠の到着を待たず戦に挑んだのか。
もともと毛利家は初代元就の頃より”決して天下を狙うな、西国だけで十分”という家訓がある。今回の戦も五大老だから担ぎ出されただけで、総大将任命は大迷惑と思っている。しかしながら家康が上杉景勝の討伐のため大阪城を出たと知るや長州から小型の早舟に乗り脱兎のごとく馳せ参じ、たった2日で大阪城に乗り込んでくる。この人はいったい何を考えていたのだか。
輝元自身もこの争いは家康と三成の私闘であって豊臣家は関係ないと思っている節がある。それが証拠に総大将でありながら最後まで大阪城に留まり関ヶ原には出陣していない。家康から内々に戦に加わらなければ本領は安堵するという起請文も受け取っていた。
家康さんは筆まめで全国の武将に100通以上の書状をしたため、味方すれば1国をとか、倍以上の所領を与えると約束しまくった。だか戦後は西軍の大将、毛利輝元をはじめ随分とこの約束を反故にしてしまう。そうです、家康は狡猾な狸と言うより狐親爺でもあるのです。
ところがふたを開けると思いのほか西軍に与する大名が多くなった。家康は考えた。毛利輝元は所詮は愚鈍で凡将、多勢を背景に欲が芽生え、いつ気が変わり豊臣秀頼を担ぎ出し出陣するかわからない。秀頼が出てきては福島・加藤・小早川とて西軍に付かざるを得なくなる。そうなると東軍の旗色が極めて悪くなる。息子秀忠の到着なぞ待っていられない。輝元の気が変わらんうちに一刻も早く三成と決着をつけなければ・・と。
西軍の三成は関ヶ原の近傍、大垣城に6000名の兵を率いて入り東軍を迎え撃つ準備をする。関ヶ原の南方にある南宮山には毛利の軍勢約3万人(毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家ら)が、西方の松尾山には小早川秀秋1万5千がすでに布陣している。家康が大垣城を通過して関ヶ原に入ったらまず毛利勢3万の勢力で挟撃して打ち取る作戦だ。三成の読み通り家康勢は大垣城を攻めるでもなく夜間に城を通過する。絶好の挟撃作戦の機会かと思われたが実際はそうならなかった。
①毛利勢は家康にすでに調略されており動こうとしない
②家康勢が佐和山城(三成の居城)を攻略するとの情報を得た(家康の流言で攻める気はさらさらなし)
これに慌てた三成は夜半に移動を開始し飲まず食わずで雨の降る中、午前1時ころ関ヶ原の笹尾山に布陣する。多くの武将がこれに従い、やはり飲まず食わずで関ヶ原に先回りし笹尾山周辺に散開布陣する。
西軍の兵の多くは飲まず食わずのまま戦闘に突入した。一方の東軍は途中で休憩し不十分ながら食事も採ったと思われる。家康は兵たちに雨中なので火が使えないが乾飯(α米)を十分水に浸してから食するよう(硬いまま食べると腹壊す・・山爺注)指示したとの記録が残っている。
栄養学者によればこの差は大きいという。開戦は午前8時、激戦の12時ころ西軍の兵の多くが低血糖値に陥り動きが緩慢になったのではと分析している。
さて、両軍の布陣だが西軍の多くが戦闘に有利な高所に布陣している。一方の東軍は盆地の真ん中を脳天気に進んでそのままのような陣形だ。明治18年3月、ドイツから陸軍大学校の教育顧問として来日したメッケル少佐にこの布陣図を見せたところ即座に西軍の勝ちと分析している。
素人の山爺でも分かる。高所に布陣した西軍に囲まれて東軍は逃げ場がない。あっという間に押しつぶされるだろう。が、実際はそうならなかった。家康さん事前の根回しによほどの自信があったのだろうなあ。毛利勢3万人もが布陣している南宮山のすぐ下にある麓の桃配山に本陣をおく豪胆ぶりだ。
西軍8万5千人のうちまともに戦ったのは石田三成6千・大谷吉継4千・小西行長4千・宇喜多秀家1万7千、計3万1千くらいで、小早川・毛利・吉川・安国寺・長束らはすでに東軍に調略されおり戦いを傍観、動かないでいる。 彼らも当初から家康側に寝返っていたが小早川の動きを見守っていたに違いない。
互角で戦っていた西軍に横槍が入ったからたまらない。西軍は総崩れ、午後2時ころには三成本陣すぐ下まで東軍が押し寄せ勝負あり。(関ヶ原決戦地とした記念碑がある、左図)
秀秋は予定通り家康の味方をしたのです。それが証拠には戦後秀秋は家康から岡山藩55万石を与えられ大大名となります。ところが2年後に謎の死を遂げる。秀秋には子がなかったので家禄没収・お家断絶の憂き目に遭う。7歳の頃より飲酒しており12歳の頃には重度のアルコール依存性だったので酒による内臓疾患説が有力だ。
そのほか良心の呵責により精神を病んだためという噂もあるが健常だった21歳の若者がそうも簡単に病死するもんだろうか?。真相はどうだろう、山爺はこう考える。
戦後家康は考えた。このままではわしが陰謀を巡らし汚い手を使って勝ったと思われ民衆から因業親爺の烙印を押されてしまう。ここは苦しい戦いだったが小早川秀秋の小倅が突如裏切ったことで勝利が転がり込んできた、ということにしよう。と忍びを使って噂を世間にばら撒いた。そして”死人に口なし。悪いが秀秋には死んでもらう”と刺客を振り向け抹殺、さらに秀秋は大谷吉継の祟で呪われ狂死したと言う噂を流させたのでは。
京都の神官、神龍院梵舜が書いた舜旧記によれば”秀秋が死してまもなく秀秋の兄弟3人も相次いで急死した。諸人不可思議なりと噂した”とあることからもその死には謎が残る。
戦闘は午後2時ころ大勢が決まったがこの間、家康に内通していない武将でありながら、1兵たりとも動かずじっとしていた西軍がいた。島津義弘隊1500名だ。関ヶ原の前哨戦で三成に軽んじられたためへそを曲げ再三の参戦要請にも『この戦は各隊めいめいの判断によりするものだ』と言って動かなかった。
西軍敗戦濃厚の午後2時、義弘は突然動く、退却するなら西側の京都方面に逃走するはずだが、なんと東軍主力がいる真ん中へ分け入った。『我々は退却にあらず進軍だ』薩摩武士は頑固です。あまりの勢いに東軍の多くが道を開ける。家康の下知も『構うな、捨て置け』だったが、井伊直政・本多忠勝らが追撃、激しい戦闘になった。
島津勢は義弘の甥の豊久はじめ多くが戦死、関ヶ原を抜けた時には300名に減り、さらに各地でも追撃を受けて無事薩摩にたどり着いたのは80余名だった。一方の直政・忠勝軍も被害は大きかった。直政自身も足を鉄砲で負傷、この傷が元(死因は鉛玉の中毒説)で数年後に死去する。
敗戦確定を見定めた三成は戦線離脱し再起を図ろうとするが捉えられ小西行長・安国寺恵瓊とともに京都三条川原で斬首される。
以上が関ヶ原合戦のあらましだ。
まず、展望フロアからよく見えた石田三成の本陣跡に行ってみよう。
雪混じりの風が吹く中歩き出す。『寒いなあ』要所に案内板があるので道迷いはない。途中で車道をそれて田んぼ道を15分も歩くと決戦地と呼ばれる記念碑に着いた。