政府はそれほど恐ろしいウイルスではないと懸命に弁明している。そりゃあエボラ出血熱の50%、MERSの34%、SARS9%に比べれば低いだろうが、気がかりなのは抵抗力の落ちる高齢者の死亡率が極めて高いことだ。70歳以上で8%、80以上で15%と跳ね上がる。山爺達のように前、後期高齢者には他人事ではすまされない。
これでは呑気に東京散歩もままならない。困ったもんだ。いったいどうなっているんだ。
事の始まりは去年の12月まで遡る。12月末に中国国内でへんな肺炎が流行っているとの投稿記事(内部報告書の流出)がネット上で公開された。内容は、
①武漢市内で新ウイルスに感染した患者が発生、動物から人に伝染ったようだ。
②感染源は華南海鮮市場らしい(右図)
③感染源は野生のこうもり?とか
画像は中国のネット上に公開された画像です。
『うわあ~本当にこうもり食っている』
悪食で有名な中国人、彼らはありとあらゆる生き物を食する。需要があるので華南市場に限らず各市場で犬・猫・ネズミ・こうもり・コアラ・ダチョウなどいろいろな野生動物を食用として売っている。しかも生きたままか目の前で捌いて売るから恐れ入る。
これは山爺の想像だが生きたまま売るのは各家庭にまだ冷蔵庫が普及していないのが大きな理由だろうと思う。家に持って帰っても生きていれば冷蔵庫なしでも腐ることがない。(^0^)/
このように中国の海鮮市場はいろいろな生物が生きたままひしめき合っている環境、まるで培養試験場でウイルス君にとって居心地が悪かろうはずがない。
数年前に流行ったSARSはハクビシンが感染源とも言われている。今回も中国の山奥でひっそりと生き続けていた新ウイルスの保菌者たるこうもりをわざわざ捕まえて市場に運び込み感染を蔓延させたに違いない。
ウイルスは生物の体内でしか生きられず、そのタンパク質と酵素を利用して増殖を繰り返す。1個のウイルスが生物の体内に入ると24時間で100万個にも増殖する。
しかし一般的に外気にさらされると気温20℃湿度50%以上の環境下では数時間で死滅してしまう。生きたまま野生動物を販売するのがいかに危険な行為か分かろうというものだ。
今回はここで売られたこうもりを食した者が新ウイルスに感染したのが始まりのようだ。最初の発症患者が出たのが12月8日。
この市場を閉鎖したのが1月1日だ。この間、こうもりから二次感染したであろう怪しい動物が綿々と売られ続けた。これにより武漢市内に新型コロナウイルスが蔓延して全世界に広まってしまったのだと思う。
また中国、おまえか!と怒りを禁じえない。
なぜ、感染がわかってから閉鎖まで1ヶ月もかかったのか。そこには一党独裁ならではの重大な欠陥がある。
中国では地方自治体独自での情報公開が許されず何でも中央にお伺いを立て認可を受けないと公開出来ないお国らしい。上意下達は迅速だが逆方向の情報処理は極めて遅くなるのである。
なるほど、お伺いを立てて許認可を得るのが面倒だから先年事故った新幹線もすぐに埋めようとするんだなあ。納得・納得。
今回の騒ぎに関して武漢の市長さんが
『地方自治体としては情報を得ても権限を与えられなければ公開できなかった』
と述べている。この市長さんよく言った。えらい!
そう言われちゃ習近平さん立場がないよなあ。この市長さんの今後の身の安全を祈りたい。
もしも、情報がネットで漏洩しなければ感染隠蔽を続けてさらに状況は悲惨なものになっていただろうことを思うと何をか言わんやだ。
そんな、こんなで取り敢えずこれと言った用もない山爺は不要不急だらけだ。当面人ごみの中に出かけるのはよそうと思っている。さりとて何日も家にこもっていたのではこれも不健康極まりない。抗ウイルスにはお日様の効果が絶大なのも事実である。
こんなときには山歩きに限る。山も高尾山や奥多摩方面は人がうじゃうじゃいるので敬遠しよう。
寄居に鉢形城址という遺跡があり保存状態もよいので以前から興味を持っていた。そこに出かけてみることにする。
【山爺の一言メモ】
鉢形城跡は埼玉県寄居市郊外にある城跡。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上の天然の要害の平山城。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点。鉢形城は1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられる。その後、この地域の豪族藤田泰邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の規模となった。北条氏による北関東支配の拠点として重要な役割を担った。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として氏邦は3千の兵とともに籠城。5月13日、前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開したが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、氏邦は6月14日、城兵の助命を条件に開城し、城は廃城となった。
鉢形城跡の歴史を読んでいたらお城の近傍に車山という低山があり秀吉の小田原攻めの折に徳川家康軍の武将本多忠勝がこの山に登り山頂から鉢形城址に向けて大砲をぶっぱなしたとあった。
どんな山だろう?地図を見ると標高277mと山爺が若い頃、小馬鹿にした丘クラスの山だ。面白そうだからまずここに登って鉢形城跡を俯瞰してそのあと鉢形城址を歩くという線引きをした。
と、いう訳で3月6日(金)重い腰を上げた。
車山の最寄駅は寄居駅から八高線に乗り換え1駅の折原駅だ。早朝に家を出て秩父線寄居駅で八高線に乗り換える。ただでさえ乗り換え時間は6分しかないのに2分ほど到着に遅れが出た。これを逃すと次発は1時間後だ。乗り逃がすわけにはいかない。しかしながら乗り換え距離が長いし、ややこしいので、暫し歩かされる。日頃の怠け癖が仇となりふうふう言いながらようやく八高線のホームに降り立った、と同時に列車がホームに入ってきた。
車内でやれやれと安堵する暇もなく折原駅に着いた。駅で小用を足したいのだがトイレが見当たらない。外かな?外にもない。ここは無人駅、それにしてもトイレまで無いとはJR八高線恐るべし。
PASMOにより無人機でチェックを済ませて駅の外に出る。見事なくらい、な~んもない駅前だ。
駅を出て右に道を取り50mも歩くと左に折れる道がある。目の前に小山が見える。
ははあ~!あれが目指す車山だな。
Googleびゅうであらかじめ登山道入口まではシュミレーションしてあるので迷うことはない。本当に便利な世の中になったものだ。ずんずん登山口に向かって歩き出す。歩き出すが先程からに尿意が催してたまらん。
山中まで我慢できそうにない。え~い、付近に人の気配はない。傍らの草むらに向けてちょいと失敬だ。は~ぁ~あ、よくぞ男に生まれけり。折原の皆さんごめんなさい。
駅から10分も歩くと車山の裾野に着く。道が左右に分かれている。ここを右に20mも歩くと車山への登山道だ。Googleびゅうで見た通りのしょぼい道標があった。やや荒れた道が人家の方へ続いている。ここでいいのかな?しばし躊躇したが道標もあることだし、おのおの方いざ前進!って、一人しかいないか。(^。^)
笹薮かき分けながら10分も歩くと高圧線の下に出た。ここからの道は整備されている。
ここで右から来る道と合流、その道はよく整備されていた。どうやら本道は別のところにあるようだ。
ここから道は急傾斜となり随所にロープが敷設してある。一丁前に岩場まで出てきた。本多忠勝さんもここを乗り越えたのかな?
少し息があがったころ小さな祠が立っているだけの質素な山頂に着いた
標高277mだが折原駅が既に標高100mほどあるので実質は177mしかない。これくらいの山が山爺の家の近くにあったらいいなあ。
画像の祠の先が北で北東の方角に鉢形城址が見えるはずだ。木々の間に目を凝らすと緑の土手らしきものが望見された。ははぁ!あれが鉢形城だな。
あそこへここから砲弾を打ち込んだのか?そんなことされたら城兵はたまらんのう。
当時の大砲は炸薬なしの砲丸が飛んでゆくのだがそれでも城門に当たれば破壊力はすごいだろうなあ、本多忠勝さんやるのう。
木々が芽吹く前に来て正解だった。葉っぱが生い茂ったらとても見えそうにない。それにしてもこんな山の上に苦労して大砲引き上げなくてもお城に近づいてぶっぱなせば良さそうなもんだが・・
当時のことだから有効射程が短かったんだろうだろうなあ。だからなるべく高いところから打つ必要があった。
それと、砲兵は逃げ足が鈍いので迂闊に城に近づいて砲撃すると城兵が打って出てきてあっという間にやられちゃって大砲分捕られちゃうからかなあ。
などとたわいもない想像が次々と湧いてくる。城そのものは好きだが草ボウボウで何もない城址というものにこれまであまり興味を持たなかった。
が、こうして現地を訪れてみると色々な想像が湧いてきて結構面白いものなんだなあと最近思うようになってきた。
さて、今日は城址散策が主目的だ。とっとと下山しよう。尾根筋をぐるりと回ると時間がかかるので山頂北側から直接下ることにする。
目指す道を見つけたが踏み跡程度でいかにも怪しい。古いリボンが枝に結びつけてあるところを見るとこの道でいいのだろう。え~い、行っちゃえ!。持ち前のいい加減さが下山を後押しする。
ずんずん下山開始、途中落ち葉が多く道を見失う。人が通った気配がなく随所にクモの巣が張ってあり顔について往生する。時々ストックで払いのけながらの進軍だが急傾斜なのでグイグイと高度を下げることができた。
傾斜がなだらかになって来たが道はさらに不明瞭になってくる。冬場でよかった。夏場に下山すると生い茂る木々の葉っぱや笹で往生すること必至だ。
山頂から15分も降りてきたら、ひょいと里道に飛び出した。出た場所を振り返ると笹薮でこんもりしている。これじゃあ、登山口を見つけるのは難しいなあ。下山道にして大正解でした。
往生はしたが予定通り小学校の横の通りに出ることができ
た。
ここを真っ直ぐ進むと県道に出る。そこを右折すると八高線の踏切が見えてきた。踏切の手前の小道を左に取れば鉢形城址だ。
この道筋Googleびゅうですでに検証済み、一度訪れた感覚を持っているので迷うことなく歩ける。
諏訪神社に到着。鉢形城の守護神だったのかな?まずはお参りしてから鉢形城の3の曲輪(くるわ)へ。
左手に大きな土手がありそこを抜けると復元された城門がある。
ここはあま
ここが搦手だったのかなあ。
城と言うのは全部堅固にすると寄せ手(敵側)が攻めあぐむのでワザと弱そうなところを作るんだそうです。ここに守備兵を集中させて攻め手を迎え撃つのだ。
ここ、3の曲輪に向けて本多忠勝軍が大砲をぶっぱなしたらしい。城兵どもは飛び道具とは卑怯なりと罵っただろうなあ。
ただの鉄の塊とは言え当たれば相当に痛い。・・って死ぬわ。
木造の城門や泥で作った城壁なら炸薬なしの砲弾でも相当の被害が出たのではと山爺は思う。
3の曲輪は思ったより広いし、井戸もある。裏手には角馬出(かくうまだし)口(左下画像)があり、ここからひっそりと城兵を城外に出して攻撃を仕掛けたようだ。
隣接の2の曲輪はやたらだだっ広い。小田原決戦時には三千人の守備兵がいたとあるがこの広さならさもありなん。
3の曲輪と2の曲輪に城兵を集中させて決戦に挑んだ構図が見て取れる。
そりゃあそうだろう。本曲輪まで敵に侵入されたら完全に負け戦だもんね。
2の曲輪を横断して深沢川へ降りる道を下る。ここを下って反対側の土手を登ると外曲輪がある。
深沢川までは急な坂を下りることになる。なるほど天然の要害だなあ。深沢川は今もきれいな水が流れている。
城攻めの基本は水口を絶つことにあるが3の曲輪の井戸といい深沢川といい城内にこれだけ豊富な水源があった鉢形城の守りは堅ろうだったに違いない。
この川の左手の土手を上がると歴史博物館がある。どんなお宝があるのだろう。楽しみだ。
ん?ん?なにやら張り紙が!!
”このたび新型コロナウイルス・・・”あちゃ~16日まで休館だと!。
( ´゚Д゚`)
仕方がないから本曲輪に行くとするか。
本曲輪は所謂本丸で、ここが落ちれば落城だ。本曲輪は一段高い小山の上に築かれていた。
北側を覗くと荒川が流れており急峻な崖が迫っている。なるほどこちらからの攻城は不可能だなあ。
危険、柵越禁止の看板がある。柵の向こうに一輪の黄色い花が添えられてあった。
ははあ、誰かここから落ちたんだな。ここから落ちたら無事で済むわけがない。合掌。
本曲輪の防御土手に寒椿が咲いていた。当時はこんな木々はなかったろうが強者どもが夢の跡にふさわしい花だ。
本丸も落としたことだしここで昼食を採ろう。いつものサンドイッチとアンパンの質素な昼食を頬張る。
ドリップコーヒーは?
はっはは!!ぁ~。またやっちゃつたんです。テルモス(魔法瓶)はザックに入っているけれどお湯を入れ忘れてきました。はい!
どうも最近ポカが多いです。加齢はいかんなあ。とほほ。
腹も膨れたし、さて下城するか。寄居駅までは徒歩20分くらいです。城を出て30号線を左に取って荒川を渡ります。渡りきったところから城址を見上げると鉢形城が天然の要害上に築いたんだなあと改めて思いました。
【川柳】
・鉢形で 感慨半減 休館日
・お湯忘れ 野点も出来ず 粗食なり
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