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2018年10月1日月曜日

小江戸散策(香取市佐原探訪記)

命に関わる猛暑が終わったと思ったら連日の雨である。最近地球のご機嫌がすこぶる悪い。毎日天気予報をにらめっこして山に行く機会を狙っているのだが晴れても1日だけ、晴天が続かないのである。これじゃ山小屋泊まりの登山なんか行けやしない。

どこにも行かず家に籠りっきりなのでだんだん体力が落ちてくる。それと反比例してフラストレーションが高まってくるのが分かる。今度の土日も天候はあまり思わしくない。平地で曇りの時は山は大方雨である。

こんな時は前々から興味があった関東の小江戸巡りでもしようか。関東の小江戸で有名なのは埼玉の川越がなんといっても筆頭だろう。ほかに山爺の故郷栃木市が近年観光に力を入れつつある。そのほか千葉の北のはずれ香取市にある水郷の町、佐原がよく知られている。ほかに隠れた名所に茨城の真壁などもある。

川越は既に探訪済み、わが故郷、栃木市は言うに及ばず。佐原はいまだ訪問が叶わないでいるのであまり天気がよくないが佐原にでも行ってみよう。



9月22日(土)10時少し過ぎにJR佐原駅に到着、まずは駅なかの観光案内所に立ち寄り観光Mapを頂く。

ちいさなガイドMapは無料だったが見やすい大きなほうは有料で¥20取られた。ガビーン ( ´゚Д゚`)

佐原の古い町並みの良いところは駅から10分弱の徒歩圏内にあることである。公共バスなど使わなくても容易にたどり着けるのはありがたい。

地図を見ながら目的の町並みを目指して歩く。地図を見比べながら歩くのは実に楽しい。すぐに古い町並みが続く北側の端に着いた。



ここから小さな小野川の両岸沿いに古い町並みが途切れることもなく2km近く続いている。

しかもどこかの観光地のようにお土産屋ばかりでなく普通に住んでいる民家が少なからずあるのには感動した。



明らかに古い景観に合わせ新たに古風な風情で改築している家もちらほら見受けられます。

これって、改築費用などは市から補助金が出るのかなあ?と下衆な山爺は思ってしまいます。



まずは右岸から歩いて町並みの南端まで歩いたらそこからUターンして左岸に沿って戻ってこよう。ただし掲載した画像は対岸の物も載せてあります。ご了承のほど。


はい、皆さん右岸、左岸の定義覚えてますか。以前山爺のブログで説明しましたよね。もう一度おさらいすると下流に向かって(上流に背を向けて)右側が右岸、左側が左岸ですよ。間違わないで下さいね。


登山の専門家?でもこの定義を勘違いして反対側の沢に入ってしまい遭難することがあるくらいだからこの表現はなんともややこしいです。上右岸とか下右岸といった表現にすれば間違わないで済むかもしれないですね。ことは命に関わることだってあるのだからして国土地理院さん、山爺の提案受け入れてくれんかなあ。




川沿いに歩き出してすぐに向こうから観光客を乗せた小舟がやってきました。船外機付きで船頭は楽ちんそうです。

栃木市の観光小舟は昔ながらの竹竿で動かしてます。風情については栃木市の勝ちです。でも、何隻もこの船がやってきます。これだけお客が多いと手こぎでは捌ききれないんだろうなあ。佐原としては苦渋の決断だったのかなあ。兎に角、動力付きだからまことに早い。船頭も余裕で周りの景色を解説しています。

う~ん!総合的にはやはり佐原の勝ち!。



小さな踏切がありました。踏切も古風で風情があります。踏切を渡ってどんどん南下するといよいよ江戸時代にタイムスリップしたような町並みが現れました。






郵便ポストも三丁目の夕日です。傍らに小さな人形が立っていて愛嬌をふりまいてます。


 いいですねえ。古風な家と郵便ポスト実に絵になります。今風に言えばインスタ映えす
ると言うのかな?しかになんでマスコミはカタカナ語を珍重し流行らすのかなあ。絵になるという立派な日本語があるというのに。

業界人?はもともと大した実力がないから何かと他人より差をつけたくて人と違う言葉を取り入れ相手をケムに巻くのだろうなあ。これでは大柴ルーを笑えない。






























右岸(南下方向の左側)を歩いていると中橋のたもとに粋な暖簾と提灯を掲げたお店がありました。ガイド図によると板前割烹みたいです。いいねえ、こんなお店で夜になったら一杯やりたいね。







なんたら醤油株式会社と書いた江戸時代のようなお店があります。役で商売しているみたいです。中ではチョンまげ結った番頭が怖い顔して仕事していそうな雰囲気です。栃木市の町並みとはこの辺が大きく違うかな?














忠敬橋を左に曲がると1~2分で左画像の洋館を見ることが出来ます。旧三菱銀行佐原支店だそうです。

大正3年創業 千葉県の有形文化財に指定されています。











忠敬橋とある通りこの地はかの有名な伊能忠敬発祥の地であります。左画像は伊能忠敬の住んでいた旧家です。入場無料で写真撮影もOKです。伊能家いまだお金持ちなのかな。ただとは素晴らしい。早速中に入ってみよう。

【山爺の一言メモ】・・長文なので知っている人は飛ばしてね。(´∀`)


伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。 寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。



伊能忠敬は1745年1月11日に現在の千葉県山武郡九十九里町~当時の上総国山辺郡小関村の名主「小関五郎左衛門家」に生まれました。母親が6歳の時に亡くなり、小関家は母親の弟(忠敬にとっては叔父)が継ぐことになり、婿養子だった父親は忠敬の兄・姉を連れて実家に戻ったものの、忠敬はそのまま祖父母の家に残りました。1762年、香取市佐原~当時の下総国香取郡佐原村の酒造家・伊能三郎右衛門家の婿養子となった。この時、忠敬17歳、娘のミチは21歳、ミチは14歳で一度婿養子を迎えたがほどなく死別の経緯がある。





伊能家は酒造り、米、薪、燃料等などの取引きを行なっていたものの、その商売は上手くいっておらず、収益は年、350両(約3500万円)だったが忠敬の才覚で隠居の年には1300両(1億3000万円)に盛り返し蓄えた財力は3万両(30億円)に達した。



50歳になった忠敬は長男に家業を譲り隠居、好きだった天文学を学ぶため江戸に出て年、幕府の暦学・天文学の権威、高橋至時(よしとき)の弟子となった。50歳の忠敬に対
し、師匠の至時は31歳だった。
至時に暦学。天文学の多くを学んだがその基礎となった暦学・天文学・測量技術の知識は佐原時代に既に習得しており飲み込みが早い。

55才から17年かけて幕府御用方となり日本全国を測量し高精度の日本地図を完成させた事は皆さんご存知の通りである。

文政元年(1818)持病のぜんそくの悪化により、忠敬は日本全図の完成を見ることなく74年の生涯を江戸で閉じる。

それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海実測全図」は友人や弟子たちの手によって完成し幕府に提出された。せっかく完成した日本全図であったが幕府はこれの偉大さに気がつかず御蔵入り、40年近く放ったらかしにされた。


諸外国船の度々の来訪で我が国がきな臭くなってきた幕末。イギリ
ス艦隊が1861年、幕府に対し座礁を防ぐための口実で日本沿岸の測量許可を求めてきた。これは測量に名を借りた侵略前の日本国内調査が目的であろう。

幕府は役人が同乗することでこれを許可し、忠敬が作った伊能小図を40年ぶりに引っ張り出して担当役人に持たせてイギリス船に乗り込んだ。

これを見たイギリス測量隊長は40年も前にすでに正確な地図があることに驚愕しその写しを手に入れることで測量を断念(スパイ活動中止)したエピソードはあまりにも有名です。

忠敬さん諸外国からの侵略を防いだ影の立役者だったんですね。
当時30億円も財をなした家にしては誠に質素です。

忠敬さんはにわか成金のように家中コテコテときらびやかにするような悪趣味なお人ではなかったんですね。だからあのような孤高の偉業を成し遂げたんでしょうね。伊能忠敬グッドジョブ。


旧家の奥にお稲荷さまが鎮座ましてました。当時からあったのかな?このお稲荷さま大分傾いています。現在の伊能家はどうなっているんだろう。


旧家を辞して川沿いにさらに南下します。伊能家から5分も歩くと町並みの終点のようです。

古い工場のような建物群がある路地を歩いてみました。電線が碍子に支えられた、いかにも古い配線が未だそのまま壁際を這っています。

まさか今は通電していないんだろうなあ。漏電したら大変だ。

また川に戻り今度は左岸沿いに駅方向に戻ります。質素な川沿いが山爺が幼少の頃に見た故郷の川とダブります。





昔こんな川でトンボ取りや魚釣りしたっけなあ。戻れるものなら、もう一度あの頃から人生をやり直したい。今度はうまく生き抜いてやるさ。

この道を歩くこと5分くらいで伊能忠敬記念館に着きます。

こちらの方は残念ながら有料で入館料は¥500ですが65歳以上は¥450と表記してある。

身分証明書は持っていなかったが昔の受付嬢に 『ご覧のとおり65歳以上なんですが』 と言うと、笑顔で『生年月日おっしゃってください』 ときました。『〇〇年〇〇月〇〇日』 と言うと¥50割り引いてくれました。
館内は撮影禁止です。歴史的価値のある骨董品はあまり飾っていなくて、年表やら業績発表ばかりが目に付きますが地図(レプリカと思う)の細かさは一見の価値ありです。あんな細かい線を何を使ってどうやって描いたのだろう。忠敬さんかなり目が良かったのかなあ?

記念館を出ると対岸が先ほど入った旧伊能家で、観光船の発着場となっています。

まさにいま発船しようかというところです。皆んな楽しそうに乗り込んでます。



忠敬橋を左に曲がると中村主水が出てきそうな蕎麦屋がありました。明治33年創業で今も営業を続けています。

食べてみたいがここに限らず佐原の川沿い飲食店はおしなべて高い。まあ雰囲気料込だから仕方ないか。維持費もかかることだしね。

ほかにも現役の芋屋さんが商売しています。ここは川越か!

中橋まで北上して橋を渡り右折、八坂神社と山車会館を見てこよう。佐原は山車祭りでも有名です。


 神社に行く途中の広場で2匹の猫に遭遇。猫好きの山爺が素通りする訳がない。

2匹とも飼い猫と見えてカメラ向けても逃げようとしない。トラは温和のようだが三毛ちゃんの眼力がすごい。『おめえどこから来た、何者だ』 と言わんばかりの形相には笑えた。


佐原八坂神社に参拝。ここの主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその女将さんの櫛稲田姫命(クシイナダヒメミコ)です。

八坂神社はご存知のとおり本庁が京都にあり通称祇園さんと呼ばれています。祇園だからして、お祭りには山車が付き物となる。


ここ佐原でも夏の祗園祭には10台の山車が秋の大祭には14台の山車が古い町並み中心に繰り出すそうな。さぞや壮観でしょうな。



ここの山車は国の重要無形文化財指定でユネスコ無形文化遺産にもなっているそうです。栃木市の観光課もよい山車持っているんだから頑張れや!。


今年の大祭は10月12日~14日だそうな。また来なければいかんかなあ。



山車会館は入館料¥400だが忠敬記念館の入場券見せると¥50引きです。受付嬢?が教えてくれました。


さて、入ってびっくり、見てがっかり、展示してある山車は2台のみですが山車の彫刻が繊細で凄かった。


また、たまたま佐原の町PR映画の上映時間にぶつかったので貴重な映像を見ることができました。



再び川ずじにもどり町並み散策を続ける。古民家内で煎餅を焼いているおばちゃんがいた。いい匂いを漂わせる。¥500でひと握りほど、少々お高めだがこれは手作り?購入決定。家に帰って食したが焼き過ぎで少々苦かったがうまい!。買って正解でした。


 ずいぶんと戻ってきた。駅も間近だ。もう一度町並みにもどり撮り残した町並みを撮り収めた。

それにしても、これだけの景観を維持保存するのは並大抵の苦労ではないだろう。



飲食や土産商売をしている古民家はともかく、なんの関わりもなく商売をしたり住んでいる人々も多い。町並みに商売っけがあまり見られないところがなんとも感動なのである。






 山爺の住んでいるところから日帰り圏内に何度でも訪れてみたい観光地があった。
これは貴重な再発見だ。




他の近場も再探してみよう。山行と違い、ぶらり旅は準備も簡単でプイっと出かけられるのがいいね。


【狂歌と川柳】


・川沿いの 古き町並み 歩きつつ 幼き日々の 遊び思いき ・・あの頃に戻れたらいいなあ。

・古き人 古き町みて 感涙す  ・・お互い古いものは価値があるって・・俺はないか。(´ω`)
旅先で 家猫めらの 眼(ガン)が飛び  ・・いやあずごい眼力でした。

小江戸散策(香取市佐原探訪記)の項・・・完



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