ご長寿台風5号めのおかげでここ10日間の天候がめちゃくちゃになり八ヶ岳登山の延期を余儀なくされました。
普通は台風が過ぎたあとはしばらく好天が続くものなのですが、何なんだよこのふざけた天気図は!前線が延びてきて梅雨に逆戻りじゃないか。小笠原君(夏の小笠原高気圧)はどこに行ったのだ!・・これでは当分登山は見合わせです。
毎日無聊を託っているのでサマージャンボ宝くじでも購入しようと思い立ち先週5日に都内まで出かけました。
宝くじは随分若い頃から購入していますが、いつも銀座のチャンスセンター2番窓口で購入することにしています。
当たりっこないのだけれど購入しなければ100%当たらないとはよく言われることですが、もしかするとこの言葉!宝クジ関係者が購買意欲を上げるために意図的に流したキャッチコピーなのではないかと最近思うようになりました。
山爺の宝クジ購入歴はかなり長いのですがさっぱり当たりません。まあ年末と5月・8月の年間3回だけしか購入しませんけどね。
地下鉄銀座駅下車、地上に出てみると、意外にも広場は空いており2番以下の窓口には購入者の列はありません。いつも混雑する1番窓口も待ち時間は15分位です。いつもなら有楽町マリオン前(ピンとこない熟年世代の方々へ・・旧日劇前)まで金の亡者どもがずらりと並んで(って俺もかい!)いるのだが今日は僅かです。猛暑続きだからねえ。出足も鈍ると言うものです。この調子だと随分と売れ残るのだろうね。
【山爺のうんちく】
ご存知のように宝くじのルーツは江戸時代に遡ります。いわゆる富くじというのがそれで
江戸時代初期、寛永元年(1624年)大阪の箕面山龍安寺で行われたのが始まりと言われています。いや、天正3年(1575年)だと言う説もあります。その後、各地の寺社を中心に活発に行われて始めたようです。
当選金は1等100両(1千万円位)が相場だったようですが最後のころは1000両(1億円)というジャンボ並みのものも発売されたようです。
くじは1枚500文(1万円位)と随分高額だったみたいですが発売数が少ないので当たる確率も今と違い高かったのではと思います。そこで庶民は購入に際し講(グループ)を作り共同購入していたみたいです。落語の”富くじ”なんかで、その辺がよく表現されて語られています。・・・こう見えて山爺は古典落語通です。オッホン!(^O^)
せっかく盛り上がった富くじも水野忠邦さんが行っためちゃくちゃ改悪の天保の改革(1830~1843年)で富くじの禁止令を出してしまいました。この人、経済を立て直そうとして贅沢禁止・芝居・祭り禁止と金のかかることは何でも禁止、若者は田舎に行き農業に励め、とまるで毛沢東のようなことを実施し、はては貨幣改鋳(鋳潰して混ぜもの加え水増し)までやっちゃった。経済学なんてない時代だから銭増やしたらインフレ増長に繋がるなんてわかっちゃいない。贅沢があるから金が回ることもご存じないから何でも禁止すれば良いと思っちゃってますます不景気になり結局失敗し失脚するんだけれどね。
その後富くじの復活は昭和20年、敗色濃厚の中、軍部が戦費調達を目的に始めた”勝札”まで待たなくてはなりませんでした。当時1枚10円で1等10万円でした。今の金額で2~3億円くらいでしょうか。しかし当選日を待つことなく終戦となり中断、”負札”と揶揄されておしまい。
その後地方自治体により戦後の庶民の夢として宝くじが発行されて現在に至っています。
チャンスセンターで30枚購入(ジャンボミニとプチ)した後は本来の目的である都内散策へ向かう。
いつものように秋葉原電気街を散策する。路地沿いに軒を並べている小さな電子機器雑貨店(昔のジャンク屋風の店)がこの街の魅力なのだが何分今日は暑い。路地を歩くだけで汗が噴き出すので時々量販店に飛び込み何も買わず涼を得なければならない。
【川柳】
・涼求め かわず飛び込む 量販店 ・・やや盗作 (^┰^;)ゞ
早々に秋葉原散策を切り上げて今日のもうひとつの目的である水道歴史館へと移動する。
水道歴史館はお茶の水の順天堂大学のそばにある。少し暑い
が我慢して健康のため歩くことにする。秋葉原からお茶の水へは迷うことなく歩く方法がある。黄色い電車が走る総武線の高架沿いに歩くのが一番近道なのだ。
昌平橋を過ぎて坂道(昌平坂)を登るようになると、ほどなく湯島聖堂に到着。いつもは素通りするのだがこんもりとした森が見えなんか涼しそうである。
フラフラと聖堂の中へはいる。ここは寛政2年(1770年)江戸幕府が幕府教学所としての昌平坂学問所としても有名なところである。
森のなかに孔子さまの像がにゅっと立っておりました。続いて湯島聖堂のご本尊孔子様を祭っている大成殿へ、中に入ろうとすると拝観料¥200と書いた看板が・・まあ外からでも見えるので中に入るのは取りやめた。
宝クジ当選祈願をしようと小銭入れの¥50硬貨を探していると隣の親子連れが¥100を賽銭箱に放り込むのが見えた。
山爺も見栄を張り仕方なく賽銭箱に¥100投入し宝クジ当選祈願!・・あれえ!孔子って学問の神様で勝負の神様じゃないっけ!・・賽銭返せぇ~とわめいても後の祭り。
聖堂の横から通りに出て、東京都水道歴史館へ急ぐ。東京医科歯科大学の裏の道を通り順天堂大学の坂を下り、しばらくすると立派な構えの建物に着きました。
中に入るとひんやりして誠に涼しい。受付のお姉さん2人に会釈をし案内パンフレットをもらい展示場へ・・入場料はどうしたって!。そう、ここは入場無料なんだよ~ん!
1階フロアーは近代~現代の東京の水道建設の歴史が展示してあります。圧巻は水道管の大きさです。(左画像)
いやあデカイ!山爺が立ったまま中に入れる大きさだ。
現在の水道管の継手部分の模型が展示してあったが引っ張りやひねりなどの外力に対し継手が伸縮し破壊しにくい構造になっているのには感心した。ハンドルを操作すると実際の動きが見られるのが面白い。
続いて今日の訪問目的である江戸時代の水道に関する遺跡が展示してある2階に移動する。
2階に上がるといきなり江戸時代の木製水道管がデーンと横たわっている。
右図の赤線が当時の神田上水の水道網であるが大名屋敷や町家にくまなく供給されていることに驚く。
なんてったってあなた!電動ポンプなんか全くないのだからして、すべて自然落差を利用して導かなければなりません。当時の土木技術水準の高さが図り知れようというものです。
これほどまでに水道網が発達した理由はただ一つ。当時も今も東京は平坦地がほとんどで良い地下水脈がない。
井戸を掘っても綺麗な飲み水の得られる地域か少なく塩水の混じった水が湧き出るだけであったことによります。これでは飲料や農業用にはまったく使えません。
豊臣秀吉はこのことを知っていて北条攻めの後、徳川家康に駿府から江戸への転封を命じたに違いない。
『徳川殿、駿府は私めにお譲りあれ、代わりに江戸を進ぜようぞ、あそこは平坦で広大な好い土地ですぞ』・・・ふふふ!塩水しか出ない葦の生い茂る荒地だがのお!、塩水たらふく飲んで早くくたばれ家康!・・とねずみ親爺は企んだに相違ありません。
その与えられた荒地に窮することなく開発に精出し当時としては世界最大級の都市へと発展させる礎を築いた徳川家康も只者ではありません。
伊達家の屋敷を発掘した時の記録画像です。丸い桶が水を汲み上げる井戸です。短い間隔で屋敷内の随所に井戸が配置されているのがよくわかります。随分便利だったんでしょうね。家康さんすごい!!
当時の長屋を再現したセットがあります。町人の住む場所まで水道網を張り巡らせた都市計画に改めて脱帽です。
当時のヨーロッパで水道網と呼ばれたものがあるのはロンドンだけでした。しかも給水は週3日8時間と桁違いにみすぼらしいものだったみたいです。
ちなみに江戸は24時間連続給水ですから比較になりません。
幕末~明治初期に欧米人が江戸の水道網の緻密さに驚愕したと文献に記されている。明治維新により近代化がすんなり移行できたのもこんなところからも伺い知れるというものです。
右の模型はお茶の水付近の神田川の上をまたいで給水している施設を表しています。きちんと汚泥や落ち葉の沈殿升が具備されており細かい配慮がなされていることが分かります。
都内にはまだまだこんな楽しい博物館が沢山あります。訪問したらまた報告いたします。
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