松尾芭蕉が著した奥の細道の序文に『月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人也』とある。
意味は『月日は過ぎゆき決して戻ることのない(百代)通り過ぎてゆく旅人で(過客)ある。毎年のようにやってくる時節も(行き交う年)同じではなく一切は過ぎ行き今のものではなくなり続ける』・・って、おい挿絵が違うぞ。こりゃ砂の器だ。この書き出しは中学時代に習ったと記憶しているが当時意味は理解出来たが、芭蕉め、書き出し文だから力んでるなあ位の感覚でしかなかった。果たしてこの歳になると、この文章の意味が寂しいほどにひしひしと理解できる。
山爺が小学校へ入学した頃は通りを荷馬車が馬糞をまき散らしながら闊歩していたのを覚えている。(画像はイメージでT市ではありません)トロッコという貨物車がT駅から鉱石採掘現場まで人が飛び乗れるくらいの、のんびりしたスピードで田園を走っていた。線路に釘置いて引き伸ばし、刀作りなんかやった悪ガキもいた。今なら列車往来危険罪で逮捕だ(当時でもそうなのかな)。田んぼに肥料用の肥溜めがそこかしこにあった。その頃と現在を比較すると風景の違いは隔世の感だ。
中学時代に古物商で壊れたラジオを¥100で譲ってもらい部品取りをしてラジオ作りに熱中した。こんな趣味がのちのち仕事その他で自分の役に立とうとは想像だにしなかった。
駅員が所在無さに改札口でカチカチとハサミを鳴らしていた時代から自動券売機、自動改札へ、さらに専用のカードによる入出改札へと変わり、今や携帯電話と連動しての改札へと変わろうとしている。高校の修学旅行では開通したばかりの新幹線に乗って関西へ。時速200kmというスピードに、すごいものができたと本当に魂消た。このときT市ではまだSLが現役で通勤、通学に使われていた。その後、誰でもが自家用車や空調付きの家を持つ様になるとは当時、夢にも思わなかった。
技術革新でとりわけ目まぐるしく様相が変わったのが文書の作成と複写、および計算手段だろう。山爺が入社当時の文書複製方法はガリ版印刷と透明な用紙に文字や図面を書き、上から強い光線で重ね焼きする青焼きという手法でしか複製が出来なかった。青焼き複写は文字通り青色で仕上がる上、日光に当たると消えてしまうので正副が必要な正式書類などには使えない。
稟議書や伺い書などはカーボン紙を挟んで正副を作って提出するが、書き損じたら最初からやり直しで不器用な山爺は何度も書き損じを強いられ、お手手は真っ黒け・・いつもイライラしていた。そのうち原本と同じ内容で白黒→フルカラーと複写が可能な機器が導入されて青焼きもカーボン複写も職場から消えた。
山爺は手書き文字は金釘流、そろばんは1本指操作といずれも不得手であり社会人なりたての頃は随分と肩身の狭い思いをしていた。重要な案件を報告書などにまとめ上げるため懸命に手書きをするが読みにくい文字の羅列なので見栄えが悪い。字の上手い人を羨んだものだ。
1980年代のなかほどに、ワードプロセッサーという画期的な事務器が登場する。打ち込んだ文字が綺麗な活字に変換され、文字の大きさからゴシック、明朝といった文体の選択、改行・改頁も自在、A4やB5といった必要な書式に整った文面が印刷されて出力される。作った文書はフロッピーデスクに記憶することができ、必要な時にいつでも取り出せ再編集ができるという夢のような機器だった。この時から山爺の文字コンプレックスは解消された。
その当時、事務所に今のデスクトップモニターみたいな形状をした大きな計算機が1台だけあった。性能は現在100均で手に入る電卓よりはるかに劣る性能だったが予算編成時期は使用の順番待ちが常であった。
そうこうしているうちに1972年にカシオが廉価な電卓”カシオミニ”を発売した。当初の価格は数万円していたと思うがすぐに1万円台に下がったのでなんとか予算をごまかして手に入れた。
計算結果の表示は6桁まで、キーを押すと次の数値が現れるという、今となっては陳腐な代物であったが特段の修練も不要ですぐに使える。ソロバンが苦手な山爺としてはこんな便利な機器が発明されるとはと、涙が出るほど感激した。これ以降山爺のもうひとつの弱点である計算コンプレックスが解決した。
そうこうしているうちに1982年に富士通から廉価な家庭用コンピューターFM7が発売された。廉価といっても当時の金額で12万円以上もしたと思う。一人では負担が大変なので実兄に相談し折半で共同購入することにした。記憶容量がROM44KB RAM64KB の性能だった。単位はT(テラ)でもM(メガ)でもない、たったのKBですよ。
それでも自分でプログラムを打ち込んでゲームソフトが作れることに夢中になった。メモリーが僅かしかないので作ったソフトはいちいち別に記憶させるのだが、USBはおろかフロッピーなんて重宝な記憶媒体もない時代だ。
音楽用の磁気カセットテープに記憶させるのだがテープを回してデーターを記憶させるその時間の長いこと、長いこと。その間、ガ~ピ~ガ~ピ~と大きな音が発生する。今となっては笑い話にもならないが、当時は大型コンピューターも大きなオープンリールをぐるぐる回してた時代だ。小さなカセットにデーターが記憶できることが不思議でならなかった。
山爺は仕事柄、データの解析で縦横の計算(表計算)をよくやっていた。そのころは電卓も良いものが出回っており、そろばんが得意な人はともかくも山爺にはそろばんは無用となり引き出しの隅に仕舞いこんでいました。しかしながら計算量が縦行100以上もあることも多々・・・その負担たるや単純に目や指が痛くなるほどです。
このころ右手で筆記、左手は電卓をたたくことを始めました。(趣味のギターで左手が他人より多少器用だったから出来たのかな?・・趣味は広く浅くなんでもやってみるもんですなあ)
1980年代の中頃以降だったと思うが、事務所の傍らに設計部門から移管された表計算機器が置いてあった。設計部門はどこの会社組織でも常に最先端の技術が要求され予算も潤沢だ。故に最先端技術の取得と称してすぐに最新機器に飛びつく。そして使い勝手が悪かったりすると”お下がり”と称してポイと投げ捨て、古い機器を他部署に押し付けるのが常だった。
T社の表計算ソフト”BM-CALC”搭載の機器だったと記憶しているが、Windowsが出回るのはまだ先の話。件のソフトの使い方が分からなく難しそうで誰も手を出さない。表計算ができるならと山爺はこれに飛びついた。設計部門の若手に使い方を教わりながら40の手習い。・・この時、趣味でいじりまわしていたFM-7の知識が多いに役立った(FM-7で簡単な数行のミニ表計算ソフトを作るとき使ったSUM・AVERAGE・ANDといったコマンド(命令)がすぐ理解できた)
使えるようになると仕事の進度が桁違いに早くなった。縦横計算を瞬時にミスなくやってのける(今となっては当たり前だが当時はびっくり仰天)。
この頃は会社共有の大掛かりなデータベース編纂は産業用大型コンピューターにより専門技術者が牛耳っていた。データーは大きな紙に印刷されたわかり難い集計結果がどっさっりと一方的に送られてくるだけ。我々はこのデーターをメモ用紙(裏側が真っ白なのでメモ用紙代わりに使えた)と呼んで揶揄していた。
ここにこういう計算結果を出せないかとコンピュータエンジニアさんに要望すると返ってくる答えは『システム的に出来ない』の1点張りだった。これからはこの機器(BM-CALC)を使って自分の好きなフォーマットで小計・合計といった集計が自在にできると山爺、ご満悦。
これで満足していたら懇意にしていた若者から情報が・・『BM‐CALCやlotus123はもう古いですよ、Windowsやりましょうよ』と・・ん、ん、Windows 窓って何だ??そのとき脳裏に浮かんだのはその程度の知識だった。調べると表計算とワープロが合体したようなソフトが市場に出回り始めたようだ。それが1990年に発売された Windows3・1で動くExcelだった。
いつの世の中でも最先端の事象を使い始めるのは若者だ。高崎山の猿軍団だって最初に芋を洗って食いだしたのは若猿でこれが群れ全体に伝播した。
よく亀の甲より年の功というがそれが当てはまるのは経験則に基づいた事象だけで新技術に関しては年寄りはからっきしだ。だから若者の意見は素直に耳を貸さないといけない。
それまで表計算ソフトで作った作表をプリントアウトしハサミでチョキチョキ切り抜いてワープロで作った報告書に貼り付けてそれをコピーし直して書類にまとめていたがその手間が一挙に省けそうだ。さりとてWindowsは高額で予算の割り当てが貧弱な我が部門では当分買ってもらえそうもない。使い勝手のよい機器とソフトだから設計部門からのお下がりも当分期待出来そうにない。
なんとか自腹で買えまいかと思っていたら英文タイプの打てる家内が『内職でタイプ打ちの仕事があるがWindowsという機器が必要』ときたもんだ。渡りに船、子供のゲーム機にも使えるNECのマルチ機器 CANBeという機器を購入した。当時20万ぐらいだったかなあ。さあ、我が家はにわかIT革命の勃発、家内の内職が優先だが次がお父さんの勉強。空いているときは当時幼稚園児の子供達2人がキテイちゃんなどのゲームを楽しそうに動かしていた。
子供とは恐ろしいもので何を悩むでもなく、すぐに機器の立ち上げ・終了動作をマスターし当たり前の風で毎日遊んでいた。
大人はそうはいかない。山爺がExcelで苦戦して手が止まり画面を睨んでいると長女の手が後ろからにゅっと出てきて画面上のアイコンを指差し『ここだよ』と指示する。門前の小僧よろしく後ろで見ていてExcelを覚えてしまったのだ。大人は頭の中で手順をうだうだと覚えるが子供は視覚(アイコン・・画面上の絵記号)で覚えるので操作の早いこと早いこと。このふたりは後にそれぞれWeb関連や建築設計部門に進むことになる。
このころのソフトは日進月歩で都度記憶容量が大きくなりそれにあわせてPCの新機種が次々と発売される。CANBeから一度だけNECの新しい機種、VALE STARに買い換えたが、それでも直ぐにメモリーとHDD(ハードディスク)の容量不足で動きが鈍くなる。しかしその度に新製品を購入するほど我が家の財政は豊かではない
こうなったら自分でメモリーとHDDを交換するしかないと思案し我が家のPCを分解し内部観察をする。この時、中学時代にラジオの製作に熱中していたとき覚えた技能が多いに役立った。交換する部位と型式を確認し秋葉原のジャンク店に出向いて後継の部品(純正は目の玉飛び出るほど高いので互換品)を安価で調達しメモリー・HDDの増設に成功した。
その後のWindowsの革新は目覚しく表計算ソフトのExcel、写真や資料を自在に貼り付けて教材が作れるPowerPoint 在庫管理ソフトのaccess、ワープロまでがPC1台でこなせるようになった。
ラジオ作りで電子回路の基礎やFM-7、BM-CALCでコンピューターの基礎をかじっていた山爺はWindowsのoffice softをなんとか使いこなし業務のスキルアップに多いに役立った。
さらに技術は進歩してインターネットなるIT革命が起きた。これにも山爺は抵抗なく入り込み、その楽しさを今も享受している。
と、ここまでは山爺、なんとかIT革新にしがみついて頑張ってきたがその技能も今や色あせてきた。
山爺が小学校のころの情報の創造や伝達はろろばん、計算尺、紙、鉛筆のみ。情報ソースは新聞、電話、ラジオだけだったがそれらは今やTV・パソコン・スマートフォンに取って代わり活版印刷機の発明以来、世界中の知恵袋となっていた新聞・本の需要が激減、神田の本屋街でさえ閉店が相次いでいる。我が家も記者による情報操作(特に朝〇新聞は・・)が可能な新聞の購読をやめました、はい。 (^^♪
また人類最大の発明と言っても過言でないお金(現金)さえ電子マネーというわけのわからない物にとって変わろうとしている。そしてAIという技術の出現に至っては山爺には到底理解不能。今や日進月歩ではなく分進時歩で世の中が変化しつつある。
****24年高校同窓会を開催して*****
我らが同窓会の面々は全員が工業高校の機械科卒である。卒業してはや50有余年が過ぎた。過ぎてみれば、あ~っという間だったなあ。まさに光陰矢の如しである。
あの時、皆んなで勉強した3年間はなんだったのだろうと自問する。たしかに学科は理数系が多かったので我が愚鈍な頭脳も多少は鍛えられて社会に出てから役に立った。
では実習科目はどうだろう。以前にもこのブログで述べたが苦労?して学んだ割には役に立ったものは少なかったように思う。
1、鍛造実習(鍛造:要は鍛冶屋さんのワーク)
1貫目(約4kg)ハンマーを振り上げ振り下ろし連続50回?切り株に・・だったかな、終わる頃はヘトヘト。鉄棒を炉に入れ真っ赤にしてトンテンカン・・当時ちいさな鍛冶屋さんだってエアーハンマー等の動力を使っていた。
人力で大ハンマーを振り上げていたのは伝統職人の刀鍛冶くらいのもんである。筋トレには役立ったのかなあ?・・果ては近くの河原までリヤカー引っ張って炉の目張り用粘土を取りに行ったりした・・川原でサボって、これは楽しかったなあ。
2、機械実習
・旋盤はじめ色々な工作機械を扱ったが機械が旧式ですべて手動操作の代物・・NC工作機(Numerically Control)じゃないから今の世の中にはまったく通用せず
・電気・ガス溶接実習・・・学校祭ではブランコ作って保護者に販売・・この技術は多少は役立ったかな?
・砂型作って溶鉱炉で鉄を溶かして鋳物作り。・・・危険と隣り合わせで命懸け・・金型を使った最新のダイキャスト技術とは違い時代遅れの技能で当時からお砂遊びとして生徒達から揶揄されてました。
3、機械製図
これは社会人になって役に立った唯一の技術かなあ。山爺は入社して即戦力となりました。
4、計算尺
技術屋なら計算が付き物だが当時電卓なぞ便利な物は存在しない。複雑な計算は計算尺という便利なツールがあった。目盛を操作することで乗除や平方根、三角関数、対数計算といった値を求めることが出来た。
日本経済が高度成長する寸前に我々は社会に船出したのだが置かれた状況は最新兵器の訓練が皆無のまま激戦真っ只中の戦場に放り出された兵士のようなものだ。
6時から宴会の始まり、始まりぃ~、まずは乾杯だ。それにしても9名とはちょいと寂しいなぁ。月日は百代の過客・・が脳裏をよぎる。やはり杞憂会だw。
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