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2024年11月18日月曜日

第54回首都圏孔球親睦会の開催記(山爺絶不調)

 第54回、我が首都圏孔球親睦会のゴルフコンペが群馬県鳳凰ゴルフ倶楽部で開催された。

9月に予定されていた24年度の後半戦が雨天中止(栃木CC)となったのでこれが後半戦最初の開幕となるが、12月に予約した板倉ゴルフ場はクラブハウスが改築中で表彰式がままならずコンペ開催を見送ったので最終戦でもある。・・わっははぁ・・名のこっちゃ。エントリーは7名である。



いつもながら東京地区のKAさん、埼玉東北地区のHAさん最後の仕上げに余念がありません。

山爺といえば写真撮ったりフラッグ準備やらで毎度のことながら練習の暇がない。幹事の宿命といえばそれまでだが・・なんだかなあ。



さて今日のラウンドは東アウト→西アウトと変則ラウンドになります。

先発組(9:48)は東京地区のKAさん、埼玉南区のIさん、前回大会より参入した千葉県北西地区のAさんの3名です。

Aさんが新たに加わったことにより我が首都圏孔球親睦会の会員は栃木・埼玉・千葉・東京と広域に渡り、文字通り首都圏の名に相応しい陣容になりました。めでたいな、めでたいな。

東のアウトの№1Hは543yのロング、いきなりドラコンがかかつた緊張のホールです。KAさんの打球は右方向ラフトファウエイの境界域へ、飛んでます。ほかのおふたりはそれなりに・・・(^^♪

次発は埼玉東北地区HAさん、埼玉中央東部地区SUさん、埼玉中央区TAさん、そして山爺です。私はくじで4番手を引きました。ず~と4番かな?・・やな予感が。

実は山爺、一週間前に登山ナイフ(刃渡り11cの物騒な代物、熊と格闘用に購入)をいじっていたところ誤ってナイフが手をすり抜けて右手親指に接触、深手を負ってしまいました。さすがは登山ナイフ、ちょいと当たっただけなのによく切れること。なかなか出血が止まらず往生しました。

グリップで力を入れると未だに傷口が開いて血が滲んできます。親指をシャフトに押さえつけることができないので軽く巻き込んで添えるだけです。こりゃあいかんなあ。

おまけに前の日に日曜大工で半田ゴテを使ってこれまた誤って左手人差し指に溶けたハンダを落としてしまい火傷。スイングすると両手に違和感があり気になって仕方がありません。

HAさん、TAさんは素晴らしい当たり、SUさんはやや左にひっかけ、さて山爺です。気になりながら打った打球はフェイスの根元に当たり左に高々と上がりお隣のティグラウンドすぐ横のOBゾーンへポトリ。普通なら御免なさいのマリガンショットと許して貰うところですが・・・マリガンショットって?なんだ。

【山爺の一言メモ】

マリガンショットとは


日本ではあまり知られていないがアメリカやイギリスで普及しているプライベートルール、主にスタートホールで適用されるルールで最初のショットが上手く出来なかったとき無罰で打ち直しチャンスを与えること。

由来は1920年代、カナダのモントリオール在住のデビッド・マリガン氏が有力、この人はホテルの経営者で多忙を極めていたがゴルフは大好き人間。ゴルフコースにはいつもギリギリに現れティショットを打つが、いつもミスショットをしてしまう。見かねた友人が『もう一度打てば』と進言したのがルール化され最初のティショットの打ち直しをペナルティーなしと認めたことが発端。

山爺もいつも幹事業で大忙し。10mほど離れた隣のホールに落ちたのだから”武士の情け”マリガンさんの恩恵に与ろうとボールを拾いに・・するとなぜかそこにクラブハウスの職人が立っていて『OBですね、前進でお願いします』と宣告されてしまいました。あちゃあ、万事休す。

前進4打のペナルティーで打った打球はグリーン前にポトリ、PWで打った打球は強すぎて反対側へ・・やっとこ6打めでワンピンの距離にグリーンオン。こうなれば狙うは竿イチ(ワンピンパット)で賞品を狙うのみ。狙い通り真ん中からカップインでダブルボギーでホーつアウト・・これは幸先が良いわと思ったのはこの時だけ。

グリップが思うように握れないせいかドライバーショットはまるでダメ。全ホールともよくてダボ、トリプルやそれ以上のオンパレード、終わってみれば59の大叩き。後半戦は日没にかかってしまい係員に急かされたので、さらに大叩きに拍車がかかり60も叩いてしまいました。山爺、完全ギブアップ。

みなさんの成績です。優勝はハンディにも恵まれた埼玉中央区のTAさんがベスグロ賞も合わせて獲得する完全優勝です。


山爺は大方、BB賞あたりかなの思っていましたがコース自体が難しこともありさらに大叩きした者が2人もおり第5位でした。

それにしてもこのゴルフ場はやたらホールにボールの見張り員が居るねえ。合理化しないと経営圧迫しまっせえ。

【川柳】

・マリガンは ならんと 睨む係員

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②作者以外の方による無断転載は禁止で、行った場合、著作権法の違反となります。

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2024年11月14日木曜日

江戸城跡散策記

 こう見えて山爺はお城が大好きである。旅行に際し大抵、その土地のお城や城址の散策を組み入れる。一口にお城といっても大きく分けて3通り、

①現存12城:創建当時の状態で残る天守閣を擁する城郭・・日本に12箇所のみ残存

弘前・松本・犬山・姫路・彦根・高知・丸岡・松江・丸亀・備中松本・伊予松本・宇和島 の12箇所。山爺は弘前・松本・犬山・姫路・高知・彦根の6城は訪問したが後の6っは未訪問だ。

②復元城:戦災その他で喪失した天守を復元した城郭

熊本・大阪・名古屋など・・当初は観光目的で鉄筋コンクリートエレベーター付き(大阪城・名古屋城など)が多く作られたが近年木造により当時まま忠実に再現する傾向にある。

③城跡

出城・砦まで数えると数え切れない。学術的に確認された城跡だけでも2000箇所以上とされている。

①②のお城には多くの観光客が訪れるだろうが城跡となるとどうだろう。

埼玉県の寄居にある鉢形城址(左画像)のように街の近傍に存在する城址なら保存状態も良くお城だなあと感じるだろうけれど町中にある城跡の多くは都市開発で消え去り残存数は少ない。

人里離れた山城や砦跡は今も数多く残っているが保存状態の悪いものが多く、興味のない人々にはただの山林にしか見えないだろう。
右画像は埼玉県の小川町、仙元山(299m)の山中深くに存在する青山城址であるが、土塁や堀切、2の丸など山城の体を残しており比較的保存状態は良いとされているのだが・・・

山爺はこの青山城跡を訪れたことがあるが、ちょっと目には潅木や雑草が生い茂った、ただの土手にしか見えない。

解説板をよく読んでから再度地形をよく見ると『ははあ、これが堀切か』『あ、あれが虎口跡(城門)か』となり、当時の城構えが蘇ってくる。

このような山中深くに残された山城は山歩きの経験がないと、迂闊に入るのは危険だ。

山城や砦は天然の要害地形を選ぶことが多いので本丸までは急勾配、後方は崖か河川が流れている場合が多い。前述した鉢形山城跡の本丸も後方は崖で大きな川が流れている。誤って滑落した人がいたと見え”この先危険立ち入り禁止”の看板がある。そのほか城跡は無名の山々にあることが多いので指導標が未整備、道迷いによる遭難の恐れも出てしまう。

幸い山爺は山歩きの経験は十分にあると自負しているので地図を頼りに城跡にたどり着くのは朝飯前・・おっと大きく出てしまいましたが登り口を間違えて里をウロウロ、地元のおばちゃん、じいちゃんに何度も城の場所を訪ねたことがあります。

さて、主題の江戸城跡の散策ですが、旅行でお城には必ず立ち寄る山爺ですが我が家から地理的に恵まれていながら江戸城跡には未だ行かずじまい。これはもったいない話だ・・

というわけで気候がよくなった10月下旬に江戸城跡を散策することにした。



江戸城の年表を簡単に説明しましょう。

【山爺の一言メモ】

1457年:太田道灌により築城・・土塁の小規模城郭だった

1590年:徳川家康により大規模改築・・・駿府にいた家康であったが天下人の豊臣秀吉に疎まれて『江戸はようござるよ』と無理やり駿府を追い出され江戸に転封された。

実際の江戸地は湿地帯で飲み水にも事欠く荒地、家康さん泣く泣くお引越し・・しぶしぶ江戸地の大改造に取り組んだ。今日の東京の大繁栄は家康さんのお陰だが秀吉の意地悪がなかったら東京は単なる地方都市で終わっていたかもしれない。

1603年:徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

1605年:徳川秀忠、2代将軍就任。
1606年:本丸完成。
1607年五層の大天守完成。
1616年:家康死去。
1623年3代家光就任。
1657年:振袖火事により天守・本丸御殿・2、3の丸焼失・・以後、本丸・2,3の丸御殿は再建されたが天守は再建されなかった。
1867年:江戸城無血開城 
1872年:明治政府により城内の建造物取り壊し 
1873年:皇居(旧西の丸御殿)焼失
1888年皇居(明治宮殿)再建
1923年 関東大震災で大手門・半蔵門焼失 
1945年:5月25日の空襲により皇居(明治宮殿)焼失


地下鉄大手門の13aの出口から地上に出ると目の前に江戸城の大手門が見えます。5分も歩くと大手門に到着。ん、?ずいぶん人が並んでるなあ。



どうやら、江戸城跡のある皇居東御苑に入るには手荷物検査があるようです。なるほど、江戸城跡のある東御苑は皇居内なんだと今更実感いたしました。昭和43年から一般公開となったそうです。

手荷物検査を無事にパスして大手門をくぐり東御苑内に進入です。人手をかけるのだからついでに料金も徴収したら皇宮の財政も豊かになるのになあ。


それにしても大きな門構えです。名古屋城大手門より大きそうだなあ。徳川家の隆盛を改めて実感しました。

門をくぐると左手に無料休憩所兼売店があり中に入るとガイドマップが置いてあったので一枚いただきました。



売店を見ると皇宮の御紋の入ったメダルチョコが15個入で¥500で販売中、安っ!絶好の土産ではないか・・山爺早速お買い上げ。




売店を出てちょいと進むと右手には同心番所という建物が見えてきました。
番所とは警備詰所のことで江戸城の登城者の監視を行っていた建物です。
立派な石組みです。これらの多くは家康めが諸国の外様大名を脅かし作らせたんだろうなあ。
左手にうなぎの寝床みたいな建物が見えました。100人番所という警備詰所で甲賀・伊賀・根来・25騎組、4組の鉄砲衆が詰めていた番所です。


各組120人の構成だったようでが合計すると480人?入りきれない?・・交代で詰めていたのかな。


石垣に囲まれたところ(中雀門跡)を通り抜けます。石組みが見事。








石組みを抜けると立派な櫓が見えました。
富士見櫓です。

江戸城跡に現存する櫓は富士見櫓と伏見櫓、巽櫓の3箇所ですが本丸(東御苑)に唯一現存するのが三層構造の富士見櫓です。1657年の振袖火事により一度焼失しますがすぐに再建されたそうです。














忠臣蔵で有名な殿中松の廊下跡地の目印がありました。・・・殿中でござる・殿中でござる。って殿中だろうが、表通りだろうが傷害事件起こしちゃあダメだろう、浅野君。
富士見多聞という長細い櫓?とは言わないのかな。屋根付き塀のことで防御施設の一種、姫路城に沢山あります。







櫓や城の連絡通路みたいなものですね。ここから弓矢や鉄砲を撃つことが出来ます。








石室という遺跡がありました。火事の際に家具や調度品を運び込み火災から免れるよう作られたもの。大奥の横に作られていたので女どもにせがまれて作ったのかなあ。

『火事になったら私たちの調度品どうしてくれる』・・いつの世も女は図々しい。

その大奥跡地はこの石室の反対側で今は大芝生と化しています。この辺にかつて500人規模で女どもが姦しく生活をしていた。

子作り大好きで手当たり次第に励んで53人(55人とも)+流産7人も産ませた家斉さんの

時は千人を超えていたというから、いやはやなんともですなあ。

家斉の子供たちの行く末はどうなったか?、なんでも子供たちの半数近くが成人することなく亡くなってしまいました。


粗製濫造だから体が弱かったのかな?・・成人した子供は後継の家慶以外は他の
大名家へ養子・嫁入りさせられました。

それは当然だがそのほとんどがもともと病弱だったり子孫を残す力がなかったりで現在に続く血脈は2系統のみだそうです。うまくいかないものですなあ。
縁組させられた大名の中には既に実子がいたにも関わらず無理やり押し付けられたとか・・・病弱ばかりでなく故意に抹殺された者もあったのでは・・・

そして養子や輿入れに際しては多大な費用を費やしたので江戸幕府の屋台骨を傾けたとも言われています。古人いわく”過ぎたるななお及ばざるがごとし”

暇して興味ある人は下のウィキペディアを読んでね。

やあ、本丸跡の石垣が見えてきました。・・大きいなあ。

こんなにしっかりした土台が残っているのだから誰かお金持ちが江戸城再建してくれないかなあ。


それとも宮内庁から再建は徳川家再興につながるから御法度と待ったがかけられているのかなあ。・・・(^^♪

大阪城・名古屋城・江戸城、三役そろい踏み、見たいものだ。


てっぺんに登ると外国人が大勢たむろしています。やかましくしゃべいっているのは中国人の団体様かな?
早々に本丸の頂上を辞して北桔梗門(はねばしもん)へ移動。この門は名前のとおり昔は跳ね橋構造だったとか。

ここでも手荷物検査やってますが行列はありません。

入場するならこちらからの方が良いかもです。
梅の木が沢山並んでいる梅林坂という坂を下ってゆきます。

開花期は見事なんだろうなあ、そのころにまた来ようかな。
鹿児島県の花?かいこうずと表記された名札がありました。
二の丸雑木林を歩く。広葉樹林が多いので紅葉時期は見事な景色になるのだろうなあ。来るのが少し早かったかな。








諏訪の茶屋、茶室にしては豪華な作り。わびさびの世界からは外れた茶室です。千利休が見たら目を剥いて怒ること間違いなし。

あの子づくり名人の11代将軍家斉が創建したそうです。お茶を名目に正室に内緒で茶室に側室を取っ替え、引っ替え呼び寄せて・・ なにせ側室20人超えのご仁だから・・・m(_ _)m

明治45年に吹上御所に再建、やんごとないおかたの茶室となりましたが昭和43年にここに移築。・・なるほど豪華さに納得。

二の丸庭園を散策。それにしても江戸城本丸跡(東御苑)の広いこと、いささか疲れてきました。

このまま南下すると大手門で東御苑を一周したことになりますが、同じ門から出るのも何だから北に向かい平川門から退場しよう。


平川門が見えてきました。平川門は3の丸の正門にあたります。徳川幕府に脅かされて1620年に仙台藩ほか六つの大名により創建されました。

大奥に近い門だったので別名お局門、また城内で出た死者や罪人を出す門だったので不浄門と言われている。浅野内匠頭もこの門から退場させられ、のち城外で切腹したとか。


大きい門が第2門で渡櫓門(わたりやぐら)










その先にある小さい門が高麗門、この二つで構成された枡形門です。

ここを出て左に歩けばすぐそばに地下鉄竹橋駅があります。

道路側から見た平川門、この橋は往時のとおり木で作られております。江戸城跡で木橋はこの橋だけです。


【川柳】
・大御所は 競わせ濡れ手で 城を得る 
・いにしえも 今も検問 大手門
・家斉は 暇に任せて 人づくり
・小隊を 我が子で集めた 家斉隊 
・罪人と女子(おなご)が出て行く 平川門

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2024年10月18日金曜日

向島百花園に行ってみた

 にっくき暑さもようやく収まりました。それにしても10月の半ばだというのにまだ半袖の夏姿のままでいられるとはどうしたことだ。

これまで我が国はほぼ温帯気候に属していたが温暖化現象により亜熱帯地帯となりつつあるのでしょうか。

2050年ころの日本の気候は夏と冬だけとなり秋・春がなくなるという恐ろしい予言をしている科学者もいる。まあ、その頃には山爺は神か仏になっているだろうけれどね。

秋の気配を写真に収めようと愛用の重い一眼レフをぶら下げて東京は向島にある『向島百花園』に行ってみた。目的は吾亦紅の花をこの目で見て撮影することである。

数年前にお袋さまが亡くなってから爾後、杉本真人の『吾亦紅の歌』にハマっている。♫さらさらゆれる吾亦紅、ふとあなたの吐息のようで・・よくこんな歌詞を考えつくものである。

あのように人に語りかけるような歌い方を語り歌という歌い方であることもそれで知った。ちなみに広辞苑で調べてみると歌語り(和歌で歌にまつわる物語の意)という言葉は載っているが語り歌という文言はない。吉幾三あたりがひっくり返して作った造語かな?あるいは業界人が偶然思いついた単語?。

山爺はこれまで散々里山を歩き回っているが未だ吾亦紅の花を見たことがない。秋以降、山歩きはあまりしないせいでもあるかなあ。

山の遭難の大半は自己責任で起こる転倒・滑落であるが、気象の激変によるやむおえない場合の遭難も多々ある。そしてそれは秋季に起きることが多い。何故か、理由は簡単だ。春から夏の気象激変は急に暑くなる方向だが、秋の時期の気候激変はいきなり降雪なんてことも・・どちらが遭難し易いかは誰でもわかるだろう。

また、春から夏の季節は百花繚乱で登山道に花が咲き乱れて目を慰めてくれるが秋以降の草花は花びらがなぜか地味なものが多い。艶やかなのは桔梗とキク科ぐらいだろうか。

そんな理由で山爺の足は秋以降、山から遠のくのである。紅葉があるだろうって。紅葉なら何も苦労して山奥に入り込まなくても山あいの温泉地で間に合いますがな・・ (^^♪

さて、百花園に戻ろう。吾亦紅の名所はないものかと、いつものようにGoogle mapで吾亦紅と打ちこんで検索したがまるでヒットしない。どんなところに咲いているのかもわからない。闇雲に野山を歩いても偶然に見つかるチャンスは稀だろう。

図鑑で調べてみたらバラ科の多年草で晩夏から秋にかけて日当たりの良い野原や川辺に咲く山野草とあった。植物園なら栽培しているかな。・・で、見つけたのが向島百花園だった。

東武鉄道で東向島下車、駅を出でて右に曲がりガード沿いを歩くと親子連れの行列を見た。このガード下には東武鉄道博物館がある。その入館待ちの列だろう。お父さんは大変だなあ。子供にせがまれて入館前から行列する・・山爺にはとても出来ない芸当だ。

あ!、華厳が展示してある。懐かしいいなあ。
この電車の先を右に曲がり真っ直ぐ歩けば7~8分で百花園に着きます。





公園内を横切ると百花園の入場口が見えました。

料金は大人¥150ですが、65歳以上は¥70のようです。一円たりとも無駄な金は使わない主義の山爺、マイナンバーカードを提示して¥80の割引を受けて園内に入りました。

園内は思ったより狭っちいですなあ。

都内にある多くの植物園はもと大名屋敷だったものを明治政府が接収、爾後公園として解放されたので広大な庭園を有しているものが多い。

しかし、ここ百花園は骨董商を営んでいた佐原鞠鵜(きくう)が文人・墨客の協力を得て木々鑑賞を目的とた花園を造営した(1804~1830)ものだからいわば町人による文化財だ。故に身の程をわきまえてか武張った様相は微塵もない。もらったパンフレットで創建の履歴を知りこの狭い庭園に好感を持った。


野山でよく見かける秋の野草、”露草”が百花園内のいたるところで咲いてました。

ショウメイギクという花(なんだそうです)が綺麗に咲いてました。

秋の花もなかなか艶やかに頑張ってます。







アザミの一種でしょうか。
蝶も優雅に一休み。









この木々はホームセンターの植木売り場でよく見かける千両?かな。






やはり秋の花の代表と言ったらこの花、桔梗でしょう。


桔梗といえば思い出すのがこれを家紋とした明智光秀です。

本能寺の変で信長が『旗印は』と問うと森蘭丸が『桔梗の紋』と答え、それを聞いた信長が『是非もなし』と呟いた、一番の名シーンを思い出します。


怪しげな花が咲いてます!

よくわかりませんが。葉っぱの形状からヒナゲシの種類かな。





萩の花で覆ったトンネルです。

うまく写ってませんが、見事な花トンネルでした。
萩そのものがこのように地味な花ですからねえ。目立ちません。





秋の代表、彼岸花がありましたが群落ではなくあちこち2~3本といったふうに散在してました。

幼いころ親に彼岸花は毒だから触っちゃ駄目と教わったので山爺は今だに触れたことがありません。

球根にアルカロイドの毒を含んでおりそのまま食すると死ぬこともあるらしいのですが、水に晒して毒を抜けば食用になるそうです。

すぐ食べられたのでは非常食として不向きだ。手目暇かけなければ食べられないものを選んだ古人のしたたかな知恵に脱帽。

彼岸花は野山に自然に生えているのではなく古人たちが飢饉対策や野ねずみ繁殖予防(アルカロイド毒で巣穴が作りにくい)として人為的に畦や土手、神社仏閣に植え付けたのです。そして子供たちにたずらをされないよう脅しを掛けて守ったんですね。山中に入ると彼岸花が全然見当たらないのがその証です。

竹林もあり一見、風情がありますが、すぐ横が大通りなので車の喧騒が雰囲気をぶち壊します。











シロヤマブキ?という花がありました。これも結構派手な花です。

秋の花は地味だと思っていたのは山爺の偏見だったのかな。



タマスダレ・・・と書いてある。

南京玉すだれは知っているけれど、たますだれという名の花には初めてお目にかかります。



ルドベキアの仲間かなあ。

ルドベキアは夏に咲く花なんだそうですが今年も夏日が続いているので咲いているのかな?




この地味な花は何だろうか?

葉っぱの形状からあぜ道に咲く野草、ユウゲショウに似ている。

狭い園内なので一時間ほどで一周してしまいました。

肝心の吾亦紅が見つかりません。入場口に戻り案内板に書いてある季節ごとの花の位置をよくチェックすると№13の区域に確かにワレモコウの文字があります。

№13領域に戻り、よくよく探すと、ありました。やあ地味な花だ、こりゃあ見過ごすわ。


この種の花は群れを作ることで目立つのかな。

吾亦紅の作詞者もそのへんを意識してサラサラ揺れる吾亦紅と詠んだのだろうなあ。

ここの庭園では群落ではなく疎らにひっそりと咲いてました。


地味だけれどよく見ると可愛く味わいのある草花です。

まさに生前の我がお袋さまと同じだ。 (^^♪





狭いながら池も配してあり庭園の見栄えを良くしてます。

春にはさらに沢山の花が咲くのかなあ。また春に訪れてみよう。なにせ¥70と約安入園料だから。

この庭園には草本の名前と説明札があまりありません。山爺も特段草花の種類に詳しいわけではなく、撮影時は名前もわからずシャッターを切りまくりました。解説は家に帰ってからにわかに図鑑で調べたものが多々、ゆえに間違っているものもあるかも知れません。年寄りの戯れ事とお許しを・・・ m(_ _)m

【川柳】
・秋花も 艶やかですよと 百花園
・地味ながら 醜女にあらず 吾亦紅 
・亡き母に 重なり見つめる 吾亦紅

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