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2017年12月28日木曜日

17年度関西ぶらり旅(後編)

12月10日(日)今日は奈良の飛鳥路を散策しようと思います。朝起きて靴を履くと再び両足の小指の部位に激痛が走ります。

参ったなあ、駅までの道を歩いているうちに痛みが麻痺して薄れてきました。これって脳内麻薬が出て痛みを抑えるのかなあなんて、たわいもないことを考えながら駅に向かいます。


9:00天王寺駅で一旦下車、近鉄吉野線で橿原神宮前に向かうため駅ビルから駅ビルへ移動します。

ここには平成26年に開業した日本一高いビル阿倍野ハルカスがあります。高さは300mとか。

一昨年、通天閣からこのビルを見たとき、大阪人はさすが洒落が分かる、”はるか見下ろす”の洒落で命名したのかいなと感心していたが、ハルカスとは平安時代の伊勢物語の一節”晴るかす”から流用したみたいです。意味は”晴らす・晴れ晴れとさせる”だそうな。なんだパクリかいな、2年間も感心し続けて損した。

駅にはいると、『うわあ!なんだこの改札の多さは』あまりの数の多さに田舎者の山爺は気遅れてしまう。大阪は江戸時代から商人主導の街の影響なのか民鉄のほうが規模が大きいようです。

始発駅なので上野駅みたいに車両がズラッと並んでいる。橿原神宮行の番線に止まっていた電車に乗り込もうとしたが行先不安、ちょうど車掌が暇そうに窓から首を出しているのを見つけた。すかざず、
『この電車橿原神宮に行きますか』
『はい停車します』
不思議なもんで普段、東京都内を歩いていると道不案内に陥ってもほとんど人に物を尋ねることはない。だが、旅行に出るといとも簡単に平然と人に物を尋ねることが出来る。この心変わりようはどうだ。”旅の恥はかき捨て?”なんかなあ。

9:20急行吉野行に乗り一路奈良へ。お行儀悪いが足が痛いので靴を脱ぎ、靴下状態で床に足を付けながら例によってサンドイッチをぱくつく。10時に橿原神宮駅に到着した。思ったより近い。途中2駅くらいしか停車しなかった。さすが急行!でも急行料金は取らない。近鉄さん偉い!

ここで下車したのですが、出やすい西口に出てしまう失策をやらかした。飛鳥方面のバスは東口から出ているようだ。痛い足を引きずりながら地下道をくぐり反対側に移動する。

駅東口に戻り、切符売り場で1日何度でも自由に乗れる飛鳥周遊バス『赤カメ周遊券』を購入する。¥650也。

②番バス乗り場に行ってみると先ほど乗ってきた急行に合わせた10時6分は出たあとで次のバスの時間まで30分以上もある。

お天気は幸い晴れで暖かい。ベンチに座りながらラジオを聴き、しばしの休息。六角精児の”飲み鉄本線日本旅”よろしくウイスキースキットルに手を延ばそうとしたがそれは自粛しました。あのおっさんのような酒飲み体力は山爺にはありませんから。(^0^)

山爺の一言メモ】

六角精児(55) 俳優 O型
NHKBSで忘れた頃放送される”飲み鉄本線日本旅”に出演している六角精児が面白い。各地を鉄道で旅行するのだが朝から晩まで何かと言うと飲んでばかりいる。

それでいて酔うこともなく途中下車して現地をしっかりとレポートする。サイドバック一つで旅を続けるのだがバックの中は常に缶ビールかワンカップお酒が常駐している。

最近NHK大河ドラマ、井伊直虎に本多正信役で出演していたので記憶に新しいのでは?
偉大な飲兵衛、吉田類のほかにもう1人、山爺の尊敬に値する飲兵衛タレントが増えました。

やがて赤カメバスがやってきた。それに乗りまずは飛鳥資料館へ。
車窓から長年来てみたいと思っていた飛鳥の里が見えます。

古墳らしき所でバスが止まりました。明日香小山というところです。

飛鳥の里は古墳だらけ、散策場所には事欠かないんだろうなあ。

資料館に10時50分到着。まず外庭にある石造物を見学する。飛鳥の代表的な石造物のレプリカが資料館の庭に散在しています。これを見たあとに資料館へ、入館料¥270を払おうとしたら係員の女性より
『お若そうに見えますがお幾つですか?』と聞かれた。
『いやいや還暦もとうに過ぎて70歳も間近ですよ』
『証明書ありますか』
『あ~っと、免許証置いてきた』
『生年月日は』
『昭和2×年×月×日』
『あら、お若いですね、どうぞ』と言って入場券とパンフレットを頂いた。
え~只なの?・・ここは65歳以上は無料だそうな。皆さんここに来るときは証明書お忘れなく。但し熟年に敬意を払うのは飛鳥路ではここだけだそうな。


こじんまりとした資料館ですが館内撮影はストロボモードでなければOKとのこと。

京都とは違い太っ腹、そうだよね、ストロボさえ使わなければ展示物は傷まないよねえ。

まあ、京都は外人さん、特に中国人がたくさん来る。撮影許可したらストロボ制限なんか守らないでめちゃくちゃになっちゃうから仕方のない措置だと思う。

飛鳥路観光は歴史好きで古代の歴史をある程度理解した人じゃないと現地を訪れてもただの原っぱでしかなく面白くもなんともないだろうなあ。ここを理解できる外人さんは今のところあまりいないようでほとんど見かけません。たいへん好いことです。

右のガラリは641年ころ建てられた山田寺より発掘されたお寺のガラリです。山田寺といえば蘇我一族でありながら乙巳の変で中大兄皇子に加担した蘇我石川麻呂ゆかりのお寺です。

石川麻呂ちゃんクーデター一派にさんざん利用された挙句、用済みになると謀反の疑い有りと難癖を付けられて、この寺で一族もろとも自害に追い込まれたという凄まじい歴史があります。”狡兎死して走狗烹らる”の例え通りそれを実践した中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原一族の始祖)お主ら悪よのう!。


赤かめバス に対する画像結果この資料館で予備知識を蓄えて11時53分のバスの乗り飛鳥寺に移動します。

飛鳥寺11時57分着、飛鳥寺は田んぼの中にポツンと建っています。その辺の田舎の小さなお寺のようですが、それがまた旅情をそそります。

このお寺は588年蘇我馬子が発願、596年に創建された日本最初の大規模寺院だったとか。ここに
は606年に創建された日本最古と言われる仏像が安置奉られております。

係員の説明によれば、この寺もほかのお寺と同様に887年と1196年、落雷により本堂が焼失したとか。

それでもこの仏像だけは溶け落ちることもなく無事だったそうで。うへえ!ありがたやもったいなやです。仏像のお顔も右と左から見たのでは違うんだそうです。ふむ!そういえば左側の方がややお健やかかなあ。

【山爺の一言メモ】

飛鳥寺の大仏
年代のわかるものでは日本最古の仏像(釈迦如来像)605年製作開始606年に完成した。887年と1196年の2度に渡り落雷で本堂は焼失したが江戸時代に再建した。仏像もその時に焼損、顔の一部や左耳右手中央指3本が創建当時のまま奇跡的に残った。・・・あれ!係員さんの説明と大分違うが?・・ま!いいか!奈良の大仏よりマシだよ。奈良の大仏は創建当時のものは蓮の台座だけで残りは江戸時代に作られた物だものねえ。

お寺の裏側?に出て数10mも行くと蘇我入鹿の首塚があります。

なんでも飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)での乙巳の変で首を打たれた時その首がここまで自力で飛んできたとか。板蓋宮から飛鳥寺まで直線距離で約600mほどあります。超能力者か?入鹿さんは。

昨年の法隆寺から続く入鹿様の祟り(足の痛み)を和らげてもらおうとお浄財を奉納しよう・・・と思い小銭入れを覗くと100円玉と10円玉しかない。仕方ないから¥20奉納しました。これがいけなかった。お賽銭けちったので、このあと益々痛みが激しくなってしまった。入鹿様恐るべし、死してのち1300有余年、未だ鬼となり霊力を振りまいておじゃる。

12時23分のバスがあるはずなのでバス停で待つ。待てども待てどもバスは来ない。バス停の時刻表をよく見ると、その時刻には※が・・・9/16~11/19 運行と小さく書いてある。駅でもらった時刻表もよく見ると隅っこに小さく同じことが書いてある。

今日は12/10、ははは、来るわけないか。旅行計画をしていた時は30分ごとにバスが運行されているので便利と思ったが、あちゃ~今はシーズンオフなので1時間に1本の運行状況のようだ。30分間隔だとあまり待つ感覚はないが1時間おきだと、どうしても無駄な待ち時間が発生する。これにより山爺の旅行計画が狂いだしてきました。

仕方がないので飛鳥寺から亀形石造遺跡まで900mの道を痛い足を引きずりながら歩くことにする。歩き出すとじきに痛みは和らぐので普通に歩ける。10分ほどで亀形石造物に到着。

ここでも文化財保存協力金なる観覧料金¥300を徴収されました。料金を支払い遺跡内へ、この亀形石造物は斉明天皇が創建したとされているが真相は定かでない。

平成12年にこの遺跡が発掘されたとき、山爺はそのニュースを関心深く見ていた。その時以来ここは単なる天皇の庭園の噴水くらいにしか思っていなかったが、今回訪れてみてそれが誤りであることに気づかされました。山あいのうす暗いところに構築されています。普通こんな谷間の見通しの悪い場所に庭園は作らない。付近に酒船石なる謎の石造物もあることから特別な祭祀用施設だろうと思いました。


解説の係員さん曰く、ここは湧水が出ていたらしく神宿る神聖な場所と崇められて祭祀用として整備されたらしい。施設中、丸い遺跡は禊ぎ用で湧水を禊水として雨乞い等の祭祀を行ったのではないかとのことでした。

なるほど中央の丸い遺跡はバスタブのように見えなくもない。ここで斉明天皇(女性:右画像)が一糸まとわぬスッポンポンになり湧水で身を清め吉兆を占ったのかなあ。


祭祀に立ち会い周りで見ていた人々は、たまらんのう。Y(^O^)・・・(^q^)コラー なんと不謹慎な事を考える親爺だ!!この罰当たりめ!

なにせ卑弥呼以来、天皇の最大の仕事は祭祀の主催者で天変地異が起き続けると民衆から駄目出しを受けてしまう。

卑弥呼は晩年、運悪く日食に2度も遭遇してしまいます。これにより霊力がなくなったと民衆から駄目出しを喰らい殺されたとされる説があります。古代中国の思想でこういう改革を”易姓革命”といいます。『試験にでるから、ハイ!ノート!』って昔、高校の先生がよく言ってたなあ。

特に日照り続きの時は雨乞いなんか必死に行ったはずだ。この付近にある酒船石もどう考えても酒を作る設備ではない。水を流してみて流れの方向で吉兆を占ったと考えると合点がいく。
斉明天皇は乙巳の変で蘇我入鹿が惨殺された当時、現場にいた皇極天皇その人で、変後色々なことがあったので(これを書くと長くなるので割愛)再び天皇に即位した人です。再び天皇に即位することを重祚(ちょうそ)と言います。よろしかったら覚えてね。

その酒船石は亀形遺跡から徒歩5分の竹林生い茂る山の上にひっそりと置かれていました。手塚治虫の漫画でこの遺跡の存在を知って以来、何十年。実物を一度見てみたいなあと思い続けていましたが、やっと念願が叶いました。

この遺跡は平安時代までの250年間存続(使われた?)していたことがわかっていますが、その後谷間にあった亀形遺跡は土砂崩れにでも遭ったのか埋もれてしまい人々に忘れ去られたようです。

12時58分のバスで石舞台に移動します。13時04分石舞台近くのバス停に到着です。相変わらず観光客の姿は少なく数人しか見かけません。

坂道登ること5分で石舞台が見えてきました。ここでも入場料¥250徴収されました。この古墳の被葬者は蘇我入鹿ののお祖父さん蘇我馬子とされていますが定かではありません。

そばによると迫力です。大きな石だなあ。石の重さは北側で64トン、南側で77トンあるそうです。

どうやって載せたんかなあ?。

斜面を作って人間が引っ張ったんだろうと簡単に言いますが、あなた!人間の引き力はせいぜい20~30kg 77トン÷0.03トン=2570人 必要だよ。坂道なら、さらに大人数が必要だ。3000人規模の綱引き、どうやって引き綱さばくのよ?やはり謎だよね。

中に入ってみるとその巨大さがよくわかります。ときにこの古墳はなんで盛土がなくなってしまったのか?。数ある古墳の中でもこの古墳は特異です。普通古墳は製作時に突き固めるので雨くらいでは流れ出しません。解説係員が面白いことを話してくれました。
①乙巳の変で蘇我氏が滅亡したので中大兄皇子らクーデター一派が見せしめに土を剥ぎ取った説。
②付近の住民が蘇我氏が滅亡したので古墳の土を勝手に持ち出して自分の畑の盛土にした説の2つがあるそうで今も学者の間でもめているとか。

山爺は①の説には賛同しない。貴族どもはシャイだから入鹿を誅したものの祟りを恐れて恐々としていたはずです。そんな臆病な連中が怨霊になった入鹿の逆鱗に触れるようなことをするはずがない。神社を建てて怨霊封じをするくらいだから。
②の説に賛同しま~す。

入鹿さんは生前この地方で善政をしていた節があります。民衆にしたわれていたらしいのです。親しみのある為政者だったから民衆は当然祟りなんか恐れません。『蘇我の王様、おいらの土地が痩せたのでお山の土、少し頂戴ね』で、我も我もと古墳の土を運び出しとうとう丸裸にしてしまったのでは。・・・山爺の私見ですが案外ピンポンだったりして。(^O^)

さて次の石造物は”マラ石”です。石舞台近傍にそれはあるはずなのですが。物が物だけに詳しい案内板がありません。大雑把な地図だけを頼りに歩き出しました。

地図上で5分も歩けばあるはずなのですが・・・10分経っても見つけられません。付近の人に聞こうにも村は閑散としており誰にも出くわしません。と、郵便配達の人がバイクでやってきて山爺のそばで偶然停車、すかさず『すいません、この辺にマラ石が・・』質問しながら、ちと恥ずかしい。
『ああ、それならこの道を上がって右に曲がり・・』ええ!そこ、さっき戻った道じゃないかいな。お礼を言って黙々と進みますが枝道が多くまたまたわからなくなりました。

第2村人発見!。『あのお、マラ石は・・・』マラ、マラと誠に恥ずかしい。畑仕事していたお婆ちゃんに詳しく教わり、ようやく念願のマラ石遺跡に到着しました。

畑の中の一角に広場があり、なんの囲いもなくそれはポツンとありました。おお!なかなかご立派なマラ石ではありませんか。でも、こんな遺跡にのめり込む学者なんて誰もいないのでしょう。

制作年代も作者も不明ですが発見当時は垂直に立っていたとか、随分とお元気だったようです。まあ五穀豊穣を願う男性器土着宗教のシンボルでしょう。こういった物は日本全国いたるところにあります。
なにはともあれ撮影に成功しました。めでたし、めでたし。

石舞台の公園?に戻り、岩に腰掛けてサンドイッチとお握りで遅い昼食を採りました。このあとは亀石なる石造物の見学のため、またバスで移動です。

15時10分亀石があるバス停”中央公民館前”に着きました。亀石はここから歩いて5~6分のところにあるはずなのですが大雑把な地図なのでまたまた道を間違え20分ほど余計に歩かされました。

手製の粗末な標識に誘導されてやっと亀石に到達です。これも田んぼの真ん中にポツンとあり付近は隣の雑貨屋さんだけしかありません。



亀というより顔はガマガエルみたいな顔です。この雑貨屋さん、亀石のお陰で大分儲かっているのかなあ、なんて思いながら写真撮影しました。

制作年代・作者とも不明ですがお寺の土地の境界線のための目印に置いたとの説があります。

バス停に戻り飛鳥駅までのバスに乗ろうと思いましたが17時10分発であと30分以上もあります。所在なく待っていると16時51分の橿原神宮駅行きがやって来ました。

飛鳥駅に行きたかったのですがもう日も傾いてきたので、そのバスに乗り橿原神宮駅へ、結局、今日の出発駅に戻りました。

予定ではこのあと西ノ京にある薬師寺まで回る予定でしたが時間切れです。橿原神宮駅より元来た吉野線で大阪に戻ることにしました。大阪阿倍野橋駅まで戻りJR天王寺駅から環状線で天満駅へ、約束した鉄板焼屋”たか”さんに急ぎます。

18時30分、お店の前に到着。『うん?』お店のシャッターが下りてます。
『ええ!そんな馬鹿な、今日来るっていったのに』、時間が早いのかなあ、と周囲を散歩、19時に戻ってきましたがやはりシャッターは降りたまま。

まさか定休日?それとも何かあって休業かなあ。お客に相槌を打っていてもお店の人は”耳が日曜”になっており聞き流すことが多いので多分それでしょう。『あ~あ、それなら黒門市場に行けばよかった』と思ったが後の祭り。

と、隣の中華屋”大来軒”を見ると看板に餃子5色盛(11個)+中生ビールで¥1080の文字が!安う!これに釣られて店内に入り夕食です。看板に偽りなしで5種類の餃子と生中ジョッキーが運ばれてきました。うん!うまい、これはいいや。飲むと少食になる山爺はこれだけで満腹です。

飲み足りないのでメニュー表をみると中生2杯とおつまみ付きで¥1000と書いてある。それを追加注文、すっかりいい気持ちになりました。本当に大阪は安いや!食い倒れの街、大阪万歳!。

楽しかった4日間はあっという間に過ぎて今日、12月11日は移動日です。9時10分発の”青春昼特急8号”に乗るべくJR大阪駅にあるJR高速バスターミナル駅に急ぎます。

8時20分頃ターミナルに到着。この先何があるかわからないのでとりあえずターミナルビル内の土産店(コンビニ)で生八ツ橋2箱購入。我が家用と平成元年来の付き合いである地元中華居酒屋のマスターへのお土産用です。これで一安心。

定刻通りバスが1番ターミナル入り定刻通りに大阪を離れました。月曜なので乗客は6~7人でガラガラ、『こりゃいいや、ウイスキースキットルで車窓眺めながらちびりちびり』出来るわいと思ったが考えが甘かった。京都駅から28人も乗り込んで来ました。これで、ちびりちびりはご破算となりました。

甲南PAに11時25分到着、ここで30分の昼食休憩を摂ります。時間が十分あるので我が家、全員が大好物の”赤福”を購入、さらにうまそうな甲賀忍者餅なるものまで購入してしまいました。土産屋に寄るとつい買ってしまう山爺の悪い癖が出ました。はい! (^-^)/

浜名湖SA⇒足柄SAと順調にバスは走ります。足柄SAでは赤富士がお帰りなさいと出迎えしてくれました。

東名江田あたりからやや渋滞するも定刻20分過ぎの18時30分無事に東京駅日本橋口に到着しました。はやく家に帰り、件の居酒屋で1杯やりながら旅の話でも・・・お土産も渡さなくっちゃ。

このまま、すんなり山手線で移動すればいいものを”地下鉄半蔵門”の案内板を見てしまい。『ああ、あれなら直通で地元までいける』とフラフラと地下へ・・これがいけなかった。

地下道を散々30分も歩かされ、足は痛いわ、疲れるは、帰りは遅れるは、完全に裏目に。・・・地下鉄大手町駅まで歩かねばならないことは普段から知っていたのですがその時は悪魔に魅せられたのか失念。・・・ひどい目にあってしまいました。

入鹿様の祟り、ここまでまとわりついておじゃるか。お賽銭ケチってごめんなさい。

17年関西ぶらり旅(後編)・・・完

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2017年12月21日木曜日

17年度関西ぶらり旅(前編)

恒例となった大阪ぶらり旅を。あんだって!恒例とはおこがましいってか!今年で3度目の企画だ。同時期に3年連続なら恒例と記載してもいささかもはばかることはないと思うが・・・( ̄▽ ̄)

チケットも格安高速バスチケット(往復¥7840)をすでに購入済なので、行かなくてはなりません。バスはJRバスを選択しました。大手なので何かと安心です。

12月8日(金)例によって、本8日未明!じゃないけれど我が山爺は関西の京・奈良に方面において観光に出撃せんとす、です。≧(´▽`)≦アハハハ

東京駅八重洲口発9:40発の高速バスに乗るべく早朝に家を出ました。去年は1時間早いバスだったので払暁に家を出たから電車はすいていましたが今年は通勤時間帯に当たりそうなのでちょいと心配していいました。が、さほどの混雑もなく9時ちょい過ぎに東京駅に到着しました。


利用する高速バスは”青春昼特急7号”と山爺たち熟年層は赤面しなければならないタイトルのバスを利用します。

青春号とはお金のない若者を支援する意味だとは思うが金がないのは若者だけではない。実際は幅広い年齢層が利用する。山爺のような熟年もいるのだからして”悠遊昼特急号”とか”ひねもす昼特急”とでも名称変更してもらいたいものだ。(笑)

山爺の旅スタイルは背中に小型リュック、サイドはミニバッグ、腰にカメラという出で立ちです。

靴も今回の旅に合わせトレッキングシューズを新調しました。去年新しい靴で旅行に行き足に当たり(入鹿様の祟り)ひどい目にあったので出発前1週間毎日散歩し足ならしはしたのですが・・・

そのほかミニバックにはウイスキースキットルと折りたたみコップが入っています。
スキットルはCCCP(旧ソ連)のロゴ入です。勿論レプリカですがね。amazon¥2000でゲット、どう、カッコいいでしょ。折りたたみコップはシリコン製でこちらの具合も良好です。値段は¥750、まあ折りたたみといっても半分の大きさに縮むだけですがね。

購入の動機は去年の旅行でバスがSAに立ち寄ったとき一生懸命にお酒を探したのですが・・・コラ~一生懸命になるな!・・・どこにも売っていませんでした。・・・ってよく考えたら当たり前ですが(よく考えなくてもそうだが)・・で、今年は持参することにしました。・・・これでちびりちびりやりながら。・・うふふ!!

出発時刻間近になったので乗車口へと行ってみると、おやあ?去年と違いかなりの人数が並んでいました。

バスに乗り込み指定の席に座りました。さあ、いよいよ関西に向け出発です。バスは去年と違い1階の構造でトイレは一番後方にあります。

今日のバスはほぼ満席、数箇所しか空席がありません。トイレに行くのも衆人監視なのでなんか使いにくそうです。去年は2階建てでトイレは階下の座席の少ないところにあり入り易かったです。

定刻通りバスが動き出しました。いいねえ。やっぱり旅立ちの瞬間は最高だね。
しかしながら満席なので隣人に遠慮、ウイスキーちびりちびりとやりながらはどうもお預けになりそうです。・・とは言えせっかく持ってきたのです。1回だけハイボールを作って飲みましたけどね。へへへ  ψ(`∇´)ψ うまいのなんのって。

2時間ほど走り足柄SAに到着です。ここで20分休憩となります。あいにく天候は曇りで木花咲耶姫(このはなさくやひめ・・・富士山)はお顔を隠されておりました。ちょっとがっかりです。

さらに2時間後、浜名湖SAで15分のトイレ休憩。JRバスは2時間おきにきちんと休憩を取るので車内のトイレを使う人はいないです。(大阪で渋滞時1人だけ使用)

1人のドライバーが運転できる走行距離は日中500kmまでと法で定められています。三ヶ日ICで運転手交代のためにJRの営業所に立ち寄ります。

傍らに停車している別のバスの運転手さんがハンマーを握りタイヤのハブ(ボルト)一本一本を丁寧に打音検査をしていました。JRさん、さすがです。真摯に安全管理を行っています。安心して利用できると言うものです。

このように地道な日常点検を真摯に行っている人々がいると言うのに新幹線台車の亀裂インシデントの見逃しようはどうだろう。異音・異臭の確認がなされていながら無視して何時間も突っ走るとは。

一般的に設備などの日常点検項目に必ず掲載される文言が『異音・異臭はないか』である。設備が稼働中に異音・異臭がしていて正常な訳がない。車両現場を預かる関係者の中に異臭・異音を感じた時点で絶対に即、停車を申告した人がいたことは想像に難くない。

もっと上のレベルの管理者が、もしもなんでもなかったら・・運行停止に伴うダイヤ混乱・逸出利益などの発生に対し責任が取りきれないと考えてしまい運行停止命令を出せなかったに違いない。これまで何十年も無事故なので根拠のない『まあ、大丈夫だろう』という判断を下したのだろう。しかし、これほど危うい考え方はない。(12/20のニュースで現場保守担当の運行停止提言を東京の指令センターが問題なしと判断し運行を続行させたとの報道あり)

一般の製造工場でも日常点検で異常を認めて不安となり現場からライン停止を申し入れても上司はライン停止に伴う納期遅れや利益を優先してしまい、なかなかラインを止める決断が出来ないことが多い。

結局、機械が壊れるまで操業を続けてしまい返って大損出に繋がることが多々あるが工場でのインシデントのほとんどは金で解決することが出来る。なら、壊れるまで使うのも有りだろう。

しかし新幹線は多くの人命を預かっているのである。もしもがあっては絶対ならない。先の福知山線事故で手痛い教訓を学んだはずなのに。あの時も事故った若い運転手は秒単位運行遵守の呪縛によりたった1.5分の遅れを取り戻そうと焦り脱線事故を起こしてしまった。

新幹線が運行を開始して50年、これまでは開発者達の考えた高性能車両、ATSほかの優れた運行システム技術の発明の恩恵で安全を保ってきた。これからの50年・100年は老朽した車両や周辺設備に対し的確な予防・予知と言った保全システムをいかに構築し安全を確保するかにかかっていると思う。

とりあえず決めたことを真摯に守るしかない、高速バスの運転手のようにね。浪速のお笑い芸人の言ではないが”小さなことからコツコツと”だよ、JRのお偉いさん達。
『おかしいと思ったら遠慮なく列車を止めろ。』と現場に指示してよ。駄目だよ!見て見ぬふりは、部下に勝手にやらせておいて知らんふり。日本人の一番悪い癖ですよ。

幸い大事故は免れたが、これを教訓に現場に対し利益優先や秒単位の運行強要から安全最優先に舵を切っても良いのではと思う山爺であります。いいじゃないの1分や2分位遅れても。それで安全が守れるなら。

【川柳】
・乗客は 気にしてません 秒遅れ・・維持するための現場負担も少しは考えて!
・分遅れ それでも 輸送世界一 ・・2位以下を大きく引き離してますよ
・50年 築いた信頼 事故で消え・・信頼得るまで長い年月、失うのは一瞬

【山爺の一言メモ】

インシデント・・英語使うな!と言いながら山爺も英語で文章を書いてしまった。

出来事、事件、事故、事案、事象、事例などの意味を持つ英単語。

事故や事件などの意味以外に、事故に繋がりかねない(繋がりかねなかった)出来事、状況、異変、危機を意味する場合がある。また、分野によっては、一定の基準に照らして被害や損失が軽微な事故を意味する場合もある。

この言葉が使われる以前は事象という言葉をよく使っていたが、それではインシデントの意味を正確にカバーしていない。つまり、今のところ良い日本語がないのである。危機管理の苦手な日本人だからかそういう言葉、嫌いなのかなあ。だからインシデントを使うのはいまのところ止むを得ないかなあ。

その後のニュースで問題の台車は全幅17cmだが14cmまで亀裂が入っていたという。いつ台車が破損してもおかしくない状態まで追い込まれていたわけで、無事だったのは神様が味方したのか奇跡に近かった。JRの幹部さん!命拾いしたね。来年の初詣にはお賽銭奮発してお礼にいかないとね。(笑い)笑いで済んでよかった、よかった。

定刻前に三ヶ日を離れ一路大阪へ。甲南PAにも定刻前に着きました。小腹がすいたので焼き餅をいただきます。『うまい、旨すぎる』でした。ハイ!

バスが大阪に近づくとやはり渋滞に巻き込まれてしまいました。順調にきたのもここまでです。結局18時33分に着く予定が19時05分着と約30分の遅れが出ました。予定では到着後、難波の黒門市場を散策する予定でしたが時間がなくなりました。


このまま去年顔見知りになった天満商店街にある居酒屋へ直行。そこはカウンター席だけが10席ほどある小さな鉄板焼き屋さんです。

開いているかな?。JR天満駅から5分くらいのところにその店はあるのですが途中がごちゃごちゃしているのでなかなか見つけられない。

10分以上も周辺をウロウロしてようやく見つけました。暖簾越しに中を覗くと、いた、いた!ご夫婦お揃いで、『こんちわ』と声をかけて中に入る。
『お越しやす』
『覚えてますか』
『・・・』『おや!あんさんは』
『ちょうど一年ぶりです』
よかった、すぐに思い出してくれた。店には失礼だが幸いほかに客はいない。当然会話は弾む。ビール、日本酒と注文し楽しく歓談、そこへ飾りが付いた小さな帽子を被り着飾った若い?女性が入ってきた。

着こなしからしてただ者ではない感じがする。その女性が山爺の左隣に座る。挨拶もそこそこにお酒を酌み交わしながらその女性と雑談に興じる。
『埼玉からですか、それは遠路はるばるご苦労様』
こちらは既に酔っているので饒舌だ。面白おかしく会話を交わす。
『おもろいおっちゃんやなあ』
など会話が弾み、すっかり仲良くなった。さらに彼女が注文したモダン焼きなるものを分けて頂いたり、ビールを分けて頂いたりしてすっかりご馳走にまでなってしまいました。

お仕事を聞くとプロのPOPSシンガーO・Kさんで歌謡教室の講師もしているとか。おお!有名人のようだ。だいぶ長居をしたので山爺も『日暮道長』なるブログ開設している旨、連絡し、日曜日にまたここにきますと告げて店を出ました。・・(ここの行をよく記憶しておいてください。)

彼女の話に半信半疑でしたが帰宅後、HPをアクセスしたら彼女の言っていることは本当で2度びっくり。ただ相手のHPがフェイスブックなので未会員の山爺はアクセス叶わず、まだお礼の返信はしていませんが・・

難波にあるサウナカプセルホテルに宿をとっていたのでほろ酔いの中、そちらに移動しました。

翌朝は京都観光です。JR大阪9時過ぎの快速で京都に向かいます。












大阪の電車は不思議な椅子がありドアー横の椅子の反対側が倒れるようになっており2人がけの椅子に変貌します。そこに座りコンビニで購入したいつものサンドイッチとオニギリで遅い朝食兼昼食を摂ります。





10時20分ごろ京都に到着。まずは去年、道間違えて到達できなかった世界遺産の東寺を目指します。
今度は間違いなく南口から出て徒歩で東寺へ、15分ほどで東寺の門が見えてきました。中に入ると大型バスが1台だけ停車しているのみで土曜日なのに意外と空いていました。





拝観料¥800を収め境内へ。五重塔が池に映え誠に美しい。

本堂で薬師如来様や日光・月光菩薩様を、また別棟の講堂で大日如来様・阿弥陀様を拝観しました。誠に神々しい仏様たちであります。(館内撮影厳禁です念のため・・HPより流用)
思わず浄財を奉納してしまいました。勿論¥10+¥50(充分ご縁がありますように)です。はい。

五重塔と紅葉のコラボ!・・いかん合作が絵になりますねえ。

東寺の五重塔は最初882年の創建だったが4回雷などで焼失、今ある塔は1644年に再建された5代目だそうです。高さ55mあり日本一だとか。

次は三十三間堂を見るつもりです。移動にバスを利用したいのですが田舎者の山爺とて、行き方がわかりません。
日頃、山で鍛えた足があります。歩いて30分くらいの距離なので歩くことにしました。京都駅を左に見ながら大きな陸橋を渡り向こう側へ、京都駅周辺は都会の町並みです。こんな道は歩いていても面白くもなんともない。

渡りきったらすぐに右に曲がってしばらく歩くと鴨川に出ます。そこを渡ると、ほどなく三十三間堂の塀にぶつかりました。それを左にたどると途中に軒先に土産物を並べた瀟洒なお店があります。

やっと京都らしい雰囲気のあるところへ来ました。そこを過ぎると大きな通りに出ました。その角が三十三間堂の正面入口です。

こちらは大分観光客がうろついており賑わいを見せております。

ここも高校の修学旅行以来、60年ぶりの訪問です。この頃より少し足が痛くなりだしました。うえ~またかいな。入鹿様の祟じゃ~。拝観料¥600を奉納し寺院内へ。


靴を脱いで本堂に上がります。靴を脱いだので足の痛みが和らぎました。上履きで歩けるのがありがたい。

本堂内に入り仏様を拝観させていただきます。

数多くの仏様が居並ぶ様は荘厳そのもので、すごいの一語に尽きます。全部で1001体あるそうな。(館内撮影厳禁です念のため・・HPより流用)

12時45分三十三間堂を辞し、ここから歩いて5分ほどのところにある豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘で有名な方広寺へと向かいます。

12時55分、方広寺に到着。このお寺は豊臣家ゆかりのお寺で隣には豊国神社があります。

境内にはいるとその鐘はすぐに分かりました。
 問題の文言は悠久の時を超えて今もくっきりと残っていました。

山爺の一言メモ】

方広寺の梵鐘事件
関ヶ原の戦い以降天下を握った家康だが依然として豊臣家は財力を温存し脅威そのものであった。家康はその財力を削ごうと悪巧みを画策!。豊臣秀頼と淀殿に『戦乱で荒れた寺社の再建をして功徳を施しなされ。さすれば太閤殿下も浮かばれようぞ』と提案。方広寺もこの計略に引っかかった豊臣家により再建された寺の一つでした。

ところが再建した梵鐘の文字を見とがめて家康側は難癖をつけます。長~い漢詩の中から”国家安康” ”君臣豊楽”の文字を見つけ出し”国家安康”は家康の名前を分断し呪い殺す策だとか、”君臣豊楽”は皆んなが豊臣家の家来になって豊臣家がますます栄えるのじゃ~という呪詛が含まれている。といった、なんともひどい言いがかりをつけます。

結局これを契機に豊臣と徳川は敵対関係になり大阪冬の陣・夏の陣を引き起こし豊臣家を滅亡に追いやります。それにしてもよく見つけたねえ。ヤーさん顔負けの難癖のつけようぶりです。

この言いがかりをつけたのは臨済宗の高僧、金地院崇伝とされているが別説では天台宗の高僧、南海坊天海が絡んでいるとも。この天海こそ俗説では家康の計略のお先棒を担ぎ本能寺の変を引き起こした明智光秀そのもので、その後、秀吉との決戦に敗れたため天海僧正として家康にかくまわれたと言う。


隣の豊国神社にも参拝しました。方広寺・豊国神社とも拝観料は取られません。豊臣家、滅んだといえども未だ財力は豊富なようです。

13時5分神社を後にして京阪線七条駅から神宮丸太町まで移動します。ここから東に20分も歩けば金戒光明寺です。

このお寺は幕末に京都守護職という貧乏くじを引かされた会津藩主松平容保公が藩士千名を引き連れてこの寺に入り会津藩本陣を置いた所で幕末の歴史愛好家には外せない観光スポットです。

訪れてみて何故会津藩が本陣を置いたかよく分かりました。大規模な寺院で山の中腹にあり大きな石垣に囲まれています。まるで城郭です。

これでは組織的な動きの出来ない過激派浪士ごときでは容易に攻め込めません。

 本堂に通じる石段を登ります。この石段は歴代の新選組の時代劇で何度もロケに使われた石段で見覚えがあります。

ここを近藤勇や土方歳三が松平容保公に面接に、あるいは見回組の佐々木只三郎が会津本陣にいた実兄、手代木直衛門に会いに来て登り降りしたかと思うと感慨もひとしおです。
 会津藩士殉難者の墓という標が建っていました。それに従って歩いてゆくと、この京都で非業の死を遂げた会津藩士の方々のお墓に着きました。3~4人の人が墓参りに来ており線香の煙が上がっていました。会津藩の身内の方々でしょうか。

おびただしい墓石群が静まり返った山内に建っていました。その数、300余り、墓碑の文字を読んでみるとほとんどが慶応3年か4年(明治元年)の没です。3年は禁門の変、4年は鳥羽伏見の戦いで戦死された方々でしょう。会津猪苗代〇〇と地名の入った墓碑もありました。

はるばる京都までやってきて再び故郷を見ることともなく虚しく散っていった会津藩士たちの無念を思うとその心境は如何ばかりか。

厳かな気分で墓地内を歩いていると面白い石仏に出くわしました。このお寺の名物、通称アフロヘアーの阿弥陀仏様です。アフロヘアーなぞなかった時代にこのデフォルメはいったいどうしたことだ。タイムスリップした職人が作ったのかなあ。先ほどの藩士の墓を詣でて沈んだ心が幾分和らぎました。


ここからは京都市内が一望です。

さて次は一旦、神宮丸太町駅に戻り三条駅まで移動、ここから三条大橋、先斗町・花見小路を目指します。

15時15分三条大橋に到着、高札場跡を見学、三条河原に近藤勇の首や足利尊氏の木像が晒され、この高札場に罪状などが掲示されたのかなあ・・と思いを巡らしながら通過します。


その先の三条通りの交差点に佐久間象山・大村益次郎遭難の碑がありました。



さらに三条通りを直進すると池田屋事件の跡があります。今も池田屋という名の居酒屋がちゃっかり経営しています。(当時の池田屋とはなんの関係もないようですが・・)

 三条大通りを渡り一旦、三条大橋方面に戻り小川を右に曲がります。この小川はかの有名な高瀬川です。

田屋跡から川沿いを歩くこと5~6分で土佐藩邸跡に着きました。

ここから右に曲がると河原町大通りに出ます。大通りを渡り左折するとすぐに坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡を見ることが出来ました。

土佐藩邸跡から徒歩5分ほどの距離しかありません。脱藩者とはいえ暗殺当時竜馬は既に一定の地位を得ていたから藩邸に留まることもできたでしょう。

何故安全な土佐藩邸の厄介にならなかったのか不思議です。自由気ままな性格だったから窮屈な藩邸など眼中になかったんかな?

高札場から佐久間象山暗殺現場、池田屋、土佐藩邸、近江屋と歩いてみましたが、これらを全部歩いても15分もかかりません。幕末の大事件の多くがこんな狭い所で起きていたとは改めて驚きました。近江屋から先斗町に行く途中にも本間精一郎の暗殺現場跡に出くわしました。・・まあこの辺一帯は当時も歓楽街だから男どもが集まり易い。そこを狙われたのはなんとなく分かるような気もしますが。

【山爺の一言メモ】

本間精一郎


1834-1862 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保(てんぽう)5年生まれ。江戸にでて勘定奉行川路聖謨(としあきら)の中小姓(ちゅうごしょう)となり,安積艮斎(あさか-ごんさい)にまなぶ。川路にしたがって京都にいき,諸国の勤王派とまじわった。その言動が同志の反感をかい,文久2年閏(うるう)8月20日殺された。29歳。越後(えちご)(新潟県)出身。名は正高。・・口は災いのもととはよく言ったもんだ。


先斗町を軽く覗いてみました。古い町並みには似つかわしくない看板発見です。”京都の団地妻、回転式団地妻なんたらかんたら”と読めます。・・なんじゃこりゃ。いいのかね国際的な観光都市の真ん中に、こんな看板ぶら下げておいて。

時間もなくなって来たので四条大橋を渡り古都の風情の残る祇園花見小路へと急ぎます。


両足の小指付近が当たり猛烈に痛くなってきました。どうも中国製の靴は日本製より同じサイズでも小さめに出来ているようです。参った、参った。

花見小路は16時05分に到着しました。有名なスポットだけに人、人、人で溢れています。それでもさすが京都、風情ある街並みが続いている様は圧巻です。

と、通りの向こうとこちら側(離間距離7~8m)で大声で怒鳴り合う中年男女が・・せっかくの景観もぶち壊しです。



皆んなが大声のする方を振り返ります。賢明なる読者諸君はもうお分かりか?大声の中国語が飛び交っています。どうしてこの国の方々は離れた距離で怒鳴りあ合うのかなあ。そばに来てから話しゃあいいではないか。山爺は中国語はわからないけれど、


『あんた!来てご覧、面白いよ』と手招き、
『おまえこそこっちへ来いよ、面白いぞ』

と怒鳴りあっているようだ。・・こんな光景は東京秋葉原でしょっちゅう目にしています。

せっかちなのか、仲が悪いのか、それにしてもあの大声はなんとかならないのかね。まったく困ったもんだ。

うるさいので1本隣の小路を歩いてみました。良い雰囲気の小料理屋さんが散見されました。皆んな老舗らしい洗練された暖簾を掲げています。値段も、メニューも書いてありません。

入ってみたいけれど、新渡戸さん一人では不安、福沢さんと相談しなけれればなりません。第一に一見さんお断りで門前払いを食うかもしれません。田舎者の山爺には敷居が高いと言うものです。

所在なく散策を続けていると偶然、忠臣蔵の大石内蔵助、西郷隆盛や大久保利通、近藤勇らが足繁く通った京都でも一二の格式高い一力茶屋に出くわしました。

ここが、かの有名な一力かあ!う~ん偉そうな門構えです。一見さんお断りと黒塀が既に無言の圧力をかけております。

図らずも一力茶屋まで”拝観”致しましたので祇園四条駅から京阪線を利用して大阪に戻ることにします。

大阪京橋でJR環状線に乗り換えますが、ここまで¥620、ええ!大阪私鉄安う!!今度から私鉄も利用しなければあかんと思う山爺でありました。

18時に天王寺駅で下車し天王寺公園を横断、新世界へ向かいます。通天閣が良い目印なので夜間でも迷いません。

一年ぶりの新世界です。

 京都の老舗の小料理屋と違い庶民丸出しの飲食店が軒を並べています。ああ!いいなあ。山爺はやはりこちらのほうが馴染みます。ここへ来たらやはり串カツで1杯やるに限ります。
横綱やダルマと言った有名店はすでにお客で1杯なので1
人旅の親爺なんか相手にしてくれないでしょう、敬遠します。フラフラと痛い足を引きずりながら店定めをします。


一昨年来た時は1本¥80の店が目につきましたが今日はそ
のような店はなかなか見つかりません。皆んな¥80の後ろに~がついてます。

お店、軒並み値上がりしているようです。こんなところにもアベノミクスの弊害が現れているようで困ったもんである。

中年のおばちゃん二人が呼び込みしている店の前を通過して中を覗くと適当に空いています。『寄ってかへんか!』
おばちゃんの色気に負けて入店です。

適当に空いていたので見込み通りお酒飲みながらおばちゃん(といっても山爺より随分
若い)や店の主人が話し相手になってくれました。主人曰く、
『うちの野菜は仕入先を国産にこだわっているからね、特にレンコンはお薦め!』

確かに歯ごたえと甘みがある。ほかの野菜も大ぶりに切ってあり、これがまた実にうまい。当たりの店に入ったようだ、よかった、よかった。ビール・お酒・串カツ10本で¥2000チョイ、新世界はやはりいいなあ。

ほろ酔い気分で店を出てました。・・・

17年関西ぶらり旅(前編)・・・完 (後半へと続く)

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