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2025年7月24日木曜日

#愉快な仲間たち・・・25年度山爺の高校クラス会開催記

 
今年も山爺が卒業した高校のクラス会の時期がやって来た。2012年だったと記憶しているが軽い気持ちで引き受けたクラス会の幹事を皆から”幹事長・幹事長”とおだてられて今日まで引き受け続けている。

それまでは高校の所在があるT市に居残って住んでいる面々が交代で日帰り同窓会を開催してくれていた。そんな会合に時折顔を出しては楽しい時を過ごしていたが、ある日いつものようにいい気分で酒を呑んでいたら『たまには県外在住のお前たちも幹事をやれ』とのおしかりを受けた。酔っていたこともあり『おお、同じ会費で温泉宿泊まりで開催してやる』口は災いの元とはよく言ったものだが、日頃、旅行慣れしている山爺、格安温泉行き企画には多少なりとも自信があった。

翌年、念入りに二次会も含めたお泊り同窓会を企画し約束通り日帰りの会と同等の費用で開催した。

宴会のさなか『さすが名幹事長、来年も頼むよ』のおだてに乗せられて翌年も幹事を任されてしまい爾後14年も経ってしまった。・・おいおい、お願いしますって挿絵が違うぞぉ。

PCがなかった時代であれば筆が苦手な山爺、2回目の幹事は当然辞退しただろうがその時は会社勤めで覚えたPCの技能が役に立ちインターネットでの旅館・カラオケ会場などの検索が容易に出来るようになったし、住所録などのデーターベースさえ作ってしまえば開催案内などの書類作成・発送まで2~3日もあれば完了するのでさほど負担にならない。

今となっては良いボケ防止にもなっていると言うものだ。それにしても今持って往復はがきでの開催案内って・・昭和時代のアナクロ人間達ここにあり。

そんな我々だが古希をとうに過ぎて全員が漏れなく後期高齢者の領域に達した昨今、ひとり・またひとりと彼岸側に川を渡ってゆく仲間が目立ってきたのが何とも辛い。去年も11月にK君が、12月にS君が川を越えてしまった。

K君はクラス1の好い男?で会参加の常連でもあった。カラオケも達者だから夜のお店ではずいぶんモテたらしい。

S君は山爺が20代初めの頃に良くつるんで遊んだ間柄だった。彼は新しい物好きで麻雀・ゴルフに手を出し山爺を誘ってくれた。

山歩きに熱中していた山爺を捕まえて『山男ならスキーが出来なくちゃあダメだ』『おお、やってやろうじゃあないか』と売り言葉に買い言葉。福島のスキー場でスキー初体験。やってみたら面白いのなんのって、こうして山爺をスキーにのめり込ませたのも彼であった。

麻雀は初心者同士だけでしばらくの間、安いレートで練習しているうちに上達したのでさほど授業料を払い出すことなく本格麻雀に入り込むことができた。会社での仲間内の腕前は勝ち組側だったと自負している。

スキーもゲレンデを飛び出して今流行りのバックカントリーの真似事も出来るようになり他人に教えられるほど上達した。ゴルフぅわ?・・こいつは難しいねぇ、今持って悩んでますわ。

そして現在、スキーはさすがにとうの昔に辞めたが麻雀はゲームで毎日のように遊んでおりボケ防止に重宝している。またゴルフに至ってはヘボながら今も月一ラウンドしており体力維持に役立っている。二つとも今となっては山爺の貴重な技能であり財産だ。教えてくれたS君には感謝を述べたいところだがその機会もなくなってしまった。

これらを教えてくれた当のS君は飽きっぽい性格だったのか、いずれの趣味も直ぐに辞めてしまったことを付け加えておく。

さて、同窓会はどこに行こうかなあ。幹事長なりたての頃『幹事長の決めたことならどこでも参加します』と殊勝な振る舞いだった面々だったが、さすが10年以上も地元から近い鬼怒川方面ばかり企画していたら『たまには県外で開催を』とついにクレームが出た。

そうは行っても山爺の好む鄙びた山奥の温泉でのんびり露天風呂に浸かって部屋では静かに酒を酌み交わし人生について真摯に語ろうなんて趣味を彼らが持ち合わせているはずもないしなあ。そういう場所なら山爺は何箇所も知っているんだがなあ。

彼らが満足する条件としては①温泉宿で宴会しながら近況交換②カラオケのあるお店で2次会。これが①はともかく②のない催行では面々からの不満ブーたれが目に見えている。

さて、スナックがある温泉街で格安宿がある栃木県外での地域となると茨城・埼玉は望み薄、福島は何箇所かありそうだがT市からは遠い、おのずと群馬方面に目が向いてしまう。

群馬の伊香保あたりに見当をつけて調査開始、順序としてはまずスナック店を見つける。

①一見さんの団体を受け入れてくれる店・・出来れば貸切が望ましい

②料金を事前確定してくれて廉価・明朗会計の店であること

これが探すとなかなか見つからないんだよねえ。こんな苦労、皆んなには分かるかなぁ、分んねえだろうなぁ・・なんとか千歳・・って誰だ・・分んねえだろうなあ。 (^^♪

GoogleMapで伊香保の地図を広げて検索すると出るわ出るわ、10軒近く出てきた。片端からクチコミを読みあさり5軒に絞り電話で様子見。

『もしもし、費用は』『1時間¥3000です』・・次・・ 『90分¥3500で女の子は一人につきチャージ¥1000』??意味不明・・次・・『女の子の連れ出しは出来ないんですよ』『??そんなこと聞いてないよぉ』連れ出してなにするんだ (゚д゚lll) ・・次・・

どうも意味不明の返答が多いなあ。調べてみると伊香保はいかがわしい店も多くて過去に何軒も警察に摘発されていることもあったみたいだ。・・物騒だなあ、伊香保は止めたほうがいいかなあ。

口コミを読んで良心的なお店と評判の店に電話・・『一人¥3500で2時間貸切でよいですよ』・・やった、ついに見つかった。スナックさえ決まればあとは近くの伊藤園の宿に団体予約すればよし、かくて宿泊場所+スナック店を確保し、25年度の同窓会、伊香保温泉の段がまとまった。

今回は山爺含めて9名が参加・・年々あちらが痛い、こちらがダメの故障者も増えて参加者が減り続けている我が同窓生。斯く言う山爺とて山歩きやゴルフの影響か膝痛・腰痛に加えコロナ後遺症の影響?で耳鳴り・めまいと満身創痍の状態だ。いつまで幹事長が務まるか先行き不明だ。同窓会もあと何回開催できるかなあ、毎回大事に催行しなくちゃ。

今回はT市から西に向かうので途中のA市駅から山爺も車に乗せてもらうことにした。10時にA市で無事皆んなと合流、一路、群馬の渋川から伊香保へ・・と思ったら伊香保は通過して草津方面へ進出だと・・??時間があるので八ッ場ダム見学にいくとか。??八ッ場ぁ、ここから遠いぜえ、今からじゃあ3時までに伊香保に戻れないでは?・・山爺の心配なぞどこ

吹く風で一路八ッ場ダムへ・・ようやく2時ころダムへ到着。と思ったら見学もそこそこにここで遅い昼食を摂る。今頃昼食では今夕のバイキング料理は箸が進まないのでは?・・もう、めちゃくちゃや。    Σ(゚д゚;)

3時半に本日の伊藤園の宿にようやく到着、もう受付が始りフロントにお客の列が・・当然山爺は最後尾となるので入室は遅れるなあ・・・なんだかなあ。・・俺だけ伊香保で下ろしてもらえばよかった。と反省しきり。

良いこともありました。車2台に相乗りだから当然ガソリン代は全員で折半になる。取り決めた金額を支払おうと思ったら幹事長はいつも面倒な企画を催行してくれているのでガソリン代は免除というお言葉をいただいた。ありがたく皆さんの御好意に甘えることにしました。こんなことなら今後もT市より西よりの企画をし続けなければと密かに思う山爺でありました。 (^^♪

今日の夕食は伊藤園のバイキングでほかのお客と一緒の会食になるのが少し心配だったが、宿の配慮で団体はバイキング会場とは廊下を隔てた別の小部屋が用意されていた(団体は個人客に迷惑だからかな?・・我が会を含め2組)これはありがたい、これなら少し騒いでも大丈夫だわ。

さて我が会にとって初めてのバイキング会食、当然ながら開会挨拶も、乾杯もなし。めいめいがてんでんバラバラに飲み物や食べ物を取りにゆくので常に空席が目立つ。なんか盛り上がらないなあ。だめだこりゃ!!。

突然”がらがら・がっちゃ~ん!と大騒音。我が朋友が旅館で用意しておいた足の不自由な人用?の台車付きテーブルを目ざとく見つけ、皆んなのために(と思いたいが自分で独占?)ビールを一度に運ぼうとしたまでは良かったが部屋の入口の敷居段差で揺れてビール群が倒れ大惨事が発生した模様です。・・うわぁ~大変だあ。

バイキングは自分の食べる(飲む)分だけその都度取るのが大原則なんだよなあ。係員からの苦情がなくてよかった。

そんな雰囲気で静かに始まった会食だったが時が経つにつれ飲む奴は飲むし食うやつはどんどん食っている。まあ、こんなのも今後ともありかな?と幹事長ひとりごちた。とまれ90分の制限時間内で飲むわ食うわの満腹状態で夕食を終えて各自部屋に戻る。

休む間もあらばこそ次は館外でお楽しみの二次会だ。O君が体調が悪いとかで急遽欠席となったが残り8人は洋服に着替え伊香保名物の坂道をわいわいと登って二次会場のスナックへ向う。なぜ着替えたかって?酔って下駄履き浴衣姿で坂道歩くのは後期高齢者にとって剣呑この上ないじゃあ、あ~りませんんか。転倒→骨折→入院→寝たきり→認知症の図式が1番怖いです。こうなったら幹事長の寝覚めも悪いと言うもんです。

息が上がる前に目的のお店前に到着した。どんなお店なのか入るまでは気がかりだったが入ってみるとなかなか雰囲気の良さそうなお店である。これで2時間貸切なら文句なし。まずは乾杯で盛り上がる。

開催案内状に『伊香保は坂道が多くスナックまでも坂道、泥酔厳禁』と注意していたのとバイキング夕食で勝手が違ったのか皆さんまだシラフのようでなかなかエンジンが掛からない。いつもと違い妙にお行儀がよい。エンジンが掛りだしたのは小一時間過ぎてから・・こうして伊香保の夜は過ぎてゆきました。

楽しかった二次会も終わり坂道をめいめいがトボトボ下り旅館に戻る。山爺も戻りながら途中のコンビニで寝酒用に少しお酒を買おうと立ち寄るとY君がのこのこ付いてきた。焼酎の小瓶を買おうとすると『それじゃあダメだこれにしろ』・・二階堂(焼酎)の大瓶を指す・・誰が飲むんだよ今からこんなに。・・氷も小さなパックを入れようとするとまたも口出し 『ダメ、ダメこれを2個』1番大きなパックを指差す。

この男、酔うとやたら指示をする悪い癖がある。宴会でも酔うと相手を指さしながら『こらあ、俺の話を聴けぃ』が常だ。悪い奴がついてきたもんだ。ここは逆らわず言う通りにするしかない。結局大きなレジ袋をぶら下げての帰還となってしまった。

部屋に持ち込んでも結局飲んだのは三分の一ほど、指示した当人は飲むこともなくさったと寝てしまう始末。・・注文は何だったんだよぉ??。

結局残りは山爺が持ち帰る。・・昨年に続き今年も戦利品ゲット、これはこれでありがたい。氷もほとんど消費することなく誰かが持ち込んだクーラバッグの中へと消えた。

翌朝、玄関前で記念撮影。来年も元気で再会しようと誓いあった。

さて、このまま帰途に着く面々ではない。自営業の会員(複数)は昔から『早く帰っても仕方がない』とのたまう。思うに早く帰ると仕事をしなければ(やらされる?)ならないからだろう。かくて残りの参加者は彼らに引きずり回される(あるいは好んで)ことになる。

今回は帰路とは反対方向の吹割の滝を見にゆくことになった。山爺『吹割の滝ぃ』あそこは3回も行ったことがあるんだよなあ。車相乗りの都合上わがままは許されない。ここは付き合うしかない。

吹割の滝に向かう前に伊香保神社がある伊香保山頂方面へと向かう。伊香保温泉の名物、石段は風情があり是非とも立ち寄って欲しいところなのだが歩くのは5分でも嫌という面々、昨夜も今日も誰も立ち寄らないようだ。

伊香保神社はその石段のてっぺんに有り歩くと体力と時間が掛かり大変だがさすがは車、数分であっという間に着いてしまう。

ここの見所は伊香保温泉の源泉(右図)が見られることにあるのだが立ち寄ったのは山爺含めて数人だけで他はどこを見るでもなく付近をぶらぶらしているだけ。

風情のある公共露天風呂もあるのだが誰も入ろうとは言わない。

何を考えて行動しているんだろう。彼らのコンセプトがどこにあるのかイマイチわからない山爺でありました。




さて、伊香保を後にして目的地の吹割の滝へ到着。滝へは駐車場から相当歩いて下って行き、また坂道を登り返して戻らなければならないのだが皆さん、いそいそと降りてゆく。
えぇ~っ歩くの嫌いじゃあないのお。わからんなあ。彼らの行動基準は・・・

さて、吹割の滝も観光したので、ようやくここからUターンして帰途へ、あとのイベントは昼食かな。どこに立ち寄るのかなあ?

沼田市の手前の国道で突然先頭車がとあるお店の駐車場に入る。

ん、ん、どこだここは??。看板にもつ煮と書いてある。まさかここで昼食?いっぱい人が並んでるじゃん。

飲食店に限らず山爺はこういう行列のできる店は好みじゃあないんだよなあ。並んでも抵抗がないのはスキー場のリフト位のもんである。

飲食店はなおさらのこと。ましてやもつ煮屋とは、最悪の条件が重なっている。

山爺はよく煮込んだもつ煮にたっぷりネギのかかったものなら口に合うんだが・・それなら酒のツマミとして食えるが、もつ煮をおかずに飯食うなんては考えたこともない。

煮込み具合いが不十分でもつの形状がホース状に残っているものは苦手なんだよなあ。あの噛みごたえが嫌だ。ホース状のもつをどのタイミングで飲み込んだら良いのやら・・タイミングを失うといつまでもくちゃくちゃ噛んでいなければならない。そうなると最悪吐き出すことに・・。

先に並んでいる朋友達に『並ぶのお』と聞くとニッコリ笑顔で『すぐに順番が来るよ』なるほど15分も並んでいると順番が来た。が、席は空いた順だから各自ばらばらに着席。しかも背中の後ろはすぐガラス戸で狭いこと。それに引き換えカウンター内の広いこと。業員優先か~い、この店は、お客様は神様じゃあないんかい?。

もつ煮定食の半ライスというものを注文、値段は¥590?だったかな、確かに安いのは認めます

やがて定食が運ばれてきた。うわあ~もつの姿ホース観丸見えだあ。お品書きには確かにもつ煮定食と書いてありもつ煮込み定食とは書いてない。看板に偽りはないのだが。トホホ
 (;ω;)

店員さんがテーブルにトレーを縦置きに置いていったので横に直そうとすると隣の見ず知らずのおっさんが、『ここではトレーを縦にして食べるんです』と”大きなお世話”を言う。

どう食おうが俺の勝手だろうと思いつつ仕方ないから縦長にして食べ始める。食いづらいなあ。だからこういう混雑した店は売り手市場だから嫌なんだよ。店のルールを勝手に決めて偉そうにお客に強要する。

また客からしてそういうのを喜んで吹聴するアホもいるから嫌になっちゃう。

半ライスからして丼大盛りじゃん・・だったら半ライスと書くなよ。普通盛だろうこれは、じゃあ大盛りはどんだけ、嫌だねえ話題作りに常識はずれの量を半ライスと表現する見え見えのPR作戦は。

ホース状のもつを一掴み、『ど~か、生臭くありませんように・弾力がありませんように』と祈りつつ口に放り込む。ん、ん、見かけによらず柔らかい。よく煮えてるなあ。これなら何とかいけるわ。うん、まあまあじゃん。やれやれ一安心とごちた。

と、目の前を旨そうなラーメンが通り過ぎて行くではないか。おやあ、もつ煮以外のメニューを注文するの有りかい。おいらもそうすれば良かったなあと思ったのも後の祭り。後悔しきりの山爺でありました。

【川柳】
・後期など おおきなお世話と 高齢者
・古希からは 順序が読めない 同窓生 ・・卒業・成人・還暦・古希と横並びだったが。
・ぶつ切りを 止めりゃ好かれる もつ煮かな
 
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②作者以外の方による無断転載は禁止で、行った場合、著作権法の違反となります。

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2025年5月16日金曜日

#国指定の名勝旧古河庭園を訪ねて

今年の春は(も、)温暖前線と寒冷前線が交互に重なり合い天候が安定しない。これも北極付近の気団の蛇行のせいなのだろうか。

蛇行の仕組みを山爺はイマイチ理解できていないが山爺の若い頃はもっと素直に季節が変わっていたような気がする。

5月の連休中も変動気象により高山では降雪が続いているようだ。

北アの燕山荘のブログ(画像は燕山荘)によれば5月12日現在も降雪が続いており連日除雪に追われているとか。

この気象のせいなのか今年の5月連休を挟んだ期間、山の遭難がメチャ多いのにはいささかうんざりしている。これについては別の機会に述べようと思っている。

それでも下界では5月に入ると日替わりでよい陽気がぽつぽつと来るようになった。5月4日(日)がよいお天気との天気予報を得たので前々から行きたかった東京の駒込にあるバラ園で有名な”国指定名勝旧古河(ふるかわ)庭園”に行ってみよう。この時期は春のバラが咲き誇っているに違いない。

【山爺の一言メモ】

旧古河庭園

都内の駒込駅から徒歩12分・京浜東北線上中里駅から徒歩7分にあるおしゃれな洋館がある庭園で明治の元勲陸奥宗光の邸宅であったが宗光の次男が古河家の養子になった時に古河家の所有となった。

建物は鹿鳴館・ニコライ堂を手がけた英国の建築家ジョサイア・コンドルの設計によるものである。平成18年(2006)1月に旧古河氏庭園(文化財指定名称)として国の名勝に指定された。

陸奥宗光以前の所有が誰のものであったか良くわからないが、この辺一帯の染井から上駒込は植木の生産地で旧古河庭園あたりは西ヶ原牡丹園という植木御用邸園があったようです。維新のドサクサに乗じて江戸の所有者(御用邸園というから徳川家の所有?)からタダ同然で取り上げたに違い。(あくまで山爺の私見ですから・・ (^^♪)

今の所有者はというと隆盛を極めた財閥古河家も太平洋戦争後、進駐軍政策により公職追放されて解体。遺産相続税未納によりこの邸宅も大蔵省へ物納となった。因果応報・・いやはやなんとも、世の中うまくいかないもんですなあ。その後1955年、国から東京都に払い下げられ都市公園となった。都市公園になるまで邸宅・庭園は荒れ放題で洋館はお化け屋敷と言われていた。

駒込駅を出て右に歩き出す。









かなりの坂道を降りてまた登り返すこと13~15分もすると立派な門構えの公園についた。





お天気も良くなった日曜日だ。人だかりがすごい。
入場料は一般人¥150、65歳以上は半額以下の¥70、当然山爺は¥70・・小銭入れからお金を出そうとポケットに手を突っ込み準備をしていると小さな看板が立っている。


なになに、本日はみどりの日で無料だって。たとえ¥70と言えども無料なのはありがたい。なんか随分と得した心持ちだ。昭和天皇様ぁ、ありがとうございます。

中に入るといきなり見覚えのある石づくりの洋館がで~んと現れました。おお、いいねえ。絵になるねえ。早速この間手に入れたニコンD3100を取り出して18-70mmレンズを装着する。(この画像はニコンのコンパクトカメラで撮影)
ここからはニコンD3100による撮影画像になります。どうでしょうか。『あまり変わらない』ですとう。・・・ (゚д゚)!


鬱蒼とした木々の中に茶室があります。この広い敷地といい豪奢な洋館、茶室といい贅の限りである。

いくら明治維新に貢献したからとはいえ陸奥宗光(1844生)は元を糺せば紀州の下級藩士?の6男で幕末期は高野山の寺男などを経て江戸に出るが、この頃は困窮の極みだったらしい。

宗光に限らず困窮の極みの藩士だった者が明治維新で破格の地位を与えられて大出世、財を成し豪奢な邸宅を構えて贅沢三昧をした者は十指に余りある。

これを苦々しく思っていたのがあの西郷隆盛だ。大久保利通・木戸孝允・高杉晋作らが豪華な邸宅と妾を何人も囲っているのを日頃から揶揄していたようです。
あの伊藤博文からして女好きが高じて明治天皇に『いい加減にしなさい』とたしなめられている。飛鳥時代よりこのかた天皇に女性問題で叱咤された政府高官は後にも先にも伊藤博文ただひとり、もはや病気と言って良い。

隆盛も草葉の陰で苦虫を噛み締めながら『おいどんが目指した維新はこんなもんではなかごわす』と嘆いていただろう。

宗光さん、こんな滝まで作っちゃってからに・・宗光さんが作ったとは限らないが贅沢な拵えですなあ。

総じて長州閥に贅沢三昧者が多いのはなぜだろう。筆頭の木戸孝允が贅沢三昧したからだろうか。一方の薩摩閥は筆頭の西郷隆盛・大山巌らが質素だったからか他も右へ倣え。

加えて西南戦争や暗殺で西郷隆盛・大久保利通が相次いでこの世を去ってしまったので薩摩閥は急速に衰退、ほかの維新の立役者たちも貧乏くじを引かざるをなかった。♫ちゃんちゃん。

それにしても立派な庭園だ。宗光以前の所有者の無念さ、いかばかりか。

欝蒼とした庭園を堪能して再び陽のあたる洋館の前に出ました。バラのタワーが美しい。

周囲には春のバラが咲き誇ってます。

山爺は草花には疎いのでバラの開花期はよく知りませんでしたが調べてみたら種類によって咲き方に違いがあるんだそうです。開花時期は関東地方での時期です。

①1季咲き・・4~5月に1回だけしか咲かない。

②四季咲き・・咲いたあと剪定すれば春・夏・秋と年3回以上繰り返し咲く種類で15℃以上に保てば冬も咲く・・ははは、年中咲っぱなしの色情花、人間にもいるなあ、そういう奴。

③返り咲き・・春咲いたあとに夏から秋にかけて不規則に咲く・・こういう人間もいるなあ。気まぐれに惚れ込むタイプ・・って俺もかい?。

中でも春に咲くバラは長い冬に栄養を蓄えて一気に咲くので大型で美しいバラが多いんだそうです。・・・・分かりましたか?為になったねえ。(もう中学生の声色で)

以下、SNSの図鑑(バラの品種一覧:和名索引 – バラ百科)により当て推量で品種など書き込みますが間違っていたらご容赦。  m(_ _)m

???



いかにもバラといった姿。チェリッシュ?
もうわからん。
オリビア?

素人はやはり判別できませんなあ。

いい色出してますねえ。紫色は珍しいのかな。

スイート・ムーン:四季咲で日本人が作出。
このバラはよく見かけますね。

カクテルという品種で四季咲です。










??? とにかく綺麗だわ・・(^v^)





こういうのは山爺の趣味じゃあないなあ。
なんか毒々しい。
  バラが主に咲いている斜面の遠景です。

バラを配して洋館を撮ってみました。
再び古河邸の全景を収めてみました。
やはりよい眺めですねえ。

小江戸のような町並みもよいですが。
明治・大正期の洋館も絵になります。

今度、明治村に行ってみようかなあ。




いやあ、無料でこれだけの眼福を得るとは、今日は素晴らしい日になりました。

【川柳】

・古河邸 紆余曲折で 公園に
・古河邸 華麗の裏に 歴史有り

・元勲は 妾 豪邸 競い合い
・未聞なり 色情 お上に諭されて

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2025年5月6日火曜日

#三重の関宿を訪ねて(高速バスぶらり旅)

3月に入って今年も春季の青春18切符(3月1日~4月10日)の発売時期がやって来た。

青春18切符とはJRが季節限定で発行する切符で3日間¥10000、5日間¥12050で期間内に各駅停車限定ながらどこまでも乗れる。金はないけど暇がたんとある山爺のような貧民のためにあるような、何ともありがたいサービスだ。去年の春もこれを利用して岡崎城や八丁味噌の蔵元、名古屋有松地区の宿場町を楽しく散策した。

今年はどこに行こうか・・・Googlemapで古い町並みや天守閣と打ち込んで歴史上に関わる史跡の多い中部・関西周辺を連日のように検索しまくっていると、お城では豊田市にある吉田城(画像)名古屋にある清洲城、伊賀上野にある伊賀上野城などがヒットした。

古い町並み候補では東海道の宿場町だった三重にある関宿(画像)がヒットした。

関宿は山爺がかねてから訪れたい地域のひとつで東海道53次のなかで最も美しい町並みが保存されているとされている地域だ。

名古屋市内を拠点に豊田市にある吉田城と関宿をセットでぶらり旅したいなあ。


ちなみに東海道五十三次とはお江戸日本橋を起点に品川→川崎→神奈川宿と続き、終点は京都三条大橋までの宿場町を指す。そのルーツは古く、奈良時代にはその原型ができているが(伊勢の宿場から常陸国の宿場まで55が存在している)本格的に整備されたのは江戸時代の初期、参勤交代制度の導入が大きく影響している。関宿は江戸から数えて47番目の宿場だ。


関宿の歴史は古く軍事上の理由から670年頃に鈴鹿の関・愛発の関(越前)不破の関(美濃)として整備された地域だ。・・・日本三関と呼ぶそうで、これが関宿の名前のルーツでもある。

3月上旬はまだまだ寒くて散策には適しないので3月20日以降を狙い目に計画を練っていたが一向に暖かくならない。桜が咲く頃になると温暖と寒冷の前線が入り混じり連日雨模様の天候不順が続き、様子見していたらあれよあれよという間に4月になってしまった。

18切符は利用出来そうにないなあ。利用交通機関の見直し・・といっても貧民爺には飛行機・新幹線の利用は御法度というより端から眼中にない。ここは高速バスに頼ろう。

2週間天気予報によれば4月20日前後が天候が安定していそうなのでその前後の東京発名古屋行の高速バス便の料金を検索すると名古屋直通便で土曜日発が¥4000・月曜戻り¥3100と格安便があるではないか。

さらに安い便もあるがそれは路線便だ。路線便は静岡あたりから乗客の乗り降りのために高速出たり入ったりを繰り返すのが難点だ。往路便が少々割高(といっても¥300)だが奮発し直行便にしよう。復路便は幸い格安直行便がある。

早速予約して乗車券を確保した。バス便は列車と違い、一度乗ったら寝ていても目的地まで運んでくれるから乗り過ごす心配がない。楽ちんこの上ない移動手段だ。名古屋の途中にある豊田市の吉田城はこの時点で訪問取りやめ。往路便が14時45分名古屋着なので名古屋市から電車で10分ほどの近郊にある清洲城を訪ねてみよう。あの織田信長亡き後の跡目争いの清洲会議で有名なお城なのでこれも楽しみだ。

4月19日(土)早朝に家を出て8時30分に東京駅到着。バスの発車は9時30分なのにずいぶん余裕の到着だがこれには訳があります。

この日は山手線の外回りが工事のため上野~東京~大崎が12時まで全面ストップで湘南上野線だけが動くという異常事態日なのです。なにがあるかわからないので早めに・・”地下鉄使えば良いではないか”ですって。

どうしても東京駅構内に立ち寄らなければならない用事があるんです。・・食いたい駅弁がある。(なんとも幼稚な理由ですこと)

結果的には湘南線がいつもより増便していたので予定より早く着きました。人混みをかき分け知る人ぞ知る弁当屋の祭りへ。

目指す柿の葉ずしを・・・・あった、あった、いっぱいあるゾ。今回も無事購入です。6個入り¥1290也。旨いんだなあこれが・・ (^^♪

さてバスに乗車する前に生理現象を済ませておこう。高速バス内にトイレがあると言っても衆人注目の中で長時間のおこもりははばかられる(この親爺大だなあ?と思われるのが嫌)

東京駅の地下トイレの個室に入ってだめ押し(出し?)しておこう。入って見たら驚いた。なんとまあ豪華なトイレだこと。液晶テレビまで付いてるゾ。これで無料だから恐れ入ります。

外国人が日本に来て驚く上位に公共トイレが無料で清潔、豪華・便利さが挙げられていますがこれが知れたらまたYouTubeなどに投稿されて物議をかもしそうだ。

いくらなんでもこれはやりすぎだろう。資源の無駄遣いと非難されても仕方がない。

さて、頃合もよし、良い時間になったので地上に出て八重洲口の高速バス乗り場へ・・出発便の確認。あるある、9:30東京発名古屋行直行便。
5分前に手持ちの乗車券?のQRコードを読み取られて無事乗車。最近の乗車券は薄っぺらい紙片にモノクロの四角い模様があるだけ、権威というか貫禄がまるでない。以前の切符はコンビニで支払いを済ませるとカラー刷りの綺麗な切符がもらえたのですが・・・

なんとも頼りない紙片なので読み取り機で無事読み終わるまでは油断がならない・・と思うのは時代遅れの山爺だけか・・ (^^♪ 

今はさらに進んで携帯に自分で乗車データーを読み取り係員に提示する傾向にある。現に今日の乗車時に携帯見せてチェックを受けている人もいる。紙 に書いた情報で長いあいだ生きながらえて来た山爺は馴染めないなあ。

指定の通路席(足が伸ばせるので意識的に通路側予約)を確認し荷物を網棚へ載せて着席、まずはやれやれだ。

土曜日なので座席はほぼ満席です。山爺の隣席は当初空いていたのでラッキーと思っていたが時間間際にうら若いお嬢様が着席した。いいねえ。一期一会ここにあり。定刻通りバスが発車した。

次の休憩は足柄SA、約2時間後だ。足柄SAは晴れていれば富士山が間近に見える。それもまた楽しみ。それまで一眠り。

直行バスは途中乗降する客がいないのでセキリュティは路線便より◎。
座席はリクライニングシートで座り心地も◎、床面はフローリングと靴を脱ぐことも出来るので具合が良い。で言うことなし。


快適なバス旅だが土曜日で好天に恵まれたせいか道路上は車列が多めで時々のろのろ走行しているのが気になる。足柄SAに30分ほど遅れて到着。ここで20分の休憩。

天気は良いのだが残念ながら富士山方面は雲が掛かっており傍観出来ませんでした。


晴れていればこんなふうに木花開耶姫(富士山の主祭神)が望めたんですがねえ。





用達を済ませてSA内をしばしウロウロして茶菓子を1個だけ購入。

いい大人がこんなことを臆面もなく出来るのもバス旅の楽しみだ。


再びバスは走り出す。12時過ぎたのでお楽しみの駅弁タイム。

隣のお嬢さんも先ほどなにかぱくついていたので山爺も遠慮なく駅弁を広げる。

柿の葉に包まれた6個の寿司。中身はたい・たい・さけ・さけ・さば・さば・・酢が効いていて旨いんだなあこれが。日本酒があれば最高なんだが、公共の車中なればこれだけはご法度だな。

あっという間に6個平らげて後片付け。次は読書タイム。

相変わらずバスは時々のろのろ運転を繰り返す。
次の休憩SA(藤枝SA)に着きました・・ちいさなSAです。時間が遅れているのでいつもと違うSAに停車したようです。

結局、定刻より50分遅れの15時35分に名古屋駅バスターミナルに到着しました。高速バスは快適なんだけれども当たり前のように到着遅延するのが唯一の欠点なんですよねえ。

今から清洲城、どうしようかなあ。15時50分の電車があるが、お城の閉館時間は16時30分だからタクシー利用すればなんとかなるかな。

15時57分清洲駅到着。あれえ、小さな駅だなあ。タクシーがいない。

下調べによれば駅から清洲城まで徒歩17分くらい。16時30分前には着くから何とか頼み込めば入れるのでは・・と歩き出した。

線路沿いを図の赤線通りに歩けば無事到着出来たのだが途中が道路工事中で散水車が水撒いているのに出くわした。

やむなく迂回を強いられた。これが災いし徐々に緑線のようなあらぬ方向へ・・行けども行けども清洲城が見えない。

散歩中のご婦人に『清洲城はどの辺ですか?』『この川沿いをしばらくゆくと・・・赤い橋が』『どーもすいません』やっちまいました。やはり初めてのところは磁石で方角を確認しながら進まなければいけないなあ、と反省する山爺であります。

清洲城からどんどん離れた道を進んでいたようです。時計を見ると16時20分を回った。16時30分までには着きそうもない

赤い橋に到着した時点で16時30分を過ぎてしまい万事休す。お城のてっぺんからの眺望や展示しているお宝を見ることが出来なくなりました。♫ちゃんちゃん。

仕方ないから外回りの写真撮影で我慢・我慢。小ぶりではありますがよく整った美しいお城です。

お城の券売所はカーテンが降りており人影はなし。よく見ると入場受付は16時までと書いてある。なあんだ端から間に合わなかったんだ。

【山爺の一言メモ】

清洲城は1405年遠江・越前守護の管領斯波義重が築城。1555年に織田信長が入城し大改築、10年間住んだ。この間、ここから桶狭間の合戦に出撃し今川義元を討ち取った。

1582年信長が本能寺で没すると羽柴秀吉・柴田勝家・信長の子等による跡目相続の打ち合わせの会場、いわゆる清洲会議で有名な城である。

関ヶ原の合戦後は徳川勢力の居城となり変遷。1613年名古屋城の完成とともに廃城となった。近世の開発により城址のほとんどが消失し長い間石垣の一部(画像)だけが残存し公園と化してしまっていた。残存石垣の一部は形状から野面積みのようです。

1989年清洲町100周年行事で旧跡地の近隣の広場を利用して鉄筋コンクリートにより模擬天守として再建された。

つまり今お城がたっている場所は過去の清洲城のあつた場所ではないのです。

清洲城は絵図面等の資料が乏しかったので多分に想像中心で再建したと観光案内に書いてあった。なあんだ忠実な再建じゃあないんだ、それにしても”多分に想像中心”で建ててしまうとは随分と乱暴な話ですなあ。そういえば石垣の積み方が立派すぎる。この積み方は打ち込み接ぎ(はぎ)で江戸時代以降の施工方法だ。

清洲城は戦国時の築城だからごろごろ石を積み上げる野面積みだったんじゃあないのかな?。

去年の12月に見た遠州・掛川城の再建姿勢(木造による史実通りの再建)とずいぶん違うなあ。清洲城を再建した当時は清洲町(現清洲市)だから予算が乏しかったんだろうなあ・・と勝手に想像する山爺でありました。

でも、お城を持っている市なんてそうざらにある訳じゃあない。清洲市さんが羨ましいです。頑張ってますねえ。

さて、明日は関宿、長丁場の散策が予想される。名古屋に戻りサウナで汗を流してちょいと一杯やって、疲れをとるとするか。


翌朝、名古屋駅から関西本線で亀山市に向かう。名古屋から亀山までがJR東海の経営で亀山からひと駅の関はJR西日本の管轄です。












亀山までは画像のようないわゆる数量編成の列車で移動、亀山駅に11時7分に到着。

関へはここからひと駅ですが経営母体が違うので?列車が代わる乗継になります。



11時14分の電車を待っているとやってきたのはなんと1両編成(1両で編成と言うのか?)の車両がやってくるではありませんか。天下の関西本線がたった1両!魂消たなあ。

関西は私鉄が幅利かせて経営が苦しいのか関西人は元来渋ちんだから(失礼しました)儲からない路線には容赦なく合理化するのか、どうなんだろう。

乗り込むと路線バスと同じワンマン運転だ。乗車しようとICカードPASMOを出すと使えないとの回答。

え~っ使えないのお!!名古屋や大阪の私鉄でさえ使えたPASMOが使えないとは、またまた魂消た。

運転手さんに名古屋から関まで乗車する旨を告げて現金精算してもらいお手間をかけてしまいました。その間後ろに行列ができてしまい迷惑を。・・何だかなあ。

関駅に11時20分到着、わあ、小さな駅だなあ。これではコインロッカーは望めそうにないなあ・・半ば諦めて駅舎に入るとなんとコインロッカーが大小8個あるではないか。

8個とも利用者なしでしかも¥300と安い。早速カメラ取り出し余計な荷物はコインロッカーへ。これでずいぶん行動が楽になりました。
駅前に出てみると思ったより閑散として駅前商店といった物はは皆無で歩道橋がひとつあるだけ。観光客の姿はおろか人気がない。ここが53次で有名な関宿?およそ観光地らしくないが山爺としてはこういう風情は大歓迎。

下調べでは駅前の道を北に真っ直ぐに5分も歩くと東西に道が別れ旧東海道が現れるのだが・・歩道橋の先にある細い道がそうなのかなあ、とちょい不安になる。

あらかじめ調べておいた関宿の案内HPの通り5分も歩くと目の前に時代がかった百五銀行がいきなりあらわれた。


左右に目をやると江戸時代にタイムスリップしたような光景が飛び込んできた。うわあ、なんだこりゃ、いいねえ。日曜日なのに人通りはまばら、撮影にもってこいではないか。

まずは右に折れて木崎の町並みと呼ばれている方向へ
瀬戸物屋さんかな。現役で商売しています。

お昼時なのに人の通りがありません。時折、窮屈そうに乗用車が通っていくだけです。いいね、いいね、江戸時代の幅のまんまの通りなんだろうなあ、今にも弥次さん・喜多さんが向こうからやって来そうな雰囲気です。来てよかったと山爺大感激。

現役商売の油屋さんでしょうか。店構えが江戸時代そのもの。郵便受けまで古めかしいものが設置してある。町ぐるみ取り組んでいる姿勢の高さが伺えますねえ。箱に『書状集箱』と書いてある。粋な名前です。
常夜灯がありその奥に一里塚が保存されていました。

ここが関宿東の辻、江戸方面からの旅人が最初に目にする光景だったのかな。宿屋の客引きがわんさといたんだろうなあ。
飯盛女が(作者注:飯盛女=私娼)ちょいとお兄さん。サービスするから〇〇屋にお寄りなさいなとかなんとか・・鼻の下のばして引きずり込まれてしまうのは古今東西、今も昔も同んなじ・・わはは。

八百屋兼魚屋さん。ミニスーパーマーケットあるいはコンビニと言ったお店かな。塩が専売のころの名残『塩』の看板が粋ですねえ。

塩が専売制になったのは明治37年(1904年)日露戦争の戦費調達が目的で始まった。戦費調達が目的なんだから終戦になったらすぐに止めそうなもんだけれどその後、延々と続いて廃止になったのはなんと平成9年(1997年)。
ガソリン税とおんなじで臨時と称して始めても美味しい税収は絶対に止めようとしない。役人どものずる賢さは今も昔も変わらない。

山車会館があったので入ってみました。山車会館・まちなみ資料館・旅籠玉屋資料館の3箇所まとめて¥500は安い。

関宿には昔は14台山車があり毎年賑わったが今は4台が残り祭りを続けているとか。古めかしい神輿が飾ってありました。昔は今のうなキンキラリンの飾り金具はなかったのかな?渋い作りです。

関の山車(せきのやま)と記した手ぬぐいが陳列してありなにやら解説が・・。

よく言う『頑張ってもこれが関の山』といった言い回し『関の山』の語源がこの山車なんだそうです。知らなかったなあ。

関の山車(画像)は豪華絢爛でこれ以上のものはない、転じて一生懸命にやってもこれが手一杯と言った意味なのですが、若い頃より語源も知らずに『そのへんが関の山だよ』と曰わつていた山爺、恥じ入るばかりです。

旅をすると思わぬ所で賢くなりますわ。

再び駅から来た道まで戻りました。

更に西に向かって中町と呼ばれる町並みの方面へ進んで行くと町並みの向こうに大きな山が見えます。鈴鹿山脈です。


関宿をすぎると鈴鹿山脈の山路に入り鈴鹿峠(357m)を越えるという難所が待っているので江戸方面からやって来た旅人は大方この宿に泊まったようです。(本音は飯盛女が目当てで投宿?:生真面目な人はまだ行けるよと、6.6km先の鈴鹿峠直下にある坂下宿まで足を延ばしたんだろうなあ)
次の資料館”まちなみ資料館”に入ってみます。

無造作に置いてある自転車です。レプリカではなく本物のようですが何の説明もないので年代は不明です。




かつて栄えた関宿のお大尽の家を利用した資料館で見ごたえ十分。画像は昔の帳場の調度品です。






銭箱2点、昔の金庫と言うよりその日の売り上げを出し入れするレジスターのようなものかな、手前に木細工が施されロックが掛かるようになっているみたいです。
2階も解放されていて見ることができます。






2階は居住区域というより倉庫だったようで屋根が迫り狭いです。






資料館を出てまた町並み散策へ

眺関亭と呼ばれる場所がありました。2階へ土足のまま無料で上がれます。

ここからの眺めがいいですねえ。町並みを上から俯瞰できます。まずは左手、山並みが見える鈴鹿峠、京都方面。


次が右手の江戸方面の眺めです。






こんなモダンな建物に住んでいる人もいます。
粋だねえ。外装に補助金制度でもあるのかな。

【山爺の一言メモ】

関宿は昭和59年国により文化財保護法第144条に基づき重要伝統的建造物群保存地区に認定され国の重要文化財となっています範囲は東の追分から西の追分間の1.8km江戸時代から明治期に建てられた古い町家200軒に及ぶ。当然保全・復元には助成金が支給される。伝統的建造物の外観維持・復元にかかる費用の8/10 限度額800万円 
建造物以外で外観を建物と調和した形態に変更する事業(修景事業)費用の2/3 限度額300万円・・納得です。


元旅籠玉屋だった資料館に入ってみます。

江戸時代に『関で泊まるなら鶴屋か玉屋』と呼ばれるほど栄えた宿屋を資料館として利用、開放しています。
おっと、いきなり足洗い桶にわらじ、旅籠の雰囲気を出してますねえ。
視線を感じたので見上げると、親爺がこっち見てる。一瞬本物の親爺かと思い、びっくりしたな、もう。
受付のお姉様?の助言に従って上がるのは後回しにして土間を突き抜けて(画像右手のガラス窓は便所)まずは蔵を見よう。

当時の税制(間口の幅で決める)の影響でしょうか隆盛を極めた旅籠でさえ鰻の寝床のような縦長の作りです。
奥まったところにぽつんと蔵が建っていました。






油断すると転げ落ちそうな階段を登り2階へ。

江戸時代はおろか山爺の青年期まで公共の場所以外、家庭の階段などは間取りを多く取るために急階段が多かった。安全性は2の次で落ちるのは自己責任といった考えがまかり通った。




昔は公園や川に防護柵なんかなかったが問題視されることはなかった。”落ちて死んだら本人が間抜けで親の躾が悪い”で済んだ。管理不行き届きとして訴え出るとなんて強欲な、と影で非難されてしまう。。ある意味良い時代だったんですねえ。

2階はミニ展示室みたいになっています。


宿の生活風景を描いた安藤広重作の版画が数点展示してありました。受付嬢の説明ではレプリカではなく全て本物だそうです。

東海道四十七と書いてあるから、ここ玉屋の江戸時代の様子を描いたものなのかな。貴重な絵を拝見しました。
玉屋が隆盛を極めた頃は200人からが宿泊していたとか。

この規模で200人宿泊していたとは、雑踏の極みだったろうねえ。飯盛女は客掛け持ちで大繁盛、中には夜通し待てどやって来ない振られ組もいたんだろうなあ。 (^Д^)




本館にもどり上がらせてもらう。さっきの人形の番頭親爺を横から見る。ここから『〇〇どんお客様をお2階へ案内して』とか言って丁稚や中居に差配していたんだろうなあ。雰囲気出ている。


当時の旅のガイドブックが展示してあります。ガイドブックがあることも驚きですが当時の識字率の高さもすごい。

黒船以降に来日した欧米人が日本人に一目置いた(民度が高く油断がならない)のも、こんなものを実際目にすると頷けます。
中程に坪庭がありました。旅籠としてただ詰め込むだけではなく風情は残し旅人の目を和ませる。

ここなんだよなあ、今の儲け主義の合理化ホテルとの違いは。ア〇マン社長、やたら自画像ばかり載せまくらんと昔の旅籠の心意気を見習ってくれたまい。

各部屋は襖で8畳ほどの部屋に仕切られてますがプライバシーは零の作りです。襖開ければお隣りさんとはすぐ仲良くなっちゃう。

でも、ごまのはい(仲良く近づいて盗みを働く泥棒)も多かったろうから油断は禁物だ、当時の旅は大変だったろうなあ。

こんなふうに休んだんですね。奥に膳部の用意がしてあります。布団は所謂煎餅状態。畳んだり洗濯しやすいようにわざと薄くしたのかな。

文献で読んだことあるけれど宿によってはどてらを支給したそうな。”どてら”わかるかなあ。着物の上から羽織る綿入れ防寒着のことで布団がわりに羽織ったまま寝ることもある。

当時使っていた1階に繋がる階段です。すごく急で階段というより梯子に近い。危険なので利用しないでと注意書きがありました。
江戸時代に酔っ払ってここから落ちた奴、絶対にいたなあ。

ここの展示物は全くのノーガード状態で展示してあります。それだけに見ごたえ十分。

今のところ関宿は外国の方々にあまり知られていないようなので多くは訪れていないようですがK国やC国等の民度の低い見学者が来たら落書き・持ち出しなのど被害に合いそうで心配です。


中町にある現役の郵便局です。中町と呼ばれるくらいだからここが関宿の中心だったようです。





郵便局のそばにあった高札場です。高札場は町の中心に作るのが常だからやはりここが町の中心部だったんですね。

駅から離れていながら、江戸時代から今日まで町の中心で有り続け、駅周辺は閑散としたまま発展しない。こんな町は奇跡に近いのでは。ここはまさに現代からタイムワープした地域だ。

高札場とはお上からのお達しを掲示して皆に判らせるしくみですがこれが通用するのは民達が字が読めることが前提です。

日本という国は物質科学などの文明については遅れを取ったがこと、文化については欧米に引けを取らないどころか抜きん出ている国だったということがよくわかります。

遅れた物質文明にしても265年もの長いあいだ戦争がなかった稀有な国だったからであり、これは誇りに値する。

戦争は良くないことだがそれにより飛行機・船舶・自動車と言った物質文明が発達することも事実である。カゴなどという呑気な乗り物は平和じゃなきゃ絶対に発案されないだろう。

地蔵院というお寺(画像左)の先にまだまだ町並みが続きます。この先は新所町と呼ぶそうで1kmくらい続いて端に西の追分があるようです。

東の追分から西の追分まで1・8kmもあるようなのでじっくり見るには1日では足りません。新所町は次回の楽しみに取っておこう。

 
関西本線の本数が少ないので時間に合わせなくてはいけない。そろそろ名古屋に戻ろう。

今日は移動日、まずは名古屋駅にあるJR高速バス乗り場へ急ぐ。といっても発車までまだ2時間もある。

まずは名古屋駅で家(うち)に土産を買わなければならない。我が家ではお泊りで出かけたら土産を買って帰るのが不文律。

名古屋といえば赤福・ういろう、我が家の大好物なので土産の選択迷うことがない。

時間があるので関西名物の天むす購入(ぷりぷり海老入りの宣伝に釣られて買い求める)してバスの待合所で食しよう。

がぶりと噛み付いた。うへえ~まずい・まずい。なんだこれは、山爺の口に合いません。1食損した気分になった。


定刻通りバスが東京に向かって動き出す。月曜日なので乗客は半分程度で空いている。山爺の列は隣席が空席なので2列専有だ、ラッキー。




途中2回、SAに立ち寄ったがまずい昼食の影響で立ち寄る都度茶菓子を買い、お口直し・・いささか、おやつの食い過ぎとなりました。・・いかんなあ。
月曜日のせいなのか都心に入ってもさほど渋滞せずほぼ定刻に霞ヶ関に到着、次が終点東京駅だがここから渋滞も予想されるのでここで下車しよう。




【川柳】

・黄昏の 清州の城に 爺ひとり
・清洲には 見様でつくった 城もあり
・関宿に 奇跡の旧家 200軒
・関宿は 駅前過疎の 不思議町 
・江戸のまま 関宿にある 家200

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