山爺のお袋さまが正月の8日に亡くなった。2年前に具合が悪くなり入院、その後自宅で療養していたがとうとう力尽きた。98年と10ヶ月の生涯だった。
口さがない人は天寿を全うしたのだからめでたいと言う。肉親にとってこんな無責任な言葉はない。生きとしていけるもの全てに寿命というものがあることは理屈では分かっていることなのだが、山爺にしてみれば1ヶ月でも2ヶ月でも先延ばしで生き続けて欲しかった。
思えば母は女としては幸薄い人生だったかもしれない。40代半ばで夫、つまり山爺の親父に突然失踪された。山爺が高一の頃だ。当時長兄は社会人だったが山爺と妹・弟の3人がまだ未成年。
突然の出来事で当人が一番辛いはずなのに子らに愚痴をこぼすでもなく黙々と働きに出て女手一つで残った3人を育て上げてくれた。
小学校~中学校の頃の我が家は履物の製造業が軌道に乗りかけてそこそこの稼ぎがあったらしい。確かにひもじい思いをした記憶はないが、当時は隣近所どこの家も似たような生活を送っていたので我が家がほかと比べて多少なりとも裕福だったとは思っていなかった。
小学生の頃は1日10円の小遣いをもらっていた。月に換算すると300円だ。当時ラーメン1杯が30円だから今の価値に直すと¥6000くらいか?。確かに多少は恵まれていたのかなあ・・・
この我が家の稼ぎを養子である駄目親父が遊興で散財していたらしい。後年、母から当時は家が2件建つくらいの稼ぎがあったと聞かされた。遊興三昧のあげく女作っての失踪とは、なんとも情けない駄目親父ではないかと、その話を聞いて改めて怒りを覚えた。
平和だった家庭のいきなりの崩壊、お嬢さん育ちの母にとって夫の失踪は晴天の霹靂だったに違いない。そんな母であったがその後の家庭が荒れたことはなかった。元来根明かな性格だったためか友人・知人には恵まれていたようだ。
お祭りが好き、カラオケが好き、誠に社交性に富んだ性格だった。お祭りなぞは地元はもちろん浅草の三社祭に一人で出かけるくらいだ。曰く『他人と一緒だと気を遣うから・・』この辺の性格はしっかりと山爺に遺伝したようだ。
先の東京オリンピックの時に発売された記念硬貨を並んで3個も購入する趣味人でもあった。母さんあの硬貨どこに行ったでしょうね。・・西条八十のパクリより
2年前に倒れてからは介護のためデイケアーセンターに通っていたが、そこで皆んなに会うのが何よりも楽しみにしていたらしい。もちろん最年長、持ち前の明るさで〇〇センターのアイドルともてはやされていたみたいだ。さすがは我が母である。
さて、こんなお袋さまに山爺は親孝行らしきことをしてあげたのだろうかと自問自答する。
世間一般の人が温泉に連れて行くような具体的な行動はとうとうせず終いだった。
明らかに母が喜んでくれたことが2つある。これが大の親孝行だったと自分を慰めている。
一つは、世間に名が通った企業に就職した事だ。この時は本当に喜んでくれ、事あるごとに親戚・知人に触れ回っていたようだ。
もう一つは所帯を持って孫二人(女子)を設けたこと。30代後半まで独り身で山だ、スキーだと遊び呆けていた山爺にお袋さまは常日頃より
『いつになったら嫁さん貰うんだ』『孫の顔が見たい』とかまびすしい。
30代後半ギリギリで所帯を構え、盆と正月には毎年欠かさず孫を連れて実家に顔を出した。お袋さまは女の子2人の孫が殊のほか可愛かったとみえ実家に立寄るたびによく面倒を見てもらった。
女としては幸薄い人だったが子供たちは誰ひとりグレるでもなく社会人となりその孫たちに囲まれて楽しく晩年を過ごし母としての人生を生き切った。尊敬に値する人だった。長い間ご苦労様でした。合掌。杉本真人の歌に吾亦紅(われもこう)の歌というものがある。名曲である。我が母の人生があの歌に重なって泣けてくる。
今は亡きお袋さまに鎮魂歌として送る。https://youtu.be/ezrjjvb4TKY